第1節 消え失せた足跡 その14
太陽が二人の真上までのぼりつめてみて、初めてはっきりと認識できたのだが、今日は雲ひとつない快晴だった。先日までの激しい雨が嘘のようだった。暗くたちこめていた分厚い雨雲たちはどこへ消え去ったのだろうか。サイズの森の空を覆う木の葉の屋根を突き抜けて、幾千もの光の矢が地表に舞い降りて、二人の身体を容赦なく照りつけた。地図を見ると、カスケットへの道は主要な大通りと小道の二つに分岐していて、どちらを通ってもさほどの時間差はなく到着出来そうだった。地図上には不器用な筆跡でいくつもの確認のサインが入っていた。先にこの地図を使用していた例の商人たちも、この森をどう進めば危険な事態に遭遇せずに、安全に湿地帯まで辿りつけるのか、迷っていたことは確かだった。大きな道と小道、問題はどちらの道が安全かということだった。二人はしばらく地図と向かい合っていたが、ここはケークの判断で小道の方を選んだ。
「盗賊たちも大きな道を張っているかもしれないが、それより怖いのは不良兵士の一団だ。南軍の寄せ集めどもに道を塞がれていたら厄介なことになるからな。下手すると身ぐるみ剥がされてしまうぞ」
ホーチスは南軍の兵士は味方だろうと言い返してやりたかったが、ここは今まで長期にわたって、この森で生き延びてきたというケークの考えに従って、黙って彼の後に続いた。倒木や小川をうまく避けながら、あるいは道具をうまく使って乗り越えながら険しい道を真っ直ぐに進むと、やがて白色の小さな建物が見えた。長年、風雨に晒されてきたその壁は、茶色に変色していた。そして、森の中から敷地内まで浸食してきた熱帯植物の蔦がまとわりついていて、ケークの目にはひどく見苦しく見えた。その周りをぼろをまとった民衆が幾重にも取り囲んでいるように見えた。
これだけ離れた位置からでも、彼らのつんざくような叫び声が届いてきて、そこには、よほど多くの人が集まっていることがわかった。ふたりが近づいていくと、そこには小さな礼拝堂であることが分かった。入口の石畳の上で、小太りの神父が一人で右手に持ったロザリオを振り回し、空に向かって熱心に祈りを捧げていて、その周りを汚い恰好をした難民たちが取り囲んで、両手を天に向かって振りかざしながら、口々に何か神への要求を口走っていた。
「神父様、この子に聖水をかけてやって下さい! もう三日も何も食べていないんです! かわいそうに……、すっかりやせ細ってしまって……、神のご加護がなければ、このまま死んでしまいます、どうか……」
一人の女が発狂したかのようにそう叫んで神父の足元にしがみついたが、それを見て他の多くの難民も神父の法衣を掴んで、我先に願望を叶えようと身勝手に自分の願い事を口走った。食料を求める者、少しの金銭の恵みを要求する者、この地方からの安全な逃げ道を聞き出そうとする者、すでに生をあきらめ、あの世での安閑を求めようとする者と要求は様々だった。
神父は自分の口上を述べる前に、あっという間に十数人の難民に纏わり付かれてしまい、とてもじゃないが全員の話をまともに聞くことはできない様子で、本人もかなりの混乱があるのか、ただ瞑想したままロザリオを振り回し、「間もなく、大空の彼方から光の渦に囲まれて神が降臨されます。皆様に約束しましょう。必ずです。それまで皆で祈りましょう。神が無法な戦いを終わらせ、地上に再びの平和を下さいます」と汗びっしょりになって叫び続けながら、市民たちの混乱をなんとか収めようとしていたが、カスケットで盗賊や気が狂った兵士の暴行などを見てきて、それから必死に逃げてきた難民たちはすっかり取り乱していて、法衣を破くような勢いで神父の裾に乱暴にしがみつき、その身体を右へ左へと振りまわし、「金をくれ、パンをくれ」と、自分の要求を必死に口走るだけで、彼の言葉をまともに聞いている者はいなかった。
