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あっさり読めるーショートショート・カプセル

ある男のもう一つの人生

作者: あみれん

「では、行ってくる。戻るのは半年後だ」

男は玄関で靴紐を結び終えると、振り返りもせずに言った。


女は用意していた大きなスーツケースを押し出すようにして渡す。

ため息をひとつ漏らし、唇を尖らせる。

「出張大変ね、半年なんて……」


その声には不満も拗ねも混ざっていたが、目は男の懐の厚さを測るようでもあった。

「……待っているわ。体に気をつけてね、いってらっしゃい」


男は軽く片手を振り、「じゃあ」とだけ言って、ドアを開ける。

重いスーツケースを引きずる音が、ドア越しに鈍く響いていた。


――男は六十五歳。

一代で大企業を築き、今は会長職に収まっている。

女は三十三歳。容姿端麗、離婚歴あり。


女は男の金目当てで一緒になった。

だからこそ、男が年の半分を出張で家を空けても、少しも気にしなかった。

むしろ、ありがたかった。

干渉もなく、暮らしは潤い、半年後にはまた男が戻ってくる――

その距離感こそ、女にとって心地よいものだった。


数時間後。

男はスーツケースを転がしながら、もうひとつの玄関に立った。

チャイムを鳴らすことなくドアを開け、声をかける。


「ただいま」


リビングから顔を出したのは、もう一人の女だった。

ここで、先程の女を女A、このもう一人の女を女Bと呼ぶことにしよう。

女Bは三十二歳。女Aより少し年下で、やはり容姿端麗で色白の肌に柔らかな物腰を持つ。


「おかえりなさい。半年間の出張、お疲れさまでした」

女Bはにこやかに迎え、男のスーツケースを受け取った。


男は満足げに深く息を吐く。

半年ごとに交互に訪れる二つの家。

どちらにも若く、美しい。

だが、この女Bも男の金目当てで一緒になったのだ。


男が家を開けると、女Aのもとには別の男が訪れた。

近所の者がちらほら見かけるようになり、その姿は決して一度きりではなかった。週に一度、決まって来る。その男は短く滞在し、約一時間ほどで去っていく。うわさは小さな町の路地を伝い、誰かの口から別の誰かへと流れていった。


一方の女Bは、嫉妬深さを露わにするタイプだった。彼女もまた男の金目当てで一緒になったが、女としてのプライドが高く、数日も経つと、彼女の口からは男の浮気を疑う言葉が零れ始めた。半年前よりも、言葉の刃は鋭く、目には狂おしい光が宿っている。


「もしあなたが浮気なんかしたら、私は死んでやる。それほどあなたを愛しているのよ」


その訴えは熱を帯び、震える声に必死さがにじんでいた。

男はその言葉にふかふかとした満足を感じ、女Bをぎゅっと抱き寄せる。彼女の嫉妬は彼にとって確かな証であり、承認であり、面倒くささの香りすら甘く思えた。だが、女Aとの関係に罪悪感を覚えることはなかった。


