第一部:銀龍の覚醒 山頂の絶望(1)
野戦用の、陣地。
蓮の、血の気の引いた声が、嘆きの山脈の頂に吹く、冷たい風に攫われていく。
その言葉の意味を、理解した瞬間、彼らがようやく手にしたはずの、か細い希望の光は、まるで幻だったかのように、音もなく消え去った。
「……じ、陣地、だと……?おい、蓮、それって……」
仁が、かすれた声で問い返す。だが、その答えを、聞くまでもなかった。
眼下に広がる、無数の焚き火の光。規則正しく並んだ、幾何学的な天幕の群れ。そして、時折、闇の中に浮かび上がる、巨大な攻城兵器らしき、禍々しい影。
それは、もはや、追跡部隊などという、生易しいものではない。
一つの、完璧な機能を備えた、軍隊そのものだった。
「……嘘、だろ……」
仁は、その場にへたり込んだ。彼の魂獣である紅羽も、主の絶望を映すかのように、力なくその翼を垂れている。
絶対的な絶望から逃げ延び、死に物狂いで山を越えた。その先に待っていたのが、これ以上ないほどの、さらなる絶望。彼の心は、音を立てて、折れかけていた。
「なぜ……。なぜ、炎の国の軍が、こんな、日の国の、奥深くに……」
セリナが、震える声で呟く。その顔は、再び、紙のように真っ白になっていた。
(わたくしのせいだ。わたくしを捕らえるために、彼らは、国境を越え、軍を動かした。わたくし一人のために、この国が、戦火に……)
罪悪感が、冷たい毒のように、彼女の心を蝕んでいく。フィーナが、そんな主の胸に、必死にその体を擦り付け、温もりを分け与えようとしていたが、その震えは、止まらない。
蓮は、ただ、黙って、眼下の光景を、その怜悧な瞳に焼き付けていた。彼の頭脳は、パニックに陥ることを拒絶し、この絶望的な状況を、ただ、ひたすらに、分析し続けていた。
(……包囲網の規模から見て、兵の数は、最低でも千は下らない。ザグラムの部隊が、おそらくは、この本隊の、先行部隊だったのだ。我々が川に逃げ込んだことで、彼らは、我々が山を越えると予測し、この巨大な網を張って、待ち構えていた。……完璧な、采配だ。この軍を率いているのは、ただ者ではない)
その、あまりにも完璧すぎる布陣。それは、彼らが、ただの子供ではないことを、証明していた。
勇三郎もまた、言葉を失っていた。
腕の中で、ようやく温もりを取り戻したテクノが、眼下の、異様な気配に、再び、その体を硬直させているのがわかった。
『……いやだ……。鉄の匂いと、血の匂い……。それに、たくさんの、怒りや、憎しみの、黒くて、ドロドロしたものが、渦巻いてる……』
テクノから流れ込んでくる、純粋な恐怖の感情。
だが、勇三郎の心にあったのは、恐怖だけではなかった。
前世の、サラリーマンとしての、冷徹な分析眼が、この状況の、本当の異常性を、見抜いていた。
(……おかしい。これは、おかしい)
勇三郎は、内心で、何度も、その言葉を繰り返した。
(セリナ一人を捕らえるために、軍を動かす?ありえない。コストが、見合わなすぎる。国境を越え、敵国の、それも、これほど深い山中に、これほどの規模の軍を展開するなど、正気の沙汰ではない。……これは、セリナの捕縛は、あくまで、口実だ。本当の目的は、別にある)
その、勇三郎の思考を、裏付けるかのように、上空を旋回していた紅羽から、新たな、そして、最悪の情報が、仁の脳裏へと、叩きつけられた。
『仁!見つけた!軍の中心、一番大きな天幕に……!あの、クソでかいトカゲを連れた、隊長の男が入っていくのが見えた!あいつ、生きてやがる!』
「……ザグラムが、いる……!」
仁の、絶叫ともいえる呟きに、全員が、息を呑んだ。
あの、絶対的な強者。彼が、この軍と合流した。その事実が、彼らの、最後の希望さえも、打ち砕いていく。
万策、尽きた。
後ろには、戻れない。前には、進めない。
彼らは、この嘆きの山脈の頂で、ただ、自らの死を待つしか、ないのか。
誰もが、そう、諦めかけた、その時。
勇三郎の、乾いた唇から、静かな、しかし、確かな意志を宿した、声が漏れた。
「……まだだ」
全員の視線が、彼へと集まる。
勇三郎は、眼下の、絶望的な光景を、まっすぐに見据えながら、言った。
「まだ、終わってない。……むしろ、ここからだ。俺は、行かなきゃならない。――あの、軍の、中へ」




