お兄ちゃんと呼ばないで
「拓人、テーピングテープ持ってたよね?ちょっと貸して」
ノックもせずにズカズカと乗り込んでくるような奴に誰が、という本音は口に出さず、
「上から2段目の右の引き出しだ。他は開けるなよ」
机に向かったまま、お目当ての物の場所だけ教える。一言言えば三言は返ってくる奴の相手なんかしてられるか。
「ボクに見られたらまずい物でも入ってるの?えっちな本とか」
「馬鹿野郎……って悠、お前、なんて格好してんだ!」
たまらず振り向いた先には、思わず目を覆いたくなるような立ち姿。下は足を剥き出しにした薄手の短パンで、上は明らかにサイズが3つは大きいTシャツ、ってそれ、俺のじゃないか。ショートカットの濡れた髪をそのままに、首から掛けたタオルが胸元に垂れ下がっている。こいつ、絶対下着付けてねえな。
「なに?欲情しちゃった?」
「誰が妹に欲情するかよ。風邪ひかない内にさっさと部屋に戻れ」
「たった30分早く生まれたくらいで兄貴ぶらないでよね。順番が逆なら、ボクがお姉ちゃんだったんだから。よっと」
「おいこら、なにベッドに座ってんだ」
部屋に戻れという兄の心からの忠告は、妹の心に全く響かなかったらしい。
「いいじゃん、ちょっとくらい。最近、拓人、バイトばっかりであんまり話してなかったしさ」
「わーったよ。でもとりあえず、それ着とけ」
羽織っていた薄手のパーカーを投げると、今度は素直に袖を通した。
「げー、拓人の匂いがするー」
「うるせーよ。で、テーピングテープなんかどうすんだ。怪我でもしたのか?」
「んー、ちょっと捻った、かな?痛みはそんなにないんだけどね」
ベッドに右足を乗せて、足首をぐるぐると回す。見る限り、確かに痛みはないようだ。というか我が妹よ。短パンでそのポーズはやめなさい。言えばまた煩そうだから口には出さないが。
「大丈夫だよ。見えてもいいやつだし」
「分かっててやってんのかよ!」
「拓人のむっつりにも困ったもんだよ」
「こっちのセリフだ!」
こんなんで嫁の貰い手はあるのかね。浮いた話はとんと耳にしないが。せっかくいい面に産んでもらってるのに、性格がこれじゃなぁ。未だに一人称ボクだし。
「拓人はさ」
「ん?」
「もうテニス、やんないの?」
悠の視線は、机に掛けたテニスラケットに向いていた。
「ああ、まあな」
「もったいないよ。去年、一年で県大ベスト8まで行ってるのに」
「あのなぁ、お前も知ってるだろ。俺は怪我でもうテニスは出来ないの」
「怪我って、ちょっと手首を捻挫しただけじゃん」
「ちょっとって、お前ねぇ。捻挫ってそんなに軽い怪我じゃねーんだぞ。癖になるし」
「やってやれないことないんでしょ?」
「出来ねーよ。ほら、もう部屋に帰れよ。ちゃんと手当てしとかないと、お前も走れなくなるぞ。大会、もうすぐなんだろ?」
「うん、二週間後」
「100だけか?」
「リレーも出ることになった」
Vサインをして、得意げに笑う。リタイアした人間の前でそういう顔するのやめろよ。俺じゃなかったら殴ってるぞ。
「おら、もう出てけ」
「ちょっと、押さないでよ」
悠を追い出してドアを閉めると、ラケットが目に入った。いつまでもこうしてるのは未練かな。そろそろ片付けよう。
秋季大会の結果、個人100m7位、100mリレー4位。
この成績をどう受け取るべきか。個人的には惜しかったとか、もうちょっとやれたとか、悔しい感じなんだけど、みんなはこの成績に満足してたみたいだから、まあいいか。先輩達が抜けた最初の大会としては上々の船出だ。競技場に見に来ていた拓人が素直じゃない言葉で褒めていたのを思い出して、思わず顔がにやける。
「あっ、拓人ーっ!」
丁度、都合よく廊下の向こうに姿を現した拓人に大声で呼びかけて、大きく手を振って駆け寄る。
「お前な、大声で名前呼ぶなよ。小学生じゃあるまいし」
「いいじゃん、別に 。それとも何?お兄ちゃんとでも呼んで欲しいの?」
「冗談でもやめろ。気色悪いから」
普段は兄と呼べとか言ってるくせに、こっちから振るとこれだ。
「拓人、今日はバイト、休みでしょ?たまには一緒に帰ろうよ」
「お前、部活は?」
「大会明けだから今日は全休」
「つかお前、たしか今日は進路指導の日だったろ?」
進路指導?何それ?