女Bとの半年間の甘酸っぱい生活が終わった。

「では、行ってくる。戻るのは半年後だ」

男は玄関で靴紐を結び終えると、振り返りもせずに言った。


女は用意していた大きなスーツケースを押し出すようにして渡す。

ため息をひとつ漏らし、唇を尖らせる。

「出張大変ね、半年なんて……浮気なんかしたら許さないから」

男はそんな女の声を後に玄関のドアを開けて出ていった。


数時間後。

男はスーツケースを転がしながら、女Aの玄関に立った。

チャイムを鳴らすことなくドアを開け、声をかける。


「ただいま」


女Aが笑顔で出迎える。

「おかえりなさい。半年間の出張、お疲れさまでした」

女Aはにこやかに迎え、男のスーツケースを受け取った。


一方その頃、女Bのもとには別の男が訪れていた。

その男は、週に一度、決まって女Bを訪れ、約一時間ほどで去っていく。

当然、近所では女Bの良からぬ噂が立っていた。


女Aは寛容な女だった。そして半年ぶりに会った彼女は、さらにその寛容さを増していた。

ある日の夕食時、ワイングラスを傾けながら、女Aはふと口にした。


「ねぇ、半年間も出張していると私が恋しくならない?もしそうなら、浮気してもいいのよ。私に会うのを我慢してまで耐えているのなら、仕方ないと思えるわ」


少し哀しい微笑を浮かべたあと、女Aは続ける。

「でもね、私が一番心配なのはあなたの体。もしあなたに何かあったら……私、きっと耐えられない。それほどあなたを愛しているのよ」


その言葉は静かに、しかし胸の奥底からあふれ出すように響いた。

男はその想いに心地よい満足を覚え、女Aをそっと抱き寄せる。彼女の寛容さは彼にとって安心であり、肯定であり、物足りなさすら優しく包み込むものだった。だが、女Bとの関係に罪悪感を抱くことは、やはりなかった。


二人の女との半年ごとの生活は、いつしか数年に及んだ。

女Aは半年ごとにますます寛容になり、女Bは半年ごとにますます嫉妬深くなった。

性格の正反対な二人を抱えることは、男にとってこの上なく心地よいものだった。


「私が恋しいなら、浮気してもいいのよ」

そう微笑む女A。


「もし浮気したら、私は死ぬわ」

そう泣き叫ぶ女B。


その両極端な愛情表現は、男の自尊心を満たし、七十に届こうかという身に新たな活力を与えていた。

自分より三十も若く、美しい女たち。

そのどちらからも「愛している」と告げられる。

――男はそれだけで十分に満ち足りていた。


だが同時に、心の奥底にはわずかな倦怠感も芽生えていた。

若くて美しい二人の女との半年ごとの生活。

男は、半年という期間をマンネリ感が生じないギリギリの期間と考えていた。

だが、それは甘美な儀式であると同時に、繰り返すほどに予測可能なものへと変わっていた。


一方の女たちはといえば、男の留守の間に別の男を家に入れていた。

週に一度、必ずやってくる影。

短い滞在を終えて立ち去る姿を、近所の誰もが見ていた。


「亭主の留守に男を連れ込んでいるらしい」

「いやらしい女ね」


噂は日ごとに大きくなり、二つの家の周囲に黒い影を落としていった。

だが、二人の女はそれに悪びれることもなく、近所の住民に笑顔で挨拶をしていた。


ある日の午後。


男は社の会長室にいた。

男に一通のメールが届いた。

件名は請求書。


――〇〇月 サービスご利用料金 ¥3,000,000


男は慣れた指で電話をかける。

「はい、お世話になっております。ご家族レンタルサービス株式会社の〇〇でございます」


電話口の声は、留守中に女AとBの家を訪れていた、あの男のものだった。


「私だ。先月の利用料金は明日にでも振り込もう」

「ありがとうございます」


男は続ける。

「君の演技指導も効果が出ているようだ。二人はますます私の理想に近づいている」

「それはそれは、嬉しい限りでございます。私も週に一度通った甲斐がございます」


「だがな、最近少しマンネリを感じている。そろそろ子供を持とうかと考えているんだ」

「左様でございますか。何歳くらいをご希望でしょうか? 年齢によっては子役が不足しておりまして、少しお待ちいただくこともございます」


受話器を置くと、広すぎる会長室は静まり返り、時計の秒針の音だけがやけに大きく響いた。


男は机の引き出しを開け、数枚の写真を取り出す。

どれも男が中央に写っている家族写真だ。

だが、そこに写っている妻や子供達には会った事もない。

あの会社が作った合成写真だ。

それでも、男はその写真の表面を指で愛おしく、そして優しく撫でていた。

レンタル家族、それは仕事に一生を捧げて来た男の、唯一のもう一つの人生だった。


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