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逆さ都市  作者: 海山 照理
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7 1973D「マーフ」

  7 1973D「マーフ」


 私とマリアK、そしてマーフはほとんどの時間を共にするようになっていた。三人で津ノ南島の様々なエリアを探索した。

 津ノ南島は、島の端から端まで、自転車があれば一日で行くことが出来る。東西南北にそれぞれ一つずつ団地エリアが存在し、中心には大きな商店街を有する天神町がある。私達は南エリアに住み、天神町以外には他のエリアに行くことはあまりない。そんな事情もあって、毎週末、マーフを連れて、各エリアを紹介したのだ。

 同い年三人で出歩く島の風景は、普段より心なしか眩しく見えた。島に広く繁茂した落葉樹――心地の良い木漏れ日のコントラストを描くケヤキ、空に向かって可愛らしい白紫の蕾を付けたモクレンが空気をより一層清々しく感じさせた。三人の弾んだ話し声が小鳥たちの声に交じっていた。街では、家々から顔見知りの大人達がマーフ見たさに声を掛けて来た。広場では町内の人々が集まり皆で談笑した。日の光はより温かく空間を満たした。三人で自転車を漕いで、団地、公園、登下校道、天神町への並木道、丘の上の草原と、色んな場所に出かけた。笑顔が絶えない時間だった。

 マーフは予想通り、朗らかで可愛らしい子だった。私とマリアKはまるで自分たちに弟が出来たかのように接した。マーフは当然だが自転車に乗るのは初めてで、最初の内は乗り方を教えるのに随分と苦労した。それでも五日過ぎる頃には立派に乗りこなし、物覚えがいいと、まるで姉が弟の成長を喜ぶようにして褒めたたえた。

 ある日のことだった。マリアKは団地の公園にまだ到着しておらず私とマーフは二人きりだった。多分、それが初めて二人だけで会話した時だった。

「イーリスは親はいないの?」

 マーフは茶けた栗毛の間からまん丸な瞳を覗かせて興味深そうに尋ねた。

「そうね――。“今は”いない、かな」

 私は滑り台から滑り降りて、マーフの横に立ち上がって言った。

「でも、僕にはお母さんがいるし、マリアKには正樹おじさんがいる。子供は必ず親がいるものじゃないの?」

「そうよ。だから、“今は”いないだけ。七年前までは、私はお母さんと一緒に、丘の上に住んでたの」

 マーフはどこか納得いかないように視線を泳がせ、言った。

「親がどこかに行ってしまうなんてことがあるんだね」

「普通はないかもしれないけど、私のお母さんは特別だったの」

「何が特別だったの?」

「多分、この津ノ南島の島民じゃなかったの。私以外にお母さんを知っている島民はいない。多分、お母さんは他の島からやって来た旅人だったんだと思うの」

「旅人?」

 マーフが不思議そうに尋ねる。

「この世界には津ノ南島以外にも島が存在するの。ほとんど島民は他の島のことなんて知らないし、実際に渡航するのはとても難しいこと。だけど、海の向こうには私達の知らない世界が広がっているのよ」

「じゃあ、イーリスのお母さんは海の向こうからやって来たんだ」

「そう。そして、私をこの島の海辺でマイニングしてくれた。一年もしたら何も言わず他の島に帰っちゃったけどね」

 私がそう応えると、マーフは少し黙り込んだ後、言った。

「でも、そんなの酷い……」

 私も少し俯いて沈黙した後、でもはっきりとした口調で返す。

「お母さんには何か特別な事情があったんだと思う。お母さんは私のことを十分に愛してくれていたし、育ててくれた。それは私しか知らないことだけど本当のこと。だから、またきっと帰ってきてくれるって思ってるの」

 私はマーフの瞳を見つめ、微笑みながら言った。それは本当の言葉だった。大人達の中には、私の母が無責任だとか言う人もいた。でも、本当の母を知っているのは私だけだ。だから自身をもってそう言える。

