どの好きなのかな?
「秋」
名を呼ばれ、引寄せられた。
暖かい。
最初に思ったのはそれだけ。
「彼」のコート包まれて外気から守られ、切られるような冷たさから解放された。
その眼差しの熱さにも、抱きしめられた力強さにも疑問を持たなかった。
「秋。好きだ」
耳元で囁かれ、唇に触れられて、私はやっと異常なことに気がついた。
「な、なんで?!」
両手で力一杯押し返し、「彼」を見上げる。
「ごめん。秋」
冗談だと笑うこともなく、兄は目を伏せ、私に背中を見せた。
「……帰ろう。母さん達が心配してる」
振り返ることもなく、そう言って「彼」は歩き出した。
いつもなら歩調を私に合わせてくれるのに、その時だけ違っていた。
遠くなっていく背中。
見失うのが怖くて必死に追いかけた。
でも、何故か追いつけない。
――夢だ!
自分の声で目が覚めた。
そう、本当は追いついた。
でも声をかけれなくて、そのまま「彼」――兄の後ろについて家に戻った。
翌日、兄は家を出ていった。
それから3年、私は兄に会っていない。
あれは18歳のクリスマスイブ。
初めてできた彼氏との。
11時までには帰ると約束したのに、彼は私を返してくれなかった。
優しかった彼氏が急変して、ホテルに連れて行かれそうになって、揉めてるうちに兄が来た。
彼氏を殴りつけると強引に私の腕を引いて歩いた。
「お兄ちゃん、痛いってば」
両足をアスファルトの歩道で踏ん張って、抗議すると兄はやっと止まった。
「お前、何やってるんだよ」
腕を掴んだまま、兄は振り返った。
今まで見たことがない兄の表情。
「ごめんなさい……」
怒ってる、怒ってる表情。でもそうじゃないような。
兄が兄じゃない気がして、怖くなって謝った。
そしたら急に……。
兄に会わなくなって3年。
何度も見た夢。
何度も考えた。
兄は私が好きなんだ。
妹じゃなくて、異性として……。
出ていった兄。
兄の行方を聞かない私。
でもお母さんもお父さんも何も聞かない…………
なんで、どうして?
そんな思いを抱えながら、私は過ごし、兄が3年ぶりに戻ってきた。
私が大学3年生の夏、兄は女の人を連れてきた。
「秋ちゃん?よろしくね」
その人は、背が兄より少し低くて、でも顔がすごい小さくてお人形さんみたいな人だった。
兄はかっこいい。鳶が鷹を生む、まさにその例で、両親のどちらにも似ていないハンサムな人だった。
小さい時から兄がもてていたのを知っていたけど、彼女ができたことはなかった。
考えてみれば異常なことだったかもしれない。
だから、こうして彼女ができたのは喜ばしいはずだ。
ずっと家に帰ってこなかったのに、急に戻ってきて彼女を連れてくるということ。きっとそういうことだ。兄は結婚するのだ。
あの冬、兄と私の唇が重なった。
しかも好きって。
ずっと、兄は私のことが好きなんだと思っていた。
でも結局なんだったの?
それとも忘れてしまったの?
血の繋がった兄と妹、そんなこと異常なのに、私はどうしてもあの時に兄の顔、言葉、唇の感触が忘れられなかった。
そう夢に出てくるくらい。
なのに、兄は。
結局私は笑顔を作れず、泊まっていきなさいという両親の言葉を断って出て行く兄達を見送ることになった。
「秋ちゃん、またね」
綺麗な彼女の笑顔はとても素敵で、私はなんだか泣きそうになった。その隣の兄は、以前よりかっこよくなっていて、目を合わせられなかった。兄も、私と話そうともせず、こっちを見ることもなかった。
ぎこちない私達。
あのクリスマスイブの夜からずっとおかしい。
でも、もう、兄は戻ってこないのだ。
綺麗な彼女と結婚して、本当に家を出て行ってしまう。
3年間、家を空けていたので一緒かと言われればそうだけど、意味が全然違うように思えた。
兄は、私から遠いところに行ってしまう。
そう思うと急に悲しくなって、私は兄達を追いかけるように玄関に走る。だけど、兄達の姿はもう視界になかった。
玄関を出て、目を凝らして前方を見るけど、無駄だった。
「秋。涼兄帰ってたんだな。なんか彼女みたいのも一緒だったけど。本当に彼女なのか?」
代わりに姿を現したのは隣の腐れ縁の幼馴染、厚志だった。
「そうよ。結婚するみたい。その報告にきたみたい」
「みたいって。あの涼兄が!あの超絶シスコンの?」
「超絶ってどういう意味よ!シスコン、昔はそうだったかもしれないけど、今は全然違うから。私のことなんて全然見ないし、しかも話かけてもこなかった」
「あちゃー。涼兄、とうとうこじらせたか。やけになって、結婚。ありえねー!」
「なによ。それ。あんたには関係ないんだから!」
玄関先で厚志は近所迷惑になるのに騒いでいたけど、私は無視して家に戻った。
それから数日後、兄の彼女が家にやってきた。しかも私と二人で話したいと言われ、近くの喫茶店に入る。
「ねぇ。秋ちゃん。本当にお兄さん、もらっていいの?」
艶艶とした唇から発せられたのはその言葉で、息が止まるかと思った。
「も、もらうとか、兄は私のものじゃないので」
「そう?涼介はあなたのものになりたいみたいだったけど。秋ちゃん、21歳だったかしら。彼の部屋に置いてあったあなたの写真、何度もみたけど、実際の秋ちゃん、すごく綺麗になったわね。涼介が驚いて何も話せなくなる気持ち、わからなくもないわね」
彼女さんは驚いている私に構うことなく、話し続けた。
何、言ってるの?
