風になりたい
二か月前にK介と知恵が別れた時のことを、僕は壁にもたれて座りながら考えていた。僕は缶ビールを一口飲み、煙草に火を点けた。煙を目で追いながら、あの時K介が言っていた言葉を思い出していた。
K介は缶ビールを飲んでいた。やっぱり、ビールは缶が良いよ、とK介はいつも言っていた。 「簡単に言ってしまえば、性格の不一致だそうだよ」
とK介は他人事のように言っていた。でも、彼にしてみれば他人事のような気がするのかもしれない。
「でも俺は、しばらくは諦められそうもないよ」
とK介は言った。
「そんなものかね」
と僕はなんだか事務的に言ってしまった。
「彼女ひとりが女じゃないよ。すぐにいい女が現れるさ」
「たしかに、世の中に女は五万といるよ。…でも、彼女はひとりだよ」
とK介は自分に言い聞かせるように言った。
「彼女に初めて会った時になにかを感じていたんだ。…いろんな女を好きになったけど、こんな気持ちは初めてだったよ。…インスピレーションて言うか、心に電気が走った感じだったな。…一目惚れはしなかったけれど、いつも心のどこかに彼女の存在があったよ…」
K介はビールを少しづつ飲みながら、思い出すように話した。
「赤い糸で結ばれているような感じがするんだ。…だから、糸が切れるまでは諦めないで待つつもりだよ」
とK介は言っていた。
僕は缶ビールの残りを飲み干し、煙草を一口吸った。
要するに、K介は女にふられたのだ。最初は僕もまさか、と思った。知恵がそんな女には見えなかった。女とは本当にわからない代物だ。
★ ☆ ★ ☆
都会の駅を行き交う人々は、まるで蟻の行列のようだ。道行く人のすべてが、企業という名の女王蟻のために精を出し、カネという金の卵を運ぶために行進しているようだ。
僕は、そんな人の流れを、どこを見るともなくぼんやりと見ていた。カマキリのような顔をした人が僕の前を通り過ぎて行った。いったいあの人は何をしている人なのだろう、と僕はただ漠然と考えた。僕は時々、どうでもいいようなことを、ただ漠然と考えてしまうことがある。仕事をしている時でも、どうして俺はこんなことをしているのだろう、と考えてしまう。しかし、何も考えずに仕事をするよりは、ちょっとはましではなかろうか。
そんなとりとめのないことを考えていたら、彼女が来た。
彼女はちょっと美人だ。背は高くないがスタイルは良い。服装のセンスは抜群だ。
今は、黒のウールのポロセーターに、モスグリーンのフラノジャケットを羽織り、グレンチェックのスリムスラックスといった具合だ。
「何を考えていたの?」
と彼女が聞いた。
(いや、…別に)と僕が言うと、彼女は覗き込むように僕の顔を見た。とてもチャーミングだな、と僕は思った。
「でも、なんだかぼんやりしてたわよ」
と彼女は首を右に傾げながら言った。
「うん、どうでもいいようなことをただ漠然と考えていたんだ」
「そう。…あなた時々そうなるのね」
「そうなんだ。自分でもよくわからない」
「わかってたら考えてたりしないわ」
「そうかもしれない」
「そうだと思うわ」
「君と話をしていると、すごく落ち着くよ」
と僕は照れているのを悟られないように言って、煙草に火をつけた。
「役に立ててうれしいわ」
と彼女は、火をおおってくれながら言った。
お腹が空いたから何かたべましょう、と彼女が言ったので、僕と彼女はスパゲッティの店に入り、彼女はボンゴレを、僕はカルボナーラを注文した。
料理が運ばれてくるまで、僕たちはとりとめのない世間話で時を過ごした。
料理が運ばれてくるといつものようにして食べた。いつもの様子というのは、彼女は食事をしながらおしゃべりをし、僕はそれをただ黙って(うんうん)うなづいているだけだ。お互いにおしゃべり、とか無口、とか言い合わないでうまくやっている。つまり、彼女が話し手で僕が聞き手なのだ。それでお互い満足していた。
