第七話「火事」
芦屋と別れてから、新たな悩みの種を植えつけられてしまった俺は、うつむき加減で足を進めていた。
──さっき彼が言っていた言葉がひっかかる。芦屋は何故か天使のことを知っていたし、それにあのアプリ……。
脳裏に浮かぶのはアゲハ蝶を象ったマークと「Butterfly」というタイトル。
安眠誘導のヘルスケアアプリらしいが、彼の様子を見る限りどうもそれだけではないようだった。
もしかしたら、俺の知らないところで何か大きな物が動き出しているのではないだろうか?
そして、あのアプリはその片鱗に過ぎないのでは?
そんな考えが頭をよぎり、言い知れぬ不安が湧いて来る。
──それでも、俺には関係ない。俺はただ自分の使命を果たすだけだ。
そう言い聞かせ、無理矢理片付けてしまおうとした時、椚原さんが声をかけて来た。
「春川くん?」
「え?」
「なんか、難しい顔してるね?」
「ああ、まあ……」
先ほどと同じく俺は曖昧な返事をする。
「ふうん……?」
彼女はやはり不思議そうにこちらを見返していたが、かと思うと何故か突然足を止めた。
どうしたんだろう、と俺も立ち止まり気が付く。
俺たちは、もう学園の女子寮の前まで来ていたのだ。
寮と言っても建物自体はあまり綺麗ではなく、一見するとただの古いアパートだ。というか、実態も似たような物で管理人が寮母さんに、住人が学園の生徒に代わっただけである。
学園指定の寮は街の中と学園内にあり、男女でそれぞれランク分けされていた。俺の住んでいる男子寮も今目の前にある女子寮も、共に「第三」という称号を冠しており、一番グレードの低い物になる。
また、どちらの寮の庭先にも梅の木が一本植えられており、これはよく言う「松竹梅」に由来して各寮の庭に対応する物を植えているのだとか。
「じゃあ、また明日ね」
「ああっ、また」
笑顔を取り繕って、椚原さんに手を振り返す。
彼女は古びたブロック塀に囲われた寮の入り口へと駆けて行った。
と、思ったら、すぐに立ち止まってこちらを振り返る。
「ねえ、春川くんって今日この後暇?」
「え? 一応予定はないけど……」
「じゃあさっ、一緒にパブロフの散歩に行こうよ! さっそく撫で回させてあげるからっ!」
最後に「それはもうモッサモッサと!」と付け加える椚原さん。
いきなり「パブロフ」と言われてもすぐにはピンと来なかったものの、それがさっき見せてくれた写真に写っていたゴールデンレトリバーの名前だということを思い出した俺は、この申し出を受けることにした。
「いいの?」
「うん! お安い御用ですたい」
「ありがとう。じゃあ、ここで待ってたらいいかな?」
「そうしてー! すぐ支度して来るからっ」
そう言うと、彼女は今度こそ塀の向こうへ走り去る。
大きなリュックを背負った後ろ姿を見送った俺は、取り敢えずその場に立ったまま椚原さんが戻って来るのを待つことにした。
ただ何もしない待つのでは暇なので、時間を潰す為に〈スマートフォン〉を起動させる。
それから、先ほど芦屋が言っていた「胡蝶の夢」という言葉を思い出しついでに調べてみることにした。
検索エンジンを立ち上げ、キーワードを入力する。
わずか数秒後にいくつか検索結果が表示され、俺はその中の一番上に出て来た百科事典サイトを開いた。
そのサイトの解説によれば、「胡蝶の夢」とは大昔の中国の思想家荘子による説話の代表作であるらしい。
しかし、そんな物をどうして彼は口にしたのか。あの「Butterfly」というアプリケーションと何か関係があるようだが……。
と、なんだか余計によくわからなくなって来たその時、不意に背後から声をかけられる。
「君、女子寮の前で何をやってるんだ?」
凛とした女性、というか少女の声。
よもや痴漢にでも間違われたわけじゃないよな、と思いつつ俺は慌てて振り返る。
すると、道路に立ってこちらを見ていたのは、赤い腕章をした見覚えのある女生徒──梔子茉莉先輩であった。
この間邂逅を果たした時と全く同じ格好をした彼女は、振り向いた俺の顔を見て悪戯っぽく笑う。
俺は取り敢えず「胡蝶の夢」については置いておくことにして、手の中の〈スマホ〉を停止させた。
「やっぱり、この間の。こんなところで何をしているんだ? 覗きか?」
「あ、どうも……違います。友達を待ってるんですよ」
そう答えると、梔子先輩は合点がいったようだ。
