失敗と謝罪と二度目の人生
私は医者だった。
当然、誰に恥じる職業ではない。フィクションのように無免許だったわけではなく、免許を持った正規の医者だった。
正規の医者ではあったが、正義の医者ではなかった。
ただ親から継いだ小さな医院をそのまま運営していただけの、小さな医者だった。
結婚して子供も生まれたが、それほど愛情をかけることはできなかった。
仕事は忙しかったし、世間が思っているほど裕福でもなかったので、そこまで贅沢をさせられるわけでもなかった。
確かに治療をしていたし、取り立てて犯罪を犯したこともなかったし、医療ミスを犯してもそれを隠すことはなかった。
だが、ありていに言って『善行』をしていたわけではない。
結局、私は仕事として医者をしていただけで、誰かの病気や怪我を視るときも、それは医療システムという強大な仕組みの一端でしかなかった。
薬を始めとして多くの医療技術は私の知らない誰かが開発し、それを患者の顔を見ない医療器具の製造会社が大量生産し、多くのお偉い先生が提唱する治療方法を実践していただけである。
もちろん、そのこと自体は卑下することではない。
医者が特殊な技能職であり、勤勉な人間でなければ務まらないとても難しい業務であることは認めるところだった。
それはそれでいいのだが、それは難しい仕事であるというだけだった。
つまりは、聖人君子の善行ではない、ということである。少なくとも私はそうだった。
どこかの紛争地域で無償の治療をしているわけではないし、貧困地帯にボランティアで参加したこともない。
おそらく、そうした善行に加わる機会があったとしても、私はそれを請け負うことはないだろう。
私は、ただ親が医者であるというだけで医者になり、他のあらゆる仕事がそうであるように給料の為に『客』を治療し、報酬を得て生活をしていただけなのだ。
他の多くの仕事がそうであるように、仕事に恥じるものはない。だが善人ではなかったし、善行を積むべきだとも思っていなかった。
善人だけが天国へ行けるというのなら、私はきっと天国には行けないだろう。私はずっとそう思っていた。
死んだときの記憶がおぼろげな私ではあるが、今でもそう思っている。
思っているのだが、正直この状況は想定外だった。
「そんな馬鹿な……」
私は医者であり、人間が生物の一種であり、たんぱく質の塊でしかないことを知っている一方で霊魂や死後の世界のことを否定したことはなかった。
というか、そうした事柄に関しては宗教の領分であり、医療にかかわる人間が関わってはいけないと思っていた。
だが、まさか自分が死んだあとに『こうなる』とは完全に想定外だった。
どこまでも続く死者の列、その中に自分は立っていた。
いわゆる、死後の裁判が私には待っているらしい。沢山の死者、というか亡霊がふわふわと並んでいた。
私を含めて全員足がないので、確実に幽霊である。
「お前は地獄行きとする」
「な、なんでだよ!」
どれだけ時間が経過したのかわからないが、私の数人前の人間がいきなり地獄行きだと判断された時点で、長時間待たされて麻痺していた私も正気を取り戻していた。
地獄に落ちろ、と言われて抗議している死者の反応はもっともだった。確かに誰だって地獄に落ちろと言われて大人しく落ちることはないだろう。
とはいえ、死者に裁判を下したお方は、見るからにエンマ大王、という姿の方だった。
仮に相手がエンマ大王本人でなかったとしても、似たような役職の方だろう。その方の決定を、覆せるとは思えない。
それに、医者の目を抜きにしても不健康そうな死者だった。というか、物凄い肥満体だった。これが薬の副作用による肥満なら怠惰には属さないが、たぶんそうではないのだろう。
「お前は学校で教育を受け、働き口があるにもかかわらず、生涯労働することなく人生を終えたな」