彼女はボンゴレの味が少し薄いとぼやいていたが、僕のカルボナーラはまずまずだった。二人ともきれいに平らげた。
食器が下げられコーヒーが運ばれてきた。
「K介が振られたよ」
と僕は突然持ち出した。彼女はえっ、と言ってしばらく僕の顔を見ていた。
「どうして?」
と彼女は信じられないといった感じだった。
「性格の不一致だとK介は言っていた」
と僕は感情を押し殺して言った。
「性格の不一致ってなんなのかしら」
と彼女は納得のいかない様子で言った。
「性格が合わないことだろう」
「ちょっと、真面目に答えてよ」
「うん、…ごめん」
「また、とりとめのないことを漠然と考えていたの?」
「いや、そうじゃないんだ」
「じゃ、どうしたの?」
と言って、彼女は不服そうに窓の外に目をやってしまった。
「俺は、彼女が易々と男を振る女には見えない」
僕も窓の外に目をやった。蟻の行列が横断歩道を行進していた。
「私もそう思ってたわ。まさかと思ったもの。…あんなに仲が良かったのに。…いくら知恵さんと友達でも心の中まではわからないわ」
彼女は淋しそうだった。僕は彼女の気持ちが多少は理解できた。僕は彼女の性格をある程度は把握していた。もう三年も付き合っているのだ。僕が二十五で、彼女は二十三だ。恋愛の適齢期なのだ。K介と知恵にとっても…
それから、僕と彼女は街をぶらついた。彼女は春物のカーディガンを買った。彼女に似合いそうな黄色だった。僕はオートバイの雑誌を三冊買った。なんで同じような雑誌を三冊も買うの、と彼女は不思議そうに言った。
「趣味なんだ」
と僕は答えた。他に言い方が見つからなかった。
★ ☆ ★ ☆
「また、とりとめのないことを考えているの?」
と彼女が僕の耳元で言った。僕はうつぶせで煙草を吸っていた。
「君のことを考えていたんだ」
と僕は言った。
今は、彼女のアパートのベッドの中だ。あれから、彼女のアパートに帰り、夕方まで適当に過ごし、夕食を食べた。料理は僕が作った。材料があまりなかったのでオムレツを作った。中にコンビーフとチーズを混ぜた。
僕と彼女は缶ビールを二缶づつ飲み、オムレツを食べた。とても美味しいわ、と彼女は褒めてくれた。
それから、二人で片付けて、テレビを見て、缶ビールを一缶づつ飲んで、セックスをした。
セックスに関しては、お互いに嫌いではない。むしろ好きなほうだ。でも、二人ともそれほど執着していない。自然に任せていた。セックスをするときは、僕も彼女も凄く燃える。でも、しなければそれで済んでしまう。
「君のことを考えていたんだ」
「私のどんなことを考えてくれてたの?」
「俺にとっての、君の存在理由」
「なんだか難しそうな話ね」
「すごく難しいよ。…君も考えてごらん」
「私にとってのあなたの存在理由を?」
「そう…」
彼女は煙草のけむりを目で追いながら、しばらく考えていた。
「よくわからないわ」
と言って、彼女は躰の向きを僕の方に向けた。形の良い乳房が僕の腕に触れた。
「そうだね。…本当は俺もよくわからないよ」
「いつかわかる時がくるわね」と彼女は優しく言った。彼女は僕の肩に手を回し、僕の頬にそっとキスをした。
人間同志の付き合いで、各々の存在理由を考えることは大切だと思う。例えば、僕と彼女の場合でも、僕は彼女にとっていったいどういう存在なのだろうか。いないと困るのか、いたらいたで楽しい、その程度なのか。僕がいなくなったら彼女は淋しがるだろうか。少なくとも彼女は僕のことが好きなんだと僕は思っているし、僕も彼女が大好きだ。
今のところお互いにうまくやっている。お互いの立場というものを理解しながら、あまりお互いの性格には首をつっこまない。でも、相手の意見が間違っていると思えば言い合いにもなるのだ。とてもうまくいっている恋人同志だと、僕は思う。彼女もそう思っていると思う。
そんなことを考え、彼女の寝息を聞きながら僕は目を閉じた。突然開いた窓から、煙草のけむりが吐き出されるように、僕の意識は吐き出された。
