プロローグ
雨は、世界の輪郭を静かに溶かしていた。
アスファルトを叩く音、車のヘッドライトが濡れた路面に滲んで伸びる光の尾、傘の森を通り抜ける風の匂い。そのすべてが混ざり合い、一つの巨大な生き物の溜息のように、街を満たしている。
前田健太、三十四歳。彼は、高層ビルのカフェの窓から、その光景をただぼんやりと眺めていた。ガラスに映る自分の顔は、いつものように感情の色を失っている。整った顔立ち、高価なスーツ、隙のない髪型。誰もが羨むような経歴と、何一つ不自由のない生活。そのパッケージの中にいるはずの「自分」は、まるで出来の良い人形のように、ひどく空っぽだった。
(また、雨か)
心の中で呟く言葉にすら、何の抑揚もなかった。
物心ついた頃から、健太は何でもそつなくこなせた。勉強も、スポーツも、人付き合いも。努力すれば結果はついてきたし、望めば大抵のものは手に入った。だが、その指先に確かな熱を感じたことは一度もなかった。まるで、一枚の薄い膜を隔てて世界に触れているような、そんな感覚だけが常にあった。
人生は、完璧に組み上げられたジグソーパズルのようだった。全てのピースは然るべき場所に収まり、美しい絵を完成させている。ただ一つ、中央に嵌るはずの、最も重要なピースだけが、どこにも見当たらない。そのぽっかりと空いた空白を、誰も気づかない。健太自身でさえ、その空白がどんな形をしているのか、知らなかった。
「……そろそろ、帰るか」
誰に言うでもなく呟き、席を立つ。カフェを出て、冷たい雨がスーツの肩を濡らすのも構わずに歩き出した。人々が足早に通り過ぎていく。誰も彼を見ていないし、彼もまた誰も見ていなかった。
その、刹那だった。
ふと、世界から音が消えた。雨音も、雑踏も、遠いサイレンの音も。全てが分厚いガラスの向こう側へ押しやられたかのように、絶対的な静寂が健太を支配する。雨粒が、まるで時が止まったかのように宙に縫い止められていた。
「え……?」
戸惑いの声が漏れた瞬間、彼の目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。何もないはずのアスファルトの上に、小さな光の点が瞬く。それは瞬く間に広がり、銀色を基調とした虹色の粒子が、美しい幾何学模様を描きながら激しく渦を巻き始めた。
周囲の人々が、そのありえない光景に息を呑み、小さく悲鳴を上げるのが遠くに感じられる。だが、不思議と健太に恐怖はなかった。むしろ、その光の渦の中心に、強く惹きつけられていた。ずっと探し求めていた、パズルの最後のピースがそこにあると、魂が告げているかのように。
渦は抗いがたい力で健太の体を捉え、ゆっくりと引きずり込んでいく。体が分解され、光の粒子に再構築されていくような、痛みも苦しみもない不思議な感覚。
意識が、水に溶けるインクのように滲んでいく。モノクロームだった自分の世界が、生まれて初めて鮮やかな色彩を帯びていくのを感じながら、彼は思った。
もし、もう一度。
もし、やり直せるというのなら――。
心の奥底から、生まれて初めて絞り出された切実な願い。
それが、彼の最初の人生の、最後の言葉となった。