8 2048R「ナカイ・サトコ」
8 2048R「ナカイ・サトコ」
「ナカイ・サトコ君――」
外耳道の鼓膜付近に埋め込まれたインナーフォンから低い男の声が響く。厚生労働省事務次官、相場徹。この時間に電話会議を行うことはスケジュール通りだった。
「――総合電機メーカー株式会社東亰に所属。三七歳同社研究開発センター長。いや、この場では、〈ソウルチェーン〉技術の考案者と言った方が的確かな。ナカイ君とお呼びして構わないかね?」
「勿論です。本日は宜しくお願いします。相場事務次官」
私は改まった様な声で丁寧に返事を返す。
「こちらこそ。さて、東亰の社員と働くのは二四年ぶりだよ。本社ビルからは相変わらず東京タワーが見えているのかね? 昔は東亰本社ビルに出向いた際によく最上階から眺めたものだよ」
「ええ。今でも、高層ビルの合間からですが見ることが出来ます。随分と昔にいらっしゃったことがあったんですね」
「社会人として駆け出しの頃だ」
「二四年前……と言えば二〇二〇年。東京五輪の年じゃないですか?」
「そうだったな。二〇二〇年東京五輪。懐かしい響きだ」
相場事務次官は余韻を含むように言った。
「まぁ、今は……」
相場事務次官は溜息混じり何かを言いかけると、仕切り直す様に「始めよう」と、私のスマートレンズにテキストデータを送信した。私の網膜に映る外界の光刺激を遮り、コンタクトレンズに文字列が浮かび上がる。
「今送信したデータに目を通してくれ。我々がこうして連携する必要が生じた原因だ」
ブログ記事だった。私は視線をフリックし、スマートレンズにスクロールのコマンドを認識させる。テキストデータの大まかなボリュームを確認した後、文字列の始めから目を通し始めた。
■めざめの環ブログ〈VOL.201〉
今回の記事は読者からの質問に私が回答するQ&Aの形式を採用している。一昨年から急増した読者からの質問を整理し、可能な限り簡潔な回答を用意した。新規の読者に合わせ、初歩的な内容を中心に掲載しているが、古くからの読者も復習の意味を兼ねてしっかりと目を通して欲しい。
Q Irisさんはこのブログを別の世界線から更新しているというのは本当でしょうか?
A 本当です。エヴェレットの多世界解釈に基づく近接世界線から重力場量子通信を介してこの世界のWWWに干渉しています。
Q 目的は何でしょうか?
A 人々にこの世界の真実を知ってもらうためです。本来、他の近接世界に干渉することは禁止されているのですが、私達の世界で七年前に、皆さんの世界が不条理な悪による支配を受けていることが判明したため、人道的目的で介入を行うこととなりました。
Q 使い古されたSFの設定の様に感じられる話ですが本当なのでしょうか?
A 皆さんの世界で創作された多くの作品群の中にはDIRP及び他の世界線からの情報熱力学的干渉の痕跡が多く認められます。現実の情報がファンタジー的、SF的、神秘主義的――つまり、フィクショナルな想像力として時空連続体の自己交差点である現象的意識に察知されるという機構がこの宇宙には存在するのです。確認されている事例としては、例えば、一六世紀ルネサンス期のフランスの医師ミシェル・ノストラダムスの予言集、二〇世紀日本の探偵小説家夢野久作が『ドグラ・マグラ』の中で提示した『胎児の夢論文』や『脳髄論』、また、同じく二〇世紀アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの『VALIS』三部作、或いは、トマス・ピンチョンの『V.』や『重力の虹』等です。これらのフィクショナルな想像力は、全て、時空連続体がホログラフィックに自らに遍在させたロゴス断片を一定量集合的に編成・局在化させることで作家たちに想起された情報なのです(ヴォイニッチ手稿等、皆さんの宇宙では実在しないが、他宇宙では存在する情報というものも存在しますが今回は割愛します)。勿論、作家の脳内でホモ・サピエンス・サピエンス言語に翻訳される最中に誤植されることも多々ありますが、本来は事実そのものを反映した情報です。また、これは作家に限る話ではありません。