透明な目撃者
「……あ?」
すれ違いざま、不快な濁音を孕んだ声が耳を突いた。
見知らぬ男が、薄汚れた自動販売機に背を預けたまま、僕の行く手を塞いでいた。
着崩した服。安っぽい煙草の臭い。
この界隈でたむろする、僕が最も忌み嫌う人種の
「ノイズ」だ。
「おい。今、俺のこと睨んだだろ、お前」
僕は反射的に肩をすくめ、視線を足元へ落とした。
波風を立てたくない。ただ、無色透明な存在としてここを通り過ぎたいだけなのに。
だが、その卑屈な沈黙がかえって男の嗜虐心を煽った。
「いえ、そんなことは……」
「嘘つくなよ。見てたろ。気分悪いんだよ、テメエのその目」
男は力任せに僕の胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。酒臭い不潔な息が鼻を突き、喉元が締め上げられる。
「やめて!……ください……っ!」
混濁した恐怖の中で、僕は無我夢中で男の腕を振り払った。
力が入りすぎていたのか、振り払った僕の拳が男の頬を強く掠めた。
勢い余った男は、自販機に背中を強かに打ちつける。
ガコンッ。
硬い金属音が夜の路地に響き渡る。
一瞬の静寂。
男は頬を押さえ、信じられないものを見るような目で僕を睨み据えた。
「……あァ? やってくれたな、テメエ」
僕は、言葉が終わる前に駆け出していた。
背後で野蛮な咆哮と、コンクリートを叩く重い足音が響く。
心臓が破裂しそうな勢いで迷路のような路地へ飛び込み、さらにその奥へ。
大型のゴミコンテナが置かれた、深い死角へと滑り込んだ。
僕は強く目を閉じ、自分という存在の輪郭を、意識の海に溶かしていった。
肌の感覚が薄れ、肉体の重みが消えていく。
自分と世界の境界線を、霧のように曖昧にしていく。
光を拒絶せず、ただ、通り過ぎるのを許容する。
数秒後、僕の姿は背景の壁と同化した。
「……チッ、どこ行きやがった」
追ってきた男の足音と共に、懐中電灯の光が僕を真っ直ぐに貫いた。
けれど、光線は虚空を突き抜けるだけで、そこには何も映し出されない。
震える呼吸を必死に抑えながら、僕は祈るように目を閉じた。
お願いだ。早くあきらめて、どこかへ行ってくれ。
そして僕を、あの静かな十平米の日常へ帰してくれ。
だが。
世界は僕の祈りなど、最初から聞き届けるつもりはなかったらしい。
「……あ?」
目の前で僕を探していた男が、ひどく間抜けた声を漏らした。
僕の視線の先。
路地のさらに深淵から、一人の大柄な影が音もなく姿を現していた。
右手に握られた「薄い刃物」が、自販機の乏しい光を鈍く跳ね返している。
暴力という言葉では生ぬるい、圧倒的な「破壊」が目の前で爆発した。
大柄な男が踏み込んだ刹那、刃が不良の喉元を深く抉った。
鮮血が噴き出す間もなく、返す刀でその隣にいた男の眼窩を貫く。
ごぼり、という、濡れた布を裂くような音が響く。
先ほどまで僕を脅していた肉体が、ただの「物」として路地へ崩れ落ちた。
熱い。
血飛沫が、透明化しているはずの僕の頬を熱く濡らした。
叫び出しそうな衝動を、必死に喉の奥で押し殺す。
見えていない。僕は消えている。あいつには見えていないはずだ。
「……ああ。ノイズが、もう一つ増えたな」
低い、地獄の底を叩くような男の声。
男はまだ、僕が潜む「虚空」を直接捉えてはいない。
だが。
「ねえ、あなた。そこよ」
背後から、平坦で温度のない女の声が響いた。
いつの間にか、路地の入り口に小柄な女が立っていた。
彼女の瞳は、男が気づかなかったはずの「何もない空間」を射抜いている。
正確に。狂いなく。そこにいる、僕を。
「……目撃者よ。片付けて」
逃げ出したかった。
全部、悪趣味な夢だったらよかった。
でも、頬に残る返り血の生々しい熱さと、背骨を突き抜けるような冷たい悪寒が、これが逃れようのない現実であることを突きつけていた。
「わかってる。……すぐ終わる」
男がナイフを構え直し、僕の方を向いた。




