第一部:銀龍の覚醒 最初の森(2)
崖下から響いた鈍い衝突音が、イズミの森の深閑とした空気に吸い込まれていく。その音を最後に、世界から一切の音が消え失せたかのような奇妙な静寂が訪れた。風が木々の葉を揺らす音だけがやけに大きく聞こえる。
「…………は?」
最初にその沈黙を破ったのは、やはり仁だった。刀を中途半端に構えたままあんぐりと口を開けている。その視線は勇三郎と、森喰いが消えた崖下とを信じられないものを見るかのように何度も往復していた。
「お、おい、勇三郎……今のは、なんだ……?魂術、なのか……?」
その問いに、勇三郎はまだ弾む息を整えながらかぶりを振った。
「いや……魂術じゃない。ただの、理屈だ」
「理屈だぁ?理屈で魔獣が倒せるかよ、普通!」
仁は、まるで子供のように駄々をこねるかのような声を上げた。彼の肩の上で紅羽もまた、主の混乱を映すかのように落ち着きなく羽を動かしている。
『そうよ!理屈だなんて、そんな地味なもので、この私の主が手間取った相手を倒せるわけないじゃない!』
「……落ち着け、仁。少しは頭を冷やせ」
静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持った蓮の声が、仁の興奮を制した。蓮は、驚きに目を見開いてはいたものの、その思考はすでに冷静な分析へと移行していた。彼は崖に近づき用心深く下を覗き込むと、やがて勇三郎へと向き直った。その瞳には純粋な好奇心と、そして未知の力に対するわずかな警戒の色が浮かんでいた。
「……勇三郎。お前の言う『理屈』とやらを説明しろ。そもそも、我々が使う魂術とは、術者の魂力を、己の魂獣を触媒として、現実に影響を及ぼす現象へと変換する技術のことだ。だが」
蓮はそこで一度言葉を切り、射抜くような視線を勇三郎に送った。
「お前が先程やったことからは、その魂力の流れが、一切感じられなかった。これは、一体どういうことだ?」
二人の真剣な視線を受け、勇三郎は言葉に詰まった。どう説明すればいい?前世では小学生でも知っている物理法則。だがこの世界では、それは魔法よりも不可解な秘術に等しい。
「ええと……」
勇三郎は、近くにあった手頃な小枝と石ころを拾うと、地面でシーソーのような模型を作って見せた。
「ここを支えにして、こっちに力を加えると、反対側にはもっと大きな力が……」
「うーん……なるほど、わからん!」
仁は早々に匙を投げると、自分でも同じように模型を作り、小枝を力任せに踏みつけた。勢いよく跳ね上がった石ころが彼の額にクリーンヒットする。「いってぇ!」
そのあまりにも子供っぽい光景に、蓮は深く、深いため息をついた。
勇三郎が説明に窮していると、襟元からテクノがひょっこりと顔を出した。彼は主の勝利がよほど嬉しかったのか、小さな胸を精一杯に張り、得意げに「きゅる!」と一声鳴いた。そして、まるで「どうだ!」とでも言うかのように、蓮の隣にいる蒼と、仁の肩にいる紅羽を、つぶらな瞳で見上げる。
その愛くるしい仕草に、紅羽は「ふんっ」とそっぽを向いた。
『まぐれよ、まぐれ!うちの仁が本気を出せば、あんな粘液野郎、一刀両断だったんだから!』
だが、蒼は違った。彼は静かに勇三郎へと歩み寄ると、その大きな頭で、勇三郎の肩を優しくぐい、と押した。
『……面白いものを見せてもらった。力だけが、全てではない。お前の主は、良い頭脳を持っているな』
蒼の賢い瞳から、そんな思念がはっきりと伝わってくる。
(ありがとう、蒼)
勇三郎は心の中で呟き、その鼻面を撫でる。テクノも、気高い蒼に認められたことが嬉しいのか、勇三郎の首筋にすり寄って甘えるように喉を鳴らしていた。
「……まあ、いい」
蓮が、そんな魂獣たちのやり取りを見て、ふっと息を吐いた。
「お前の言う『理屈』とやらは、まだ理解の範疇を超えている。だが、結果は出た。勇三郎、お前のその異質な『知識』は、この旅の切り札になるやもしれん。それだけは、覚えておけ」
西の空を見れば、太陽が山の稜線に隠れようとしていた。森の夜は早い。
三人は手分けして薪を集め、火を起こす。パチパチと燃える炎が、三人と三体の魂獣の顔を暖かく照らし出した。
勇三郎は、自分の膝の上で丸くなって眠るテクノの、銀色の小さな背中をそっと撫でた。隣では仁と紅羽が肉の焼き加減を巡って何やら言い争い、その向かいでは蓮と蒼が静かに、しかし確かな信頼の空気の中で火を見つめている。
(……俺の居場所)
前世では、感じたことのない感覚だった。会社の同僚はいても、それは仲間ではなかった。孤独ではなかったが独りだった。だが今は違う。
(ただ、テコの原理だけで、あそこまでの威力が出ただろうか?……もしかして、あの時、テクノが何か……?)
勇三郎の脳裏に、わずかな疑問が浮かぶ。彼は、その答えの出ない問いを頭の隅に追いやり、今はただ、目の前にある、失いたくない温もりを、強く、そして確かに感じていた。
炎の暖かさと、すぐそばにある仲間たちの気配。その全てが勇三郎の心を今まで経験したことのない、確かな安らぎで満たしていくのだった。




