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ブランニージュ  作者: つっちーfrom千葉
第一章 グリパニアの侵攻
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第1節 消え失せた足跡 その8 A


 ふたりの身を守り得る唯一の武器は、とりあえずホーチスという男に持たせて、彼を先行させることにした。彼はその背後を慎重に追っていく。篠をつく雨のために、幾つか備えていた松明はまるで役に立たない。前方の暗闇には、数百種類に及ぶシダがつくる森が拡がる。前を進む細身の男の背中はひどく頼りないものに見えた。自分を本当に現地まで案内できる人物なのか、また、そのことが事実に沿ったことなのか、すっかり霞む現在の記憶では、まるで自信が持てなかった。先ほど、愚にもつかない討論をしたせいか、敗北者ではない、別の自分となれた気もした。そうしたくなどなかったが、彼は案内人との距離を数歩詰めて、脇の茂みから何かが飛び出して来たなら、いつでも、かばってやれる態勢をとることにした。美しく澄んでいるはずの小川は、漆黒の夜においては大きな障害となった。激しい雨により水かさはずいぶん増している。どちらかひとりでも深みに足を取られれば、助かる手段はほとんどなく、自分が復讐を胸に、目的地にたどり着ける可能性についても、失われてしまうと考えていた。ただ、戦場において、背後から不意に突かれる武器の穂先や、毒のしみた矢尻に命を絶たれるよりは、ずいぶん、諦めのつく死に方だと思った。戦いにおける恐怖に対するあらゆる感覚を失ったはずのこの男の内面にも、約ひと月ほど前に味わった危機感が蘇ってきた。強敵を前に戦意を失い、相手に背を向けての逃走という、軍人にあるまじき行為を働いたあの夜も、心的外傷は遥かに大きいが、今回と似たような感覚を味わったはずだ。「どんなにひどい敗退も、受け入れがたい恥辱も、裏切り行為も、それを記憶している人間が自分だけであるなら、さしたる問題ではない」と言い切れるほどの人物がもし存在したなら、それは、よほど人間離れした卑怯者でなければ、天性の悪人といえる。自分の犯してしまった卑劣な行為を忘却の壁の向こう側に押しやることで、無罪放免が勝ち取れるのならば、彼はありとあらゆる世俗から見放され、つま弾きにされるほどの悪人になることも厭わなかったろう。しかし、今のところは、記憶にこびりついている余計なしがらみを何とか捨て去りたいというささやかな願いは叶えられていない。それどころか、もっとも、深い亀裂となって、彼の心に刻まれてしまっていた。


 頭上の蝙蝠たちによる騒ぎ声に、巨木の枝をを傘代わりにして、雨から身を隠す、羽虫たちの飛び交う音に、ようやく、意識を取り戻した。前を行く男が果して何者なのか、未だに思い出せない。彼は大戦が開始される数年も前から、グリパニア領内で散々されていた陰謀を、ハノンの首脳部が握っていた秘密を、そして、わずか一か月前にこの自分が北部の地帯でどんな作戦に従事していたのか、そして、勇気ある参加者たちはどんな結末を迎えたのか、それらを知らないから、こちらに背を向け、何の躊躇もなく進んでいく。まだ、戦場の様々な汚物や死の灰や目を覆う幻影たちを背負わされたことがないので、あのようなふてぶてしい行為も当然なのである。もっとも厳しい戦場では(そもそもの初めは、誰もそんなことを思いもしないだろうが)、戦闘開始直後に、隊員の中でもっとも最初に死ねることは最高の幸せのひとつとされている。最悪の苦悩と、できもしない数々の選択を何度も突きつけられて、結局は何年も彷徨い歩いた挙句、最期は敵兵に捕えられて八つ裂きにされることを思えば、積み重なる不安と精神的苦痛を何も知らずに死ねることは僥倖といえる。自分の場合はその苦難の道を長く生きることになる。この先は、時々、傷口を呼び覚ます死人たちの囁きに脅えながら、最高の死に方と、最悪の生き方を常に比較しながら生きていくしかない。「卑劣な裏切りにより、大勢の仲間が無惨な形で命を落とす羽目になった」この戦争の忘れようもない体験を、周囲にはそう語りながら生きていくわけだが、できれば他人のものとしたいその体験談は、残念ながら、自分の行為である。新しい経験が得られれば、記憶は上塗りされ、罪の意識は徐々に消えていく。悪しき記憶が薄まれば、自分は煉獄の炎から救われて解放される。十分あり得ることだ。偉そうな坊さんならそう教える。ことによると、それは明日にでも我が身に訪れるかもしれない。僅かでも、そういう期待があったからこそ、彼はこの先も深い心傷トラウマと戦い続けた。この時点から実に十五年後、帝都の一室において、多くの従者に取り囲まれながら、完全に肥大した黒い意識に徹底的に抵抗するものの、結局はそれに敗れ、哀れにも狂い死にするまで、彼はこうした淡い期待を永らく自分の胸に秘め続けていたのである。


