第一部:銀龍の覚醒 束の間の休息(1)
絶望の川を越えてから、三日が過ぎた。
幸いにも、炎の国の追手の気配は、今のところない。川の流れが、彼らの匂いを完全に断ち切ってくれたのか、あるいは、あの隊長ザグラムが、別の策を講じているのか。いずれにせよ、一行には、束の間の、しかし、かけがえのない平穏が訪れていた。
彼らは、鬱蒼としたイズミの森をようやく抜け、日の国の緩やかな丘陵地帯を歩いていた。首都までは、まだ十日以上の道のりだ。しかし、木々に視界を遮られない開けた風景は、それだけで人の心を軽くさせた。
だが、彼らの目の前には、命の危険とはまた別の、極めて現実的で、そして切実な問題が横たわっていた。
「……腹、減った……」
仁が、道の真ん中に大の字になって、情けない声を上げた。彼の腹の虫が、その言葉を裏付けるかのように、ぐぅ、と盛大な音を立てる。
無理もなかった。彼らの食料は、あの洞穴で、とうの昔に底をついていた。この三日間、彼らが口にできたのは、蓮が見つけた、かろうじて食べられる木の実と、湧き水だけだった。
「……情けないぞ、仁。それでも、国一番の剣士を目指す男か」
蓮が、呆れたように言うが、その声にも力がない。彼の傍らで、蒼もまた、道端の草を覇気なく食んでいる。栄養価の高い飼い葉とは、比べ物にもならないのだろう。
「うるせえ!腹が減ってちゃ、戦はできねえんだよ!よし、見てろ!俺と紅羽が、いっちょ、でかい獲物を狩ってきてやる!」
仁は、勢いよく立ち上がると、刀を抜き放った。
「行くぜ、紅羽!《天眼》だ!この辺で、一番うまそうな奴を探せ!」
『キィィッ!』(任せろ!)
主の威勢のいい声に応え、紅羽が空高く舞い上がる。その鋭い瞳が、上空から獲物を探し始めた。
数分後。
『仁!いたぞ!森の中に、大きな獲物だ!』
「よしきた!」
仁は、勇んで森の中へと駆け込んでいった。残された三人が、期待と不安が入り混じった顔で待っていると、やがて、仁が、満面の笑みで戻ってきた。その手には、獲物が誇らしげに掲げられている。
……体長十センチほどの、丸々と太った、一匹の野ネズミが。
「…………」
「…………」
「…………」
三人の沈黙が、痛いほど突き刺さる。
「な、なんだよ!紅羽が見つけた中で、こいつが一番、肉付きがよかったんだぞ!鷹ってのは、こういうもんなんだよ!」
仁が、必死に言い訳をする。その肩で、紅羽は「我、関せず」といった顔で、そっぽを向いていた。
「……はぁ。やはり、お前に狩りは向いていないようだ。俺が、罠でも仕掛けてくる」
蓮は、大きく溜め息をつくと、森の中へと消えていった。
しかし、その蓮も、三十分後、手ぶらで、しかも、なぜか泥だらけになって戻ってきた。
「……イタチ用の罠を仕掛けたんだが、間違って、自分が引っかかった」
その、あまりにもらしくない失敗談に、蓮の隣で、蒼が、まるで「やれやれ」とでも言いたげに、ぷいと顔を背けた。
いよいよ、場の空気が絶望に支配され始めた、その時。
「……あの、わたくし、お役に立てるやもしれません」
セリナが、おずおずと手を上げた。
「王宮の書庫で読んだことがあります。この、キノコのようなものは、確か、とても美味で……」
彼女が指差したのは、鮮やかな赤色に、白い水玉模様がついた、見るからに毒々しいキノコだった。
『主よ!なりません!それは、触れただけで手が痺れると、わたくしの本能が告げております!』
セリナの言葉が終わるか終わらないかのうちに、フィーナが、悲鳴のような思念を飛ばし、主の足に必死でしがみついて、そのキノコに近づくのを阻止していた。
(……だめだ、こりゃ。本格的に、餓死するかもしれない……)
勇三郎が、本気でそう思い始めた、その時だった。