★ ☆ ★ ☆
僕とK介は、隣街の駅から歩いて三分のところにあるビルの二階の貸事務所で、広告代理店をやっていた。事務の女の子を一人雇っていた。日本茶をいれるのと、字のとても上手な女の子だ。 僕とK介の共同出資だが、一応K介が責任者になっていた。職務分担をするならば、K介は企画兼営業で僕が企画兼構成といったところだろう。
僕とK介は学生の頃から広告関係のアルバイトを二人でやっていた。だから、息が合うのだ。 仕事は順調に進んでいた。女の子には相応の手当てを払っていた。なんの不満もないわよ、と女の子は言っていた。
今日は比較的に忙しかった。締切りが二つ重なってしまったので、女の子にも手伝ってもらい、六時頃になんとか片付いた。いつもだったら五時半頃には帰る女の子も、今日は残ってくれていた。彼女のいれた美味しい日本茶を飲みながら、僕とK介は一息入れていた。
「これから三人で飲みに行きません? …とっても美味しいお店を見つけたの」
と女の子が窓にブラインドカーテンを降ろしながら言った。
「場所はどこなんだい?」
とK介が煙草に火を付けながら言った。
「北口の正面のビルの地下に新しく出来たの」
「どんな感じの店なんだ」
「ちょっとアンティークな、木の香りのするお店よ。バーカウンターがすごく大きいの。二人とも気に入ると思いますよ」
「なかなか良さそうだな。…腹も空いたし、行ってみよう」
K介と女の子のやり取りを、僕はソファーに寄り掛かり、日本茶をすすりながら見ていた。
K介がなんとなくいつもと違うように見えた。やはり失恋のせいだろうか…。
女の子の言った通り、とても感じの良い店だった。七時頃なので店は結構混雑していた。会社帰りのサラリーマンや学生風のアベックが多かった。
僕たちはカウンター席に座った。僕とK介は缶ビールを、女の子はジンライムを注文した。僕たちは乾杯してから料理を適当に注文した。
とりあえず、僕たちは仕事の話をした。
「今日は忙しかったですね。私が来てからあんなに忙しかったの初めてね」
と言って、女の子はジンライムを一口飲んだ。
「そう言えばそうだな…」
とK介。
「君が入ってきて二か月くらいかな」
と僕。僕とK介は二つめの缶ビールを注文した。
「君、歳はいくつだっけ?」
とK介がプルリングを抜きながら言った。
「二十一」
彼女は僕に視線を向けた。僕はおやっ、と思った。
「えっ、そんなに若いんだっけ!」
K介は本当に驚いていた。
「まったく、私の歳も知らないで雇ってるんですか。…もっとも履歴書もなし、面接もなしじゃね」
女の子は本当に呆れていた。
「そういえば、求人広告を一階の入り口と隣りの喫茶店に貼っただけだもんな」
と僕は言った。
「随分といい加減ですね」
「君はどっちの貼紙を見たんだい」
「喫茶店の」
「一人でいたの?」
「いいえ、友達と」
BGMにビリージョエルの(Just Way You Are)が流れていた。
「男?」
「女」
彼女はまた視線を僕に向けた。K介と彼女のやりとりを聞いていた僕は、彼女の視線を受けて、恋人はいないのか、と言いそうになったのをやめた。
「どうして私を雇ってくれたんですか?」
と彼女は僕に聞いた。そうだな、と僕が考えていると、
「誰でもよかったんでしょう」
と彼女は呆れた様子で言った。
「最初に来た人は断ったよ」
とK介が缶ビールを飲みながら言った。
「なぜなの?」
彼女はK介を見て、それから僕に向いた。
「字が下手だったから」
「おもしろい理由ね」
「そうでもないよ。…第一条件だったからね、字の上手い人が」
「字が上手ければ誰でもよかったの?」
「第一条件はね」
「じゃ、第二条件はなんなのかしら」
と彼女は興味深そうに言った。
「第一印象かな」
と僕は何気なく言った。K介は煙草をふかしていた。
「おもしろいのね。…だって、第一印象っていうのは第一条件じゃないかしら」
と彼女は訝しそうに言った。