「進学か、就職か。来年のクラス分けにも関わるからよく考えておくようにって言われてただろうが」
えーっと……。頭に指を当てて、脳内検索ヒット数0という結果に行き当たる。
「お前、本当に聞いてなかったんだな……。どうすんだ、進路。何も考えてないってことはないよな?」
「ば、馬鹿にしないでよ!ボクだって進路くらい、ちゃんと考えてるし!」
「ならいい。あ、そうそう。今日は母さん、遅くなるそうだから先に晩飯食っといてくれってさ」
「なにそれ。ボク、聞いてない」
「お前がギリギリまで寝てるからだろうが。先に帰って用意しとくから、寄り道せずに帰ってくるんだぞ」
高いところから頭を撫でられる。まるで子供扱いだ。昔は同じくらいだったのに。小学校5年生くらいまで……。
その頃から、あまりケンカもしなくなった。お父さんが亡くなったのも、丁度その頃だ。
「子供扱いしないでよ。ボク達、同い年でしょ!」
「俺はお前の兄貴だからな」
「だから、たった30分早く生まれただけで偉そうにしないでよ」
「はいはい。じゃあ、車に気を付けて帰って来いよ」
「だから!」
結局、抗議は実らず、最後まで子供扱いのままだった。
「それで、篠原は進学希望か」
「はい。ボク、保育士になりたくて」
「保育士は就職口もないし、出来ても薄給で激務をこなさなきゃならんって話だが、それでもか?」
「はい」
「まあ、お前がやりたいというのなら構わんが、一応、駄目だった時のことも視野に入れておけよ」
そこまで言うと、進路指導は終わりとばかりにファイルが閉じられる。一見、ぶっきらぼうだけど、意外と生徒の事をよく見てて、意外と親身になってくれるこの先生が担任で良かった。
「それで、篠原はどうして保育士になりたいんだ?」
「あー、えーっと、言わなきゃダメですか?」
「駄目ってことはないが、一応な。知ってりゃ力になってやれる事もあるかも知れんし」
「そうですね……。ウチには父がいないんです。5年生の時に亡くなって。それから母はずっと働きに出てまして」
もし一人だったら、寂しい思いをしたかも知れない。
「ボクには拓人が、あ、兄がいたから良かったんですけど」
親から離され、保育所に預けられる子供達が少しでも寂しくないようにしたい。それが志望動機だ。
「そういえば、篠原拓人とは兄妹だったな。あまりに正反対だから、すっかり忘れてた」
「正反対……ですか?」
双子なのに似てないとはよく言われる。二卵性で、しかも性別まで違うんだから当たり前じゃん。でも、正反対と言われたのは初めてだ。
「そんなに似てないですか?」
「まあな。まあ、似てるところがないでもないが」
「どの辺がですか?」
「本当に言いたい事は言わないところ」
本当に、困ってしまうほど、よく見てる。
「兄妹なんだから、たまにはぶつかってみてもいいんじゃないか?」
「考えておきます。それじゃ、正反対なのはどの辺ですか?」
「主に成績。あーあ、お前らの成績がせめて逆なら楽が出来たんだがなぁ」
「お手数お掛けします」
これにはもう苦笑いを浮かべるしかない。
「あれ?先生、それってどういうこと?」
「ん?ああ、聞いてないのか。あいつは――――」
玄関のドアを開けると、いい匂いがした。お母さんが遅くなる時は、大体こうして拓人が夕飯の準備をする。それが当たり前になっていた。同い年で、同じ学校に通ってるのに。
怒りに任せてキッチンのドアを開くと、もう何年も前から差がつき始めた大きな背中が見えた。
「おう、おかえり。まだしばらく掛かるから、先に風呂入って来いよ」
時間はまだ5時を過ぎたばかりだ。この時間から夕飯の準備って、一体どれだけ手の込んだ料理を作っているのやら。
「ん?どうした?」
動く気配を見せないことに気付いたらしく、拓人が手を止めて振り返る。ボクの顔を見て、困ったように笑う。
「何怒ってんだよ」
「話があるんだけど」
鞄を下ろしてテーブルに着く。ボクの本気を見て取ったらしく、拓人はコンロを止めて、正面の椅子に座った。
「それで、話ってなんだよ」
