いつか王子様が
放課後の教室は静まり返っていた。窓の外から差し込む夕陽が、机の上に細長い影を刻んでいる。俺、長谷川秀は、彼女の彩花が委員会から戻るのを待ちながら、ぼんやりと時間を潰していた。
時計の針はもう四時半を過ぎている。校舎の中はひっそりとしていて、遠くで部活の掛け声がかすかに聞こえるだけだ。スマホを手にスクロールしながらも、頭の片隅では彩花との付き合いを思い出していた。付き合って三ヶ月。きっかけは、彼女の勢いに押されてだった。文化祭の準備で一緒になった時、彩花が「ねえ、秀ってさ、私と付き合ったら面白そうじゃない?」って笑いながら言ったのが始まり。俺は「まあ、いいか」って流されるように返して、そのまま付き合うことになった。特別な理由があったわけじゃない。ただ、彼女の突飛な行動や、目を輝かせて夢物語を語る姿に、つい引き込まれていただけだ。
でも最近、彩花がちょっとよそよそしい気がしてた。委員会の後に会っても、どこか上の空で、「運命ってさ、突然やってくるものだよね」なんて呟くことが増えてた。俺はそれを聞いて、苦笑いするだけだったけど。
ようやく教室のドアが開いて、彩花が入ってきた。長い髪をポニーテールにまとめ、制服のスカートがちょっと短めなのが彼女らしい。俺の前に立った彩花は、少しだけ目を逸らして、ぽつりと口を開いた。
「秀、ごめん。別れたい」
一瞬、頭が真っ白になった。何?今の何?って、耳を疑うくらい突然だった。彩花は続ける。
「他に好きな人ができちゃって。運命的な出会いだったの。まるで王子様が現れたみたいに……。ごめん、だから、別れたいの」
彼女の声はどこか夢見るような響きを帯びていて、いつもみたいに現実離れしたことを言ってるな、と思った。でも、その言葉が胸に刺さる。彩花ってほんと、ロマンチストだ。付き合ってる間も、ディズニーランドで「シンデレラ城の前でプロポーズされたい」とか、「運命の人は絶対一目でわかるはず」とか、そんな話ばっかりだった。俺はそれを聞いて、「現実見なよ」って笑ってたけど、内心ちょっと可愛いなって思ってた。
でも、今はその「運命」が俺じゃないって言ってるわけだ。
「……うん、わかった」
それだけ言うのが精一杯だった。彩花は申し訳なさそうに、「ほんと、ごめんね! 秀ならすぐ良い人見つかるよ!」なんて明るく締めくくって、そそくさと教室を出て行った。彼女らしいっちゃらしい別れ話だ。なーにが王子様だよ、なんて心の中で毒づきながら、俺もカバンを手に教室を出た。
夕陽が校舎の窓を赤く染めている。廊下を歩く俺の足音が、やけに虚しく響く。下校中の生徒たちの笑い声が遠くで聞こえる中、なんとも言えない空虚感が胸に広がった。彩花との付き合いって、別に大恋愛ってわけじゃなかったけど、それでもこうやって終わると、ぽっかり穴が開いたみたいな気分になる。
と、その時、どこからかピアノの音が聞こえてきた。柔らかくて、どこか懐かしいメロディ。音のする方へ目をやると、音楽室のドアが少し開いていて、そこから漏れてくる。
何の気なしに近づいて、ドアの隙間から中を覗いてみた。ピアノの前に座る人影が、夕陽に照らされてシルエットになっている。逆光で顔はよく見えないけど、鍵盤の上を滑る指先が、優しく音を紡いでいる。
「いい曲だな……何の曲なんだろ」
思わず呟いて、ボーッと聞き入ってると、突然音が止まって、ピアノの前に座っていた人が振り返った。
「……ねえ、ずっとそこにいるけど、何?」
少し低めの、落ち着いた声。夕陽のせいで顔ははっきり見えない。慌てて俺は口を開いた。
「あ、いや、通りすがっただけ。いい曲だなって思って……」
「ふーん。それなら聞いていく?」
その人は特に気にした様子もなく、さらっと言った。俺は一瞬迷ったけど、断るのもなんだか悪い気がして、音楽室の中に入った。
「この曲、何?」
近くの椅子に腰掛けながら聞くと、その人は小さく笑って答えた。
「『いつか王子様が』。ディズニーの古い曲。知らない?」
「いや、初めて聞いたかも……。でも、なんかいいな」
「でしょ? 結構気に入ってるんだよね」
その人は再び鍵盤に手を置いて、今度はゆっくりと別のメロディを弾き始めた。高音がキラキラと響いて、なんだか胸の奥が締め付けられるような感覚があった。さっきの彩花との別れ話が、急に遠い出来事みたいに思えてきた。