「ああ、あのサインの娘か。
随分仲がいいみたいだが、アレか? 俗に言う不純異性交遊という奴か?」
「それも違います。そういう関係ではありませんので」
「そうか、ならいいが……もしそうなら節度をわきまえるんだな。あまりアレだと、ほら、鉄拳制裁を喰らわせなければならなくなるから」
笑顔で言いながら、すでに拳を握り締めいる辺りが恐ろしい。彼女の剛腕ぶりをもう二回も目の当たりにしている俺にとっては、全く笑えないセリフである。
俺は「そうではないですが気を付けます……」と答えてから、話題を変えることにした。
「先輩は、今日はどうしたんですか? 寮ここじゃないですよね?」
確か、今の生徒会役員は全員、学園の敷地内にある第一寮に下宿しているのだと聞いたことがある。それに、もし梔子先輩がここに住んでいたならば、椚原さんは感激のあまり彼女の様子を逐一報告して来そうだし。
「ああ、私は第一寮だからな。生徒会の見回りの最中に、怪しい奴を発見して声をかけただけだよ」
「怪しい奴って……。というか、毎日ご苦労様です」
と、苦笑しながら言った時、俺はあることに気付く。
──生徒会はこの街のありとあらゆる情報に精通している。ひょっとして、今俺が求めているのはこれなんじゃないのか?
生徒会の持つ情報網を得ることができれば、コラプサーの発生を完全に予測──とまでは行かなくても、ある程度見当を付けて対処できるかも知れない。
何より、彼らが味方であれば椚原さんを護る為の行動も取り易くなるかも。
……いや、そんなに簡単な話でもないか。だいたい、味方につけるといってもどうすれば……。
役員に立候補するという手もあるが、確かもう役員募集の期間は過ぎてしまっているはずだし。
「おーい、どうしたんだ?」
「えっ」
「急に黙り込んで、何か考え事か?」
先輩は怪訝そうに俺の顔を覗き込んでいた。
我に返った俺は、「まあ、そんなところです」と慌てて答える。
彼女はまだ不思議そうに顎に手を当てていたが、特にそれ以上の追求を受けることはなかった。
「ふむ、まあいいが。
ところで、例の天使のこと、誰にも喋ってないだろうな?」
「はい、誰にも……」
答えかけたところで、芦屋の名前が浮かぶ。もちろん、彼に話したというわけではないが、芦屋はネフィリムのことを知っていた。
それに、他にも気になることを言っていたし……。
「言っていません」
いや、今はまだあいつのことは言わない方がいいだろう。もしかしたら、あれば本当にただの安眠導入アプリで「天使」というワードが飛び出したことも単なる偶然かも知れないし。……それそれで異常なことには変わりないが。
「そうか、なら安心だ。
では、私はそろそろ見回りに戻るとしよう」
そう言って、梔子先輩は俺たちの歩いて来た方へ体を向ける。
と、すぐに何かを思い出したように足を止め、首を曲げて振り返った。
「そうそう、どうやら近くで火事が起きてるみたいだな」
「火事、ですか?」
「ああ。異常なほど煙も上がっていたし、何やら騒がしかったから。たぶん、まだ消防も到着してないんじゃないか?」
「はあ、それは大変そうですね」
思ったことをそのまま言って相槌を打つと、それを聞いた生徒会副会長はくすりと小さく笑う。
「まるで他人事だな」
「あ、いえ、そういうつもりでは」
「いいんじゃないかな。野次馬みたいなのに比べれば、私はその方がマシだと思うよ」
それから彼女は「それじゃ、今度こそこれで」と言って左手をひらりと挙げると、再び歩き出すのだった。
やたら姿勢のいい後ろ姿をしばらく見送っていると、寮の方からバタバタという足音が聞こえて来る。
「ごめんっ! お待たせー!」
声の主は言うまでもなく椚原さんだ。
彼女の方に顔を向けると、支度をして来たという割にはリュックを背負っていないというだけで後はさっきと全く変わらない格好だった。
「って、あれ⁉︎ あの見目麗しき後ろ姿は、もしや梔子先輩!」
もう遠くにある先輩の姿を発見したらしく、椚原さんが驚いた声を上げる。
「ああ、うん。見回りの途中らしいよ」
「てことは、春川くん話したの⁉︎ いいな〜、生徒会ポイント超溜まってるじゃん! けしからん!」
「何だい? そのポイントは」
彼女は口惜しそうに、先輩が去って行った曲がり角を見つめていた。
と、俺はその様子を見ておかしなことに気が付く。
「……あれ? パブロフは?」