「拓人、就職するんだって?」
「どこで聞いた?」
「学校で。進路指導の時に先生が教えてくれた」
「そっか」
「なんで?」
「おかしいか?うちの学校、4割は就職組だぞ?お前と違って、別に俺は進学してやりたいこととかないしな」
「嘘吐かないでよ!」
カッとなって、思わず大きな声が出た。
あれもこれも、全部嘘。拓人が本当は小学校の先生になりたいって、ボクは知っている。お父さんが亡くなった時、立ち直るきっかけをくれたあの先生みたいになるんだと、中学生の頃に言ってたのを覚えてる。
「そんなの、昔のことだろ。時間が経てば気が変わることだってあるよ」
「なんでそんな嘘吐くんだよ……」
聞かなくたって、その理由は分かってる。
「テニスを辞めたのだって、本当はバイトする為なんでしょ?」
「今日はやけに噛み付いてくるな。どうした?何かあったのか?」
「はぐらかさないで。それに、子供扱いしないで」
「そりゃするよ。なにせ、俺はお前の兄貴だからな」
「だから、それやめてよ!」
ほとんど叫ぶように、拓人の口を塞ぐ。
『お兄ちゃんなんだから』
その言葉がどれだけ拓人を苦しめてきたのか、よく知ってる。双子なのに、生まれた時間はほんの30分しか違わないのに、たったそれだけのことで拓人はずっと我慢を強いられてきた。
今も、自分のやりたい事を諦めて、ボクの進学を優先させようとしている。確かに経済的に余裕はなく、進学するにしても二人に一人だ。でも、だからって、どうして拓人が我慢しなきゃいけないの?どうして一言、相談してくれなかったの?
「お前の言いたいことは分かったよ」
ため息を吐いて、拓人は苦笑した。
「でも、お前は一つ勘違いしてる」
「何がよ」
「お前が言う通り、小学校の先生になりたいって気持ちは確かにある。でもな、俺が就職を決めたのは、別にお前の為だけって訳じゃない」
「じゃあ、何よ?」
「早く母さんを楽にしてやりたいんだ」
ずっと、女手一つで二人を育ててきたお母さん。ずっと働きづめで、今日も帰りは遅くなると言う。まだ老け込む歳でもないのに、積み重なった疲労は顔に出て来ている。
「だったらボクだって!」
「いや、お前は進学しろよ。保母さんになりたいんだろ?」
なんで知ってるの?とは言わなかった。ボクが拓人の希望を知ってたんだから、拓人がボクの事を知ってたって、別に不思議じゃない。性別が違っても、二卵性でも、ボク達は双子だから。
「それくらいの余裕はあるよ。だから、遠慮すんなって」
「出来ないよ……!なんでボクだけ、そんな……」
「そりゃだって、俺は兄貴で、お前は俺の可愛い妹だから」
それが今一番聞きたくない言葉だと知ってるくせに、拓人は笑いながらそれを口にした。感謝以外の何が出来るというのか。
「ありがとう、お兄ちゃん……」
あまりにも恥ずかしくて、消え入るような声で言う。顔は沸騰したみたいに熱くなるし、恥ずかしくて拓人の顔は見れないし。
「初めて言われたけど、お前にそう呼ばれるとやっぱり気色悪いな」
心底嫌そうに顔を歪めて、拓人はボクが心から言った言葉を足蹴にした。
「なんだよ!ボクがせっかく呼んであげたのに!」
「いや、だからやめろって言ったろ」
「嫌だね!今度からずっとこう呼んでやる!お兄ちゃん!」
「おいバカやめろ!」
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!」
「やめろおおぉぉぉ!」
耳を塞いで逃げる拓人を追い回しながら、何度でも呼び掛ける。二人して喉が枯れるまで、鬼ごっこは続いた。それで、ようやくボク達は兄妹になれた気がした。
本作品を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この作品は『双子』『不幸な結末』というお題を頂いて書いたものです。
どこが不幸な結末だったのかは、読んで下さった皆さんの判断にお任せします。
お題から話を作るのはとても楽しかったので、今後も続けていきたいと思います。