天狗舞の章 第一話『仔猫と日常 』
「みずかみ! みずかみ! みずかみあやめっ! 何故返事しない!」
少しずつ苛々を募らせる教師の声が教室に響く。しかし呼ばれた彼女――水上あやめは一切反応しようとしなかった。まだ一限目の出席確認。居眠りをするには早い時間だ。明らかな故意でもって返事をしようとしなかった。
「みずかみ! いないならお前は何だ! 返事をしないなら帰ってしまえ!」
顔色をどす黒くさせながら日誌の角を握り締めにかかった中年の冴えない教師は、いよいよ何事か起こしかねないわななきをその全身にみなぎらせてきたのを一瞥し、ようやく彼女は口を開いた。
「あたしはみずかみじゃありません。みなかみです」
落ち着いて、しかしキッパリ言い放った彼女の夜色の瞳に見据えられ、一瞬どきりとした教師は次の言葉をつなげなくなっていた。刹那の沈黙の後、しどろもどろの言い訳を自分の少ない威厳をかき集めて言い放つと、中年教師は授業を開始したのであった。
「やるねぇ~あやめ」
授業が終わり、からからとした声が背後から飛んでくる。
「あんたの知らんぷりで十分稼いでくれたからねぇ~
アイツの授業ほど面白くないものはないからね」
彼女の名は梨花・エリスン。家の方向が同じなため神代学園高等部に入学当時から仲良くしているクラスメートだ。あやめが漆黒のなめらかな髪なのに対して、彼女は輝く黄金色の髪に金褐色の瞳という対照的な特徴を持った、帝都でも珍しいハーフであった。
それに対するあやめはしれっと言い放つ。
「別にいつものことじゃない。あたしが自分の家を大切にしているってことを知らないアイツが悪い。だからいつまでも平教師なのよ」
意地悪く、皮肉たっぷりの物言いではあったが、そのころころと表情を変える夜色の瞳から悪戯っぽい笑みがこぼれているのに気付くと、ほとんどのひとは彼女を許してしまう。そんな魅力をあやめは持っていた。
「ホント、相変わらずね。まぁ、いいわ。今日の放課後は空いてる?
ジョイフルに寄って帰らない? ここからなら環状線で二駅じゃない。どう?」
「梨花ゴメン。今日もお祖父ちゃんの所でバイトなの」
「あぁ、神社の? あの巫女さんのユニフォーム可愛いよね。私も着たいな~」
「じゃぁ一緒にやってみる?」
「パース! 駄目よ。私は金髪金目じゃない。似合わないわよ。私が着たらコスプレにしかならないわ」
こんな軽快な会話をしながら廊下を並んで歩く姿は、同級の男子のみならず、女子達にも注目の的となっていた。
そう、一言で言えば、この二人はとても目立つ容姿をそなえた、いわゆる美人に属するそれであった。
この神代学園において――少なくとも梨花・エリスンはネオトキオ大使館に勤める外交官の父を持つエリート階級。しかも美人である。他の生徒の受けは良かったがその他と異なる容姿がはじめは彼女を独りにさせていた。しかし、そんな様子に自然と入り込み、今や梨花の第一の友人になり得たのがあやめであった。あやめ自身も他の生徒と変わらぬ黒目に黒髪であったが、つり目ながらもころころと表情を変える瞳とびろうどの様ななめらかな長髪が一線を画する容姿に吊り上げていた。だが梨花と異なり、彼女は祖父の神社でほぼ毎日の放課後をアルバイトで過ごすいち小市民でしかなかった。そのでこぼこの部分が一部の生徒達を熱狂させ、また羨望の的とさせていたのであった。当人達は迷惑としか思っていなかったのだが。
かくて、この神代学園における現アイドルは青春の一幕を謳歌していたのであった。
「で……結局ついてくるわけね……」
若干頭を抱え気味だが、以前から事ある毎に巫女のお仕着せを着たがっていたのを知っていたあやめは梨花とバイト先――祖父が宮司を務める神社にやってきていた。
「どう? どう? 似合う?」
子供の様にはしゃぐ梨花を見て、少しばかり羨ましいと思っていたが、更にそれにダメ押ししてくれたのが、自分よりも少しばかり満ち満ちている胸のふくらみであった。
「どうせあたしは発展途上中よ」
「え? なに?」
心のつぶやきが梨花に聞こえたのかとどきりとしたが、すぐになんでもないとそっぽを向いたあやめは少しばかり口を尖らせていた。それを知ってか知らずかはしゃぎ続ける梨花を他のバイト巫女に預け、あやめは一人本殿へと歩き出していた。
まだ夏と言うには暑くなく、春というには日差しが強かった。新緑に彩られた桜の木。その木漏れ日を受ける本殿へと空の青さを感じながらあやめは歩いていた。
「……」
何かが聞こえた。
「……」
はじめは空耳かと思っていたが、確かにあやめの耳に何かが聞こえていた。
「……にぃ」
か細く、消え入りそうなその声が、泣き声だと気付いたのは、本殿の床下を覗き込んだときであった。
「猫?」
小さくて、ぼろ雑巾の様にみすぼらしく汚れきった仔猫がそこにいたのだ。
あやめがゆっくりと手を出すと、その仔猫はよたよたと小さな身体を左右に揺らしつつ、どうにか彼女の指先に触れんばかりまで近づいてきたのだった。
普通、野良猫ならこうもいかず警戒して逃げ出しそうなものなのに、まっすぐ――ふらついてはいたが――あやめにむかってきたのであった。
そして、あやめの手の中にころりと転がりこみ、動かなくなったのだ。
「お、おじいちゃん――」
声と一緒に体が弾かれるように動き、小さな消えようとする命を両手でやさしく包み込みながら宮司である祖父のもとへと走り出したのであった。
(つづく)