第一部:銀龍の覚醒 洞穴での日々(1)
洞穴での奇妙な共同生活が始まって、二日が過ぎた。
それは、言葉にするならば「ガラス細工のような均衡」の上に成り立っている日々だった。焚き火の穏やかな光が照らす狭い空間には、四人の人間と四体の魂獣。しかし、その間には、目には見えない、しかし確かな壁が存在していた。感謝と、警戒。優しさと、探り合い。信頼と、隠された秘密。それらが複雑に絡み合い、張り詰めた静寂が、彼らの間を支配していた。
「ほらよ、セリナ!腹減ってんだろ?これ食え!」
その静寂を、いつだって破壊するのは仁だった。彼は、残り少なくなった干し肉の中から、一番柔らかそうな部分を選んで、セリナへと差し出した。その行動には裏表がなく、ただ純粋な善意だけが満ちている。
「……ありがとうございます、仁様。ですが、皆さまの分が……」
「いーからいーから!怪我人はしっかり食って、早く元気になるのが仕事だぜ!」
セリナは、仁のあまりに真っ直ぐな好意に少し戸惑いながらも、小さく微笑んでそれを受け取った。彼女の魂獣であるフィーナは、主の前に差し出された肉の匂いをくんくんと嗅いではいるものの、仁に対する警戒はまだ完全には解けていない。その琥珀色の瞳は、常に油断なく仁の一挙手一投足を観察していた。
(単純な男だ。……だが、それ故に、一番厄介かもしれんな)
そんな二人を、蓮は洞穴の壁に寄りかかりながら、冷徹なまでに観察していた。
セリナ。その言葉遣い、礼の仕方、そして、どんな時も崩れない気品。どれをとっても、ただの貴族の娘ではない。王家に連なる者か、あるいは、それに匹敵するほどの特別な血筋。彼女が懐から落とした、あの黒曜石のペンダント。見たこともない紋章だったが、その緻密な細工は、並の職人に作れるものではない。
(影鴉の襲撃も、腑に落ちん。あれは、単なる魔獣の狩りではなかった。明確な目的を持って、彼女を狙っていた。……誰が、何のために? そして、彼女が頑なに口を閉ざす理由とは?)
蓮の思考は、鋭利な刃物のように、情報の断片から真実を削り出そうとする。彼の内なる探究心と野心を映し出すかのように、傍らに佇む蒼は、時折、意味ありげにセリナの方へと視線を送っていた。その賢い瞳は、蓮以上に多くのことを見抜いているのかもしれなかった。
勇三郎は、そんな三人の様子を、少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。テクノの魂を消耗させた代償は、まだ彼の体から抜けきっていない。全身を覆う、重い疲労感。だが、それ以上に、彼の心を占めていたのは、目の前で繰り広げられる、このぎこちない人間模様だった。
(まるで、前世の会社のようだ)
ふと、そう思った。利害と、建前と、腹の探り合い。違うのは、そこに命の危険と、そして、紛れもない本物の「絆」が同居していることだ。
勇三郎は、静かに立ち上がると、セリナのそばへ行き、自分の水筒を差し出した。
「……水、飲むか?煮沸してあるから、安全だ」
その言葉に、セリナは少し驚いたように顔を上げた。仁のような押し付けがましさも、蓮のような探るような視線もない。ただ、静かで、当たり前のような気遣い。
「……ありがとうございます、勇三郎様」
セリナは、素直に水筒を受け取った。そして、一口、水を飲んだ後、小さな声で尋ねた。
「あなたの魂獣は……その、眠っているのですか? わたくしのフィーナが、あのように元気になれたのは、あなたの……」
「テクノだ。……ああ、今は、ちょっと力を使いすぎちまって、休んでるんだ」
勇三郎は、毛布の中で眠るテクノを優しく撫でた。その銀色の体は、まだ少し冷たいままだ。
「そう、でしたか……。わたくしと、フィーナのために……申し訳、ありません」
セリナは、心から申し訳なさそうに、眉を下げた。フィーナも、主の感情に同調するように、勇三郎の足元に歩み寄ると、心配そうにテクノの匂いを嗅ぎ、その鼻先を優しく毛布に擦り付けた。それは、言葉を超えた、魂獣同士の静かな交流だった。
この二日間で、勇三郎とセリナは、こんな風に、ぽつり、ぽつりと、当たり障りのない会話を交わすようになっていた。それは、互いの魂獣を介した、ささやかな信頼関係の始まりだったのかもしれない。
旅の四日目の朝。
洞穴の中の食料は、ついに底をついた。
「……決めなければならんな」
蓮が、重い口を開いた。
「セリナ殿の傷も、大分塞がってきた。これ以上、ここに留まるのは危険なだけだ。明日、我々はここを出る」
「ああ、そうだな。で、どっちに行くんだ?このまま首都を目指すのか?」
仁の問いに、蓮はしばらく黙考した後、セリナへと視線を向けた。
「君次第だ、セリナ殿。我々の当初の目的は、首都へ向かうことだった。だが、君をこの森に一人で残していくわけにはいかない。君は、どこへ向かいたい? 我々が、君を送り届けよう」
それは、蓮なりの最大限の配慮であり、同時に、彼女の目的地から正体を探ろうという、巧妙な問いかけでもあった。
セリナは、三人の顔を順番に見つめた。そして、何かを決心したように、ぎゅっと唇を結ぶと、深く、深く頭を下げた。
「……もし、もしも、ご迷惑でなければ……わたくしも、首都まで、ご一緒させていただけないでしょうか」
「首都へ?君もか?」
「はい。わたくしにも……首都に行かねばならぬ、理由があります」
その言葉の真意は、誰にもわからなかった。だが、目的地が同じである以上、断る理由はない。
「よし、決まりだ!明日、四人で首都に向けて出発だ!」
仁が、力強く宣言した。
その、瞬間だった。
それまでセリナの足元で大人しくしていたフィーナが、突然、全身の毛を逆立て、洞穴の入り口に向かって、低く、唸るような威嚇の声を上げた。その瞳には、影鴉と対峙した時と同じ、いや、それ以上の緊張が走っている。
「どうした、フィーナ!?」
セリナが相棒をなだめようとするが、フィーナの警戒は解けない。
三人も、即座に武器を手に取り、身構えた。洞穴の外から、何かが近づいてくる気配がする。それは、魔獣の気配ではなかった。もっと、秩序だった、複数の足音。そして、微かに聞こえる、金属が擦れ合う音。
蓮が、音を立てずに洞穴の入り口の岩陰に張り付き、そっと外の様子を窺う。
そして、彼は血の気が引いた顔で、声にならない声で、仲間たちに告げた。
「……まずい。……『炎の国』の、正規兵だ」