「体裁が悪いだろう。…条件が第一印象だと」
とK介が言った。僕は煙草に火を付けながら、
「本当は、第一印象で君に決めたんだ」
と言った。
「じゃ、最初に来た人は第一印象が良くなかったの?」
再び彼女は訝しそうに言った。
「実はそうなんだ」
「じゃ、私は第一印象が良かったのね」
「もちろん、そうだよ」
「とってもうれしいわ。…どうもありがとう」
彼女は僕の目をじっ、と見た。その時僕は、ふと恋人の顔が頭に浮かんだ。優しく微笑んで居る彼女の顔が頭に浮かんだ。なぜだかわからなかった。
僕たちは九時半頃店を出た。女の子はまっすぐにアパートに帰ると言っていた。そう言えば、女の子の住所もあまりよく知らなかった。一度聞いたのだが、よく覚えていなかった。二つ先の駅だというのは知っていた。
僕とK介は行きつけのバーに行った。店内は比較的空いていた。再び缶ビールを注文した。顔馴染みのマスターが缶ビールのプルリングを抜かずにカウンターに並べた。無口で物静かなマスターだ。僕とK介は、マスターと店のカウンターが好きでよく缶ビールを飲みにきた。
「彼女のことどう思う?」
とプルリングを抜きながらK介が言った。
「彼女って誰のことだい」
僕は知っていてわざと聞いた。K介は缶ビールを飲んでいた。
「いい娘だと思うよ。…真面目に働くし、字は上手いし、日本茶は美味しくいれるし…」
「やっぱり、ひとりになると淋しいな」
「K介が僕の言葉を遮って、ポツリと言った。僕は女の子の視線と、知恵とK介がいっしょに写っている写真と、恋人の笑顔を、順に目の前を横切らせた。
「その後、知恵とは会ってないの?」
「二回会った」
「いつと、いつに」
「ふられて一週間後と、今から一週間前」
「一週間前に会った彼女はどうだった?」
「髪が長くなっていたなぁ…」
「あの女の子が好きなのか?」
僕の頭に女の子の視線が浮かんだ。
「今のところはまだ大丈夫だ」
「大丈夫ってどういうこと」
「知恵のことは諦められないって言ったからね」
K介の心うちは、僕には充分すぎるほどにわかっていた。今までそばにいてくれた女が、それもあれほどK介が好きになった女がいなくなってしまえば、とりとめもなく淋しいのだろう。
身近にいる女の子を好きのなっても不思議はなかった。
十一時頃に、僕とK介はバーの前で別れた。K介の後ろ姿は少し酔っているようだ。K介は口笛を吹きながら交差点を左に折れた。口笛の音が尾を引いて闇の中に消えた。
僕は恋人のアパートに寄ることにした。僕のアパートに帰るより彼女のアパートに行ったほうが近いからだ。途中、自動販売機で缶ビールを二本買った。もう少し飲みたい気分だった。
彼女の部屋の明りは消えていた。物音一つ聞こえない。もう寝てしまったのだろう。十一時四十分になろうとしていた。
僕は彼女から渡されていた合鍵で静かにロックを外し、ドアーを開けた。小さな玄関に続いて台所があり、その奥に六畳間がある。六畳間と台所の間の襖は閉じていた。
そっと襖を開けると、彼女はベッドに俯せでこちらに顔を向けて眠っていた。安らかな寝顔だった。僕はベッドの縁に腰掛け、彼女の髪を優しく撫でた。彼女は軽く吐息を漏らしたが目を覚まさなかった。
僕は立ち上がり、缶ビールを手に取って床に座り、ベッドに寄り掛かった。その弾みで、彼女は目を覚ましたようだ。
「どうしたの、ビックリするじゃないの」
それほど驚いた様子もなく、彼女は眠そうな声を出した。
「ごめんよ。起こしちゃったね」
僕は極めて優しく言った。なんとなくそんな気分だった。どうしたの、と彼女は再び言った。 「K介といつものバーで飲んでたんだ」
「いま何時?」
「十二時ちょうど」
「随分遅くまで飲んでたのね」
「そうでもないだろ」
「そうね」
「起こしちゃって悪かったね」
「ううん、いいのよ」
「……」
「今日はなんとなく来るような気がしたの」
「だからあんまりビックリしなかったんだね」
