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十平米の聖域

肺の奥に溜まった古い空気を、音を立てないよう静かに吐き出した。


 ここは、僕の部屋ではない。

 逃走の果てに逃げ込んだ、見知らぬ廃ビルの一室だ。


 窓は腐りかけた釘と厚い木材によって乱暴に打ち付けられ、外の世界との繋がりを完全に断絶している。その隙間から漏れ出す冬の薄光さえ、今は僕を射抜く針のように鋭く感じられた。


 足元には、かつて外の世界を映していたであろうガラスの破片が、魚の鱗のように鈍い光を湛えて散乱している。


 慎重にならなければいけない。


 たとえ厚い靴底を通しても、ガラスを踏む、微かな耳障りのような軋みが、この静寂の中では致命的な号砲になる。


 一度でも存在を悟られれば、あの男の狂気を振り切ることはできない。


 冷え切った身体は、巨大な捕食者を前にした小動物のように強張り、指先は感覚を失うほど凍えていた。


 廃ビルの裂け目から見える空は、まだ僅かに明るさを残している。


その淡い光を、僕はひどく疎ましく思った。

 早く、一刻も早く、すべてが真っ暗になって欲しかった。


 光が消え、何もかもが泥のような暗がりに溶けてしまえば、僕はようやく、誰の目も気にせずに呼吸ができる。


 どこに誰がいるのかも分からなくなるほどの暗闇だけが、今の僕には唯一の救いだった。


 そんな惨めな安らぎを願わなければならないほどに、数時間前までの僕は、ただのどこにでもいる、平穏を愛する高校生だったのだ。


 あのアパートで過ごしていた、退屈で、けれど誰にも侵されない穏やかな時間。聖域。


 そのすべてが、もう二度と手の届かない彼方へ消えてしまったような気がしていた。



     *



 僕、荒木直人にとって、世界は常に喧騒に満ちた

「ノイズ」の集積体だった。


 アスファルトを叩く他人の靴音。

 遠くで神経を逆なでする車のクラクション。


 そして何より、他人の視線という名の不可視の触手。


 それらが無遠慮に肌に触れるたび、自身の輪郭がヤスリで削り取られていくような、耐え難い感覚に陥るのだ。


 だからこそ、この十平米にも満たないアパートの一室を、僕は世界の何よりも尊い聖域として慈しんでいた。


 中学三年の冬、事故で遺された保険金を元手に

高校進学と共に一人で暮らすことを宣言した。


 五年前に両親を亡くしてから、親戚の家で「哀れな居候」という他人の物語の一部として消費され続けた三年間。


 ようやく手に入れたのが、誰の体温も混じらない、純粋な僕だけの「空白」だった。



 その日の昼下がり、僕はコタツの重みに身を沈め、窓から差し込む冬の淡い光を眺めていた。


 枕元のスマートフォンを手に取ると、バッテリーの残量が心許ない。


 昨夜、充電器に差し忘れただろうか。

 ぼんやりとした頭でケーブルを繋ぎ直し、読みかけの本を手に取る。


 栞の挟まったページを開くが、前後の筋書きがどうにも繋がらない。



 昨夜、眠りに落ちる寸前まで読んでいたせいで、意識が混濁していたのだろう。


 自分のうろ覚えな記憶を特に気にかけることもなく、数ページほど遡ってから再び文字の列を追い始めた。



 ふと視界の端に、机の隅で埃を被りかけたDVD店の袋が入り、僕は小さく溜息をついた。


 返却期限は今日だった。


 クラスの会話に混じるためのチケットとして、無理をして借りたものだが、結局一度も袋から出すことすらなかった。


 口を止めていたセロハンテープが中途半端に剥がれ、袋の隙間から中のパッケージが、まるで見捨てられた死体の一部のように覗いている。


 借りてきた初日に、一度見ようとして――けれどやはり気が乗らずにやめた時の名残だろうか。


 結局、予告編すら見なかった。


 わざわざ騒がしい店まで足を運び、数百円を払って、ただ一週間部屋の景色に加えただけ。


 その無意味さがひどく勿体なく感じられたが、それ以上に、返しに行くという「外出」そのものが億劫で仕方がなかった。


 だが、延滞金が発生すれば、店員とさらに余計な言葉を交わさなければならなくなる。


 それだけは、避けたかった。


 僕は意を決してコタツの温もりから這い出すと、使い古されたジーパンに冷えた足を通した。




 玄関の扉を開けると、重く湿った冷気が容赦なく這い寄ってきた。


 空は低く垂れ込めた灰色で、街全体が彩度を失ったセピア色の絵画のように沈み込んでいる。


 僕は深くフードを被り、首をすくめた。

 表通りへ出れば、行き交う人々の毒々しい色彩や、無遠慮に溢れる生活の断片が、望まぬ暴力のように視界へ押し寄せてくる。


 他人の吐息が混じり合った空気に触れるだけで、自分という器の強度が脆く削られていくような気がして、激しい吐き気を覚えた。


 僕はいつものように、最も人気のない最短ルートを選んだ。


 住宅街の裏手、放置された空き地とカビ臭い古い倉庫が並ぶ、街の細い血管のような路地裏。


 湿ったアスファルトに自分の足音だけが鼓動のように低く響くその場所こそが、僕にとって唯一、自身の輪郭を保ったまま息をしていられる通路だった。

 

 そこには、いつも通りの無機質な静寂があるはずだった。


 あの場所にさえ行かなければ、僕は今頃、また聖域のコタツの中で、読みかけの本の続きを追いかけていられた。


 その日の裏路地には、招かれざる先客がいた。

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