「そうなんだ」

 マーフは張り詰めていた表情を緩め、柔らかに言った。「イーリスがそう言うんだったら絶対にそうだよ」

 私は何も言わず笑顔だけで返した。

「ねえ、お母さんの名前は何ていうの?」

 マーフは改まった様に優しく私に問うた。

「望都アスカ」

 私はその名前を久々に口にした。ふいに懐かしさが胸に湧き上がる。

「じゃあ、イーリスは“望都イーリス”なんだね」

「そう。望都イーリス。――きっといつか、マーフにもお母さんを紹介するわ。それに――」

「それに?」

「もしかしたらお母さんの島のものかもしれない光景を見つけてるんだ」

「光景? 見つける? どういうことなの?」

「今度、マーフだけに教えてあげる。逆さ都市って言うんだけど、詳しくは実際に見える時に教えてあげる」

 マーフは何も言わず微笑んだ。

 春の風が団地の間をすり抜け、公園に暖かな陽気を運んでいた。採石場の工事音が遠くから丸くなって響いていた。私とマーフはしばらくたわいもない話を続けた。穏やかな時間が流れていた。


 次の日の下校中だった。私は提案をした。私とマリアKの二人の秘密基地だった逆さ都市観測所にマーフを連れて行きたいと催促をしてみた。マリアKは何の異論もなく、マーフも嬉々として「行きたい」と応えた。

 私達は団地に着くなり、公園を横切って給水塔に足を運んだ。

 給水塔の大きな鉄の扉の前に着くと、マリアKはマーフに「ここは入ってはいけないお化け屋敷のようなところだ」とやたらに恐々しく吹き込んだ。マーフは少し怖がりはしたが、最後には男の子らしく、扉を自ら開き、暗い塔内に足を踏み入れた。私達は階段を上がり、給水塔の最上階の部屋までたどり着いた。

「この部屋が逆さ都市観測所だよ」

 私がマーフの背後から告げる。

 マーフは南側の窓に駆け寄り、目を見開いて言った。「すごい……海がこんなに広く見える」

 マリアKがマーフの傍に立って言った。

「でも、イーリスったら、ここから海じゃなくて、逆さ都市ばっかり見てるのよ? 海の景色がもったいないわ」

「マリアKは逆さ都市の凄さをわかってない。――マーフならきっと興味を持つはずよ」

 私は怪訝な瞳でマリアKを見やった。

「ねぇ、逆さ都市ってどんな光景なの?」

 マーフが窓際に手を掛けたまま私の方を見て言った。

「朝焼けと夕焼け時に現れるただの蜃気楼よ。多分、どこか遠くの島の都市の幻影」

 マリアKがつまらなそうに言った。

「どうして“逆さ”なの?」

 応えようとするマリアKを遮り私が言う。

「都市の蜃気楼が上下さかさまに像を結んでいるの。気象学では、上位蜃気楼って言うのよ」

「そんな蜃気楼があるんだね」

 感心した様な表情のマーフを横に、マリアKが何かを思い出したように告げた。

「――そのことなんだけど、この前図書室で上位蜃気楼について調べたの」

「へぇ。マリアKもなんだかんだ興味あるんじゃん」

「勉強のためよ。――でね、上位蜃気楼って確かに像が逆さまに結ばれるんだけど、その逆さまの像の下に、逆さじゃない像も同時に結ばれるものらしいの」

「そうなの? でも逆さ都市の下にはそんなの見えないよ?」

「うん。だから、ちょっと不思議だなって思って。稀に、対象物と地平の曲率との間に遮蔽物――例えば大きな壁とか? がある時は逆さの像だけ蜃気楼として現れることはあるらしいんだけど」

「曲率とかなんとか難しい説明はいいよ。マーフだって混乱しちゃうじゃん。マリアKはがり勉だからなー」

 マリアKは少し不機嫌そうな表情で腕組をする。「イーリスが無知なだけよ」

「二人とも言い合いしないで。――ここからなら逆さ都市が良く見えるの?」

「そう。この給水塔がこの島では一番高いところなの。だから南の海上を眺めるのに最適なの」

 私はそう言って、窓の向こうの海上を眺める。空には既に青のグラデーションに朱色が混じり始めていた。よく目を凝らして横広がりした積乱雲を見ていると、その底面がゆらゆらと陽炎に揺れ始めた。

