第一部:銀龍の覚醒 大空の舞(1)
「――飛べぇぇぇぇっ!」
勇三郎の絶叫が、背後から迫る鉄の足音に掻き消される。
崖から虚空へと踏み出した瞬間、全身を襲ったのは、奈落へと真っ逆さまに引きずり込まれるかのような、凄まじい落下感だった。
「うわああああああああっ!」
仁の、素直すぎる悲鳴が、風の中で木霊する。眼下に広がるのは、どこまでも続く雲海。体が、心臓が、魂そのものが、浮き上がるような、あるいは、無限に落ちていくような、不快な感覚。背中に背負った『風受け傘』が、巨大な風圧を受けて、バタバタと暴れ馬のように荒れ狂う。
(ダメだ!このままじゃ、ただ落ちるだけだ!)
勇三郎は、パニックに陥りそうになる思考を、必死で押さえつけた。前世の記憶が、悲鳴を上げている。これは、安全が保障されたスカイダイビングなどではない。一本の蔓だけが命を繋ぐ、あまりにも、粗末な翼。
(思い出せ!上昇気流を、捕まえるんだ!傘を、ただの抵抗にするな!風を、受け流し、翼に変えるんだ!)
彼は、ハーネスを握りしめ、必死に体の重心を移動させた。傘の角度を、ほんの少しだけ、前に傾ける。
すると、それまでただ落下していた体が、ふわり、と、ほんのわずかに、持ち上げられる感覚があった。風を、捕まえたのだ。
「みんな!傘を、少しだけ、前に傾けろ!風を、下から、受けるんだ!」
勇三郎の、魂からの叫び。
その声に、仲間たちが、はっと我に返る。
「くそっ、こうか!うおっ!」
仁は、持ち前の運動神経で、勇三郎の動きを模倣する。彼の巨体が、ぐらり、と大きく傾いたが、すんでのところで体勢を立て直した。
『仁!もっと、体の力を抜け!風と、喧嘩するな!』
その頭上を、紅羽が、まるで手本を見せるかのように、美しい円を描いて滑空していた。その、滑らかな翼の動きが、仁に、風を支配するための、直感的なヒントを与えてくれる。
「……っ!」
蓮は、誰よりも早く、そして、正確に、その「理屈」を理解していた。彼は、蒼と共に、垂直の崖を駆け上がった時と同じ、絶対的な集中力で、風の流れを読んでいた。体重移動、傘の角度、空気抵抗。その全てを、彼の頭脳は、恐るべき速度で計算し、最適化していく。
『主よ、風が、歌っている。この流れに乗れ、と』
蒼の、静かで、力強い思念が、蓮の覚悟を、さらに、研ぎ澄ませていった。
「きゃあああっ!」
一番、苦戦していたのは、セリナだった。彼女は、体重が軽い分、風の影響を、最も強く受けてしまう。その体は、まるで木の葉のように、くるくると回転し、制御を失いかけていた。
『主!しっかり!わたくしを、信じて!』
フィーナが、主の腕の中で、必死に叫ぶ。そして、彼女は、自分の体を、重り代わりにするように、風下に、その身を乗り出した。その、ほんのわずかなバランスの変化が、セリナの回転を、ぴたり、と止めた。
「……フィーナ……!」
セリナは、相棒の健気な行動に、勇気づけられた。彼女は、涙をぐっと堪え、必死に、勇三郎の教えを守ろうと、その小さな体で、風と、格闘した。
やがて、四つの、いびつな翼は、何度も体勢を崩しながらも、奇跡的に、安定した滑空状態へと移行した。
彼らは、飛んでいた。
翼を持たぬ身で、確かに、嘆きの山脈の、大空を、舞っていたのだ。
眼下には、先程まで自分たちがいた、山の頂が、みるみるうちに、小さくなっていく。そして、そこに、米粒のように群がる、炎の国の兵士たちの姿が見えた。彼らは、空を飛ぶ四つの影を、ただ、呆然と、見上げているだけだった。
「へ、へへ……。見たか、馬鹿どもめ……!」
仁が、勝ち誇ったように、眼下に向かって叫んだ。
その時だった。
『――仁!下だ!空から、来る!』
紅羽の、切迫した警告。
四人が、はっと、下方に視線を向けた。
そこには、炎の国の陣地から、黒い煙を上げながら、何十という、黒い影が、こちらへと向かって、急上昇してくる光景があった。
翼を持つ、トカゲ型の魂獣。空の包囲網だ。
そして、その先頭を飛んでくる、ひときわ巨大な影。
「……ザグラム……!」
蓮が、忌々しげに吐き捨てる。
その背中には、あの、絶対的な絶望の象徴、隊長ザグラムが、地獄の業火をその瞳に宿して、こちらを、睨みつけていた。
束の間の勝利は、終わった。
空という、新たな戦場で、死の鬼ごっこが、今、再び、始まろうとしていた。




