第一部:銀龍の覚醒 包囲網を抜けて(1)
『仁!まずい!麓の森、その先だ!炎の国の旗が見える!奴ら、もう、この山を、完全に包囲するつもりだ!』
紅羽の、切迫した魂の叫びが、四人の脳裏に突き刺さった。
遺跡から生還した、ほんの僅かな安堵感は、まるで泡のように弾け飛び、現実に引き戻される。見上げれば、青く澄み渡った空。だが、彼らの周りには、見えざる鉄の壁が、刻一刻と、その包囲を狭めてきていた。
「……包囲、だと……?」
蓮が、信じられないというように、しかし、その事実を即座に受け入れて、忌々しげに吐き捨てた。
「あの隊長……ザグラム……。我々を、この山ごと、狩り場にするつもりか。なんと、悪辣な……!」
「どうすんだよ!このままじゃ、袋のネズミじゃねえか!」
仁が、絶望的な声を上げる。川での追跡を振り切ったはずだった。だが、敵は、その遥か上を行っていた。彼らが山に逃げ込むことさえ、完全に予測していたのだ。
「……わたくしの、せいです……」
セリナが、唇を噛みしめた。その瞳には、再び、深い罪悪感の色が浮かんでいる。
「わたくしが、皆様を……」
『主よ……』
フィーナが、主を慰めるように、その体にすり寄る。
だが、そのセリナの言葉を、勇三郎が、静かに、しかし、力強く遮った。
「……違う」
彼は、セリナの瞳を、まっすぐに見つめて言った。
「もう、誰かのせいにするのは、終わりだ。俺たちは、仲間だろ。だったら、今、考えるべきは、どうやって、この最悪の状況を、全員で、生き延びるか。……ただ、それだけだ」
勇三郎の、覚悟の決まった言葉。それに、全員が、はっと、顔を上げた。
そうだ。もう、後悔している時間も、絶望している暇も、残されてはいない。
「……蓮。何か、策は?」
勇三郎が、問う。
蓮は、険しい顔で、周囲の地形を素早く観察した。そして、絶望的な状況の中で、唯一の、しかし、あまりにも細い、蜘蛛の糸のような可能性を見つけ出した。
「……一つだけ、ある」
蓮が指差したのは、彼らが今いる場所から、さらに山の上へと続く、険しい岩場だった。
「奴らの包囲網は、麓の森を中心に形成されているはずだ。ならば、山頂に近づけば近づくほど、その包囲は、物理的に、薄くなる。……この岩場を登り、山の反対側へと抜けることができれば、あるいは……」
「だが、そんなこと、できるのかよ!」
仁が叫ぶ。そこは、もはや道ですらない。ほとんど、垂直に近い、崖だった。
「やるしかない。……だが、ただ登るだけでは、いずれ見つかり、格好の的だ。……何か、奴らの注意を、強く引きつける、陽動が必要になる」
蓮の言葉に、全員が、沈黙した。陽動。それは、誰かが、自ら、危険な囮になるということだ。
その、重苦しい沈黙を、破ったのは、勇三郎だった。
彼は、何も言わずに、崖の一点を見つめていた。その視線の先にあるのは、今にも崩れ落ちそうな、不安定な岩の塊と、その岩の裂け目に、染み出すように流れている、わずかな水。
(……あれだ)
勇三郎の脳裏に、前世の、冬の記憶が、鮮明に蘇った。水道管が、凍結して、破裂した、あの日。水は、凍る時、体積が膨張する。その力は、時に、鉄の管さえも、破壊する。
「……俺に、考えがある」
勇三郎の、静かな、しかし、確信に満ちた声に、全員の視線が集中した。
「陽動は、俺たちがやるんじゃない。――この、山自身に、やらせるんだ」
彼は、仲間たちに、その無謀で、そして、壮大な計画を語り始めた。
作戦は、日没と共に、開始された。
闇に紛れ、四人は、蓮が示した、崖の中腹にある、大きな岩棚へとたどり着いた。眼下には、麓の森に、いくつもの、炎の国の焚き火が見える。その光が、巨大な蜘蛛の巣のように、山を包囲していた。
「……セリナ、頼む」
「はい……!」
セリナは、岩棚の、不安定な岩の裂け目に、そっと、その白い手をかざした。
「フィーナ、力を貸して。――《氷結の囁き》!」
彼女の魂力が、フィーナを介して、純白の冷気へと変わる。その冷気は、岩の裂け目を流れる、わずかな水滴を、瞬時に、氷へと変えていった。
一度、二度……。彼女は、歯を食いしばり、何度も、何度も、魂術を繰り返す。
ピシッ……ミシッ……。
岩の内部から、何かが、軋むような音が聞こえ始める。水の膨張が、岩の構造そのものを、内側から、破壊し始めているのだ。
「……仁!蓮!」
勇三郎の合図に、二人が、岩棚の、反対側へと回り込む。そこには、支点となる、頑丈な岩の突起があった。
彼らは、協力して、巨大な倒木を、その突起へと引っ掛ける。テコの原理。だが、今回、彼らが動かそうとしているのは、洞穴の岩などとは、比べ物にならないほどの、巨大な岩盤だった。
「……おい、勇三郎……。本当に、こんなもんで、動くのかよ……」
仁が、不安げに呟く。
「……動く。動かして、みせる」
勇三郎の瞳には、狂気にも似た、強い光が宿っていた。
彼は、腕の中で、静かに、しかし、確かな温もりを取り戻した、相棒に語りかけた。
(テクノ……。お前の本当の力は、まだ、わからない。でも、俺の『理屈』を、現実に変えるのが、お前の力なんだろ。だったら、力を貸せ。俺の計算を、この世界の、真実にしろ!)
その、魂の叫びに、テクノの瑠璃色の瞳が、カッと、開かれた。
そして、勇三郎は、倒木の端へと、全体重をかけて、飛び乗った。
「――うおおおおおおおおっ!」
仁と蓮もまた、雄叫びを上げて、それに続く。
三人の体重と、魂力が、一点に集中する。
ギギギギギギギ……ッ!
山が、呻き声を上げた。
セリナの氷が、内側から、岩を砕く。
三人の力が、外側から、岩盤をこじ開ける。
そして、勇三郎とテクノの、未知なる力が、その「理屈」を、この世界の法則へと、無理やり、ねじ伏せていく。
やがて、全てを破壊する、轟音と共に、それは、始まった。
山が、泣き叫ぶ。
巨大な岩盤が、麓の森を目がけて、雪崩のように、滑り落ちていく。
小規模だが、しかし、絶大な破壊力を持った、人工の、土石流。
麓で、炎の国の兵士たちの、驚愕と、混乱の叫び声が、上がった。
包囲網に、巨大な、穴が、穿たれた。
「――今だ!行けぇぇぇっ!」
四人は、その混乱を背に、一斉に、崖の上へと、駆け出した。
だが、その時、彼らは、気づいていなかった。
土石流が直撃した、まさにその場所に、あの、隊長ザグラムが、いたことを。
そして、その瞳が、地獄の業火のような怒りに燃えながら、崖の上へと向かってくる、四つの小さな影を、確かに、捉えていたことを。