「でさ、なんでこんな時間まで学校にいるの? 委員会?」
ピアノを弾きながら、その人が聞いてきた。俺は少し考えてから、ぽつりと答えた。
「……まあ、ちょっとした用事。終わったから、帰るとこ」
「ふーん。用事ね。なんか元気なさそうだけど、大丈夫?」
指が鍵盤の上を滑る音に混じって、そんな言葉が投げかけられる。俺は少しだけ肩をすくめて、曖昧に返す。
「……まあ、なんとか」
「なら、ちょっと付き合ってよ。一人で弾くの飽きてきてたんだよね」
その人はそう言って、また別の曲を弾き始めた。夕陽が沈み、音楽室の窓から見える空が薄紫色に染まる中、俺はただその場に座って、ピアノの音に耳を傾けていた。
曲が終わると、なんだかんだで他愛もない話が始まった。好きな音楽とか、最近見た映画とか、学校の先生の変な癖とか。
「そういえばさ、さっきの曲、『いつか王子様が』って、どんな歌詞なんだ?」
何気なく聞くと、その人は少し考えてから答えた。
「んー、簡単に言うと、夢見る少女が王子様を待つ歌。いつか運命の人が現れるって信じてる感じ……」
「へえ……。なんか、今日別れたばっかの元カノにぴったりな歌詞だな」
思わず口を滑らせると、その人は小さく笑った。
「別れたばっか?だから元気なかったんだ。未練ありありってやつ?」
「……未練はそんなに。まあ、ショックっちゃショックだけど」
俺がそう返すと、その人は軽い調子で話を続けた。
「ふーん。まあ、そういうもんか。じゃあ、次の曲リクエストとかある?」
「いや、なんでもいいよ。俺あんまり曲知らないし……」
「んー、それじゃ傷心な君に特別に、明るいの弾いてしんぜよう」
そう言って、その人はまた新しいメロディを奏で始めた。軽快なリズムが部屋に響き、さっきまでの重い気分が少しだけほぐれる気がした。窓の外の空がすっかり暗くなるまで、俺はその場に座って、ピアノの音に耳を傾けていた。
その日から、放課後の音楽室が俺の新たな居場所になった。その人は一つ上の先輩だった。いつも決まった時間になると音楽室にいて、ピアノの前に座って鍵盤を叩いている。俺が顔を出すと、特に驚いた様子もなく、「お、来た」とだけ言って、さりげなく隣の椅子を指差す。
夕陽が差し込む音楽室で、ピアノの音を聞きながら他愛もない話をする時間が、なんだか心地よかった。最初は彩花との別れを引きずってた俺の気分を紛らわすためだけに来てたけど、いつの間にか、この時間が放課後の一番の楽しみになってた。
「秀ってさ、意外と真面目だよな。もっと適当な奴かと思ってた」
ある日、先輩がピアノの鍵盤を軽く叩きながら、からかうように言ってきた。俺は少しむっとしながら返す。
「いや、真面目ってわけじゃ……。てか、こんな時間までピアノ弾いてる方がよっぽど真面目だろ」
「え? 全然! ただの気分屋。弾きたい時に弾いてるだけ。……それよりさ、元カノとはどう? まだ引きずってんの?」
ニヤニヤした声で聞いてくる。俺は一瞬考えた。彩花との別れ話は、もう遠い記憶みたいになってた。彼女が言う「王子様」とやらに夢中になってる姿を思い出すと、ちょっと笑えてくるくらいだ。
「いや、もういいや。なんか、ここで話してたら、どうでもよくなってきた」
「ほー、そりゃ良かった。俺ってカウンセラーの素質あるのかもな。目指そうかな?」
先輩はそう言って小さく笑うと、またピアノを弾き始めた。『いつか王子様が』のメロディが、柔らかく音楽室に響く。高音がキラキラと光るような音色が、夕陽のオレンジ色と混じって、なんだか不思議な安心感を生み出していた。俺はいつもの椅子に座って、その音に耳を傾ける。
それから何日も、放課後になると自然と音楽室に向かうようになった。先輩は楽しそうに最近あったことを話してくれたり、時には真剣な顔で自分の悩みを打ち明けてくれたりした。
「最近さ、受験とかでピリピリしててさ。クラスとか友達とかといるの、なんか疲れるんだよね……」
そんなことを言う日もあった。鍵盤に触れる指が、いつもより少し重そうに見えた。俺はなんて答えていいかわからなくて、ただ黙って聞いていた。先輩はしばらく黙々と弾いていたけど、ふと顔を上げて、いつもの軽い調子に戻った。
「だからさ、最近この放課後の時間、まじで楽しみなんだよね」
