白
「母さん、誕生日おめでとう」
家に着くまで、母を独りにしていたことへの罪悪感だろうか、蝉の声がやけに煩かったが、母の「ありがとう」という声は、いつもより凛として聞こえた。
「でも忙しいでしょう、無理しないでいいのに」
「寧ろ気分転換になるから、来れて良かったよ。空気も綺麗だし」
太陽と人の熱、そしてコンクリートに焼かれて、おしぼりとなったハンドタオルと共に、快速列車にすし詰めにされる生活には、未だ慣れることができないでいた。畳の匂い、風鈴の音、眠気を誘う障子越しの光。大学を卒業し、社会人として上京してからまだ半年も経っていないというのに、懐かしさを覚えてしまうのは、僕が半人前だからなのか。
今日、一九六七年八月二十日生まれの母は、五十三歳になった。そのお祝いという目的こそあれど、実のところは、ただ都会の雑踏から逃げ出したかったんだろう。
「ちょっと見ない間に、逞しくなったのね」
「・・・そう?」
「ええ、顔が引き締まったように見えるわ。あっ、これを早く花瓶に入れないとね。お茶も入れてくるから、座ってて」
桔梗の香りが一瞬強くなり、そして遠ざかっていった。
その時、僕は唐突に昔の「友」を思い出した。
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小学二年生の冬休み、大雪が降った翌日のことだった。僕は雪だるまを作りたくて、空が白み始めた頃、手袋もせずに家を飛び出した。庭にも雪は積もっていたが、母に見つかってしまっては意味が無かった。その点、少し歩いたところにある神社はひっそりとしていて、最適な場所だった。
鳥居をくぐり、石段を上っていると、数段先の雪がもこもこと膨れ上がるのが見えた。直ぐにそれは雪ではないと理解したが、僕を驚かせたのは、それだけではなかった。
「おのれ、鼠ィ」
見開いた眼が凍り付きそうになり、慌てて瞬きをした。恐る恐る近づいてみると、二つの三角形が雪玉からポンと飛び出てきて、辺りを窺うアンテナのようにゆっくりと左右に捻転した。
「いま、きみがしゃべったの?」
「む、人の子に聞かれてしまったか」
氷柱のような瞳だった。
それはそれは美しい黄金色だった。
僕をその場にはりつけて、飴玉を転がすようにその「猫」は言った。
「おまえ、何年生まれだ?」
「年、ぼくは八さいです」
「違う違う、ほら、動物の年があるだろう、寅とか兎とか・・・ああ、おまえは丑年だな。まあまあ信頼できそうな奴だ」
着いてこい、と二本の尻尾を揺らしながら、猫にしては重々しい足取りで参道の方に向かっていく。元々その神社が目的地であった僕は、勿論あとを追いかけたのだった。境内を見渡してみれば、案の定、足跡の無い新雪が輝いていた。
「何故、一人で歩いていたのだ」
「お母さんに、雪だるまを作るんだ」
雪をかき集め始めた僕の傍らで、喋る猫は丸くなって座り、毛繕いを始めた。
「父親と来れば良いだろうに」
「お父さんは、この前、すごく遠いところに行っちゃったから、いないよ」
猫は立ち上がろうとしたが、脚が雪に沈んでよろめいた。
「ねこさん、つかれてるの?」
「この体はわたしに憑かれているし、わたし自身も確かに疲れているな」
猫は改めて僕の目の前で立ち上がり、髭を震わせながら言った。
「坊や、わたしに名前を付けてはくれないか」
思えば、彼にとってはこの願いが、彼の存在を繋ぎ止めるための儀式だったのだろう。幼い僕にはそんなことは分からず、ただ彼の真剣な眼差しに答えた。
「シロ」
返答の早さに面を食らったように眼をぱちくりさせたあと、「犬のような名だが、気に入った」と言ってコロコロと笑った。
「坊や、おまえの名前は何という」
「誠」
「ありがとう、マコト」
その後、僕が再び雪だるま作りに取り掛かると、シロは境内をうろついては、また近くに戻ってきた。
小一時間が過ぎた頃、僕はようやく頭と体を揃えることができた。
「マコト、手を見せてみろ」
シロにズボンの裾を引っ張られてしゃがむと、その時初めて、自分の手が赤く腫れあがっていることに気が付いた。白色の世界で、鳥居のように赤い手を見た僕は、体の一部が異質なものに変わってしまったことに怯えた。
「シロ、どうしよう」
「おまえは、今年の守り神の力で弱っていたわたしを救ってくれたのだ。あの十二匹ほどの力は持ち合わせていないが、この程度を治すなど造作もないことだ」
僕に話しかけるというよりは殆ど独り言のようだったが、何だか力強いシロの言葉で、僕は涙を堪えることができた。差し出された両の掌に、シロの前脚が乗せられると、瞬く間に赤みが消えていった。
「シロ、すごいね。かみさまみたいだね」
「わたしは神様の成り損ないだよ。だが、おまえのように一途な者を、毎年見守るくらいの役割は残っていたようだ」
シロが前脚を下ろし腕の重みが無くなると、途端にさみしくなった。
「そうだ、前にも同じようなことがあった。あの時は未年の子どもだったか。八代草を共に探した・・・」
「ヤツシロソウ?」
「紫色の花だ。おまえも暖かくなったら見つけ出して、母親に贈ればきっと喜ぶ」
そう言うと、シロは雪だるまの横に並んで大きく伸びをした。
「マコト、そろそろ家にお帰り。おまえの姿が見当たらないとなれば、母親が吃驚するだろう」
「シロ、また会える?」
「わたしはおまえの友だ。嘘はつかない。また会おう、必ず」
僕は、シロの金色の氷晶を心の隅にある宝箱にしまい込んだ。もう、走るほかはなかった。
幸い、母が起きる前には布団に戻ることができた。心臓がどきどきしていたのを覚えている。手にぬくもりが残っていた。シロ、猫の友だち。結局、その日から僕は高熱にうなされ、母に雪だるまを見せることができなかった。凡そ一週間後、小さな友の存在は、夢と混じりあって曖昧になってしまった。
カラン、コロン。
麦茶の入った二つのグラスを持った母が、戻ってきた。
「どうしたの、ぼうっとして」
「いや、友だちのことを思い出していたんだ」
「まだ近くに住んでいるのなら、散歩がてら顔を見せに行くのも良いんじゃないかしら」
今年も子年だ。彼はまた僕に姿を見せてくれるだろうか。雪だるまは、とうの昔に溶けてしまった。人の言葉を話す猫、彼はきっと、嘘が嫌いだ。
ふと縁側を見ると、僕の不安は風に吹かれたように軽々と消え去った。
紫色の花が一輪、太陽の光を浴びて眩しそうにしていた。
「母さん。僕、友だちに会ってくるよ」
「そう、行ってらっしゃい!」
桔梗と八代草の香り。
二つの鍵で、あの日の宝箱を開けに行こう。