 おそらくは、日付が変わるか、変わらぬかといった頃合いだったが、広大な森林の中央辺りから南西方面にかけて、真っ黒な雲の合間から、轟音とともに巨大な光の柱が次々と落とされてきた。その直後、天候はさらに悪化する。凄まじい電光は、およそ十数秒に一度ほどの割合で、この地域一帯のそこかしこに容赦なく落とされるようになった。地面を揺るがすような轟音は、懸命に腕を振るふたりにとって、それほどの脅威にはならなかった。すでに数時間も前から、滝のように顔面を流れくる水音に耳がすっかり慣らされていて、衝撃音のほとんどはその膜の外側でしか響いていないのだった。あらゆる生物がおそらくは自分たちの敵方であり、それらに対する強い警戒心を備えていたことも、この猛烈な稲光をさして気にも留めずに、歩む速度も緩めずにいられた要因のひとつであった。それどころか、この強烈な雷光は、すぐ近くの木々や大地に落ちてそれらを粉々に破壊するたびに、その一瞬のみ、昼間のような明るさを周囲にもたらした。その輝きは、自分たちの行く先に、巨大な倒木や岩石が折り重なり、確実な障害になっていることを示してくれていた。


「天候はどんどん悪くなりますね。出てくるときは、考えもしなかったが」


 前を行く男が一度振り返って、意味もない言葉をそう叫んだのが分かった。周囲の異常な状況に神経が麻痺して、上手く反応することはできなかった。命がけの航路をさらに進んだ先で、彼はもう一度振り返り、さらに混乱を深めたような顔で、また、口を大きく開いたことを覚えているが、どういう言葉を語ったのかは、まるで、聴き取れなかった。その表情から憶測するしかないが「まだ、生きていられるのが、不思議でしょうがないよ」という言葉ではないだろうかと推測した。雷音はどんどんと激しさを増していき、ついには、自分のすぐ頭上でこの命を終らせるべく炸裂する爆発音のように感じられてきた。それは、最大級の雷雲が、おそらくは、自分たちのちょうど真上に差しかかっていることを意味していた。いずれにせよ、命に関わる危険は確実に迫っていた。だが、ケークはその現実離れした情景の中に、自分が望んで探していた光景をようやく見つけ出した。


 もう十度目ほどか、それとも、十二度目だろうか、強烈な雷音に全身を震わされたとき、ふと、ひとつの黒い人影が、ふたりとまさにすれ違う形で(相手も焦りで何度も足を滑らせていたが)、南方へと下っていくのが見えた。それは、最悪の状況にあるが、何とか乗り越えて生き延びようと懸命に走る姿。その強ばった表情には、まだ、この先の未来で何度も味合わされるであろう苦難、それは、戦いに敗れ、敵兵に惨殺される以上に辛い、失望と虚無の色はまだ伺えないのである。件の腐った連中のいたバンガローにおいて、無為な時間を過ごしたときの自分には到底知り得なかったことだが、その男は激しく泣いていた。一般兵として、初めて参加した戦場において、初めて与えられた役目をろくに果たせずに、我が身ひとつでおめおめと逃げ延びてきた姿であった。


「こんなとんでもない天候では、どんな悪人も我が身の心配だけで精いっぱい。他人を襲おうだなんて思わない。みんな、安全な建物や洞窟の中に避難しているところだろう。つまり、これは天啓なんだ。俺たちはずいぶん恵まれているわけだ」