確か犬の散歩に行こうと誘われていたはずだが。見たところゴールデンレトリバーなんてどこにも見当たらない。
「え? ──あ、そうだった!」
これには何か理由かあったのか、椚原さんは思い出したような声を上げた。
「火事! 商店街で火事なんだって!」
「……え、それで?」
「こうしちゃいられないよ! 見に行こう!」
おかしい、微塵も理由になってない。
しかも、不謹慎なことに彼女は抑えきれぬ好奇心によりキラキラと目を輝かせている。
なんとなく、初めから無駄な気はしたけど、俺はもう一度だけ尋ねてみることにした。
「えっと、パブロフの散歩はよかったの?」
「え、うん。だってパブロフには毎日会えるけど、火事とは一期一会だし」
「その言い方、被害者にどつかれても文句言えない程度には不謹慎だと思うよ?」
と、指摘してみたもののやはり椚原さんの中ですでに決定事項となっていることを覆せるはずもなく、結局俺たちは犬の散歩ではなく火事の現場へ野次馬をしに向かうこととなる。先ほど遠回しに釘を刺されたばかりなのだが……こうなってしまっては仕方ないか。
──商店街は蜻蛉の中でも古い建物が多くあり、メインストリートと比較するとかなり寂れた区域となっていた。市街地側の開発が進む一方で取り残されてしまった形となっており、商店街とは言ったもののほとんどの店がシャッターを下ろしてしまっている。
また、俺たちが今来ているのはアーケードの外になる通りであり、あちらよりも店の間隔は疎らだ。取り壊してしまった建物もあるらしく、ところどころ四角くて狭い空き地があったり、中には崩している途中で放置されているような物もあったりした。
しかし、それは普段の話であり、この日に限っては様子が違う。
黒煙を巻き上げて炎上する二階建ての家屋と、その様子を遠巻きに見つめる近隣の住民や野次馬たち。
発生からまだそれほど経っていないのだろうが、もうすでに二階部分は焼き落ちてしまいそうだった。幸い、この建物の両隣は空き地であり、火が周囲に燃え移る心配が少ないことだけが救いか。
野次馬からさらに数メートル離れた場所に立ち、俺たちは火災の現場を眺める。
「うわ、凄い燃えてるね。……なんか、一期一会とか言ってたのが申し訳なくなるくらいガチな奴だったよ」
椚原さんは今更反省し始めているらしく、さっきまでと打って変って一気にローテンションとなっていた。
それにしても、どうして火事になったんだろう?
出火原因が気になるが……。
同じことを考えている人は多いようで、ひそひそと火事になった経緯や被害はどうなのかこの家の住人は無事なのか、みな不安げに囁き合っている。
商店街にある建物は一階部分が店舗で二階や三階が居住スペースなり倉庫なりになっている物が多く、火事が起きている家屋──以前は何かの店だったみたいだが、今は営業していないらしい──も同じ作りのようだ。
ということは、中で生活していた人が少なからずいたはずだが、もうすでに避難できているのだろうか。この場にいる誰もが住人の安否を心配しているはずであった。
そんな中で。
何故か俺は、嫌な予感がしていた。
言い知れぬ胸騒ぎのような物がして、なんとなく落ち着かない。
──なんだ、何かがおかしい。
とにかく、このまま野次馬をしていても仕方ないし、椚原さんに言ってこの場を去った方がいいんじゃないか?
そう判断し、俺は彼女に声をかける。
「あの、そろそろ俺たち戻らない?」
「え? まだ来たばっかなのに?」
「ああ。なんというか、野次馬とか性に合わなくて……」
こちらを見上げる椚原さんになんとか切り返して誤魔化そうとした、その時だった。
決して逃れることのできない運命が、再び俺たちに牙を剥いたのは。
──轟々と焔の上がる家屋が、突然爆発を起こす。
瞬間悲鳴が上がり、誰もが頭を庇う。
しかし、爆風が運んで来たのは瓦礫や灰ではなく、ありとあらゆる物を塗り潰すかのような暗闇その物だった。
「ぐっ……!」
両腕で顔を庇いながら、どうにか瞼を開いた俺はその光景を目の当たりにして愕然とする。
──この爆発、そして黒い煙は……コラプサー!
一瞬にして辺り一帯は暗闇に閉ざされ、俺たちの逃げ場をなくすように黒い壁が通りの先にも後ろにも立ち塞がった。
でも、いったいどうしてコラプサーが起きたのか。……まさか、この火事は誰かの自殺によって引き起こされた物なのか?
