リベリオc
「それじゃあ俺はこっちっすから」
研究所の廊下、その曲がり角。シックスは指差しながら行き先を示した。
「あれ? 今日は一緒じゃなかった?」
リベリオはオメンタムでスケジュールを確認する。視界にカレンダーが映し出された。そこには確かにリベリオとシックスの名前が記載されている。
「急遽変わったっす。ちょっとやらなきゃいけないことがあるんすよ」
シックスは早口で言った。少しでも早く、ここから立ち去りたいと主張するようだった。
リベリオは、いつもと様子の異なるシックスに違和感を覚える。
「なんすか?」
シックスが片眉を上げた。いつもの癖だ。
「なんか怪しいなと思って」
リベリオも同じく片眉を上げた。
「ぜんぜん怪しくないっすよ。例え早口で言ってたって怪しくないっす」
「自覚してるんだ」
「意図的にそうしてるっすからね」
「どうして?」
「全てのことに理由があれば苦労しないっす」
「煙に巻かれるのは好きじゃないな」
「ならタバコもやめた方がいいっすよ」
シックスの得意げな顔。
リベリオは負けを認めて笑う。
「また食堂で」
シックスは返事をする代わりに、背を向けたまま手を振った。
リベリオはそれを見届けてから自分の持ち場へ向かった。
長い長い廊下を歩く。終わりが見えないと思われた廊下の先、行き止まりの真っ白な扉。ツルツルとした妙な光沢がある。
リベリオは白すぎて遠近感が分からなくなりながら扉の真ん中へ立った。
「認証しました」
何者かわからない声と共に扉が開く。
強く白い光が、白く広い室内を照らしていた。絶対に逃さないぞという設計者の気持ちの現れだろうか。直接見ると目がチカチカとするほどの眩い光。
その下の広大な空間には机が所狭しと並べられ、男女問わず下を向いて黙々と作業していた。
リベリオは自分の席へと向かう。
コツコツと音が鳴る。それなりの人数がいるにも関わらず、靴と床が触れ合う音すらリベリオの耳に届いた。リベリオはその音を使い、頭の中で音楽を作りながら歩く。
室内の一番奥。リベリオは自分の席に着くと、後ろの女性に形だけの挨拶した。
「お疲れ様です」
女性は顔も上げずに、
「どうもお疲れ様です」
とすぐさま返事をしてきた。
熱心なその姿にリベリオは感心しながら自らも作業に取り掛かる。下のボックスから金属片を取り出し、上から降ってくる板にそれをはめる。
ただ、それだけ。
他にやることは一切無い。同じ動作を永遠と繰り返す。
この部品が、この行為が、一体なんの意味があるのかリベリオは知らない。知る必要もない。こうすることが、自分に与えられた『義務』なのだから。
ただひたすらに、無心に、作業に没頭した。
一つ作るたびに、感情が削ぎ落とされていく。自分という存在が少しずつ消え、有象無象になっていく。極限まで薄くした存在は空気と一体化する。世界と一つになる。
居るのに居ない。
有るのに、無い。
無、無、無。
リベリオは、気がつけば研究所にいた。突如無から現れたかのように。生まれたという実感は無かった。かといってその前の記憶も無かった。わかるのは、自分の名前がリベリオということだけ。
目の前には疲れ切った表情の男。その男がプロタゴという名前だとわかったのは、しばらくしてからだった。
「お前、ヒューマノイドか?」
そう問いかけられた。
リベリオは自分が、ヒューマノイドのような気も、人間のような気もした。
一体どう判断すれば良いのか。この身を引き裂いて、中を覗き込めばわかるだろうか。
リベリオは返答に困って曖昧に笑った。プロタゴの目が細められた。
リベリオは気恥ずかしさを隠すようにポケットに手を入れた。硬い感触が手に伝わった。バッジだ。
「僕は人間です」
リベリオは感触に身を預け、泰然と答えた。
プロタゴがリベリオを、頭の天辺から足のつま先まで目で舐め回してきた。
「なぜ人間だと言える。なぜ確信をもって答えられるんだ」
男の問いは、リベリオでなく自分自身に問いかけているようにも聞こえた。
「それはもちろん、バッジがあるからです」
バッジを持っているから人間なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「そうだな。その通りだ」
プロタゴの目は、リベリオを憐れむようだった。
なぜそんな視線を受けなければならないのか、リベリオには甚だ疑問だった。
「タバコは吸うか?」
再びプロタゴの問い。
はっきりとした記憶は無いが吸っていたような気もしたリベリオは、曖昧な記憶を言葉によって肉付けする。
「多分、吸います」
リベリオがそう答えると、プロタゴの憐れみの視線がさらに増した。
「お前にはこれからここで働いてもらう。それが『義務』だ」
「『義務』ですか?」
リベリオは言葉を頭の中で反芻させた。
「そうだ。権利を与えられないクソみたいな『義務』だ。言っておくが拒否権は無い」
プロタゴの顔には嫌悪感が滲み出ていた。
「わ、わかりました」
リベリオは戸惑いながらも、それを受け入れた。より一層、プロタゴの視線が強まった。
「空っぽのお前には丁度いいな」
プロタゴの言う通り、『義務』はリベリオにとって丁度よかった。
自分が何者かわからない。そんな中で与えられた『義務』だけが、リベリオの心の拠り所だった。
『義務』は全てを肯定してくれた。『義務』に従っている間だけは誰にも何も言われなかった。
リベリオはそれが嬉しかった。ここにいてもいいと言われた気がした。リベリオは感謝した。『義務』を与えてくれてありがとうと。
リベリオの点数は研究所内で最も高くなっていた。何に基づいた点数なのかはわからない。定期的に更新される点数。
リベリオは気にせずに生活した。その間も点数は更新され続けた。
研究所から出ようとは思わなかった。外に出てもやりたいことがない。それになにより『義務』を失うのが怖かった。わざわざ危険を犯す必要はない。今の状態でも生きていけるのだから。
『義務』に従ってさえいれば明日は来る。何かをしても、しなくても時間は進む。『義務』、それ以上のことは何も望まない。
何も――。