「だ、だから何だよ!働かないのが悪いのかよ!」
「働かないのに食っていることが悪いと言っている」
あの世の法律がどういうものかはわからないが、法律的な物よりも道徳的な物のように思えた。仮に法治といっても、この世の法とは少々違うのだろう。
「親が十分に裕福ならそれもアリだが、お前は生涯親の負担になり、心労を与え続けていた。そして親が死んでもまともに葬式もせず、親の遺産が尽きれば借金をし、最後には首を吊った。よって地獄行きである」
「お、俺に見合う仕事がなかっただけだ! それに、俺だって、俺だって……本当は辛かったんだ!」
涙ぐみながら、地獄行きを宣告された死者は抗議していた。
「本当は、親にだって楽をさせたかった、葬式だってしてやりたかった、孫の顔を見せたかった。だけど……だけど、今更どうしろってんだよ!」
彼の言い分も、まあ分かる。見た限り、彼も日本人の様だった。日本社会は落後者が復帰することは難しい。彼の事情をこうして聴いているだけですべて理解できるわけではないが、おそらく彼がつらかったということも事実だろう。
一笑遊べるほどの遺産があるのならさぞ楽しい人生だったはず。そうではなかったのであれば、きっと、さぞ、日々減り続ける資金に戦々恐々していたはずだった。
最終的に首を吊ったことも含めて、想像するだに辛い生活だろう。
「地獄で償え」
しかし、やはり地獄の裁判官は残酷だった。
当然と言えば当然だが、相手が泣きわめいても罪状に変更はないらしい。
「この地獄では、現世で償わなかった罪を裁くことになる。お前が現世で殺人を犯したとしても、現世で法の裁きを全うしたならば裁くことはない。しかし、お前は親に負担を押し付け続け、そのあげくに借金まで返さずに自殺した。お前は何一つとして償いをしていない」
「しゃ、借金っていっても! 悪徳金融だぞ?!」
「悪徳だろうが何だろうが、そうと知って金を借りたのはお前だろう。少なくとも詐欺ではなかったし、お前が返済しなかったことで被害を受けてもいる」
残酷ではあるが、流石に擁護できないところだった。
私が仮に善人であったとしても、彼には罪を償ってもらいたいところである。
「ただの一度も返済していない人間が暴利とは笑わせる」
「う、うるさいな! とにかく地獄行きは嫌だって言ってるだろ?! 心を入れ替えるから、もう一度現世でやり直させてくれよ!」
「甘えるな、現世に生まれ変わりたいというのなら、まずはお前の積み上げた罪を償ってもらう」
肥満体の中年男にしては、口調が幼い。おそらく、かなり長期の引きこもりだったと思われる。
積み上げた罪は、体重相応には重いのだろう。
「な、何をしろっていうんだよ……」
「お前は、死ぬ直前のお前のままで可能な仕事を行い、その負債を完済するまで働き続けるのだ。休みなく、眠ることもなくな」
その言葉を聞いて、私だけではなく多くの死者が震えていた。
目の前の彼がどれだけの負担を親におしつけ、どれだけ消費し続けたのかはわからない。
しかし、目の前の彼がまったく働く力がないことも確実だった。
それが彼にとって、どれほどの負担になるのかなど想像もできない。
「お前は飲まず食わずで、その苦しみを味わいながら、いつ終わるかもわからぬ労働を行い続けるのだ。お前は一切痩せることも、仕事に慣れることもなく、死ぬ直前のお前のままでできる最大の努力をして返済するのだ」
「ふ、ふざけんな! なんでそんなことしなくちゃいけないんだ!」
「お前が飲み食いし、玩具を買い、遊興にふけった分を返済するためだ」
「べっ、別に盗んだわけじゃないんだぞ?! ちゃんとお金を払って買ったんだぞ?!」