なんにせよ、これはかなりまずい状況である。
コラプサーに巻き込まれたというだけでも当然危険なことだが、それに加えて火事まで起きているのだ。このままだと、ろくな消化活動すらできないままあの建物は完全に焼け落ちてしまうかも知れない。
俺以外の野次馬たちもコラプサーに巻き込まれてしまったことに気付き、この間と同じようにみなパニックに陥っていた。悲鳴を上げたり怒鳴ったりしながら、押し合いへし合い通りの左右に散って行くが、すぐ完全に閉じ込められてしまっていることを知りその場に崩れ落ちる者が大半だ。
彼らの様子を目にした俺は、とにかく椚原さんを安全を確保する為に彼女に声をかける。
「俺たちも、逃げよう!」
「う、うん。でも、どこに行けば……」
そうだ、この中に本当の意味で安全な場所など存在しない。
けど、立ち止まっているわけにはいかないんだ。少なくとも、ここにいたらやばい。
俺は彼女の手を引いてさきほと来た方へと走り出した。
すると、その直後、視界の中の至るところからあの花が芽を出し始める。
銀の花弁を持つコスモスは瞬く間に背を伸ばして行き、道路から店の壁から屋根の上から、ありとあらゆる場所で咲き乱れた。
侵蝕が、着実に進んで行く。
──気にするな、今は考えるんだ。
どうすれば、椚原さんを護ることができるのかを。
走りながら周囲を見渡す俺の目に、古い駄菓子屋が映った。
この商店街の店で特に古い物に多いのだが、一階部分はシャッターを上げてしまえば特に壁やドアといった仕切りはなく、開け放した状態となっている。なので、店内の様子は通りからでもよく見えるのだが、その駄菓子屋は灯りを点けいないのかと思えるほど薄暗く一人も客がいないらしかった。
──ひとまず、あそこに……。
俺は急体にブレーキをかけながら曲がり、彼女の手を掴んだまま右手に見える駄菓子屋の店内へと入る。
「は、春川くん、ここは」
外から見るよりもさらに暗い店の中で、椚原さんはキョロキョロと辺りを見回す。
今時まだ存在したということ自体がびっくりなほどレトロな雰囲気の店内には、左右の壁と真ん中に置かれた棚に様々な昔ながらのお菓子が陳列されていた。もし今がコラプサーに巻き込まれていなければ、もう少しノスタルジックな気分を味わっていたかったがそうも行かない。
彼女の言葉には答えず、俺は握ったままの手を引っ張って奥へと進んだ。
駄菓子の並んだ棚の間を抜けるとレジがあったが、そこには誰もいない。
どうしたものか少し迷ったが、結局俺は声をかけてみることにする。
「あのぉ、すみません」
あまり大声になりすぎないように注意しながら、レジの向こうに見える暖簾のかかった通路に向けて言うと、数泊置いてから返事が来た。
「はいはい……ちょっと、待っとくれ」
言われたとおり待っていると、数秒後、暖簾を押し上げて現れたのは店主であるらしいお婆さんだった。
ほぼ直角に腰の曲がった彼女は杖を突きながらレジへやって来ると、カウンターの向こうに置かれた椅子に腰下す。
「なんだい、お会計かい?」
小さな丸眼鏡をかけ直しながらこちらを見上げる彼女に、俺は首を横に振った。
「いや、違うんです。えっと、ちょっとこの娘をここに居させてもらえないでしょうか?」
「春川くん?」
俺の意図を読み取ったのか、椚原さんは驚いたように声を上げる。
しかし、俺はこれも敢えて無視して老店主の顔をまっすぐ見返した。
「お願いします」
「……別に、何も問題なんかないさね。どうせ客なんて来ないんだ。好きにしなよ」
むしろなんでイチイチそんなこと聞いて来るんだと言わんばかりに、彼女は答える。
俺は安堵の息と共に礼を言った。
「ありがとうございます」
「構わないさ。
ところで、なんだか外が騒がしいけど、何かあったのかい?」
と、表通りに目を向けながら店主は俺たちに尋ねる。どうやらこの人はコラプサーに巻き込まれていること自体をまだ知らないらしい。ということは花の姿も認識できていないのだろうから、プラントになる可能性も低い。この状況ではこれ以上ないというくらい安全な人間だ。
「さあ? そういえば、近くで火事があったみたいですよ。それじゃないですか」
と、俺は何気ない様子を装って答え、それから椚原さんに顔を向けた。
それと同時に、彼女もこちらを見上げ見つめ返して来る。
