第一部:銀龍の覚醒 天覧試合(8)
宿坊の一室はかつてないほどの重い沈黙に支配されていた。
トーナメント表に刻まれたあまりにも過酷な現実。勇三郎の初戦の相手はあの掴みどころのない天才、海斗。そして蓮の勝ち進んだ先には神殿最強の男、橘が待ち構えている。
「……冗談じゃねえぞ……」
仁が絞り出した声は彼の絶望を物語っていた。
「なんでよりによって勇三郎の相手があの孔雀野郎なんだよ。あいつの魂術は幻だぞ。どうやって戦うってんだ」
「……そして俺は勝ち進んでいけば橘殿にあたるか」
蓮もまた厳しい表情で腕を組んでいた。
「今の俺の力では万に一つも勝ち目はない」
それは誰の目にも明らかな事実だった。
だが勇三郎は静かだった。彼はただじっと自分の腕の中で、すっかり元気を取り戻した相棒の顔を見つめている。
(……面白い。面白いじゃないか)
前世の絶望的な状況を知恵と交渉、そして時にはハッタリで乗り越えてきたあの感覚。それが彼の魂の奥底で蘇りつつあった。
(勝てないか。……それはお前たちの常識だろ?)
そして運命の本戦初日。
練兵場の熱気は予選とは比べ物にならないほど膨れ上がっていた。観客席には名だたる貴族や神殿の上層部の者たちの姿も見える。
その巨大な闘技場に勇三郎と海斗は向かい合っていた。
「よぉ」
海斗は相変わらずひらひらと手を振りながら人の悪い笑みを浮かべている。
「まさか初戦であんたと当たるとはな。運命ってやつか?それとも誰かさんのお節介かな?」
その言葉は明らかにこの組み合わせが偶然ではないことを示唆していた。
試合開始の鐘の音が鳴り響く。
その瞬間、海斗の魂獣である七色の孔雀がその美しい羽を大きく広げた。
眩い光の粒子があたりに撒き散らされる。
「――魂術、《夢幻泡影》」
世界が歪んだ。
勇三郎の目に海斗の姿が三人、五人、十人と分身したかのように映る。その全てが本物と寸分違わぬ動きで彼を嘲笑っていた。
「さあ、どれが本物の俺だか、わかるかい?」
幻影たちの声が四方八方から響き渡る。
勇三郎は剣を構えその場から一歩も動けなかった。
(くそっ……!どこだ!?どこにいる!?)
彼の五感は完全に麻痺させられていた。
観客席から失笑が漏れる。
「なんだあの小僧。完全に腰が引けているぞ」
「海斗様の幻術の前では赤子同然よ」
その嘲りの声と仲間たちの焦りの気配。
勇三郎の心が折れかけたその時、腕の中のテクノが静かにその瑠璃色の瞳を開いた。
『……ゆうざぶろう。……変だよ。光が、曲がってる』
テクノの思念は幻術そのものを見破ったわけではない。
ただこの空間で起きている「物理現象」の異常を純粋に告げただけ。
光が曲がっている。
その単純な一言が勇三郎の中で一つの確信に変わった。だがどうやって?
するとテクノの体が淡い銀色の光を放ち始めた。それは魂力とは違う、もっと静かで無機質な光。
その光が勇三郎の周囲の空間に、まるで透明な膜を張るかのように、薄く広がっていく。
テクノがこの空間の歪んだ光の法則に干渉し、勇三郎の周りだけを正常な状態に「修正」したのだ。
その瞬間、勇三郎の世界から全ての幻が消え失せた。
目の前にいたはずの無数の海斗は消え、ただ一人、彼の右斜め後ろに、驚愕に歪んだ顔で立つ、本物の海斗の姿だけが、くっきりと浮かび上がった。
(――そこか!)
勇三郎は振り返りもせず、ただその一点に向かって背中の木刀の鞘を力任せに叩きつけた。
「……なっ!?」
そこには確かに本物の海斗がいた。
彼はまさか自分の完璧な幻術がこんな不可解な方法で破られるとは夢にも思っていなかった。
腹部に鈍い衝撃を受け、海斗の体がくの字に折れ曲がる。
勝負はまたしても一瞬だった。
だがその結末は予選の時とは比べ物にならないほどの衝撃となって、練兵場全体を支配していた。
あの天才、海斗が。無名の田舎者に、敗れた。
その信じがたい事実を誰一人受け入れられないまま、ただ時だけが止まっていた。