「そうなの」
「どうしてそんな気がしたんだい?」
「なんとなく…」
彼女は目を閉じた。僕は缶ビールのプルリングを抜いた。
「私も飲みたいな」
彼女は肘を突いて躰を起こした。
「二本買ってきたんだ」
「冷蔵庫にあったのに」
「なんとなくさ…」
彼女は僕の頭を軽く小突いた。僕は缶ビールのプルリングを抜いて彼女に渡した。
★ ☆ ★ ☆
海沿いの道路はかつてのように空いていた。空は抜けるような青さだ。太陽が海に反射して眩しかった。初夏の陽射しが半袖のTシャツからむき出しの腕に心地好く降り注いでいた。
僕はオートバイに跨り、風を感じる速度で走っていた。もう少し速度を上げると風になれる。でも、まだそれをやらなかった。あと10キロ程走れば風になるのに絶好の場所があるからだ。
タンデムシートには恋人が跨っていた。彼女も僕と同じ風を感じていた。彼女は左手を僕の腰に回し、右手はクラブバーを握っていた。時々、ヘルメットのシールド越しに見える彼女の顔が左のミラーに映った。五月晴れの空を満悦の笑みを浮かべて泳ぐ鯉のぼりのように、彼女の髪はなびいていた。
1200cc大排気量エンジンの振動は、ほとんど伝わってこなかった。有り余るパワーは造作なく僕と彼女を風になれる速度まで運んでくれる。
僕と彼女は風になるために走っていた。
彼女が、風を感じて、風になりたい、と言ったのは昨夜のことだ。
あれから、二人で缶ビールを飲みながら、僕がオートバイの話をした。オートバイで走っていると風を感じる速度があり、風になれる速度があるんだ、と僕が言ったので、彼女は是非オートバイに乗って走りたい、と言った。
あの時僕は、今まで彼女をタンデムシートに乗せたことが一度もないことに気がついた。
「そういえば、まだ一度も乗せてあげたことがなかったね」
「そうよね。…あなたは私よりもオートバイを愛しているものね」
彼女はいたづらっぽい目を向けて言った。
「君とオートバイを比較できるわけないだろう」
「じゃ、私とオートバイとどっちが大事?」
「おいおい、勘弁してくれよ」
「冗談よ。ちょっと困らせてみたの」
「君のほうが大事だよ」
「まぁ、よく言うわね」
「明日乗せてあげるよ」
「本当に?」
「本当さ」
「仕事どうしようかしら」
「俺は明日は休みだよ」
「私も休んじゃお」
「風になりに行こう」
「風を感じて、風になりたい!」
それから、僕と彼女はセックスをして、二時頃眠った。
いきなり目の前の景色が開けた。道路が海に吸い込まれるようだ。緩やかな下り斜面を描きながら道路は続いていた。
風になれる場所に来た。僕は久しぶりに興奮していた。僕の気持ちの昂ぶりが彼女にも伝わったようだ。僕の腰を抱いている彼女の手に力が加わった。
道路には自動車の姿は一台もなかった。交通が遮断されているように思えた。
チャンスは今しかなかった。
僕は徐々にスロットルを開けていった。まわりの風景が急速に後ろに流れていった。シールドから見える画面は海だけになった。
僕は上半身を軽く伏せた。彼女も僕の躰に合わせるように伏せ、背中にしがみついた。僕は勢いよくスロットルを開けた。エンジンが唸りをあげた。
眠れる獅子が牙を剥くように、エンジンは己の実力に目覚めた。一度目覚めたエンジンは我を忘れた。
約3300メートルの景色が、一分間で消し飛んだ。海に続いているように見える道路は、距離にして五キロ程しかなかった。風になれるのは数十秒の間だ。しかし、その数十秒が数十分にも感じられる。
もちろん錯覚だった。時速200キロを越えると、異次元の世界にさまよい込んだようになる。 海が目前に迫ってきた。僕と彼女とオートバイは、
『風になった…』
僕と彼女は、海沿いのレストランで熱いコーヒーを飲んでいた。
二人ともまだ興奮から覚めていなかった。呆然と海を眺めていた。
最初に口を開いたのは彼女だった。
「本当に風になれるのね」
「嘘を言うわけないだろう」