「ごめん、ちょっとここで待っててくれる?」
「どうして? 春川くんも一緒にいればいいのに」
潤んで瞳で言われ、暫時答えに窮した。
どんな風に言えば納得してもらえるのか。
逡巡の後、結局俺の口から出たのは見え透いたデタラメだった。
「友達が、いたような気がしたんだ。あの野次馬の中に。……それで、心配だからちょっと様子を見てくるよ」
「だ、誰それ! そんなの聞いてないよ! なんでウソ吐くの!」
やはり、椚原さんは、俺がやろうとしていることまではわからないものの何かを察しているらしい。
繋いだままだった右手に力を込めて、彼女は咎めるようなそれでいて不安げな視線を送って来る。
俺はさらに困って目を逸らした。
と、棚に並んだ駄菓子の中にある物を見つける。それは、砂糖だけで味付けされたような小さなドーナッツが一パックに四つ入ている、昔ながらの──この店にある商品は大抵そうだろうが──お菓子だった。
「……ミニミニドーナッツ」
「え?」
「俺、あれが好きなんだ。だから、その、後で友達と一緒に食べたいから、買っておいてくれないかな?」
これで誤魔化しきれる気はしなかったが、どうにか納得してくれないだろうか。
珍しく眉をひそめてじいっとこちらを見続けている椚原さんに、俺は笑顔を向ける。
「必ず戻ってくるから。……ミニミニドーナッツくらいじゃ、フラグになんてならないだろ?」
「……そう、だよね」
彼女は納得、というよりも諦めたように呟いて目を伏せた。
握っていた手から力が抜けたの感じ、ここは容赦なく手を離す。
「じゃあ、行って来るよ」
「うん……」
浮かない声を聞いてから、俺は駄菓子屋の店内から外へ向かった。
その間際、背中の方から声をかけられる。
「私も……私もドーナッツ食べたいから、後で奢ってよね」
「ああ、そうする」
振り向かずに答え、俺はいよいよ表の細い通りへ出た。
体の向きを変えてさっき走って来た方を見ると、すでにだいぶ花の侵蝕が進んでいるらしく、そこには五体ものプラントの姿があった。
上半身を無数の木の根で覆われた彼らは、ゾンビのような足取りで体を揺らしながらこっちの方へ歩いて来る。中には触手のような長い根を一本伸ばしている者もおり、獲物を探し空中で鎌首をもたげていた。
プラントたちは元々は商店街の人間だったらしい個体もいれば、余所からやって来た野次馬が変異してしまったらしい個体もいる。しかし、生前の面影はもはや服装だけしかなかった。
そう、プラントになってしまった人物は脳が崩壊して死んだ状態であり、もう生きた人間ではない。それは普通の脳死状態とは全く違い、よって彼らを殺すことはなんら罪に問われる行為ではなく、だからこそフリーファイターたちによる戦闘は成立している。
──こいつらはもう人間じゃない。……俺は、躊躇わない。
俺は心の中で誰にともなく宣言すると、目線の高さくらいの位置に右手を挙げた。
すると、すでにペンを握る時の形にしてある指の間に黒いもやが集まり、それは瞬く間に節くれだっだ人の指のような物へと変化する。
数秒も要さずに、「神の指」のリロードが完了した。
「……執筆」
迫り来る五体のプラントたちを睨みながら、俺は静かに呟く。
そして、この間と同様大げさなポーズを取りながら、腕を振るい赤い文字を紡ぎ出した。
違いがあると言えばその大きさであり、前は普段書くのとあまり変わらない程度だったのが、今回はスプレーで壁に落書きするみたいに豪快に書き出す。
〈来い〉
たった二文字を書いただけで、彼は要望どおり現れてくれた。
巨大な翼を広げて降り立った黒い天使は、宙に浮かんでいた赤い文字を左手で鷲掴みにし、そのままそれを握り潰す。
文字の破片が花びらの舞うように飛び散り消えて行くと、俺に背中を向けるようにして、ネフィリムが道路に片膝をついていた。
創造物の後ろ姿を見つめる俺は書き加える力を発動させた為、今は路面に現れた光り輝く魔法陣の上に乗っている。さっきまでいた場所と同じところに立ってはいるが、この状態の俺の姿は二日前と同じで、他の人間やプラントには視認できないようになっていた。
ネフィリムは膝を伸ばして立ち上がると、鋭く尖る風切羽を収納しながら翼を折りたたむ。
──さっさとこの空間の主を見つけ出して始末しなければ。
改めて、俺は「神の指」を握る手を構え直した。