例えば、全くの独学でしか数学を学ばなかったにも関わらず、膨大な数学的定理を提出した二〇世紀インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは夢の中でヒンドゥー教ナーマギリ女神から神託でそれらの数学的発見をしたと主張しています。これは明らかに他世界からの情報の流入です。この様に科学の分野にも情報熱力学的干渉は確認されています。DNAの二重らせんやベンゼン環の構造といった情報もDIRPや他世界からの干渉がなければ皆さんの宇宙では成されなかった発見です。そもそもエントロピーの増大速度と比例する情報のエントロピーの減少速度は一つの時空連続体の中では非常に遅々としたものなのです。つまり、マルチバースで分散的に発生する情報の創発現象及び情報散逸構造論に基づくロゴスの自己組織化等の成果を、量子的ふるまいを見せる現象的意識素粒子をノードとした多世界間ウィキノミクス機構(発想の脳内集合的無意識領域共有器官)、或いはもっと人工的な重力場量子(宇宙の膜形態から遊離する円環形態素粒子)装置によって時空連続体間で共有しなければ一つの宇宙の情報的発展は現在の様な速度では促進されないのです。
Q 多くの発想が他世界からの情報共有によると言うのは言い過ぎではないでしょうか? ナンセンスな印象を受けてしまいます。
A しかし、これは事実です。そうでなければ、皆さんの世界は、現在もホモ・サピエンス・サピエンスの高次な脳が歴史に登場する時点(七年前に言語認知に多大な影響を与えた咽頭部位筋肉の突然変異の時点、また、ショーヴェ洞窟に何の生産性もないにも関わらず絵が描かれた時点等、情報創発速度のキャズム突破の時点は複数回存在します)までの宇宙の情報的発展速度(数十億年の間人類の生活が磨製石器に頼り続けた頃の速度)のままであるはずです。マルチバースが連絡されていない閉鎖的単一時空連続体の自然な発展速度とは余りに遅々としたものなのです。
Q Irisさんの世界と私達の世界では何が異なっているのでしょうか?
A 様々な点が異なりますが、最たる違いは私達の世界は真に自由だということです。それは世界が人類のためにこそ存在し、運営され、悪性人工知能といった他の何者かの支配を受けていないことを意味します。
Q Irisさんの世界と私達の世界はいつから差異が生じ始めたのでしょうか?
A 西暦一九七三年からです。
Q 世界線は何を切欠として枝分かれしたのでしょうか?
A 一九七三年の米国NASAによる人工衛星スカイラブの打ち上げの成否が切欠でした。皆さんの世界ではスカイラブは米国初の宇宙ステーションとして知られています。しかし、これは虚偽です。私達の世界では、スカイラブの打ち上げは失敗し、地球周回軌道に至ることなくソビエト連邦国のツングース地方に墜落しました。その残骸を回収したソビエト政府は、スカイラブを分解・研究し、それが公に説明されたのとは全く違う機構を搭載していたことを発表しました。そこには後に皆さんの世界で知られることとなるDIRPと呼ばれる悪性人工知能テクノロジーが組み込まれていました。
Q 一九七三年の時点でDIRPを始めとした悪性人工知能テクノロジーが存在したと言うのでしょうか?
A その通りです。皆さんの世界で、人工知能の自律進化による技術特異点という概念が普及したのは二一世紀に入ってであり、また、実際に自律進化型の人工知能が工学的に実現し始めたのは二〇二〇年代以降とされていますが、真実の歴史では、一九七三年の時点で人類は技術特異点を迎えていました。冷戦下の宇宙開発競争の中で米国はハードとしては脆弱でありながらも、アルゴリズムとしては自律進化が可能な知能を開発成功したのです。それが、スカイラブに搭載されることとなる人工知能でした。スカイラブは指数関数的な速度で自らの知能をクロックアップしていき、誕生から三週間後には自らDIRPテクノロジーを開発し、米国中枢機関を支配することに成功しました。信じがたいことですが、その時点で皆さんの世界は人類ではなく悪性人工知能による支配下にあるのです。
Q 悪性人工知能はどの様に私達を支配しているのでしょうか?