「その金を稼げと言っている。それに、別にその労働の対価は我らの懐に入るわけではない。天国で受け取れなかった報酬を受けているお前の両親や、お前が返済しなかったことで損害を被った金融機関の人間への利益になる。つまり……使った分稼げば問題ない」
簡単に言うが、簡単ではない。
もちろん簡単に済む罪ならここまで厳しくは言わないだろう。
「今の俺にできる仕事?! そんなの大した稼ぎにならないぞ?! せめて資格をとってから、給料のいい仕事じゃないと、何時までかかるか……」
「それをお前が現世でやっていればよかったのだ。そうすれば多少は返済も早まっただろうな」
どこまでも酷薄に、弁解の余地がない罰へ向かって話が進んでいく。
あるいは、とっくに出ている結論に対して無意味な抵抗をしているのかもしれない。
「これはお前が自分の稼げる範囲でだけ遊び、食い、過ごせば一切生じなかった負債だ。お前がそれを他人に押し付け続けてきたものだ。それをお前が働いて孵すことに何の不満がある? お前は確か、心を入れ替えたのではなかったか?」
死ぬ間際の彼に働く技能があるか、或いは無収入なりに慎ましい生活を送っていれば、彼の負担はとても小さかったはずだ。
「案ずるな、どれだけ時間をかけたとしても利子は膨らまない。死んだ時点で静止している。だがそれでも、今のお前にできる仕事では長い時間を要するだろう。お前が他人に押し付け続けてきた負担を返済し、罪を償うがいい」
最後まで彼は騒いでいたが、それでも裁判長の前から移動させられた。
金棒を持った、虎のパンツの鬼が足のない彼を裁判室の隅に移動させて拘束していた。
さて、次の人は私のすぐ前のひとだった。大分若く、おそらく学生だろう。
「お前は……雨の降る中、下校中に傘をさして道を歩いていたら落雷によって死亡したな。ふむ、では現世行きだな。何に生まれるかはめぐり合わせ次第だ」
「……え?!」
随分運のない学生だった。確かにそれは天国に行けるような死に様ではないが、それで地獄に落ちるのは明らかにおかしいだろう。
もちろん、人間だけではなく、他の多くの生物に生まれ変わる可能性もあったのだが。
しかし、その対応が彼には不思議な様だった。
「あの……俺、実は神様のミスで死んじゃったとか、そういうことはないんですが……」
「己の不運を呪う気持ちは理解できるが、別に我々は落雷など一々落とさない。お前達も知っての通り、あれはただの自然現象だ」
「お前には寿命がまだ残っているから、他の世界でそれを使い果たせとかは……」
「我らは人間の寿命など一々管理していない。生まれながらの肉体的な寿命はあっても、お前が言いたいであろう天命などない」
確かに、下校中に雷が落ちて死んだのであれば、それは神の失敗や天命という可能性を疑うだろう。それは彼に限ったことではないと、裁判長も認めている。
しかしそれでも、天国にも地獄にも落とすことはないと説明していた。
「じゃあ俺、ただの死に損ですか?!」
「まったく、不運な話だとは思うぞ」
「貴方が俺に謝って、『ミスで殺しちゃったから異世界で生まれ変わらせるよ』『何か特典をあげるよ』とかないんですか?!」
「何故落雷で死んだお前に私が謝る?」
心底不思議そうに、裁判長は聞いていた。確かに彼としては、謝る要素など一切ないだろう。
沢山いる死者のうち一人が雷に打たれて死んで、それでなぜ裁判官が謝るのかわからない。
「まさか、運命を我らが一々決めているとでも思っていたのか? お前達は予め決められた人生を歩み、そこに己の意思の挟む要素など一切ないとでも思っていたのか? だとすれば、こうして裁判をすること自体が無意味であろう。私達はあくまでも現世で償われなかった罪に罰を与える存在だ。お前達が犯した過ちも、積み重ねた負債も、すべてお前達自身の行動の結果だ。お前のように、学業に勤しんでいた者が不運にも死んだところで、それは現世に送り出すという選択肢しかない」