「ほら、もう逆さ都市が現れ始めてる」

 私は積乱雲の底の方を指さす。

「本当だ」

 マーフがそう言って、窓際から身を乗り出した。私は「危ないよ」とマーフの肩を掴み代わりに双眼鏡を差し出した。「これを使えばもっとよく見えるんだよ」

 マーフは双眼鏡を手にして、物珍しそうに眺めていた。双眼鏡を見るのはこれが初めてのようだった。こうやってマーフに色んなことを教えることは、まるで姉としての自尊心が満たされるようで楽しい。

「このレンズに両目を付けて覗いてみて」

「うん」

 マーフは両手で持った双眼鏡に両目を当て、逆さ都市の方を遠望した。

「どう? よく見えるでしょ?」

 マーフは右手で双眼鏡を構えたまま何も言わなかった。

「ピンがズレてた?」

 それでもマーフは何も返さずそのままの姿勢でいた。

「マーフ?」

 私はマーフの背中に手を添え、少し心配そうな声色で言った。

「――東京タワー」

 マーフはふいに言った。

 その言葉は聞きなれないものだった。

「とうきょう?」

「そう……」

 マーフは微動だにせず、口元だけを強張らせた様に動かした。

「東京タワーだ……」

 マーフは双眼鏡を降ろし「眩暈がする」と床に座り込んだ。

「大丈夫?」

 私はどうして良いかわからず、マーフの横にしゃがみ、背中に手をやった。

 マーフは視線を私に向けることなく、ぶつぶつと呟き始める。

「僕は……見たことがある。ガラス張りの高層ビルの群れ、その間を根の様に張った道、頭一つ飛び出した真っ赤なタワー。僕は……、僕は、一〇歳の頃、あの街にいた」

 マーフの突飛な発言に、私は何も返せない。

「あぁ、僕は、一一歳の頃まで、マーフじゃなかった。僕は――」

 マーフは苦しそうに途切れ途切れ言葉を紡ぐ。額には汗が大きな粒を作り、無数に噴き出していた。マーフの様子は少し尋常じゃない。

「――アキラ」

 マーフが床の一点を見開いた目で見つめながら言った。

「僕は、小野アキラ、だった。一〇歳の少年だった。あの街、東京の街を通学していた。小学校に通っていた」

 少しの間を空けて、マーフは何かを思い出す様に話し始めた。

「そうだ……そうだ! 思い出してきた! 僕は、マーフなんかじゃない。アキラだ。お父さんがいて、お母さんもいて、絵を描くのが好きだった。一〇歳の夏休み、お父さんに連れて行って貰って東京タワーを描いた。当時流行っていた怪獣映画を真似て、僕が怪獣に変身して東京タワーを壊す絵を描いた。それを小学校の夏休みの自由課題に提出して、何かの賞を貰った。お父さんとお母さんは凄く喜んだんだ」

 マーフのはまるで別人の様な口調で早口に捲し立てた。

「ねぇ、マーフ。どうしちゃったの?」

 マーフの額に膨らんだ汗の粒が頬を伝い、床にポタリポタリと垂れる。私がハンカチを取り出し、マーフの額に当てた。マーフはまるでそのことに気が付いていない様に言葉を紡ぎ続ける。

「僕は、東京タワーに登ったんだ。東京タワーから見下ろす景色は、は……は、は、は」

 マーフは、どもる様に、同じ発音を繰り返す。酷く機械的なその声に私は不気味さを感じる。「マーフ!」と叫び、目を覗き込むと、拡散した瞳孔が痙攣するように左右を反復運動していた。背筋に冷たい汗が伝う。

「――は、は、に登ったのは……東京タワーに“登った”のは祐介じゃない。一一歳の頃に、おじさんに連れられて東京タワーに“登った”のは、古川ジュンノスケだ。アキラは“登って”いない。絵を描いただけだ」

 何を言っているのだろう? まるで私の姿なんか見えていない。地に足が付いている感覚が薄くなっていく。血の気が引いて、背筋の冷たさは、不快な浮遊感になって上半身に立ち上る。

「クリスマスの日だった。東京タワーが初めて一般公開された日。僕は、古川ジュンノスケは居候していたおじさんと一緒にそこに登ったんだ。翌年にはこだま号にも乗せてもらった」