もはや、この神父に誰の願いも叶える力はなかった。彼とてこの戦争の被災者の一人なのだ。難民は各々が数十日前の平和だった自分の生活を返してくれと、ただせがむだけで、全ての人が全てのものを失った、この戦乱の中では、それはすでに叶えられない願いになっていたのだが、土地や財産、家畜や仕事道具、家族の命など、自分が失ったものを諦めきれない人間たちは、普段は露ほども信じていない神へ、あの頃へと時間を戻してくれと、頼みにくる他はなかったのだ。
「ほら見ろよ、神様も大変なんだよ。大勢の負け犬たちの無茶な願いを聞かないといけないからな」
ケークは礼拝堂前の異様な様子を見て、笑い出すのをなんとかこらえながら、無責任にそんなことを言った。
「平和な世では、一生懸命説教をしても、信仰の薄い民衆は何も言わず目の前を通り過ぎていくだけで、教会になんてなかなか立ち寄ってくれないのに、ひとたび戦乱が起きると、物を恵んでくれってあんなに大勢で押し寄せてくるんだから、神父も楽な商売じゃないよ。自分たちが何もできない、ただの人間であることを早く証明して見せないと、難民どもに身ぐるみ剥がされてしまうぞ」
「笑うのは誰だ!」
その声を聞いて、神父を取り囲んでいた数人が一斉に振り返った。
「俺達の姿を見て笑ってる奴がいるのか? なんて不謹慎な野郎だ!」
「笑ってる人は誰? 今はみんなで大粒の涙をこぼして、神様に降臨を願い、祈る時ですよ。自分の立場を履き違えては駄目です」
ついに群集の中からそんな声が聞こえて出して、ケークへの不快感が次から次へと伝染していき、多くの興味の目が彼ら二人にそそがれた。それでもケークは平然としていた。ここまで追い詰められてから、ようやく神に祈りだす人間たちの姿がおかしくて仕方がない様子だった。民衆は彼のそんな不遜な態度を見て、自分たちに何の利益ももたらさない、通りすがりの人間だとわかると、すぐに目を背けた。この頃のケークやホーチスの格好は名の知れた剣士とはとても思えないような、大衆のそれとさほど変わらないものであったから、二人を必要以上に警戒する者はいなかったのだ。
「すいません、僕らはただの旅人です。カスケットへ向かう途中で通り掛かっただけなのです」
ホーチスはこの場の雑然とした空気に飲まれてしまい、申し訳なさそうにそう言った。本当は頭を下げる必要などなかったのだが、彼は困っている人間には精一杯の配慮をしなければいけないという平常時の発想にここでも囚われていたのだ。
「この森を旅しているだって? この森の住民は心を犯された奴ばかりだ! みんな、他人を殺してでも生き残ればいいと思い込んでいる。歩き回っているうちに、霊魔にとり憑かれてしまう人間までいるんだ! 今生き残っている人間で、一人だってまともな奴はいないんだ。おまえたちはすでに悪魔だ!」
「そうだ! こいつらは悪魔だ! すでに目が荒んでいる! ここに来るまでに何人の人間をその手にかけてきたんだ!」
再び難民の誰かがそう叫んで、その場に不穏な空気が流れた。神父の目線が一度こちらへ注がれたが、二人をかばうような余裕は全くなさそうで、事実、真っ青な顔をして数回頷いただけで、彼の口から助け舟になるような言葉は出て来なかった。まるで、一番窮地にいるのはこの神父のようにさえ思えた。数人の男たちが二人の周りを取り囲んで、行き先を塞ごうとしたが、ケークが腰の剣へと手をやると、すぐに二人の包囲を解いた。あわよくば、少しの煽り文句だけで食料を脅し取ってやろうと思っただけで、傭兵と本気で斬り合う気は最初からなかったのだ。ほとんどの群衆の視線は、すでに興味を無くしたように、二人から外れていた。
「あなたがたは何の用事があってこの道を進まれるのですか?」
