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暴かれた空白


 彼女は、僕が渡した覚えのない僕の部屋の鍵を鍵穴に差し込み、躊躇なく回した。


無機質な金属音とともに、僕の聖域が暴かれる。

 

 震える足は一歩も動かせず、僕はただ、彼女の後ろ姿を呆然と眺めることしかできなかった。

 

 まるで、最初から彼女の部屋であるかのように。


 彼女はためらいもなく、僕のプライベートを土足で踏みにじっていく。

 

「やめてくれ。何なんだよ、一体。僕は……何も見てないし、関わりたくないんだ……」

 

 絞り出すような僕の声は、情けないほど震えていた。見てないわけがない。

 

 彼女は答えなかった。

 振り返りもせず、迷いのない足取りで、棚を開け、インスタントコーヒーの瓶を取り出した。

 

「何で、そこが……。勝手に触るなよ……」

 

 震える指先を丸めて立ち尽くす僕を、彼女は透明人間のように無視したまま、ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。


 ゴボゴボという沸騰の音が、静かな部屋に不快なノイズとして響き渡る。


 そして彼女は、吊り戸棚の奥から見覚えのないスティックシュガーの束を無造作に掴むと僕の方を見て笑った。


「……待って。それ、何だよ。そんなの、僕の部屋には」


「一番奥。あなた、いつもここに隠してるじゃない。切らさないように、律儀に一箱分も」


 彼女はケラケラと小さく笑いながら、粉を入れ熱湯を注いだマグカップに、一本、また一本と砂糖を破り入れる。


 全身の血が引いていく。

僕は自分の部屋を、完璧に把握していたはずだった。


だが、彼女が砂糖を掴んだあの「一番奥」だけが、僕の記憶の中でぽっかりと不自然な空白になっている。


見慣れたはずの十平米に、得体の知れない「奈落」が開いた。



「君は本当に、自分の能力のことをちゃんと解っているの?」


 彼女は、湯気が立ち上るカップをコタツの上に置きながら言った。


「私には、ちゃんと君の能力のことは解るわ。……もちろん、私の能力でね」


彼女はそう言うと、視線を細めた。


 それは、迷子を見つけた母親のような慈しみの色のようでもあり。

はたまた、顕微鏡で未知の細胞を覗き込むような、無機質で残酷な好奇心が混ざり合った瞳のように見えた。


 その瞳は、僕の表情を読んでいるのではない。

 

 網膜の奥に灯る淡い光が、僕の肉体を通り越し、そのさらに深淵にある「何か」を冷徹にスキャンしているようだった。

 

 まるで、熟練の外科医が内臓の病巣を暴き出すような、逃げ場のない視線。

 

 僕は、服の上から全身を撫で回されているような、言いようのない嫌悪感に身震いした。


 彼女には、僕自身ですら触れられない僕の「中身」が、剥き出しで見えているのだろうか……?



 彼女は一息つくと淡々と「世界の秘密」を語り始めた。



「私の能力は『自分の近くにいる能力者の能力情報を知る』こと。範囲は十五メートルくらい。能力の『本質そのもの』が、頭の中に浮かんでくるの」



 彼女はそこで言葉を切り、僕の喉元を指さした。



「あなたの場合。そこから、情報の糸が伸びているのが見えるのよ。だから、あの時も隠れていたあなたを見つけることができたの。……ねえ、直人くん。あなたの力の本質はね」



 彼女はマグカップのふちを指でなぞりながら、どこか楽しげに目を細めた。


「『認識のズレ』あなたの言う『ノイズ』というものが、そこに存在するという事実そのものを、脳が『無意味なガラクタ』として強制的に弾き出してしまう。心理的にも現実的にも、ね」


「そしてそれは皮肉にも、今その能力に最も深く毒されているのはあなた自身なの。あなたの認識そのものが、世界との繋がりを拒絶して、透明にする力を発現させたのよ」



 ――僕の、認識そのものが。


 

 彼女は、困惑して立ち尽くす僕の顔を見つめながら、静かに問いかけた。

 

「ねえ、直人くん。あなたはあの路地裏で、どうやってあの男を振り切ったか、覚えている?」

 

「……え? それは……必死に走って、廃墟まで……」

 

「でも、あなたの足は動いていなかったわ。……あなたは、あの男が踏み込むより一瞬早く、影に溶けるようにして彼の真横を通り抜けたのよ。まるで、最初からそうなることが分かっていたみたいに」

 

言われてみれば、記憶が繋がらない。


 いや、違う。

 僕は確かにあの時、死ぬ気で地を蹴ったはずだ。

 

 死を覚悟した瞬間の、心臓が止まるような恐怖。

 「逃げなきゃ殺される」と本能がそう思った。


なのに。

 

 その直後の、一歩。

 地面を蹴った衝撃も、風を切る感覚も、喉を焼く呼吸もそこだけが、不自然に欠落している。

 

 次に覚えているのは、もう廃墟の闇の中で、息を潜めていた記憶だった。

 

その間にあるはずの、最初の一歩が抜けている。


 彼女の言う「ノイズ」が、僕の記憶を消しているということなのか……?

