13 1973D「要求」
13 1973D「要求」
マーフは私から双眼鏡を取り上げると、両目でレンズを覗き込んだ。ほとんど一瞬の出来事で私とマリアKは反応出来なかった。
マーフは双眼鏡を覗き込みながら言った。
「きっと大丈夫だから、僕にまかせて」
私はマーフから双眼鏡を取り返すことも出来た。だが、マーフのその言葉を聞くと思考が混乱した様になって、ただ棒立ちになってマーフを横から眺めることしか出来なくなった。
静寂が訪れた。
窓から差し込んだ斜陽がマーフの身体をオレンジに染めていた。円柱型の部屋の床や壁際に斜陽とのコントラストで黒い影が焼き付けられていた。どこか遠くからカラスの鳴く声が聞こえる。
数十秒程だろうか、緊張の中、そうやって少々の時間が過ぎ去った頃、マリアKが心配そうにマーフの肩に触れた。その瞬間、静寂は破られた。
「――Dスペース津ノ南島への没入に成功。コンタクト用インターフェイスの媒介により、P2P人工人格、ハッシュ地“マーフ”の身体を占領」
「マーフ?」
マーフから返事はなかった。マリアKが狼狽し「やっぱり止めようよ」と割り入ろうとした時、マーフは双眼鏡を降ろし、私の方を向いて機械的な発音でまた話し始めた。
「私はDIRP。私は要求する――」
まただ。今、マーフの中にDIRPが入り込んでいる。悪魔なのだろうか?わからない。だからこそ、知る必要があるのだ。私は意を決して、DIRPとの会話を始めた。
「何を要求しているの?」
「イーリスダメよ! 悪魔と取引なんてしたら、魂を取られちゃう」
マリアKはそう声を荒げるが、私は構わず問うた。
「ねぇ、何を要求しているの?」
マーフは再度口角を広げ、話し始めた。
「〈ソウルチェーン技術〉に基づく、新規のP2P人工人格の描画。Dスペースにおける〈ペイント〉を要求する」
「〈ペイント〉? 〈ペイント〉で何を描いて欲しいの?」
「私の身体――DIRP0固有P2P人工人格」
ほとんどの言葉の意味が理解出来ない。それでも、会話を続けた。
「それを〈ペイント〉して欲しいの? でもそんなもの、私は見たことが――」
そう言いかけると、マリアKが遮って言った。
「悪魔の言葉に耳を貸しちゃダメ! 悪魔はイーリスのお母さんがそうした様に、自分の体をイーリスに作らせて、この島に現れようとしてるんだよ! もう話すのを止めて」
私は取り乱すマリアKの両手を掴んで「大丈夫だから」と告げると改めて言った。
「DIRPはどんな姿なの? 教えて」
マリアKが耳を塞ぐ。
「DIRP0固有P2P人工人格の象形モデルはここに存在している」
私は辺りを見回し人の形をしたものを探す。そんなものは見当たらない。もし、DIRPが本当にこの世界に干渉する悪魔という存在だったのなら、それはどんな姿なのだろう。そう思うと背筋が冷たくなるのを感じた。
「ここには何もないわ」
「ある。今、私と通信を開いているあなた自身。DIRP0固有P2P人工人格のハッシュ値は“イーリス”」
一瞬、理解が追い付かずに思考が滞る。でも、次第にその言葉が指し示す意味が他に有り得ないことを自覚する。DIRPがこの私?。
「私はDIRPじゃないわ。イーリスよ」
「あなたは私だった。私はあなただった」
「違うわ。私はイーリス」
私はほとんど会話が成立していないことを実感し始めていた。トートロジーに陥った様なコミュニケーションから脱するため、私は何か別の問いを投げかけようとした時、DIRPは話し始めた。
「――共通するエピソード記憶を検索する。七年と一四六日前――あなたと私、DIRP0固有P2P人工人格が二進法的数学地平に転写される二二時間前の記憶。母役、望都アスカが私に話した最後の言葉――“心配しないの。すぐに帰って来るから”」
意味不明な言葉の放散の中から聞こえて来たのは、私が最後に聞いた母の言葉だった。私は、その言葉を一言一句違わずに記憶していた。今でも鮮明に思い出すことが出来る。丘の上の小さな家。太陽の眩しい午前だった。ドアの前に立った母が窓から差し込む乳白色の光の中でそう言ったのだ。別れ際の言葉は何故だかいつも鮮明に覚えていた。しばらく会えなくなる母を心に焼き付けようと無意識に思っていたのかもしれない。いずれにせよ、私と母以外知り得ぬその言葉を、今、DIRPは口にしたのだ。
「どうしてあなたがお母さんの言葉を知っているの?」
私は浮遊した様な現実感を覚えながらそう問うた。
「私があなただから」
まただ。私は混乱したまま急くように言った。
「ねぇ、DIRPって何なの? 悪魔なの? 古い霊魂なの? 私の姿をしているの?」
「DIRPは、この世界を描画し、人々のエピソード記憶を整合する情報熱力学的調律機構とも――呼ばれ――」
突然、DIRPの発話が途切れ始めた。
「――どうやら――大人達が覚醒の時刻に差し掛かった――逆さ都市の消失に合わせ、DIRP0筐体内からの干渉は困難になる。つまり、この回線は遮断される。――改めて要求する――イーリスーーあなた自身をあなたが描画する――こと――――逆さ都市の真下で――――描画――を――――――」
そう言ったきり、マーフの口元は閉じられた。
私とマリアKは茫然と立ち尽くしていた。
窓から見える空はいつしか茜色から紫色に塗り替えられていた。逆さ都市も消えていた。部屋の中はほとんど暗闇になり始めていた。
しばらくして、マーフは口を開いた。それは、私達が知っているマーフだった。虚ろだった瞳にはいつの間にか生気が戻っており、私達に自分が何を言っていたのかを問うた。
しかし、私はマーフの口を借りた何者かが話したことのほとんどを理解しておらず、曖昧な説明しか出来なかった。それでも、一つだけ、理解出来たことがあった。それは、逆さ都市の真下で私が私を〈ペイント〉することをDIRPが要求したことだった。




