第一部:銀龍の覚醒 追跡の川(2)
川岸へと続く、最後の木々の茂みに身を潜め、四人は息を殺して眼下の光景を窺っていた。心臓の鼓動が、まるで警鐘のように耳の奥で鳴り響いている。
目の前には、幅二十メートルほどの川が、陽光を浴びて、皮肉なほど美しくきらめいていた。しかし、その岸辺に広がる光景は、地獄の一端を切り取ったかのようだった。
炎の国の兵士たちが、数人ずつの組に分かれ、川岸に沿って完璧な包囲網を敷いていた。その数は、ざっと見て十名。洞穴で対峙した時よりも数は減っているが、残っているのは、歴戦の強者だけが放つ、研ぎ澄まされた殺気と自信に満ちた者たちばかりだった。
彼らの傍らには、炎を纏った猟犬、『炎獄の猟犬』が三匹、主の命令を待って牙を剥き、低い唸り声を上げている。そして、その部隊の中心、川を真正面から見下ろす少し開けた場所に、あの隊長らしき大柄な男が、腕を組んで悠然と立っていた。その存在感は、他の兵士たちとは明らかに異質だった。
「……くそっ。完全に待ち伏せられてやがる。こっちが川に来ること、全部お見通しかよ」
仁が、悔しげに唇を噛む。
「……指揮官がいる。それも、相当な手練れだ」
蓮は、冷静に敵の配置を分析していた。
「見てみろ。兵士たちの配置には、一切の隙がない。我々がどこから飛び出しても、即座に対応し、包囲殲迫できるように計算され尽くしている。川に飛び込もうとすれば、弓兵が。森の中を迂回しようとすれば、猟犬が追ってくる。……完全に、詰んでいる」
蓮の、絶望的とも言える分析に、誰もが言葉を失った。背後からは追手が迫り、目の前には、完璧な布陣が待ち構えている。まさに、袋の鼠。
(どうする……?何か、何か手は……?)
勇三郎は、焦る気持ちを抑えつけ、必死に思考を巡らせた。だが、テクノは依然として腕の中で冷たいままだ。彼の最大の武器である「理屈」を、魂を消耗しきった今の状態で、果たしてどれだけ使えるのか。
その時、セリナが、震える声で、しかし決意を込めて言った。
「……わたくしが、囮になります」
「なっ!?」
三人が、驚いて彼女を振り返る。
「敵の目的は、わたくしです。わたくしが姿を現せば、必ず、敵の注意は一瞬、わたくしに集中するはず。その隙に、皆様は……」
「馬鹿なことを言うな!」
セリナの言葉を遮ったのは、蓮だった。その声には、珍しく、激情が宿っていた。
「君を囮にして、我々だけが生き延びて、何の意味がある!?我々の目的は、君を、そして俺たち全員が、生きて首都へたどり着くことだ!一人でも欠ければ、それは敗北だ!」
『そうだ!主の言う通りだ!』
蓮の言葉に、蒼が力強く同調する。その気高い瞳が、セリナを真っ直ぐに見据えていた。
蓮の、予想外の熱い言葉に、セリナは、そして仁と勇三郎も、目を見開いた。
「……へっ。たまには、お前も、クソ熱いこと言うじゃねえか」
仁が、にやりと笑う。
「そうだぜ、セリナ。俺たちは、もう仲間なんだ。誰か一人を犠牲にするような戦い方なんざ、俺はごめんだ」
仲間たちの、揺るぎない言葉。その温かさが、セリナの心を、そして勇三郎の心を、強く打った。そうだ。もう、一人で戦っているわけじゃない。
(……俺に、できることは)
勇三郎は、もう一度、戦場を見渡した。そして、彼の視線は、ある一点に釘付けになった。それは、川岸に不自然に突き出している、水に濡れた、滑りやすそうな一枚岩。そして、その周辺に生い茂る、背の高い葦の茂み。
(……あれなら、いけるかもしれない)
前世の、子供の頃にやった、他愛ない遊びの記憶。そして、初歩的な科学の知識。それらが、再び彼の脳裏で結びついた。
「……策がある。……だが、無茶な賭けだ」
勇三郎の呟きに、全員の視線が集中した。
「聞かせてみろ」と、蓮が促す。
勇三郎は、声を潜め、仲間たちにその計画を語り始めた。それは、あまりにも大胆で、そして、成功する確率など、ほとんどないに等しい、奇策だった。
「……正気か、お前」
聞き終えた蓮が、呆れたように言った。だが、その瞳には、わずかに、勝機を見出した者の光が宿っていた。
「……はっ!最高に、イカれてやがるぜ!気に入った!」
仁は、心底楽しそうに笑った。
作戦は、決まった。
四人は、それぞれの魂獣と、最後の意思疎通を図る。
『紅羽、お前の役目が一番重要だ。頼んだぜ、相棒』
仁の言葉に、紅羽が、全てを理解したように、鋭く一声鳴いた。
『蒼、俺の速さについてこい。一瞬の隙も、見せるな』
蓮の思念に、蒼が、力強く大地を踏みしめて応える。
『フィーナ、あなたの力が必要です。わたくしと、心を一つに』
セリナの祈りに、フィーナが、主の腕の中で、琥珀色の瞳を強く輝かせた。
そして、勇三郎は、腕の中で眠るテクノの、冷たい体に語りかけた。
(テクノ……。ごめんな。また、お前に無理をさせるかもしれない。でも、ほんの少しだけでいい。ほんの少しだけ、力を貸してくれ)
その願いに、テクノは、応えなかった。ただ、その魂の灯火が、ほんのわずかに、強く揺らめいたような気がした。
四人は、顔を見合わせた。
恐怖はある。だが、それ以上に、仲間と共にあるという、絶対的な高揚感が、彼らを支配していた。
「――行くぞ!」
仁の咆哮を合図に、四人は、茂みから一斉に飛び出した。
それは、自らの運命に、そして、この世界の理不尽なまでの現実に、真っ向から戦いを挑む、狼煙だった。