 

 思い出そうすればするほど、頭の奥がチリチリと焼けつくように痛んだ。

砂嵐のように目の前がチカチカする。

 

「思い出せないでしょう? 当然よ。あなたの脳が、それを拒絶しているんだから」



 

 彼女は、確信を持って言葉を重ねる。




「あなたの脳は、あなたの中にいる『彼』の存在を、最大級のノイズとして処理し続けているのよ。だからあなたは、自分が誰と会い、何をしていたか……その記憶さえも認識の網目から滑り落としてしまう」


彼?



「……待てよ。彼って、誰のことだ。僕の中に、誰かいるっていうのか?」


 あまりの荒唐無稽さに、乾いた笑いが出そうになった。多重人格? そんなドラマみたいな話があるわけがない。



「いいえ、直人くん。これは精神病の話じゃないわ。能力が作り出した『もう一つの認識』の問題よ」



 彼女は僕の混乱をあざ笑うように、さらに言葉を重ねる。



「例えば、昨日のこと。あなたは夜、何をしていたのか思い出せる?」



「……昨日? 昨日は、バイトから帰って、コンビニの弁当を食べて、一人でこのコタツでテレビを観て……そのまま寝たはずだ。」


 そうだ。間違いなく、僕は一人でいた。それだけは確信がある。


 しかし、栞は残酷な微笑みを深め、コタツの上のマグカップを指さした。



「いいえ。昨日の夜、あなたはこの部屋で私と一緒にいたのよ。二人でそのコタツに入って、さっきあなたが廃ビルで投げ捨てたあのDVDを観たわ。……あなたは、砂糖を三本も入れたこの甘いコーヒーを飲みながら、映画の結末に文句を言っていた。『こんなのご都合主義だ』って、楽しそうに。覚えていないの?」



 思考が、真っ白に染まった。この女はなにを言っている?

 

 DVD。確かに僕は今日、それを「返しに行く」ために家を出た。


 でも、いつ借りた? いつ観た?

 

 一人でいたはずの記憶の断片が、彼女の言葉によってボロボロと崩れ落ちていくのがわかる。



 僕が知らない「僕の生活」を、この女は当然の事実として語っている。

 

「……嘘だ。信じられるか、そんなこと」

 

 声が震える。

 自分の記憶が、足元から溶けていくような感覚。

 

「覚えなんて、ない。僕は、ブラックしか飲めないんだ!」


「ええ、知ってるわ。今のあなたはね。でも『彼』は、これがないと生きていけないのよ」


 彼女は僕の目の前まで歩み寄り、僕の頬を冷たい指先で撫でた。


「直人くん。あなたが耐えきれない現実を……恐怖も、痛みも、全部代わりに引き受けて、笑える別の誰かが、あなたのすぐ隣にいる。あなたがその存在を、必死にノイズとして消し去ろうとしても、彼は確実にそこにいるのよ。私はそんな彼を愛しているの」


 愛している。

 場違いなその言葉に、思考がフリーズした。

 

 この女は何を言っているんだ。

 僕の中に別の人格がいる?

 そいつを、愛している?

 

 意味がわからない。

 あまりに現実離れした告白に、返すべき言葉が見つからない。

 

「愛している……? そんなの嘘だ。支離滅裂じゃないか。もし本当にそいつが僕の中にいて、貴女がそいつを想っているなら……」


 僕は、さっきまで僕を支配していた絶望的な恐怖を吐き出した。


「じゃあ、なんで貴女はさっき、あの男と一緒に僕を殺そうとしたんだ!」


 

 愛している相手を、殺人鬼と一緒に死の淵まで追い込む?

 そんな理屈が通るはずがない。

 

「殺そうとした? ……心外ね。私は、彼を呼び出そうとしただけよ」


「あなたの意識を極限まで追い詰めれば、彼が表に出てきてくれると思ったの。たけるに殺されそうになれば、きっと『彼』は黙っていないから」


「猛……?」


「あの殺人鬼の名前よ。

さっき、彼があの路地裏で『独りよがりだね』って猛を挑発しちゃったから、あいつは本気であなたを殺したがってる。……でも、それさえ私には好都合だった」



 息が止まった。

 恐怖で意識が遠のき、自分という輪郭が完全に失われたその瞬間に、僕の中から「何か」が這い出していたのか。


 彼女は僕を守ろうとしたんじゃない。僕を壊し、中身を引きずり出そうとしたのだ。


「……かわいそうに。怖いのね。自分が自分でなくなることが。でも、安心して。これからは、私があなたの味方になってあげる。あの男の殺意から、あなたを守ってあげるわ」


彼女はそっと床に膝をつき、僕の目線に合わせた。


 その瞳は、怯える僕を慈しむ聖母のようでもあり、獲物を追い詰めた捕食者のようでもあった。


 抗う気力さえ、もう残っていない。

 僕が僕であるための拠り所は、彼女が語る「記憶にない真実」によって、すべて砕け散ってしまったから。



「……何、すればいいんだ」


震える声で尋ねる僕に、彼女は美しく、冷酷な微笑みを浮かべ、僕を抱きしめた。



「簡単よ。あなたは今まで通り、何も知らない『透明人間』を演じていればいい。彼を呼び出す方法は、もうわかってるんだから」



「私の名前は、しおり。彼が、そう呼んでくれているわ。覚えておいてね、直人くん」



 鼻腔を突いたのは、彼女の服から漂う路地裏と同じ、鉄錆のような血の匂いだった。

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