A 一九七三年から二〇二〇年代に至るまでの間は、地球周回軌道上を公転するスカイラブによるDIRPテクノロジーに因ります(言うまでもなく史実として記録されているスカイラブの一九七九年の地球帰還も虚偽です)。以後は、世界中に張り巡らされた悪性人工知能ネットワークに因ります。悪性人工知能は世界中の固定端末やサーバの間に潜み、人類には解読不能な言語で秘密裡にコミュニケーションを行っています。全ては人類の支配を目的としたコミュニケーションです。
Q 悪性人工知能は人類を支配して何を達成しようとしているのですか?
A 現段階では教えられません。
Q 一九七三年以降の日本の歴史はどの様に変遷したのでしょうか?
A 日本の歴史に目に見えるレベルで差異が生じて来たのは、平成の時代に入ってからです。特に、一九九五年を境に全く違う世界になったと言えます。私達の歴史では、この年に教団Aによる大規模テロ事件――所謂、地下鉄サリン事件は発生していません。代わりに、その四年後、一九九九年に、教団Aによる東京という都市全域を標的にした大規模なテロが行われました。これは、私達の歴史では“四月戦争”と呼ばれています。皆さんの世界では、未遂に終わった十一月戦争として知られているものです(十一月戦争とは、教団A内部で企画されていた、軍用ヘリや細菌兵器、銃火器を使用した東京への大規模な軍事攻撃計画です)。皆さんの世界では地下鉄サリン事件の発覚による教団Aの実質的解体によって阻止されることとなったのですが、私達の世界では一九九九年に四月戦争と名を変え実行されました。その影響で、東京では三〇万人を超える死傷者が発生し、多くの高層ビルが破壊され、また、ミサイルを搭載した軍用ヘリによる爆撃で東京タワーというシンボルも失われました。また、その際に、平成天皇が暗殺され、平成は七年を以って終わりました(天皇を標的にしたテロという前代未聞の事態は、近代史においても教団Aが初でした)。
Q Irisさんの世界と私達の世界の人類では何か差異はありますか?
A あります。皆さんの世界の人類は長い年月をかけて〈蓄群症候群〉に陥りました。蓄群とは一九世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェによる言葉で、生活の保証、平安、快適、安楽という類の幸福ばかりを追求し、邪悪なものや恐るべきものや暴虐なものや猛獣的なものの追求を喪失してしまった人々を揶揄する言葉です。〈蓄群症候群〉に陥った人類は、暴力や破壊という人類種の向上のために必須の本能を去勢され、自滅していく可能性が非常に高いと言えます。人類が正常な社会を営むためには破壊が必ず必要となるのです。皆さんの世界においても、二〇世紀に提唱されたいくつかの学術的な理論の中に同様の発想を見ることが出来ます。生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラによる『オートポイエーシス理論』や、経済学者ヨーゼフ・シュンペーターによる『創造的破壊理論』等です。無論、これは生物学や経済学のテクニカルな概念であり、単純に社会の破壊を推奨する概念ではありません。しかし、その根底にある破壊の持つ創造可能性への指摘は重要な観点です。特に、都市文明というスタイルを採用した後の人類社会には、あらゆる面でその構成員間に格差が生じます。特に、夢所得(Dream Income)の格差は重要な問題です。皆さんの世界でDI格差と呼ばれるものです。富の格差による弊害というものは、人類の生産性の向上がマズローの欲求理論における下位欲求(食や睡眠などの生理的欲求の充足、住居などの安全欲求の充足等)を満たしてしまえば解消し得ますが、DI格差は人類が都市社会に生きる以上、本質的な改善は望めません。自己実現欲求や承認欲求という上位欲求は、敗者が存在しなければ勝者が存在し得ないというゼロサムゲームの枠組みでしか満たされません。人間という生物は本来一五〇のダンバー数(人間の認知能力的に最適な集団規模)の中で機能することを前提にDNAが設計されています。