兄が私のものになりたい?そんなわけない。っていうかそれはちょっとおかしい。
兄が驚いて何も話せなくなる、えっと黙っていたのはそういう理由?
でもだって。
「秋ちゃん。私、涼介と賭けをしてるの。もしあなたが涼介のこと、女として好きなら、諦めてあげるわよ。でも妹としてなら、私たちの結婚祝福してよね」
「彼女さん」
「秋ちゃん、私の名前覚えてないでしょ?北川百合香っていうの。百合香さんって呼んでね」
彼女さんじゃなくて、百合香さんは面白そうに微笑んだ。
ケーキセットをおごってもらい、私たちは別れた。
その賭けっていうのは、どういうことなんだろう。
女として好き?
ありえない。だって。兄は兄だ。
好きだけど、兄としてだ。
だけど、それなら、兄は百合香さんと結婚してしまう。それは嫌だ。遠くに行ってしまうのは嫌。
わがままだけど、そう考えてしまう。
1週間後、百合香さんが答えが聞きたいと、また訪ねてきた。
この前と同じ喫茶店で、同じメニューを頼む。
ティーバッグじゃない紅茶を飲んで、百合香さんに目を向けていると、彼女が微笑んだ。
「本当。可愛いわね。リスみたい。こんな妹できるなんて嬉しいわ」
「い、妹!まだ私はあなたの妹じゃありません!」
反射的にそう答えてしまい、お店がしんと静まり返ったのがわかった。恥ずかしくてこのまま消えてしまいたくなる。
「ごめん。そうよね。先走りすぎたわ。それで、答えは出たの?」
「兄は兄です。でも結婚はしてほしくない」
「何それ。兄だったらいいでしょ?私、いい姉さんになる自信あるわよ。すぐに姪っ子にも会わせてあげるわね」
「め、姪っ子?!」
「涼介と私の子、きっと天使のような子が生まれると思うの」
脳裏に二人がキスをするシーンが浮かんで、私は堪らなくなって、立ち上がってしまう。嫌だ。兄が。
だって、兄は。
「ごめんなさい。言いすぎたわ。秋ちゃん、自分の気持ち、認めなさいよ。普通は兄相手にそんな風に動揺したりしないわよ。涼介、出てきてよ。私の負け。秋ちゃんに告白でもしたら?どうせ、まだ血が繋がってないことも話してないんでしょ?」
え?どういうこと?
百合香さんがそう言うと、兄が姿を現した。どうやら店の人もぐるっだったみたい。キッチンから、なぜか制服を着た兄が出てきた。兄はなんでも似合うから、違和感がない。
「秋」
「はいはい。固まらないの。もう本当……涼介って、秋ちゃんの前ではダメだわ。でも助けてあげない。自分で解決しなさいよ」
百合香さんは豪快に兄の肩を叩くと、店内から出て行こうとする。
「百合香さん!」
「秋ちゃん。私、女の子も好きだから、涼介が嫌になったら、私の胸に飛び込んできてもいいから」
「え?」
な、なんて?
「百合香!」
「ああ、怖い。退散しますよ。お邪魔虫は」
百合香さんは手を軽く振ると本当に店から出て行ってしまった。
「あの、お兄ちゃん」
「秋。座って。話を聞いてほしいんだ」
兄は少し照れたように笑って、久しぶりに私を見てくれた。
3年ぶりだ。
じっと見ていると、兄がふいっと横を向く。
「お兄ちゃん」
「そんなに見るな。照れる。それでさえ、すごく綺麗になって困っているのに」
兄は本当に照れているらしく、口を押さえて、横を向いたまま。微かに耳が赤くなっている気がする。
そんなに照れられるとこっちまで恥ずかしくなる。
二人してなんだか、だんまりしていると、やっと兄がこっちを向いた。
「秋。実は俺は養子なんだ。だから、俺はお前の兄じゃない」
「お兄ちゃん……」
それはちょっと悲しい。
兄じゃないって。だって、
兄は困った顔をしていた。
でも何か決意したように表情を改めると、私を真っ直ぐ見つめる。
その視線は、あの、3年前の兄の視線を重なり、逃げたくなる。
「秋。逃げないで聞いてくれ。俺は兄じゃない。やっぱり嫌か?でも俺は兄以上にお前を大切にしてきたつもりだ。それは今は変わらない。養子ってわかってから、もう俺はお前の兄になれなかった。成長していくお前が眩しくて、誰にも渡したくなかった。だから」
それは、あの3年前のクリスマスのときだ。
「俺は、お前に男として思われているって期待してもいいのか?」
兄は私の返事を待っているようだった。
わからない。
そんなの、でも兄とずっと一緒にいたいのは確かだ。3年離れてとても寂しかった。
「期待する。勝手に」
そう言うと兄は私の頬に口付ける。
「お兄ちゃん!」
「まずはお兄ちゃんって呼ぶのは無しだ。涼介って呼んでくれ」
無理、無理だよ。
そんなこと。
兄は兄、だけど、誰にもとれらたくなくて。
結局、両親は兄の思いに気がついていて、私が同意するのだったら、付き合うことを許すと決めていたみたい。
私だけ知らなかった。
百合香さんが彼女じゃないっていうのも、両親は知っていたらしい。
なんか悔しい!
みんなに騙されていたみたいで悔しかったけど、数日後、私と兄は、兄妹から彼氏と彼女になった。