 この状況を無事に乗り越えたなら、前の男にそう話しかけてやろうかと考えたこともあったが、その思いは結局果たされることはなかった。年月の経過や荒天に負けて打ち倒された木々、戦争を恐れて何処かへと逃れていった百姓たちに見捨てられた痩せた土地にある果物畑、その過程で殺されたと思われる家畜たち。彼はそのどれにも心当たりはなく、目にしたこともないはずだった。すなわち、自分の通ったことのない初めての時空間の中にいるはずなのだ。それにも関わらず、ケークは先ほど目にした弱い男が、あの夜、仲間のすべてを見捨てて、敵兵の手からかろうじて逃れてきた自分の姿だと見抜いていた。その男が我が身をすり抜けていったとき、過去の一部を再び思い起こすことになった。彼の恐怖はよく分かるものだった。彼の涙や恥辱は自分も体験したことのあるものだった。彼の口が未来に発するであろう強がりや弱音は、自らのくだらない言い分のひとつとなるはずだった。南方へと駆けていったかの男は、もちろん、過去の自分の姿であった。今宵の雷雨の恐怖と一抹の期待とが、あの夜を幻覚として呼び戻し、過去の自分という救いようのない存在を、この地に蘇らせたのであった。彼はその負け犬の存在を嫌悪した。この先の人生がどう展開したとしても、その負け犬は時折、彼のすぐ真横にその姿を現すであろうし、それを吹き消そうとしても、対応策は存在しないのだから。ケークはそのもっとも忌まわしい存在から、逃れることも、乗り越えることもできぬことを悟っていた。たったひとつではあったが、この苦しい過去の事実は、医療の進歩や呪術や魔法などにより消し去ることができないどころか、太陽が昇るごとに、月の輝くごとに、よりいっそう、大きな影となるまでに成長して、やがては、自分の存在すら喰い殺してしまうこともよく知っていた。この先も長く生きられると乱暴な仮定をすれば、その影は次々と重なっていき、何らかの恨みをもって、自分の首を絞めようとする怨念たちの手の本数も、それに伴って増えるのみである。自分が死ぬときは、この世の誰よりも苦しみ抜き、苦悶に満ちた状態に陥ることを、この頃にはすでに知っていた。常に平静にあれと努めるのは当然としても、巨大な権力を手にした後も、いっこうに解決できない問題を抱えていくことは、大きな精神的苦痛になった。


 夜半過ぎになっても雨は弱まる気配はなかったが、雷は峠を越したように思えた。ホーチスはなるべく水のあたらない場所を探しだして、そこでしばしの休息をとることにした。


「だいぶ、戦地に近づいてきた。今度の戦闘に参加する心構えもできてきた頃合いだ。そろそろ、君の素性について尋ねてもいいかな。いったい、どの地方で育ちどこで剣術を学んだ何者であるのか、そして、戦時中のこの大変な時期に、どうして、この危険な森にわざわざ侵入してきたのかを。質問はもうひとつある。この危険な場所に長くいるらしいが、これまで、どうやって生き延びてきたのか、ということを」


 これから戦場へ案内する立場からすれば、この複数の問いかけは、しごく当然のものだった。ケークのいう人間の素性を知らなければ、危険を伴う長い道中を、これから共に進んでいく上で、心から信頼することはできないからだ。この森を西側に抜けた、カスケットという広大な湿地帯において、他の隊員と集合する思惑らしいのだが、部隊の同志とうまく出会えたとしても、その誰にも疑いを持たれずに、彼の身上を紹介することは難しいだろう。しかし、この当たり前に思える質問でも、ケークの興味を引くことはできなかった。彼はその冷徹な表情を、寸分も変えることなく、先ほどの一瞬の戦闘で付けられた、上着の血糊をしきりに気にしていて、懐からぼろ布を取り出して、何度もぬぐっていた。


「さあ、俺としても、それを思い出そうと、あの汚らしい兵舎から抜け出すことにしたわけだ。あんたに着いて行きさえすれば……、もう一度……、いや、ただの直感だったのかもしれないが。いや、待ってくれ……。実際は、どうなんだろう……。もしかすると、この森に漂う空気を吸っていれば、今まで歩んできた記憶の断片を、少しでも思い出せるかもと……。しかし、明確な目的のある君にとってみれば、迷惑な話だったかな……」


 その回答はすべてが曖昧だった。ホーチスは彼の取り澄ました態度から、取り敢えず、嘘を言ってるようには見えなかった。それと同時に、この男が本当に味方となってくれるのであれば、入隊する動機については、さほど重要ではないとも考えた。あの優れた剣技を持つ兵士を、この森を抜けられるよう無事に案内することができれば、カスケットで待つ仲間たちも、必ずや、大手を振って迎えてくれるのではないだろうかとも考えた。しかし、バンガローにおいて、ケークの行状を語っていた連中の、恐怖で引きつったような表情と、いくつかの不自然な反応を忘れることはできなかった。あの惨めな敗残兵たちの証言のとおり、この男が本当に冷酷な殺人鬼であるならば、先ほどの戦いにおいて、自分の命が救われたという、たったひとつの事実だけでは、心からの信頼を与えることはできなかった。