「こんなに心が昂ぶったのは生まれて初めて」
「感動した?」
「とっても…」
「俺もここを走ったのは久しぶりなんだ」
「素敵なところを知っているのね」
「高校の時に、友達とツーリングをしたときに通ったんだ」
「じゃ、もう何回も来てるのね」
「うん…」
「もっと早く教えてくれればよかったのに」
「うん、そうだったね…。でも君に会ってからここに来たのは初めてなんだ」
「あら、どうしてなの?」
「別に理由なんてないし、君のせいでもない…」
「そう…」
「うん…」
「また連れてきてくれるでしょう」
「あぁ、もちろん」
それから、僕と彼女は海辺に出た。ここは夕陽の美しいところでもある。太陽が水平線に沈むまで、僕と彼女は砂浜に打ち上げられた流木に座りながら眺めていた。
帰りはゆっくりと走った。興奮した後の緊張の緩みを恐れてのことだ。オートバイに乗るには適度の緊張が必要だ。緊張が緩むと、時として命取りになりかねない。
僕のアパートに着いたのは夜の十時を少し回っていた。
★ ☆ ★ ☆
塵のように細かい雨が事務所の窓を濡らしていた。僕は事務の女の子がいれてくれた日本茶を飲んでいた。とても美味しい日本茶だ。女の子が上手なのだろう。
今日の仕事はほとんど終わっていた。日が長くなってきているので外はまだ明るかった。僕は煙草に火をつけ、窓の外を見た。
「じゃ、私帰りますから」
後片付けをしていた女の子が僕の背中に声を掛けた。
「あぁ、お疲れ様ね」
僕は首だけを後ろに向け彼女に言った。女の子は軽く微笑んで、お先に失礼します、と言って事務所から出て行った。彼女の靴音が、巨大な柱時計の振り子の音のように廊下に響いた。
僕は独りになった。独りになるとなんとなく落ち着いた。K介は得意先を回ってそのまま帰ると言っていた。外回りは大部分をK介が受け持っていた。僕が外に出るのは、僕個人の仕事の時だけだと言ってもよい。それ以外は滅多に外に出なかった。
僕はのろのろと後片付けを始めた。そして、電灯を消し、ドアーに鍵を掛け外に出た。そして、傘を開かずに夕暮れの街を歩いた。
いつものバーに寄っていこうと思った。缶ビールが飲みたくなったのだ。
店は空いていた。雨のせいだろうか。マスターがカウンターの中で氷を割っていた。カウンターには女性客が一人だけ座っていた。見覚えのある後ろ姿が、僕のいつもの場所に座っていた。 僕は、最初誰だか見当もつかなかった。しかし、すぐに事務の女の子だとわかった。僕は素知らぬふりをして女の子の隣りに座った。そして、マスターに缶ビールを注文した。
マスターはいつものようにプルリングを抜かずに出した。僕はプルリングを抜き、ビールを三回喉に通した。女の子は黙って僕の仕草を見ていた。
「どうしたんだい、きょうは」
「……」
「ここに来るなら、俺といっしょに来ればいいのに」
「……」
「でも、よくここがわかったね」
彼女は黙っていた。僕は彼女のほうに顔を向けた。彼女はジンライムの入ったグラスをぼにゃり見ていた。
「ここにいればあなたが来ると思って。…今夜はあなたがここに寄ると思ったの」
彼女はやっと口を開いた。でも、視線はグラスを見たままだった。
「なんだか、いつもと様子が違うな。…どうしたんだ」
そう言いながら、僕は危険な雰囲気を彼女に感じていた。以前、彼女が僕に見せた特別な視線を思い出していた。
「ちょっとあなたと飲みたくなっただけよ」
「だったら帰るときに言えばよかったのに」
「外に出てから思い付いたのよ」
「ふーん、そうですか…」
「はい、そうなんです」
「俺の行きつけの店だってことを知ってるのはどういうわけ?」
「あなたのところで雇ってもらう前に、一度友達と来たことがあるの」
「それで?」
「それで、…あなたとK介さんがこのカウンターで缶ビールを飲んでるのを見たの」
「それで?」
「あなたたち、すごくいい雰囲気だったわ」