その言葉に、胸の奥が少し浮つくのがわかった。彩花との別れで空いた穴なんて、とうに忘れてた。先輩のピアノを聞いて、先輩の話に笑って、時々見せる真剣な顔に触れる。それだけで、俺も放課後が待ち遠しくなるくらいだったけど、その一言で、なんだか自分が先輩の特別な存在になれた気がした。
その日、いつものように『いつか王子様が』を弾き終えた先輩が、ふと俺の方を向いて言った。
「なあ、この曲さ、秀にはどう聞こえる?なんかイメージとか湧く?」
「んー……わかんねえけど、なんか、夢見てっみたいな感じ?でも、ちょっと切ないっていうか……」
うまく言葉にできなくて、もごもご答えると、先輩は小さく笑った。
「まあ、そんなもんか。俺もさ、初めて聞いた時、なんか胸がざわざわしたんだよな。で、弾きたくなって練習した」
そんな風に、先輩が自分の話をぽつぽつ語るのが、俺には新鮮だった。いつも軽い調子で話すけど、時々こうやって本音みたいなものが垣間見える瞬間があって、それが妙に心に残る。
「でさ、秀はさ、今度なんかやりたいことあんの? なんでもいいよ、休日の予定とか」
突然話を振られて、少し戸惑いながら答えた。
「いや、別に……。強いて言えば、どっか出かけたいなって思ってるけど、具体的なのはまだ」
「ふーん。じゃあさ、なんか面白そうなとこ見つけたら、一緒に行く? 気分転換にさ」
その提案に、思わず顔が熱くなるのがわかった。
「……いいけど。どこ行く?」
「んー、適当にぶらつくだけでもいいじゃん。なんか美味いもん食って、ダラダラ話してさ」
先輩はそう言って、またピアノを弾き始めた。夕陽が沈みかけた音楽室に、軽快なメロディが響く。俺はその音に耳を傾けながら、初めて感じる小さな期待みたいなものが、胸の奥で膨らんでいくのを感じていた。
それから何日か経ったある日、いつものように音楽室に向かうと、ドアの隙間から先輩の声と、もう一人の話し声が聞こえてきた。いつもなら静かな音楽室に、楽しそうな笑い声が響いている。俺は一瞬足を止めて、なんとなくそっと中を覗いた。
ピアノの前に座る先輩の隣に、背の高い影があった。夕陽の逆光で顔は見えないけど、その人と先輩が並んで話す様子が、いつもと違う雰囲気を作り出していた。
「……でさ、大会どうだったのよ!」
先輩の声が、いつもより弾んでいる。
「ん、地区大会は余裕だった。次は県大会だから、もっと忙しくなるかな」
「やるじゃん!てか県大会っていつ?演奏会とかぶってなきゃ、見に行きたいな」
その言葉に、隣の人が小さく笑って、先輩の肩を軽く叩いた。先輩も負けじとやり返すようにその人を小突き返して、穏やかに笑う。鍵盤に触れる指が、いつもより軽やかに動いている気がした。
俺の胸が、急に締め付けられるように疼いた。いつも見る先輩の姿とどこか違う。もっと自然で、無防備な表情がそこにあった。
あぁ……その人が、先輩の王子様だったんだ
気づいた瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。そっとドアから離れて、廊下の壁にもたれかかった。音楽室から漏れるピアノの音が、今日も『いつか王子様が』だった。夢見る少女の歌が、夕陽の中で響いている。
結局、その日は音楽室に入れなかった。トボトボと校舎を出て、薄暗くなった校庭を歩きながら、さっきの光景を反芻する。先輩の笑顔、隣にいた人の穏やかな声。俺には見せない、先輩の別の顔。
王子様を待つ歌を弾く先輩が、実は自分自身の王子様をすでにそばに置いてたんだって気づいた瞬間、なんだか笑えてきた。俺が浮かれてたのは、先輩のピアノでも、話でもなくて、結局、自分の心が求めてた何かを先輩に重ねてただけなのかも。
王子様を待ってるのって、俺自身なんじゃねえの?
夕陽が沈んだ後の空を見上げながら、俺は小さく呟いた。冷たい秋の風が頬を撫でて、心のどこかでまだ響くピアノの音が、遠く遠くに感じられた。
次の日、スマホを手に少し迷ったけど、結局先輩に一言だけメッセージを送った。
『昨日、音楽室に行こうと思ったけど用事があって行けませんでした。これから忙しくなりそうなので暫く行けないかもです』
送信ボタンを押した瞬間、ちょっとだけ肩の荷が下りた気がした。返事が来るかどうかはわからないけど、それでもいいや、と思った。秋の空を見上げながら、俺は小さく息を吐いて、いつもの帰り道を歩き始めた。