ストレイⅠ
タリト区公園の喫煙所。巨大な枯れ木の下に置かれた筒形の灰皿。その周りを囲むように、老若男女問わずタバコを吸っていた。
風に乗ったタバコの匂いがストレイの鼻孔を刺激する。
ーー臭えな。
ストレイは内心悪態をついた。
ウイスキーのような香り高いものではない。世界中の不純物を凝縮させたような匂い。同じタバコにもかかわらず、なぜ他人が吸っているタバコの匂いはこれほど臭いのか。ストレイは嘆息つきながら煙を吐いた。
頬に張り付いた無精髭がゆっくりと動く。
「タバコを吸わない人はもっと臭いと思ってますよぉ」
耳を刺す高い声に、相手を苛立たせる話し方。
ストレイはリコの言葉を聞き流す。
「そんなんだから奥さんに愛想つかされちゃうんですぅ」
ストレイは伸ばされる語尾に苛つきながらも、再び煙を吸う。冷たい空気がタバコの味を引き立たせた。
「このままだったら私まで愛想つかしちゃいますぉ。良いんですかぁ? ほらぁ、こんな美少女が飛んでいっちゃいますぅ」
小さな両手でパタパタと翼を表現しているのが、ストレイの視界の端に映った。そこでようやく、ストレイはリコに視線を向ける。
黄色の髪に黄色のバッジ。警察服を着崩している。その身長の低さも相まってコスプレをしているようにも見えた。
「今すぐ飛んでいってくれ、今すぐだ」
ストレイが声をかけると、リコは嬉しそうな顔をした。男女ともに好かれそうな人懐っこい笑顔。
「そんなぁ、酷いですぅ。私はどんな時もストレイさんと一緒ですよぉ」
「頼むから冗談でもやめろ。ただでさえお前との関係を疑われてるんだ。言っておくが俺にその気は全く無いからな」
隣でタバコを吸っていた若い男が、チラリとストレイに視線を向けた。ストレイは誤魔化すように咳払いをする。
「ストレイさんにその気がなくても、私にはありますぅ」
リコは見た目に似合わず妖艶な笑みを浮かべた。
「お前って良い性格してるよな」
「褒めても何も出ませんよぉ」
「褒めてねえよ」
ストレイの言葉に、リコは年相応の笑みを浮かべた。会話を楽しんでいるようだった。
「でもなんでタバコなんか吸うんですぅ? 身体に悪いですよぉ」
ストレイは眉間に皺を寄せながらタバコを吸い、吐く。白い煙がストレイの顔を覆った。
「格好つけて言うなら、当たり前を感じる為だ」
「当たり前、ですかぁ?」
リコが首を傾げた。
「失ってから気づく、なんて言葉があるだろ」
ストレイは、あてどなく彷徨う煙をぼんやりと眺める。
「今まで、昨日までずっと居た。だから今日も明日もその先も、ずっと居ると勘違いしちまう。なんの確証もないっていうのに」
ストレイは曇り空を見上げ、そのまま話を続ける。
「だがタバコは失う前に気づかせてくれる。毎日吸っている空気をタバコで味付けすることで、そこにあるってわかるんだ。当たり前がそこにあるってな」
自分から聞いたにも関わらず、リコは「ふーん」と退屈そうな声で返事した。
「それにタバコを通して不味い空気を吸うことで、普通の空気が美味しく感じられる」
ストレイは漂っているタバコの煙を避けて、大きく深呼吸した。
「何ですかそれぇ。頭悪いんですかぁ?」
リコの指摘にストレイは、そうかもな、と自嘲気味に笑った。
「悪い奴が普通のことをしているだけで良い奴に見えちまう。当然のことをしているだけなのに、どんなフィルターを通すかで評価は、点数は、変わる。あれと同じだ」
リコは腕を組み、考え込むような仕草をした。
ストレイはタバコを吸いながらリコの言葉を待つ。
つい先日ストレイが奥さんに同じ内容を話した時には、「理由なんていくらでも後付け出来るし、タバコを吸っている事実は変わらない」と冷たく返された。
至極真っ当その通りの意見だった為ストレイは何も言い返せず、その日は身体を縮めて過ごし、奥さんが出かけた時に隠れてタバコを吸った。
灰が自重で落ちる。
「私にはよくわからなかったですぅ。取り敢えず――」
とリコは言葉を区切った。
その後に続く言葉がなんなのか、ストレイには簡単に想像がついた。
タバコをやめましょう。
どんなに寄り道しようとそう帰結する。
当たり前だ。
毒をばら撒く者に優しく声をかける者などいない。
ストレイが期待せずにタバコの火を消そうとしたところとで、リコは勿体ぶったように口を開いた。
「――全然格好良くなかったですぅ」
予想外の発言に、ストレイは動きを止めた。
「なんだそれ」
「女々しいって言うんですかねぇ。責任転嫁しているようで全然格好良くなかったですぅ。タバコを吸うなら吸う。言い訳なんかしないでぇ、罵倒されるのを覚悟したうえで吸えば良いのにって思いますよぉ」
リコは毅然とした態度で口にし、少し後に黄色の髪の毛をくるくると指に巻き付かせた。
――こいつは妙なところで鋭い。
「何がよくわからなかった、だよ。俺の言ったこと全部理解してるじゃねえか」
ストレイの言葉にリコは表情を明るくさせ、「わからないですよぉ」とストレイに腕を絡ませた。
「おい、やめろよ」
ストレイは言いながら辺りを見回す。
タバコを吸っている若い女性の二人組が、チラチラとストレイのことを見ていた。
「こんなところ奥さんに見られたらどうなるか、なんてわからないですぅ」
猫撫で声がストレイの頭の中に響いた。
世の中の不倫はこうやって始まるのだろうかと、ストレイは頭を抱えた。
「勘弁してくれ」
「からかってるだけじゃないですかぁ。そんなに拒絶しないでくださいよぉ」
リコは絡ませた腕を解き、涙を拭く真似をした。
「俺が悪者みたいじゃねえか」
ストレイは再び辺りを見回す。灰皿を囲んでいた全員が、何事かとストレイを見つめていた。背中に嫌な汗が流れる。
「やめないですよぉ。だってストレイさんにかまってほしくて嘘泣きしてるんですからぁ」
リコは手で目を覆ったまま、口元だけで笑った。
「お前って本当、良い性格してるよ」