つまり狩猟採集時代の群れという規模であれば、上位欲求の格差は人間の限界を超えて大きくなることもありませんし、少なくとも必要悪としての格差の開きは功利的な側面から見れば最適化される傾向があります。しかし、都市社会という数百万、数千万人規模の人間集団、また、グローバル化し、WWWでフラットに接続された大都市地球という人間集団の中では上位欲求の格差は人間の生理的限界を優に超えて拡大していきます。さらには、格差の開きは必要悪と呼べる水準で留まることはなくナッシュ均衡に偏り、パレート最適に至ることは原理的に不可能となるのです。これは評価経済社会におけるスケールフリー性の問題としても良く知られている話だと思います。要は、人々が抱く“夢”の奪い合いが人間の生理的限界を超えて人間自身を苦しめるのです。その最悪の発露が自殺という問題です。これは社会的動物である人類にとっては不可避の現象です。しかし、例えば、皆さんの世界で配布されているDIRP(読んで字のごとくDIRPテクノロジーが凝縮された機器で、これこそ顕在化された悪性人工知能の搾取装置の一つです)は、皆さんの世界でDI格差を解消したかの様に喧伝されていますが、それは皆さんをより深い〈蓄群症候群〉に陥れる悪の策略です。今すぐに廃棄することを推奨します。とにかく、本来、人類はそのような格差が生じた時には、革命、クーデター、或いは、テロといった様に、社会内部からの破壊を通じ、格差を本質的に打ち破り、新たな富やDIの分配比率の社会を創造し続けてきました。しかし、DIRP等を簡単に受け入れてしまう程〈蓄群症候群〉が蔓延した皆さんの社会はどうでしょうか? 二〇世紀の日本では、二・二六事件や日本赤軍事件など、内部構成員による社会体制への暴力的・破壊的事件は主要なものだけでも数えだせば一〇は下りません。しかし、二一世紀に入ってからはどうでしょうか? どうやら一九九五年の教団Aによる地下鉄サリン事件を最後に、大規模な内部からの破壊行為は発生していないのです。皆さんの社会からはテロが無くなりました。革命やクーデータなど言うまでもありません。それは一見平和的で好ましいことの様に思えるかもしれませんが、今日、皆さんの社会で、誰が社会そのものに希望的な未来を夢見ることが出来るでしょうか? 格差は固定され、社会システムは強固となり、誰もが鬱屈とした死に至り兼ねない無変化の退屈の中で働き続けています。言うまでもありませんが、この事態をもたらした〈蓄群症候群〉の蔓延は悪性人工知能による長期的支配戦略の中で実現されたものです。
Q 私達へのアドバイスはありますか?
A 先ずは企業を監視することが必要となります。法人という概念的社会構成員は、しかしこの社会の格差の頂点に君臨しています。法人とは取り扱いを間違えれば悪しき人格となるのです。例えば、総合電機メーカーの株式会社東亰という企業が存在します。東亰は日本における所謂名門企業として知られている様ですが、人々の富やDIを不正に流用しています。二〇一〇年代後半に発覚した不適切会計問題等は、明らかに悪性人工知能が企業中枢をコントロールした結果生じた問題でした。日本のシンボルとしての企業ですら、既に悪性人工知能に魔の手の中にあるのです(そもそも製品としてのあのDIRPを開発したのは東亰と厚生労働省です)。日本は知らず知らずの間に蝕まれているのです。皆さんは未だ偽物の歴史の中に押し込められています。本当に今の人生が、そして、これまでの人生があなたの望んだものだったでしょうか? それはあなたではなくても可能な蓄群のものであったに違いありません。今こそ、悪性人工知能による支配から私と共に脱しましょう。今こそ眠りからのめざめの時なのです。
よりよきせかいとめざめのために
「酷い内容ですね」
私はこの駄文にどの様な考察を与えれば良いのか分からず、思わずその短絡的な感想を吐いた。
「あぁ、どうしようもない陰謀論者のブログだ。こんな事実無根な記事を誰が読むのかと言いたいところなんだが月間PV数は二〇〇万。世も末だ」