「こだま号?」

「こだま号は高速度試験で時速一六三キロメートルの世界記録を作った夢の特急列車なんだ。そして、数年後には新幹線になった。新幹線は僕達の憧れになったんだ。皆こぞって乗り違ったんだ。僕は、それが見たくて、僕は、僕は……いや! 違う! 違うはずだ! 男の子の体なんて持っていなかった」

 マーフは私が添えていた手を払いのけて、急に立ち上がった。そして叫んだ。

「そうだ! アキラでも、ジュンノスケでもない! 僕は、いや、私はアリス! 坂口アリス!」

 まただ。マーフは誰とも知れない名前を名乗り続け、極度に興奮している。どう対処するば良いかわからない。

「七歳だった。女の子だった! お母さんに東京タワーに連れて行って欲しいって泣きながら駄々をこねた。でも、お母さんは、西日本南海トラフ震災の影響で、タワーは封鎖中だって。壊れちゃったから、直るまでは、入れないって、だから……私は。――――いや、どれも違う。……あぁ、そうか。私は――」

マーフは急に言葉を止めた。そして、今まで誰かの物まねをする様だった声色とは違う冷めた声でその一言を告げた。


「――DIRP」


 一瞬、部屋に沈黙の帳が降りる。私は、恐怖と強い動揺を感じながらも、沈黙に耐えかねる様にマーフに問うていた。

「……ディルプ?」

「私はDIRP」

 私が次の言葉を紡ごうとしたとき、マリアKの声が響いた。

「マーフ!!」

 マリアKは立て続けに捲し立てる。

「マーフ! あなたはマーフ! 沖田先生の子で、私達の同級生のマーフ! 一三歳の男の子、クセ毛で長いまつ毛で、黒い瞳の。あなたは、マーフ!」

 マリアKはマーフの頬に両手を添え、目を見据えたまま、瞬き一つせず言った。

「――マーフ」

 マーフは一瞬、不思議そうにそう呟き、両肩を落とした。

「そうだ……。僕は、マーフ。一三歳の、お母さんの子供。イーリスと、マリアKの友達……」

「そうよ。あなたはマーフ」

「――あぁ」

 マーフはそう言うと、足元に視線を下し目を見開いたまま「ごめん」と一言呟いた。

 マリアKは、マーフを抱きしめると「大丈夫よ」と諭す様に言った。

 二人はしばらくそのままだった。

 私は、強張って固まり切った全身から徐々に力を抜いて、呼吸を整え始めた。そして、狼狽して何も対応出来なかった自分を少し恥じた始めていた。マリアKがここに居てくれて良かったと思った。マリアKは普段臆病だが、大事な時には大人達みたいな冷静さを見せる。今回ばかりはマリアKに助けられたと安堵した。

 マリアKに抱擁されたままだったマーフは「もう、大丈夫」と言って、壁に背をあて座り込んだ。

「一体、何があったの?」

 私はマーフの横に座り、そう尋ねた。

「――わからない」

 マーフは小さくかぶりを振って続けた。

「ただ、逆さ都市を見ていたら、変な気分になってきて、何か自分が自分じゃなくなる様な感覚が襲ってきて、それで……」

「それで?」

「自分が自分じゃなくなった。知らない誰か、いや、知っている誰かの記憶が、たくさん頭の中に溢れたんだ。まるで、色んな記憶が僕の体を取り合う様な」

 私は何か返す言葉を探したが見つからなかった。

 マーフは一三歳より前の記憶を語った様に見えた。名前や、プライベートな体験――個人の人生に関係するエピソード記憶だった。しかし、子供達は世界の常識などの、所謂、意味記憶を宿して生まれては来るが、エピソード記憶を宿していることは有り得ない。

「とりあえず今日は、お家に帰りましょ?」

 マリアKはそう言うと、「お家に連れて行くわ」とマーフの手を取った。マーフは立ち上がり、マリアKに付き添われて階段を降りて行った。

 私は、少し遅れて二人の後を追った。部屋を出る時、窓越しにもう一度逆さ都市を眺めた。しかし、既に夜の闇に消えていた。暗闇から冷えた空気が窓から流れ込み始めていた。



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