その安っぽい神父は、難民に囲まれた態勢のままでそう尋ねてきた。教会が世間の人々に対していつもひけらかしている慈愛からではなく、自分の背中にしょい込んだ重い義務に後押しされて出てきた言葉らしかった。
「我々は南軍の兵士です。これから、このサイズを横切って、カスケットに入ろうと思うのですが、この道はそこまで通じていますか?」
「馬鹿なことを言うのはおやめなさい。カスケットに向かうですって? あそこは悪魔の巣です。病んだ人間たちの住家です。今からでも、安全な地方まで引き換えした方が、どれだけあなたたちのためになるかわかりませんぞ」
牧師はいくぶん興奮したように声を張り上げ、ケークたちの行動を諌めようとした。しかし、彼らは行く道はすでに決まっているといったふうで、牧師の言葉をまともに受け止めることはなかった。
「もう一度いいます。引き換えしなさい。湿地では飢えた人間たちが、あなたたちのふところを狙って襲いくるでしょう。食料への欲求は人間の脳を狂わせる。消えかかった生への欲望からは誰も逃げられないのです。ここにいる民衆たちのように、逃げ惑ううちに心を失い、悪鬼にとり憑かれても知りませんぞ!」
ケークはそれを聞いても、まだ薄笑いを浮かべていたが、木と木の隙間から微かに見える雄大な山脈を指差し、神父のそんなちんけな言葉を、真っ青な空の彼方に軽く吹き流すように呟いた。
「ずいぶん距離が近くなってきました。サウスヴィクスはずいぶん暑そうですな」
彼は死地に到着することを楽しみにしていた。そこに待つのは自軍の敗北か、我が身の破滅か、それがどんな悲惨な結果であれ、彼の望み通りだったからだ。二人は狂乱する群集たちをその場に置き去りにして、森の出口へ、カスケットを目指してさらに歩みを進めた。ホーチスは群衆の中の数人が、ケークの言葉に気を悪くして凶器を持って追いかけてくるのではないかとさえ思ったが、後方からは誰も迫って来なかった。それでも彼は神経質な臆病者のように何度も振り返った。この陰湿な森の中では心に貯まった不安はなかなか消えなかった。ふたりはそれだけの体験をしてきたのだ。一瞬ふたつの黒い影が前方の道を横切るのが見えた気がしたが、次の瞬間には消えていた。今のはきっと幻覚だ。
「あと数時間もすれば、あの汚い群衆の混乱が頂点に達して、神父を殴り殺してしまうか、あるいは神父が先に発狂して、銀のロザリオを武器にして群衆に襲いかかるか、どっちかさ」
ケークは先ほどの出来事を、さらに嘲り笑うようにそう言った。
「だからこの森は嫌なんだよ。こんな痛ましい光景ばかり見せられてしまってさ。こういう困難な時こそ、どうしてみんなで協力できないのだろうか? 後方から南軍の戦いを支援するにしろ、食料を自給して分け合うにしろ、その方がずいぶん気持ちが救われるはずなのに。あんなふうに感情をぶつけ合ってどうするんだ? 今の状況に苦しんでいるのは、誰もが一緒のはずなのに……」
ケークは考え深げに少しうつむいていたが、それに答えなかった。
★『我々が彼らと同じ立場だったらどうする?』
『武器も技術も家族も金も食料もない状態に置かれたら、どうする?』
『知人友人を殺さねばならぬところまで、飢えに苦しめられたらどうする?』
『自分は大人しく死ねるだろうか? 自分は誰にも金品や食料を求めずに死ねるだろうか?』
心中の深いところで、誰かにそう問いかけられた気がした。
この緊迫した事態に関しては、どんな行動を取ったところで、どんな態度を示したところで、どんな正論を並べたところで、自分と関わりのない他の人間を助ける気がしないのは、ふたりも一緒だったからだ。
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(コルトガルド城の地下書庫の壁に刻まれた、とある狂人の手記)
