10 1973D「弐本沈没」
10 1973D「弐本沈没」
マーフが調子を崩してから三日後のことだった。
放課後、私は誰もいない教室で宿題の消化に勤しんでいた。マリアKが三〇分ばかり図書室で新しい本を探したいとせがむので、仕方なく待っていたというのが正しい。マリアKにはよくあることだった。
マーフはあの日から自宅で療養していた。沖田先生からはもう体調に問題はないとは聞いていたが、大事をとってのことだ。生まれたばかりのマーフを好き勝手に連れまわしたことが今更になって少し後悔された。
一人ぼんやりとそんなことを考えていると、教室の扉が開いた。
「ごめん大分かかった」
「遅いよ」
「それよりさ、これを見て欲しいの」
マリアKは教室に入るなり、肩からぶら下げていた通学用のショルダーバッグから、一冊の本を取り出して私に見せた。
日に焼けた様な茶がかった表紙に『弐本沈沒』と記されていた。
「これは?」
「図書室で見つけたファンタジー小説。弐本っていう架空の島が大きな災害で沈んでしまうっていうフィクションなんだけど――」
マーフは本の中盤辺りのページを開いて私に差し出した。
「――マーフが言ってた“東京タワー”が作中に出てくるの」
私は、訝しみながらも鉛筆で薄く囲われた文書のブロックを読み始めた。
“まさか! ──そんなばかなことが考えられるか! 小野は暗いガラスごしに、じっと夜の中に眼をすえた。夜空に、光の点にふちどられてつったった東京タワーの頂きあたりをかすめて、国内線、巨大なエア・バスが、赤と白の灯を点滅させながら、黒い怪鳥のように羽田のほうへおりて行った。──これらいっさいのものが、もし、所博士が危惧しているようになるならば……もし本当にそうなら……いったい、この巨大な都市と、そこにくりひろげられつつある生活は、どうなるのか? 一億一千万の人々が、この島、この土地、この歴史的蓄積の上に開花した一つの社会の中に抱きつつある、明日へのささやかな夢は? ──家を建てる。子供を産み育てる。大学へ行く。海外へ行く。歌手になりたい娘たちや、芸術家になりたい少年たち……灯ともしごろともなれば、男たちは、酒と女と談笑の中に、一刻の快楽を持つことをもとめ、釣りやゴルフや、ギャンブルなどにささやかな楽しみを味わい……そういった、一億もの人々の、ささやかな明日への希望はいったい、どうなるのか?
──たのしんでくれ……小野は、光のあふれるあたりを見つめながら、ほとんど祈るような気分で思った。──せめて、いま、しっかりたのしんでおいてくれ、みんな。一刻一刻を、かけがえのないものとして、たのしむのだ。ささやかすぎる快楽の記憶でも、ないよりはあったほうがましだ。いま、たのしんでおくのだ。──明日は、……ないかもしれない。”
「本当だわ」
そこには確かに“東京タワー”という文字列が印字されていた。
「よく見つけられたね」
私は驚きと共に、以前に増してマーフの発言の不可解さに重みが増し、困惑を感じていた。
「ここ数日、図書室の本を漁ってたの。お父さんが持っていた本がそうだったように、書籍の中にはマーフが言っていたことを解明する手掛かりがあるかもと思って」
「確かに他島のことを知るには本くらいしかないもんね。――この『弐本沈沒』ってどんな話なの?」
「さっき言った通りよ。西暦一九七三年という時代の弐本という島を舞台にしたファンタジーで、大きな災害の影響で最後には島そのものが沈んでしまうっていうお話なの」
「だから、この主人公はやたらと悲観的なことを言ってるのね。島民の明日への希望があるとかないとか。――ちなみに弐本と東京は違う島?」
マリアKは難しそうな表情で呟く。
「東京は弐本の中のあるエリアみたい」
「知らない言葉も沢山あるわ」
「この作品はとても独特なガジェットが多いの」
「このエア・バスって言うのは何?」
「空を飛ぶ乗り物。他にも色んな乗り物が出てくるんだけど、マーフが言っていた“新幹線”に近い乗り物もあるのよ」
マリアKはページをめくり、“新幹線”の文字列が印字された箇所を指さして言った。
「作中では新幹線は三時間半走り続けて、東京という場所から大阪という場所に移動するのだという記述がある。仮に新幹線が、マーフが言っていたみたいに時速一六三キロメートルで走る乗り物なら、この日本という島は163Km×3.5h=570.5Kmで、場合によっては五七〇キロメートルより長い陸地を持つ島ということも考えられるわ」
