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透明な逃走、鮮明な追跡



心臓の音が、耳のすぐ傍で鐘のように鳴り響いている。


 迷い込んだ廃ビルの一室。逃げ場はない。

 慎重に、慎重に。


 僕は震える背中を冷たい壁に預け、自分という存在の境界線を、霧のように曖昧にしていく。


 背景に溶け込む。

 僕はただの風景の一部だ。

 僕は、ここにはいない――。



 ――なのに。



「三秒後。左の角よ」

 静まり返った廊下から、あの女の声が響く。

 感情を削ぎ落とした、氷のようなカウントダウン。

 

「二秒。……一秒」


 爆音とともに扉が蹴破られた。

 踏み込んできた男のナイフが、僕の数センチ横の壁を深く抉る。

 

 火花が散り、砕けた石粉が僕の頬を叩いた。


 熱い。けれど、あいつの刃は、僕を捉えていない。


「逃がさないわ。次は右、二歩分後ろよ」


 女の声に合わせて、男が再び鋭い刺突を放つ。


 けれど、その刃も、僕が実際に立っている場所からわずかに逸れていた。

 

 女の瞳は、確実に僕の「透明な中身」を射抜いているはずだ。


 なのに、彼女が男に与える指示は、どこか奇妙にズレている。


「……ちっ、チョロチョロと!」


 男の苛立ちが、空気の振動となって伝わってくる。


 隙を突いて、僕はポケットの中で握りしめていた

「DVDの袋」を、反対側の窓際へと渾身の力で投げつけた。


 ――ガシャリ!!


 乾いた音が響き、男の視線が吸い寄せられた一瞬。


 僕は自分という存在を限界まで希薄にしながら、一歩を踏み出した。


 男の脇、わずか数センチの隙間。

 男が荒く吐き出す、血の混じった熱い吐息が首筋を撫でる。


 振り回されたナイフの切っ先が、僕の着ている上着の繊維をかすめるような感覚。


 心臓が爆発しそうだ。


 だが、ここで呼吸を乱せば、その音さえも

「ノイズ」となって僕の輪郭を暴いてしまう。


 僕はただの空気だ。

 僕はただの、何もない空間だ。

 肺が焼けるような痛みをこらえ、音を殺して、男の背後へと滑り込む。


 無意識に振り抜かれた男の左拳が、僕の鼻先を通り過ぎていった。


 あと一歩。あと数ミリ、僕の「透明な実体」がズレていれば、その瞬間に殴り殺されていただろう。


 死の淵をすり抜けた冷たい汗が、背中を伝い落ちる。

 

「逃げたわ。正面の非常階段よ」


 背後で、あの女の声が聞こえた。

 

 だが、僕が向かったのは反対側の裏階段だ。

 確信した。彼女は、あからさまな嘘をついて僕を逃がしたのだ。



     *



 ビルの外へ這い出ると、がむしゃらに走るのをやめ、建物の影に身を潜めた。


 荒い呼吸を殺し、何度も、何度も、闇に沈んだ道を振り返る。

 

 暗い路地の奥。電柱の陰。誰もいない。


 完璧に撒いたはずだ。あいつらも、あいつらの嘘も。

 

 念のためにわざと複雑な遠回りをし、コンビニのガラス越しに、自身の背後を確認する。



 よし。完璧だ。

 

 ようやく辿り着いた、僕のボロアパート。


 唯一の聖域。十平米の、静寂。


 安堵で膝が震えるのを抑えながら、階段を駆け上がり、自室のドアの前で――。



 僕は、凍りついた。


「……お疲れ様。あんなに必死に逃げるなんて、意外とタフなのね」


 階段の踊り場。

 僕の部屋のドアの前で、あの女が待っていた。

 

「……何で、ここが」

「わざわざつける必要なんてないわ。私にはわかるもの」


 女は僕の家の鍵を、指先で器用に回しながら微笑んだ。


 その瞳には、あの廃ビルで僕を追い詰めた時と同じ、底知れない何かが宿っている。



「だって、あなたが教えてくれたんだから」






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