歩く……、躍る……、笑う……、食べる……、泣き出す……、抱かれる……、怒るふりをする……、楽しそうに話す……、誰にでも微笑む……、逃げていく……、誘う……、驚く……、ああ、私などが言うまでもなく、貴女は可憐で美しい……。貴女は麗しい。貴女は自分に関係しているすべての人に幸福を与える。貴女が微笑めば、誰もがつられて笑顔になる。その視界に入るものすべてを、その魅力で抱きしめる。まるで女神のように。
人の一生には避けられず絶頂期と陰りがあるが、貴女の評判はいつになっても高みのままだ。少なくとも私にはそう見える。貴女の名前は永遠に受け継がれる。幾千万の大衆によって永遠に語り継がれる。人々の心に生き続ける特別な存在。私は貴女の傍に行けるような身分ではないが、もし、この声が届くほど貴女の身体に寄れたなら、このように尋ねてみたい。
「貴女は今、本当に幸せですか?」
窓の外を孤独に眺めながら、私はいつもそんなことを夢想しているのだ……。いったい、どのような返事が返ってくるだろう……。もし、貴方が悲嘆にくれれば、この大都市の大衆の多くがうつむき、涙を浮かべるだろう。貴女を失えば、この世界全体が突然色を失う。コルトガルドが存在価値を失う。この世界に広く満ち溢れていた幸福のすべてが瞬時に消え失せる。この宝石箱のような大都市の価値のすべてがまったく意味のないものになるのだ。
しかし、おぞましいことにあなたを失うという絶望と悲劇を待ち望んでいる者たちがいるのだ。彼らは今(これは私のいる今だが)、あの呪われた暗黒の森の中に潜んで、その時が訪れるのを今か今かと待ち続け、残酷な策を練りつつ、ほくそ笑んでいる。ああ、それを跳ね除ける力はこの腕にはない。ちっぽけなこの私に、いったい、どれほどのことができるだろう。この弱い私には、貴女と同じように、その時が来ることをただ恐れ、脅えて暮らすことしかできない。それが権力を持たぬ、弱い人間の本性だ。
ああ、もし、この分厚い万能なる本と同じように、時代を瞬時に飛び越えることができたなら……、貴女が唯一犯した、過去の些細な過ちを修正しにいくことができるかもしれないが……、そう、今からでは、貴女の身を絶望と失脚から救うことはできない。貴女は身動き一つできない人形のように、黄泉の悪魔たちの鋭い爪にそのか細い身を握られている。
現生においては、無数に存在する貴女の頼もしい味方も、『その時代』になると、誰も存在しなくなる。失礼を承知の上で話すならば、貴女はいつしか孤独な存在になるのだ。貴女は時代そのものからの処断を受けるためだけに、孤独に存在する……。あのような血みどろの戦乱の結末においては、大きな犠牲と清算が必要なのだ。汚れた未来の支配者たちが、未来を修正せんがために、貴女の貴重で美しい命を欲しているのだ。首尾よく未来を反転させた者たちは高笑いをする。
もはや、貴女を救うことはどんな人間にもできない。処刑の刃はその首筋に迫ってくる。私は確かに未来を見た。あの本の内には、この世のすべてが記載されている。私はそこで地獄を見た。そして、時空を歪める悪魔の存在を感じた。多くの仲間たちに「おまえは狂っている」と言われ続けてきた。その通り、私の脳はすっかり狂ってしまった。過剰なる知識と幻覚を繰り返し見せられて、私の意識はおかしくなってしまった。私は貴女を愛しているが、あるいは、その死を望んでいるのかもしれない。これ以上、私からかけられる言葉はない。さらばだ、十字架上の女神よ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。更新は早くありませんが、できれば、これからも読んでやってください。他に短編作品もいくつか掲載してありますので、ぜひ、そちらもご覧下さい。よろしくお願いします。