「そんなに大きな島なんて有り得ないよ。だって、この津ノ南島だって、北から南の端まで一〇キロメートル程度なんだよ?」
私は驚嘆した声でマリアKに問いかける。マリアKは机の上に腰を掛けながら言った。
「でも、それどころか、作中の所教授は、東京から見て、大阪よりもっと西にある門司とか九州といった土地に向かったりするの。それに海の向こうには他の色んな島があるとも言ってる」
ファンタジー小説とは言え、規格外の想像力だ。私は頭を抱え込みながら言った。
「このファンタジー小説の世界には、どれだけ広い陸地が存在するんだろう。人の数も人間が把握出来る数じゃない設定だよきっと。ほんと、まさにファンタジーの世界だ」
その通りと言わんばかりにマリアKは頷いた。
「作者は誰なの?」
「“小松右亰”って書いてある。多分ペンネームかも。少なくともこの島にそんな名前の大人はいないはずよ。それに、著者名が分かったところで、どうせ他島の旅人が持ち込んだものだろうから、そこから調べるのは無理よ」
「もう何がなんだか私にはわからない」
私は窓際の手すりに突っ伏す様に上半身を預けながら投げやりに言った。校庭を見やると上級生の男の子たちがサッカーに興じていた。
「悪魔憑きはやっぱりあるんだよ」
怯える様な声色でマリアKが告げた。
「私考えてみたの。マーフに憑りついた悪魔が、もし、エーテルの中を彷徨う霊魂だというのなら、霊魂とは古い時代に生きた人間達の記憶みたいなものだと言える」
「私は悪魔なんていないと思うけど?」
「いいから聞いて。――つまりさ、マーフは古代人の記憶を語ったんだよ。そして、古代人の記憶は『DIRP』という古代の逸話集と、『弐本沈沒』というファンタジー小説に書かれていた幾つかの言葉に一致を見せている」
「だから、ファンタジー小説の内容が古代世界の真実なんだって言いたいんでしょ?」
私は教室内に振り返り、少し辟易とした様に言った。
「そう。『弐本沈没』では、大きな弐本という島が沈没して滅びてしまうの。そう考えるとさ、空を満たすエーテルの中の霊魂ってさ、もしかしたら、海の底に沈んだ古代人達の魂なんじゃないか、って。この津ノ南島は古代に存在した巨大な弐本という島が沈没した後に残った陸地の一部なんじゃないかって。そして、逆さ都市は、沈没の災害で死んだ子供達の霊魂が空の上に〈ペイント〉しているんじゃないかって……」
興奮気味のマリアKの話は飛躍の上に飛躍が重ねられている。確かにファンタジー小説に素直に従うのならそんなこともあり得るのかもしれないが、なにせファンタジー小説だ。
「津ノ南島が沈没した日本の一部だとかいうことを一〇〇歩引いてノンフィクションと考えたとしても、死んだ子供達に〈ペイント〉の力があるとは思えないな」
「もしかしたらDIRPって、死んだ子供達の霊魂なのかも。そして、それらの古代の子供達の霊魂の〈ペイント〉の力こそがシマウマの光線なのかもしれない」
「“ジンコウエイセイ”として空高くにあるDIRPが、逆さ都市を〈ペイント〉してる、と?」
キーワードパズルを口頭で組み立てている様な錯覚を感じる。でも、キーワードそのものイメージは空白だ。
「実はね、東京タワーだけじゃなくて、あなたが昔言ってた桜っていうものを見つけたの」
マリアKのその言葉に、私の息が一瞬詰まった。
――桜。
母が私に教えてくれた花の名前。この世界には咲かない母の島の花。
「見せて」
私は寄りかかっていた手すりから飛び起きようとして、少しよろけた。マリアKが私の体を支え、本を差し出す。
「ここの部分なんだけど」
私はマリアKから本を受け取ると、その文章の塊に目を通した。突然の展開にか、本に触れる掌に汗が滲み始めていた。
“人々はめいめいの「明日」を思い描いている。厳冬の次には春が来て桜が咲き、子供たちは育っていき、新しい学年がはじまり、サラリーマンたちはいつかは課長になり、ホステスたちはいずれはパトロンを見つけて店を持つか、客の中からいい相手を見つけて幸福な結婚をするだろう。”
余りにもさりげなく描写された桜。でも、“咲き”と説明されたそれは明らかに花であることを意味している。
私の脳内にマーフのことで隅にやられていた情報が音を立てて組み上がり始める。そうだ。逆さ都市を観測し始めた最初に期待していた動機が、拙い仮説が、明確な可能性を有して整合される。
「逆さ都市は――東京は、お母さんの島だ」
私は、マリアKの片腕を掴み、そう息巻いた。マリアKは少し気圧された様に一歩退き、言った。
