第一部:銀龍の覚醒 絶対的な絶望(2)
意識が、濁流の底に沈んでは、浮上することを繰り返していた。
冷たい水の塊が、容赦なく体を打ち据え、肺から最後の空気を絞り出していく。勇三郎は、もはや自分が川の流れの中にいるのか、あるいは、抗いがたい運命そのものに呑み込まれているのか、その区別さえつかなかった。ただ、仲間と繋いだ手の感触だけが、彼がまだ生きていることを証明する、唯一の錨だった。
どれほどの時間が経っただろうか。不意に、体が強い衝撃と共に、何かに乗り上げた。
「……がはっ、ごほっ……!陸だ!陸に上がれ!」
仁の、しわがれた声が響く。
四人は、互いの体を文字通り引きずるようにして、ぬかるんだ砂利の岸辺へと這い上がった。そして、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
後に残されたのは、ごぼごぼと水を吐き出す音と、全員の荒い呼吸、そして、絶え間なく続く川のせせらぎだけだった。
誰も、口を開くことができなかった。指一本動かす気力さえ、残されてはいない。ただ、びしょ濡れの体で、泥の上に倒れ込み、かろうじて生きているという事実を、ぼんやりと噛みしめる。
『……寒い……主よ、しっかりしろ……』
仁の傍らで、同じくずぶ濡れになった紅羽が、主の顔を心配そうにつついている。
『……蓮、消耗が激しすぎる。早く、火を……』
蒼が、主の体にその巨体を寄せ、必死に体温を分け与えようとしていた。
そして、セリナの腕の中では、フィーナが、主の涙に濡れた頬を、小さな舌で何度も何度も舐めていた。
魂獣たちの、必死の呼びかけ。それが、かろうじて、彼らの意識を繋ぎとめていた。
(……俺は、また、何も……)
勇三郎の心に、深い自己嫌悪が広がる。
セリナが、命を賭して、奇跡のような隙を作ってくれた。仁と蓮が、死力を尽くして、その活路を切り拓いてくれた。
その間、自分は何をしていた?ただ、絶望し、為すすべもなく、仲間に助けられただけ。腕の中のテクノは、氷のように冷たいまま、何の反応も示さない。
(これが、俺の力なのか?いざという時に、相棒を目覚めさせることすらできない。仲間を守ることすらできない。……前世の俺と、何も変わらないじゃないか)
空っぽの人生に別れを告げ、この世界で、守りたいものを見つけたつもりだった。だが、結局は、無力な自分を突きつけられるだけ。
その、冷たい絶望が、勇三郎の心を蝕んでいく。
その時だった。
「……勇三郎様」
か細い、しかし、凛とした声が、彼の名を呼んだ。
顔を上げると、セリナが、震える体で、勇三郎のそばに膝をついていた。その顔は、まだ青白いが、その瞳には、もはや恐怖の色はなかった。そこにあったのは、仲間を気遣う、深い優しさと、そして、何かを悟ったかのような、静かな覚悟だった。
「……あなたのせいでは、ありません」
まるで、勇三郎の心を読んだかのように、セリナは言った。
「あなたは、森喰いから、私を助けてくださいました。洞穴では、あの巨大な岩を動かし、私たちの逃げ道を確保してくださいました。……そして、何よりも、わたくしのような、素性の知れぬ者を、見捨てずに、ここまで連れてきてくださいました」
彼女は、そこで一度、言葉を切ると、勇三郎の腕の中で眠るテクノを、慈しむような目で見つめた。
「あなたの相棒……テクノ様は、フィーナの命を救ってくださいました。その御恩を、わたくしたちは、決して忘れません。彼が今、眠っているのは、彼が、優しく、そして、勇敢だったからです。……そして、それは、彼の主である、あなた自身が、そうであるからに、他なりません」
セリナの言葉が、温かい光のように、凍てついた勇三郎の心に染み渡っていく。
フィーナが、それに同調するように、テクノの体にそっと寄り添い、「きゅぅ」と優しい鳴き声を上げた。
『……ありがとう。あなたの主は、私の主の、光です』
その、魂からの感謝の念が、テクノの冷たい体に、ほんのわずかな、しかし確かな温もりを灯した。テクノが、それに反応し、ほんの少しだけ、身じろぎをした。
(……俺は、無力なんかじゃ、なかったのか……?)
その時、むくり、と仁が体を起こした。
「……ああ、そうだぜ。セリナの言う通りだ、勇三郎。お前のあの変な『理屈』がなきゃ、俺たち、とっくの昔に、森喰いの餌になってたんだ。お前は、俺たちが持ってねえ力を持ってる。それでいいじゃねえか」
蓮もまた、ゆっくりと立ち上がり、川の上流――ザグラムたちがいた方向を、鋭い目で見据えた。
「……そうだ。我々は、四人で一つだ。誰か一人が欠けても、ここまで来ることはできなかった。仁の突破力、セリナの覚醒、そして、勇三郎、お前の奇策。その全てが揃って、初めて、我々はあの絶望から生き延びることができた。……感傷に浸るのは、終わりだ。今は、次の一手を考える」
仲間たちの、揺るぎない言葉。
勇三郎の瞳から、知らず知らずのうちに、熱いものがこぼれ落ちた。それは、前世の孤独な男が、決して流すことのなかった、温かい涙だった。
「……ああ。……そうだな」
勇三郎は、涙を腕で乱暴に拭うと、力強く立ち上がった。全身が、まだ悲鳴を上げている。だが、心の中には、確かな力が漲っていた。
「奴らは、必ず追ってくる。だが、今はもう、ただ逃げるだけじゃない」
蓮が、全員の顔を見回して言った。
「我々には、目的がある。セリナを、そして、勇三郎、お前を、生きて首都へ送り届ける。そのために、我々は、もっと強くならなければならない」
その言葉に、全員が、力強く頷いた。
彼らの前には、依然として、果てしない困難が横たわっている。だが、彼らの心は、もはや折れてはいなかった。
絶望の川を越え、彼らは、本当の意味で、互いの痛みを分かち合い、互いの力を認め合う、かけがえのない仲間となった。
この先にどんな運命が待ち受けていようと、この四人と四体がいれば、きっと乗り越えられる。
そんな、確かな予感が、彼らの胸を満たしていた。