彼の腕の中で、ずっと眠っていたテクノが、もぞもぞと動き出した。そして、ゆっくりと顔を上げる。その瑠璃色の瞳は、まだ少し気だるげだが、そこには、確かな意識の光が戻っていた。
『……ゆうざぶろう……。おなか、すいた……』
数日ぶりに聞いた、相棒の声。その、あまりにも健気な一言に、勇三郎の心の中で、何かが、カチリと音を立てて切り替わった。
(……そうだ。俺が、なんとかしなくちゃいけないんだ)
彼は、周囲を見渡した。近くに、小さな小川が流れている。その流れの中に、小さな魚影がいくつか見える。
「……みんな、ちょっと待っててくれ」
勇三郎は、そう言うと、小川の方へと歩いていった。
彼は、まず、川の流れが少しだけ緩やかになっている場所に、石をいくつか並べて、簡易的な堰を作った。そして、近くに生えていた、しなやかで丈夫な蔦を数本、切り取ってくる。
「勇三郎?何やってんだ?」
「……魚でも、素手で捕まえるつもりか?無謀だぞ」
仁と蓮が、不思議そうに見つめる中、勇三郎は黙々と作業を続けた。
彼は、蔦を巧みに編み込んで、入り口が広く、奥が狭くなった、漏斗のような形の、簡易的な籠を作った。
(確か、テレビで見たんだ。魚は、流れに逆らって泳ぐ習性がある。そして、一度入ると、狭い場所からは出にくい……。これを、あの堰の切れ目に仕掛ければ……)
勇三郎は、完成した『魚籠』を、石の堰の、水が流れ出る唯一の場所に、しっかりと固定した。
あとは、待つだけだ。
「……なあ、勇三郎様。それは、一体……?」
セリナが、興味深そうに尋ねる。
「漁だよ。この世界には、ないのかもしれないけどな」
三人が、半信半疑の顔で、その奇妙な仕掛けを見つめていた、その時。
テクノが、勇三郎の腕の中から飛び降りると、トテトテと魚籠のそばまで歩いていった。そして、彼は、その小さな銀色の体に、ほんの少しだけ、力を込めた。
すると、テクノの体が、ごくごく微かに、まるで携帯電話のバイブレーションのように、ブルブルと震え始めた。その振動が、水面を伝わって、周囲に広がっていく。
『……こっち、こっち。いいもの、あるよ……』
テクノが、魚たちに向かって、無邪気な思念を送る。
すると、どうだろう。それまで警戒していた小魚たちが、まるで何かに引き寄せられるかのように、次々と、勇三郎が仕掛けた魚籠の中へと吸い込まれていくではないか。
数分後、魚籠の中は、ピチピチと跳ねる、たくさんの小魚で、いっぱいになっていた。
「「「…………えええええええええっ!?」」」
仁、蓮、セリナの、驚愕の声が、静かな丘陵にこだました。
その横で、テクノは、まるで「どうだ!」とでも言うように、小さな胸を張り、フィーナの方をちらりと見つめる。フィーナは、驚きに琥珀色の目を見開いていたが、やがて、感心したように、小さく頷いてみせた。
その夜、四人は、久しぶりに、温かい食事にありつくことができた。
串に刺して、塩を振って焼いただけの、素朴な魚。だが、それは、どんなご馳走よりも、彼らの空腹と、そして、疲れた心を、優しく満たしてくれた。
「……うめえ……。うめえよぉ……!」
仁は、涙を流しながら、魚にかぶりついている。
「……勇三郎。お前のその『理屈』とやらは、どうやら、戦い以外でも、役に立つらしいな」
蓮が、少しだけ悔しそうに、しかし、素直にその成果を認めた。
「……勇三郎様は、本当に、すごい方なのですね」
セリナが、尊敬の眼差しで、勇三郎を見つめている。
仲間からの、賞賛の言葉。
勇三郎は、照れくさそうに頭を掻きながら、前世では決して味わうことのなかった、誇らしい気持ちと、そして、仲間と笑い合うことの、純粋な喜びを、噛みしめていた。