その言葉を聞いて、裁判室の隅で拘束されている肥満体の死者は歯を食いしばっていた。
お前が駄目なのは、何もかもお前の自己責任だ、と言われて愉快には思えないだろう。
「以上だ、次の死者……」
さて、ようやく私の番である。
死んでどれだけ時間が経過したのかわからないほど、死者の列に並んでいた。
それでようやく、裁きを受けることができる。
流石に悪徳を極めていたわけでもないので、現世行きだろうと期待する。
仮に親から継いだ遺産、医療設備分の労働をしていない、と言われたとしても先ほどの彼ほどには絶望的ではないだろうと思っていた。
その程度には、私も自分の人生に自信があった。
「……ん? おい、ちょっと待て、こい」
裁判長は、手元の資料を読んでいると顔をしかめていた。
いいや、一種青ざめていたのかもしれない。緊張からくる冷や汗を流しながら、周囲にいる鬼を呼んでいた。
そして、どんどん騒ぎが大きくなってくる。
「……おい、ちょっとこれ」
「不味いだろ、コレ……」
「裁判長、如何しましょうか……」
「これは……」
私の後ろに並んでいる死者たちも、なんだなんだと騒ぎ始めていた。
正直色々なことが曖昧なので、私も自分の事が不安になってきた。
「……うむ、どうやらそちらも曖昧なようだが……まず貴殿は」
いきなり、お前ではなく貴殿と、そう裁判長は言っていた。
「貴殿は、親から継いだ小さな病院を運営し、特に賄賂を受け取ることもなく仕事を務め、体が動かなくなるまで働き通し、痴呆になって以降は施設に預けられて天寿を全うした。審議の余地なく天国行きである」
そうか、私は痴呆だったのか。老人まで生きて、頭が先に限界を迎えたのだ。
だからこそ死ぬ前の記憶がしっかりしていなかったのだ。
しかし、天国行きというのならさほどの不満はない。基準が緩いとは思うが、ここまで騒ぐ理由がわからない。
「この裁判所に送られる死者は、すべて地獄行きか現世行きだ。天国に行くことが確定している者は、この列に並ぶことはない。つまり……貴殿が此処に並んでいることは、完全に我々の失態だ! 大変申し訳ない!」
いや、確かに手違いであることはよくわかった。
並ぶ列を間違えた、ということだろう。それ自体は謝罪が必要なのかもしれない。
しかし、いくら何でも謝りすぎではないだろうか?
「死者になった貴殿は、時間の感覚があいまいであろう。しかし、既に貴殿はこの道に何百年も並ぶという『罰』を受けてしまっている! 現世に生まれかわる者が我知らずに背負った罪を清算するための道のりを、天国行きの貴殿が支払ってしまったのだ!」
裁判長のさっきまでの言葉を聞いていると、地獄は生前に償われなかった罰を受けるところであるらしい。
ここまでの道も、ある種の罰ではあったようだ。
にもかかわらず、あの世の管理者たちは不当に罰を与えてしまったのだ、天国行きであるはずの私に対して。
「こうなってしまっては、我らは貴殿に、貴殿のままに『裁判所へ並ぶという返済』分の祝福を現世で受けていただくほかない!」
「え」
「え」
「え」
私も、私の前の二人も、いずれも硬直するほかなかった。
「我らの都合で申し訳ないのだが、貴殿には別の世界で生まれ変わっていただき、あの世で受けた負担分の恩恵を消費していただきたい!」
いやそれは……。
「ふざけるな、なんでジジイになるまで生きた奴が幸せになるのに、なんで俺が地獄行きなんだよ! ふざけんなボケ!」
「そうだそうだ! 俺だって本当は天国行きだったかもしれないだろ! もう一回審議しろ!」
自覚はないものの、老齢まで生きた身らしい。
特に不自由なく、世話をされたまま死んだらしい。
にもかかわらず、あの二人と違って自分は……。
「本当に申し訳ありません!」
まだまだ、生きていかねばならないようだった。