「君はこの数週間、森で何をしてたんだい? さっきの薄汚れた連中は、なぜか君のことを知っていて……、この森で起きた幾つかの凶悪事件について、君の手によって行われた犯罪ではないかと勘ぐっていた。どれも、たったひとりでやれそうなことじゃない。事実とすれば……、それは、ずいぶん奇妙なことに思えるのだが……。南軍の兵士たちと盗賊団とを同時に惨殺したとか、大した理由もなく、平民を襲ったとか……」


 だが、ケークはその話に興味は示さず、すでに、数歩前へと進んでいた。それに真摯に応えてやるとして、果たして、それが何になるのだろう? 奴はそれ以上何を知りたいのだろう? 知っても、疑いを持っても、改心を促しても、自首を薦めても、あらゆる平民や部族や森の動物たちや、浮浪者や落伍者たちのために、それらの行為が有効に働いた時間軸は、とっくに過ぎ去っているのである。「お前の存在は疑わしい」ということに、ケークが反駁することによって起こり得るすべての結末は、ふたりにとって、まるで無意味なものに思えた。南部の各都市の防衛のために、これから勇敢にも戦地へ赴くのだという、雑軍部隊のためではなく、自分を屈辱から救うための何かを取り戻すために、目に見えぬ意志に従って動いているという建前にみえたが、彼としては、それ以上を語る気はなかった。


「さっき、一度剣を振ったら、その反動で、最近行ってきたことをだいぶ思い出してきた……。もう一月は、この付近を彷徨っている気がする。この森はきわめて広大で逃げ道が多いように思いがちだが、そうではなく、悪意をもつ存在から常に見張られている。相手にとって少しでも有益になるものを、自分が所持しているという、ただ一点において、そうした連中から命をつけ狙われている。襲ってきた輩を片付けても、平穏など得られず、何も解決はしないが、次の対策を立てるための時間的な猶予は得られる。敵方に少しでも隙があるなら、金銭と食料を逆に奪ってやれる。そういうことを延々と繰り返して……、どうすれば、自分の立場が他より優位になるかを考えていく。どこかで判断を誤っても、決闘に敗れても、逃げてもいいのだが、自分がまだ生きているということは、今のところ、自分の行為のほとんどは正しいはずだ。もう何日ここにいるのか、分からないが、やってるいることは、毎日きっと同じなんだと思う……。相手方の得てきた経験や教訓が、こちらのそれより、僅かでも優れているなら、すでに、やられているはずだからな。いかに、相手の裏を突くか、相手より卑怯なことを思いつけるか、そう考えながら彷徨い歩く奴らだけが、かろうじて生き延びているに過ぎない……」


「さっきのように、襲ってくる兵士や盗賊たちを斬り捨てて、彼らの持ち物を逆に奪って生き延びてきたということかい?」


「まだ脳が十分に働かなくて、詳しくは思い出せないが、戦地で生き残るということは、そういうことだろう。善行を為して無事で済むならそうするが、ここでは真っ先に獲物にされる。不利な状況で襲われる前に、こちらが悪党になるしかない。もし、そうでなかったら、食料も明かりもないこの森で、生き延びてはいないだろう。身ぐるみ剝がされるくらいでは済まない。すでに骨粉になって、地面にばら撒かれているはずだ」


 ケークはそこで何を思ったか、冷たく笑ってから、さらに話を続けた。ホーチスという偵察兵に幾度となく向けられるそうした嘲笑は、たとえ、今日この日までに、何十人を殺してきたとしても、この先で何百人を殺そうとしていても、自分の行為のすべては、決して異端ではないということ。この死霊の森で、今まさに起きている、あらゆる人狩りにおいては、敵方からの襲来を脅えながら待つのではなく、こちらから弱者を捜して殺していくことで、生き残る道を何とか模索していく。それこそが、まさに自分たちの日常であり、未来になるのだと言わんばかりだった。


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彼の行動うごきに関して前後するふたつの見解。グリパニアの進軍、リディッツ隊の特殊行動を時系列に語れるか。グリパニアがこの時期に南郡の森には進軍していないことの唯一の証明。「5月12日」これら示された日付けのすべてが正確であった場合の、後世における解釈。ハノンからの命令の有無など……。

 ここまで読んでくださってありがとうございます。更新は決して早くありませんが、もしよろしければ、これからも読んでやってください。長編作品はこれひとつです。他には十数分で読める、様々なジャンルの短編作品を掲載してあります。お時間があれば、ぜひ、そちらもご覧下さい。よろしくお願いします。 2022年4月15日

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