私は心の隅で思っていた。独りで夕日に滲んだ逆さ都市を見ながらいつも母のことを考えていた。あの都市が母の島のものだったりするんじゃないか――そんなことを考え、逆さ都市観測の下心に育っていた。
「確かに、この本は普通のファンタジー小説とは違うわ。マーフが過去の記憶として言っていた東京についてのことや、イーリスのお母さんが知っていた桜のことも出てくる。でも――――」
マリアKはそう言って、息を詰めながら告げた。
「そうだったら、あなたのお母さんは、既に滅びた古代都市からやってきた亡霊ということになる」
マリアKの言葉に一瞬理解が追い付かない。しかし、もし逆さ都市が滅びた時代の古代都市というのが正しいのなら、そのことを知っている人間は滅びた霊魂だという考えも成立する。そこまで考えて、私は声を荒げた。
「違うよ!」
私の叫び声が教室内に響く。
「お母さんは亡霊なんかじゃない!」
「……でもね、イーリス。あなたのお母さんは、本当に一時期、この島に現れただけで、すぐに居なくなってしまった」
「だから何?」
私がマリアKをきつく睨んでそう言うと、二人の間に沈黙が訪れた。校庭から男子達の間の抜けた騒ぎ声が遠く響いていた。
「でも、私ね、『弐本沈沒』を読みながら考えたの……。この本も『DIRP』も、作者に悪魔が憑りついて書かせたものじゃないかって」
マリアKは隠し事を打ち明ける時の様なバツの悪い間を置いて、話し始めた。
「だから、『弐本沈沒』に書いてあることと似たことを話したマーフは、やっぱり古代の巨大都市に生きていた霊魂――この島が出来る前に亡くなった霊魂に憑りつかれたんじゃないかって思うの。古い霊魂は誰かに憑りついて、古代の記憶を知らせるのかもしれない」
マリアKは震える声で続けた。
「もし、そうだったなら、桜を知っていたイーリスのお母さんも古代の人間とも考えられて……だからこんなことも思ったの……」
マリアKは一瞬、口を紡いで、思い切った様に言った。
「イーリスのお母さんは、親を持たずに生まれて来たイーリス自身が〈ペイント〉して身体を与えた古い霊魂だって」
言葉が出てこなかった。確かに団地にやってくる前、一年間程の期間、私と母は高台の小さな小屋で生活をしていた。その間、誰にも出会うことはなかった。ある日、母が居なくなったことを切欠に私は団地に足を運び、そこでこの島の皆に保護された。だから、私以外、誰も母を目にしたことがないのは事実だった。
「マリアKも疑ってるの? 私にはそもそもお母さんなんていなかったんだって?」
私はゆっくりとそう言った。でも、押し詰めた様な力強い言葉には怒りが滲み出していた。
「疑ってるとかそういうのじゃないよ……。確かにイーリスにはお母さんが見えていたと思ってる。でも、それは、古代の霊魂が〈逆さ都市〉を描画しているのと同じことを、イーリスもやってるんじゃないかって」
「やめて!」
私はたどたどしく話すマリアKの言葉を遮った。マリアKはびくりと肩を震わせる。
「帰って。私は独りで逆さ都市の観察を続けるから。そんなファンタジー小説に塗れた妄想を信じてるなんてマリアKはやっぱり頭でっかちだ」
私は机の上に置いていた通学バックを荒っぽく掴むと、教室のドアに向かって歩き始めた。でも、マリアKは私の左腕を強く掴んで言った。
「もう止めようよ! 私、独りで逆さ都市を眺めてるイーリスを見てられないの! 初めっからイーリスがあの蜃気楼の中にお母さんが居るんじゃないかって期待してることも知ってた。親がいないことを気にしてることも知ってた。でも、もう止めようよ。どこを探してもイーリスのお母さんは居ない。それに、いつまでも逆さ都市を眺めてると、イーリスだってマーフみたいに――」
「マリアKに何がわかるの!?」
私は喉をこれでもかと震わせて叫ぶ。
「私は独りでもやる! マリアKなんかいらない! マリアKがお父さんと温かい夕食を食べてる時だって、私はずっと独りで逆さ都市を観測してた! マリアKは何にもわかってない!」
マリアKはそれ以上、何かを言うことはなかった。私は独り廊下を歩き出す。後ろでマリアKの涙混じりの声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
独りでもやる。逆さ都市の観察を。マリアKの下らない妄想が事実でも間違いでも関係ない。だって、それ以外に、独りの夕方にやることなんて何もないのだから。
【引用文献】
■小松 左京. 日本沈没 決定版【文春e-Books】文藝春秋. Kindle 版.