「俺とK介はホモじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて、…なんか、こう…映画のワンシーンみたいだった…」
彼女はしどろもどろだった。彼女はグラスに三分の一ほど残っていたジンライムを一息に飲み、マスターにおかわりを注文した。
「それから?」
僕は、半ばからかい気味に言った。
「なんだか心に残っちゃって。…次の日にまたこの店に来て、あなたたちのことをマスターに聞いたの。…でもマスターはあなたたちのことはよく知らなかったみたい。…ううん、そうじゃないわ。…よく知ってるんだけど、あなたたちの素性は知らなかったみたいね。…きっと、あなたたちがそこまで言ってなかったんだと思う。…でも、どうしてもあなたたちのことが知りたかった。…そんな時、あの喫茶店で求人広告を見て、ちょうど仕事を探していたから、隣りの二階の事務所に行ってみたの。…そうしたら偶然にも、…これは本当に偶然だったわ。…あなたとK介さんだった。…あの時は本当に驚いたし、うれしかった。…私、あなたたちに憧れてたみたい」 彼女はグラスを見たり、僕を見たり、棚に並んでいるウイスキーを見たりして、とぎれとぎれに話した。
「憧れか。…俺たちも随分カッコ良く見られたんだな」
僕は満更でもなかった。むしろ、なにかを期待しているのかもしれない。
「実際、素敵だったわ二人とも」
彼女は思い出すように言った。
「俺とK介とどっちがカッコ良かった?」
「二人ともよ」
「どっちだよ」
「……」
彼女はグラスを見た。
「まぁ、いいけどさ…」
僕は缶ビールをあおった。
「あなたのほうが素敵だった…」
僕は危うくビールを吹き出しそうになるのを抑えて、彼女を見てドキリとした。彼女の視線は期待以上だった。
僕はその期待に応えて良いものかどうか、一瞬迷った。しかし、すぐに迷いは消えた。
「K介はいい奴なんだ」
僕はわざとらしく遠い目をして言った。彼女はえっ、というような顔をして、手に持っていたグラスをコースターの上に戻した。
「あいつ、君のことが好きになりそうなんだ…」
彼女は俯いてしまった。しかし、僕は構わずに続けた。
「あいつ、二カ月くらい前に女に振られてね。…あいつ、その女のこと凄く愛してた。真面目に結婚まで考えていたよ。…だからあいつ、あの女のことは当分諦められないって言った。…でも最近、君のことが気になり出してきた。…だから、余計に独りになった淋しさを感じてきた。…でも、あの女のことを諦められないって言った以上、なかなか君のことに心が踏み込めない。…君を本気で好きになってしまったら、あの女のことは嘘になったしまうんじゃないかと、K介が思ってるんだと、俺は思うんだ」
だから…、と僕が言い終る前に、女の子はスツールから立ち上がり、店から出て行った。女の子の目に涙が光っていたような気がした。
僕は仕方なく三本目の缶ビールをマスターに注文した。
外は、まだ小雨が煙のように舞っているのだろうか。
翌日、女の子は事務所に来なかった。
「無断欠勤なんて初めてだなぁ」
K介は心配そうに言った。
「あぁ、そうだな…」
僕は昨夜のことを考えると、女の子はもうここへは来ないと思った。
★ ☆ ★ ☆
案の定、三日過ぎても女の子は事務所に来なかった。
「俺ちょっと彼女のアパートまで行ってみるよ」
と言って、K介は昼頃に事務所を出て行った。
お前もいっしょに行くか、とK介は言ったけれども、僕は仕事を理由に断った。僕が彼女のアパートに、K介といっしょに行けるわけがなかった。
外はどんよりと曇っていた。女の子はアパートにはいないような気がした。
僕は、自分で日本茶を入れて飲んだ。そして、窓の外を見ながら二か月後のことを想像してみた。なんとなく、ただ漠然と考えてみたが何も思い浮かばなかった。
完
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