5 1966D「七年前と小さな家」
5 1966D「七年前と小さな家」
優しい光。
透過した乳白色のベールに包まれた世界。
青空から降り注ぐ日の光と、緑豊かな自然が入り混じった色彩。丘の草原に作った小さな家と小さな畑。私と母のための空間。
私は耕された土の上に育ったトマトを眺めている。初めて見る赤い果実。
柔らかな母の声が響く。
「できたわ、イーリス」
透き通った青い瞳が私を覗き込む。
私は母が手にしている画用紙に目を向ける。
描かれているのは、大きな木の枝の先に無数に咲く花々。そして、空に舞う花弁。
「こんなお花見たことない」
「そうでしょうね」
「何ていうお花なの?」
幼い私は母が描いた花の名を拙く問う。
「桜よ」
「さくら? たんぽぽじゃないの?」
母は画用紙の余白に、“桜”という字を書き込む。
「桜はこの島にはない花なの」
「この島にないお花なんてあるんだ」
当時の私は、津ノ南島以外に世界があるとは考えていなかった。それどころか、丘の上以外の場所すら知らなかった。草原には、母が持ってきた写真をイメージに〈ペイント〉で建てた一階建ての木造ロッジと、その横に作った小さな畑だけが存在していた。私はそこから外にほとんど足を踏み出したことはなかった。他に知っている風景は草原やそこに生える花々、南側の崖下に見える海くらいのものだった。
「イーリスが知らない世界はたくさんあるのよ」
そう言って母は優しく微笑んだ。
「今日はね、イーリスが見たことのないものを〈ペイント〉出来るか、お母さんは知りたいの」
母はそう言って、私の頭を撫でながら続けた。「イーリスは、お母さんより絵が上手だから」
当時の私にとって、母が〈ペイント〉の力を褒め、また、求めてくれること一番嬉しいことだった。母はどんなことでも私より知っていたし、上手に出来た。だから、唯一、私が得意な〈ペイント〉で母が喜んでくれることは子供としての誇りにも思えた。
「桜の木全部は難しそう。……空を舞ってる花びらをいっぱい〈ペイント〉してみる」
母は笑顔で頷く。「お願い」
私は小さな光を指先に集めて、空中に桜の花びらを〈ペイント〉した。桜の花弁がひらひらと舞った。かと思うと、風を受けて海側の空に昇って行った。
「綺麗だわ」
母はまた私の頭を撫でた。私は誇らしげに母の青い瞳を見つめた。
「でも……」
母は人差し指を立てて、私に笑顔で語りかけた。
「桜の花の色は薄紅色なの。ごめんね。お母さん、色を塗るのを忘れてたわ」
私は泣き出しそうな声で母に尋ねた。
「ダメな〈ペイント〉?」
「そんなことないわ。黄色の桜。お母さんも初めて見る桜の色だけど、これはこれで綺麗よ。ちょっとビビッドだけど、元気な色の桜も悪くない」
私は母がそう言ってくれたので、自慢げな表情を取り戻し、海の彼方に黄色の花弁達が散っていくのを眺めた。当時の私が知っていた花は黄色いたんぽぽや、白と黄色のヒメジョオンなどで、薄紅色の花は見たことがなかった。だから、無意識にたんぽぽの色の桜を〈ペイント〉したのだと思う。
「ねぇ、お母さん」
私は母の袖を引っ張り、顔を仰ぎ見ながら言った。
「お母さんがいた島には桜が咲いてるの? いっぱい?」
「そうよ。春になると桜がたくさん咲くのよ。そして、島民はみんなそれを見て季節の訪れを知るの」
「みんな知ってる花なんだ」
「桜は皆にとって意義深い花なの。イーリスくらいの年の子供達だったら、桜を見て、新しい学年での学校生活に胸をときめかせたりするのよ。皆、桜を見ながら、新しく訪れる日々に仄かな夢を抱くの」
そう言って母は微笑みかけた。しかし、ふと、その青い瞳を桜の散っていった海の向こうに向けると、静かな表情を湛えた。母はしばらくそのまま海の向こうを見つめ続けた。
「お母さん?」
私が問いかけると、母は優しく私を抱きかかえた。「お家に戻りましょう」
「もう〈ペイント〉はいいの?」
「ええ。今日は、イーリスが見たことのないものでも〈ペイント〉出来ると分かった。お母さんとしてはそれで十分」
母は私を抱きかかえたまま、畑を横切り家に入ると、部屋の中にある小さなチェアに私を降ろした。足が届くか届かないかの背の高いチェア。テーブルも私の胸元くらいの高さ。小さな家ではあったが、当時の私には大きな家。窓から茶色の木壁に向かって射し込む光の筋の中に埃だゆったりと漂っていた。家にはいつも静かで穏やかな空気が流れていた。
「お家で過ごすのに何か困っていることはない?」
母はテーブルの挟んだ向かい側のチェアに腰かけながら言った。
「大丈夫だよ。お母さんが持ってきてくれた写真を見て色んな家具を〈ペイント〉してるの」
「そうだったのね」
「この前はね、お母さんと私用のガラスのコップと、あとね、お母さんも寝れるように大きなベッドも作ったんだよ」
「イーリスは何でも〈ペイント〉出来るのね。他の子供にはここまで出来ないわ」
母はテーブルの上に二つ並べた白い皿を手に取って続けた。
「そう言えば、このお皿はお母さんがお願いしてレースの柄を入れて貰ったのよね」
母は稀に、〈ペイント〉の設計図となる実物の写真とは違うデザインを要求することがあった。母の好みを〈ペイント〉に反映出来ることも私にとって誇らしいことの一つだった。
「あの壁時計もそう。植物のレリーフを入れて貰ったのよね」
そう言って母は壁時計を見やると、改まった様に私に告げた。
「そろそろ帰る時間だわ」
その言葉を聞いて、胸に寂しさ達が溢れる。母が帰ってしまう。
「次はいつ来れるの?」
私は足元に視線を落とし、不安げな声で言った。
「五日以内にはまた来れるわ。それまではお外に出ずに、お家の中で大人しくしているのよ?」
私は堪えられなくなり、母に抱き着く。母はしゃがみ込み、私を見つめた。
「心配しないの。すぐに帰って来るから」
母は私の頬にキスをすると「またね」と一言、玄関を出た。
ドアからカチャリとロックの音が鳴る。私と母の家に内鍵はなかった。
私は窓際に駆け寄り、母が草原の向こうに小さくなっていく姿をいつまでも眺めていた。
――次はいつ会えるだろう。