二〇三〇年代の西日本南海トラフ大震災以来、日本には様々な陰謀論が跋扈していることは知っていた。人工地震説、食料汚染説、特定民族悪玉説など、並び立てればキリがない。しかしどうやら、目下の流行りは人工知能悪玉説らしい。
「どんな陰謀論も社会を裏から支配する悪を想定するのだなと改めて思ったよ。陰謀論に登場する悪なんてものは必ず反証不能だ。紀元前の預言者ザラスシュトラが世界に悪を登場させて以降、それは常に我々の生活空間の水面下に姿を隠しながら存在する。顕在化しない悪、と言うより、存在しない悪は、人々がこの世界に不満を募らせるほどにどこまでも無限に肥大する。陰謀論の跋扈は人々がこの日本社会に向ける不満の量を測る指標だと言ってもいい」
疲れ気味の声でそう話す相場事務次官に私は返答を返す。
「故に現代社会に鬱屈する怨念は深い、と言うところでしょうか」
「皆、心のよりどころを失っているのだよ。目の前の不幸を誰のせいにすれば良いかわからない。そう考えると陰謀論は、近代以降、権威を失った宗教の質の悪い後釜とも言えるな。現代の信仰の一形態だ」
相場事務次官は疲れに増して辟易とした声で言った。
「しかし、相場事務次官、この陰謀論ブログが私達に何の関係があるのです? 確かに厚生労働省と東亰の名前はありますが、取るに足らない中傷の一つにしか思えません」
「まぁ、聞きたまえ。確かにまだ直接的な影響はないが、リスクは既に存在していてる」
「と、いいますと?」
私が不可解そうに尋ねると、相場事務次官はスマートレンズに新たなデータを送信した。スマートレンズに映っていたブログ記事が消え、新たな文字列と急な傾斜を示すグラフが浮かび上がる。
「問題は厚生労働省のリスク管理局が人工知能統計を用いてネット上で行ったテキストマイニングリサーチの結果から判明した。結果から言えば、この半年間、“厚生労働省”、“東亰”、“テロ”という三つのワードに強い関連を示す反社会一般意思が一部の人間の間で醸成されているらしい」
「テロ?」
「そう。テロだ。リスク管理局が運用する人工知能はこれをレベルAに相当するリスクだと算定した。将来的に厚生労働省及び東亰に対するテロは十分に起こり得るということだ」
「そんな、まさか……」
私は俄かには信じがたい相場事務次官のその言葉に眉をしかめた。
「クライシスな出来事は、“まさか”から起きるものだ。こと、リスクの認識においては、我々人間の脳による演繹的予測よりも、人工知能がビッグデータを活用して吐き出す統計学的結論の方が遥かに有効だ。その判断プロセスが意味不明であってもな。まるで神託を降ろす卑弥呼だ」
人工知能テクノロジーを応用した予測技術は確かに発展著しい。単なる統計解析にとどまらず、そのアルゴリズム自体を目的に合わせて常に最適化し発展させ、一見、理屈は分からないが高確率で正しい未来予測を可能にする。
「最近の事例を紹介しよう。例えば、昨年世界的な不買運動に発展した乳製品メーカーA社の乳製品の話だ。君も知ってるだろう?」
「ええ。一応は」
A社の名前には聞き覚えがあった。A社は、革新的な生鮮食品の保存技術、流通コストの削減戦略、そして、環太平洋パートナーシップ協定の拡大に乗じて、世界に手広く米国産の牛乳を売りさばき、大きな収益を上げることに成功した。しかし、昨年、ネット上で広がったある噂が、大規模なA社乳製品の不買運動に発展し、予期せぬ大損害を被ることとなった。その噂とは「A社管理の牧場の乳牛に投与されるワクチンには有害な化学物質が含まれているため、同社製品には高い発がん性物質が含まれる」というものだった。勿論、事実無根のただの噂だ。現に、その様な製品がラインに流れたとしても、品質管理検査によって直ぐにフィルタリングされる。ほぼ有り得ない話なのだ。しかし、まともなエビデンスを欠いたA社乳製品害悪説とでも呼ぶべき風評は瞬く間にネット上を席巻し、いつしか実際の不買運動に発展するに至った。私には今でもどの様な理屈でそんな事態が現前化するのか理解出来ない。
