第一部:銀龍の覚醒 旅の支度(2)
東の空が、墨汁を垂らした水面のように、じわりと白み始めていた。まだ星々が瞬く夜明け前、間原家の家の中では、旅立ちに向けた最後の時間が流れていた。
「……これを持っていけ」
囲炉裏の前で、猛次郎が低く呟き、一つの革袋を勇三郎に差し出した。ずしりと重いその袋には、いざという時のための金貨が数枚と、そして、小さな木彫りの守り札が入っていた。それは、勇三郎の母親が、彼が生まれた時に作ってくれたものだという。
「じっちゃん……」
「感傷に浸っている暇はない。いいか、一度村を出たら、決して振り返るな。お前たちはもう、ただの村の若造ではない。国の理に弓を引く者だ。その覚悟を、ゆめ忘れるな」
猛次郎の言葉は、相変わらず厳しかった。だが、その声の奥に隠された万感の想いを、勇三郎は感じ取っていた。足元で、魂獣のワダンが、まるで全てを理解しているかのように、勇三郎の足にそっと鼻先を押し付け、くぅん、と悲しげな鳴き声を上げた。
『坊主を、頼む』
ワダンの賢い瞳が、そう語りかけているかのようだった。
『ゆうざぶろう……。じっちゃん、どうして悲しい顔をしてるの?僕たち、もう、帰ってこないの?』
襟元から、テクノの不安げな思念が流れ込んでくる。
(……いや、必ず帰ってくる。俺が、そう約束する)
勇三郎は心の中で、強く、相棒に誓った。そして、祖父に向き直り、深く、深く、頭を下げる。
「じっちゃん……行ってきます」
「……うむ」
それだけだった。顔を上げた時には、猛次郎はもう背中を向けていた。その背中が、決して振り返るな、と雄弁に語っていた。
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村のはずれ、首都へと続く街道の起点には、すでに蓮と仁が待っていた。夜明け前の冷たい空気の中で、彼らの吐く息が白く揺れる。
「よ、よぉ……。って、寒ぃなオイ!」
仁が、わざと明るく両腕をこする。その肩では、紅羽が寒さに羽を震わせるでもなく、鋭い眼光で周囲の闇を警戒していた。
『あんたがしっかりしないから、私まで寒く感じるじゃない!』
その声なき叱咤が聞こえたのか、仁は「へ、へいへい」と肩をすくめた。
蓮の隣では、蒼が静かに佇んでいる。月明かりに照らされたその青毛は、まるでビロードのような光沢を放っていた。蓮が黙っていても、蒼はふっと鼻を鳴らし、勇三郎の到着を歓迎するそぶりを見せた。主人のクールな態度の裏にある感情を、ちゃんと代弁している。テクノは、そんな気高い二体の魂獣の姿を、襟元から少しだけ顔を出し、憧れるような、そして少しだけ恥ずかしそうな目で見上げていた。
「準備はいいか?」
蓮の問いに、勇三郎は黙って頷いた。三人が顔を見合わせる。もう、後戻りはできない。彼らの背後には、まだ深い眠りについたままの故郷があった。
三人は一度だけ、その懐かしい家々の屋根を、目に焼き付けるように、じっと見つめた。
「……行くか」
仁が、今度は静かに、しかし覚悟を決めた声で言った。蓮と蒼が、静かにそれに続く。勇三郎もまた、前を向いた。
故郷に背を向け、未知なる世界へと歩き出す。夜明けの光が、彼らの進むべき道を、まるで祝福するかのように、長く、長く、照らし出していた。