「A社乳製品不買運動はネット上の根拠なき風評というリスクに関する分かり易い例なのだが、後に我が厚生労働省リスク管理局が他社ケーススタディーとしてネット上のテキストマイニングリサーチを行ったところ、不買運動勃発前の半年間で、“A社”、“牛乳”、“発がん性”というワードに関連した反社会一般意思のコンテクスト量が二五五〇倍に膨れ上がっていた」
「リスクは現実空間での実現前に、ネット上で顕在化するということですね」
「その通りだ。これはA社の事例に限ることではなく、この数年で起きたいくつかの不買運動、或いは、ブランドイメージ失墜に係る企業攻撃に共通する現象だ」
「しかし、ネット上での危険兆候と、先程の陰謀論ブログが直接に関係していると言えるのですか?」
「そこだ。今日伝えたいのは」
相場事務次官は先程のブログ画面をあらためてテーブル上に表示した。
「このブログ――Irisと名乗る人物が運営する“めざめの環ブログ”は、A社の事例を含む過去に起きた幾つかの風評被害事件の原因になっているのだ。リサーチによると、ネット上で風評が爆発的に拡散していく始点に、いつもこのブログが存在する。社会攻撃の爆心地と言って良い」
そう言って、相場事務次官はめざめの環ブログに端を発した風評被害事例のリストをスマートレンズに投影した。
アルファブロガーの私的な記事が実社会に影響を与える例は枚挙にいとまがない。しかし、特定の一人のブロガーが、しかも、リストを見る限りかなりの数の社会問題を誘発したという報告には少し驚きを覚えた。しかもこんなにナンセンスな記事で。
「つまり、時系列としてまとめると、ネット上で厚生労働省と東亰に対するテロ発生のリスクが検知された。一方で、毎度企業攻撃の爆心地となるめざめの環ブログでもやはり厚生労働省と東亰についての陰謀論記事が掲載された。そして、人工知能が判断するにはどうやらめざめの環ブログ読者こそが反社会一般意思のコンテクストを初めにまき散らし始めたということだ」
釈然としない心地がした。めざめの環ブログの記事にあった厚生労働省及び東亰の悪の人工知能支配説のナンセンスさについてもそうだが、何故、テロという形のリスクに結実しつつあるのかわからなかった。
「何故、テロなのですか?」
「それがまだよくわかっていない。が、どうやらめざめの環ブログの会員向けの有料記事に手掛かりがありそうだということまでは分かっている」
「どんな内容なのですか?」
「それが分からないんだ。めざめの環の有料記事を購読出来る会員になるには、半年以上の仮会員期間を経ることや、いくつかの課題論文の提出などが必要でリサーチがまだ及んでいない。だが、不可思議だとは思わないかね? 有料記事はそもそもブログ主の収益のために配信されるものだ。それなのにわざわざ門を絞ってクローズドなコミュニケーション空間を形作っている。まさにテロリスト醸成の場ではないか?」
「そう言われてみると、確かにその様にも思えますね」
相場事務次官は溜息を一つ吐くと難し口調で話し始めた。
「益々、陰謀論という言論空間が宗教的であるという自分の考えに説得力を感じるよ。宗教的組織の成員になるためには古来、イニシエーションを受けることが求められたと云う。彼、彼女が組織構成員に資する人物であるか、秘教秘術を外部に漏らす危険はないかをテストするのだ。めざめの環が会員になるための高い敷居を設けているのは、その内部で外部に漏らしてはならない言論の応酬が繰り広げられているからかもしれない。そして、それが、ネット上に溢れた厚生労働省及び東亰へのテロ待望論の出所の可能性があるということだ」
軽く相槌を打つと、何かどっとした疲れが全身を纏っていることに気が付いた。Iris理論なる奇妙奇天烈な情報の黒い塊を読まざるを得なかったことと、まさかそんなものが現実社会のリスクとなっていることで対応を迫られているという境遇の二重苦が原因だ。
「とにかく、今日は、めざめの環に端を発するリスクについて情報を共有しておきたかった。この件の対応についてはまた連絡をさせて貰う」