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アカシックシード  作者: 若庭葉
Season1「Butterfly」
8/47

第六話「不眠」

 十年ぶりにコラプサーに巻き込まれ、そして「神の指」の力を使い椚原さんを助けた日から二日後、再世八年五月十一日。


 放課後になり、いつもどおり無数の〈ウインドウ〉の浮かぶ空の下を歩きながら、俺は顎に手を当てて考え込んでいた。

 ──世界を書き換えることはできても、運命までもを捻じ曲げることは不可能。つまり、これから先も椚原さんはコラプサーに巻き込まれ続ける。

 その度に「神の指」を使って助けるのはいいとして、問題はそれがいつ起きても対応できるように、常に彼女の身の回りで目を光らせておかなければならないといことか。

 この間はたまたま一緒に巻き込まれたからよかったものの、もし俺のあずかり知らぬところで発生してしまったら、後から書き加えることも不可能だ。

 そもそも、能力の及ぶ範囲外、この街から遥か遠くで起きた場合はどうすることもできないし、やはり常に椚原さんの動向には気にかけている必要がある。

 こう考えてみると、今更ながら簡単なことではないように思えて来た。


「うーん……」


 自然と唸り声が出てしまう。

 我ながら、なかなかに前途多難だ。

 と、隣を歩いていた彼女が、不思議そうにこちらを見上げていることに気付いた。


「どうしたの、春川くん。悩み事?」


 背負っているリュックのベルトを握りながら、椚原さんは笑顔で首を傾げる。セカンドリアリティが普及した現代では教科書などもデータ化された物を使うのが一般的であり、ノートや筆記用具も基本的に必要ない。よって、カバンに入れる物なんてたかが知れているわけで、基本的にみんな細めのスクールバッグやボディバッグなんかを使っているのだが……彼女の大きなリュックの中には何が入っているのか、いつも不思議でならなかった。

 うん、君を助ける為に悩んでるんだ、なんて風には答えられないので、俺は「まあ、ちょっとね」と曖昧な返事をする。

 彼女は「ふうん」と納得したのかしてないのかよくわからない反応をしてから、何かを思いついたような表情になった。


「じゃあじゃあ、落ち込んでる春川くんにいい物見せてあげる!」

「いい物?」


 いつの間にか「悩み事がある」が「落ち込んでいる」に変わっていたが、それは気にしないでおこう。

 俺が聞き返すと、椚原さんはおもむろに右の掌を上に向けて返した。


「うん、これだよ!」


 快活に答える彼女の手の上の空間が揺らめき、そこに一葉の〈写真〉が出現する。脳内に保存していた画像を引っ張り出して来たのだろう。

 椚原さんの言う「いい物」とはこの〈写真〉のことらしく、手に持って差し出して来た。

 なんだろうと思いながら、俺はそれを受け取る。

 〈写真〉に写っていたのは、大きな犬──確かゴールデンレトリバーという犬種だったか──と小さな黒猫に囲まれて無邪気に笑う、彼女の姿だった。


「うちの寮で飼ってる黒猫のシュレディンガーと(ゴールデン)のパブロフだよ! 可愛いでしょー!」


 なるほど。

 誰が付けたか知らないが、凄いネーミングセンスだ。


「う、うん、可愛いね」

「でしょー? 私が名前つけたんだよー?」


 そんな気はしていた。


「そうなんだ。

 凄いね、ありがとう」


 礼を言いつつ写真を返す。

 椚原さんなりに気を遣ってくれたのだろう。その優しさだけで充分だった。

 一度は彼女を失った俺だったが、「神の指」の力によりこうして取り戻すことができた。今は、ひとまずこの幸せな時間を噛み締めていよう。


「女子寮ってペット飼っていいの?」

「うん、みんなで世話してるんだよ。でも、学校あるからほとんど寮母さんに任せっきりなんだけどね」

「なるほど。まあでも、それは仕方ないんじゃない?」


 そんなわけ他愛ない会話に興じていた俺は、ふと数メートル先にある歩道橋の上に目を向けた。

 そこには、縁なし眼鏡をかけた男子生徒が一人、その真ん中辺りに立ち止まって暗い顔をして車道を見つめている。俺は、彼に見覚えがあった。

 あれは確か、二日前にカツアゲに遭っていた──芦屋とか言う名前の男子生徒だったか。

 あんなところで何をしているのだろうか?

 表情が表情なだけに、自殺志願者が死の直前にこの世を儚んでいるように見えなくもない。

 そんな風に思っていると、椚原さんも彼の存在に気が付いたのか足を止めた。


「は、春川くん、あれ……」

「ああ、この間の人だね」

「……は」

「え?」


 何故か、彼女は急にうつむいてしまう。いったいどうしたんだろうと、尋ねかけ時──。


「は、早まるなぁぁぁ!」


 急にそんな叫び声を上げるやいなや、椚原さんは歩道橋の方へ走り出してしまった。


「椚原さん⁉︎」


 慌てて俺もその後を追う。


「早まっちゃダメ! ストップ、ユー(止まれあなた)!」


 いかにも彼女らしいいい加減な英語で言いながら、椚原さんは階段を駆け上がった。ある意味火事場の馬鹿力という奴なのか、予想を飛び越えた脚力を発揮されなかなか追い付けない。

 そうこうしているうちに彼女は橋の部分へ到達しており、眼下の車道を眺めていた芦屋へ向かって一気に駆け抜けて行く。

 と、彼もこちらに気付いたらしく、椚原さんの方に顔を向けて驚愕に目を見開いた。


「え……⁉︎」

「早まるなっつってんだろー!」


 何故か怒り口調で言い放つと共に彼女は歩道橋を蹴飛ばしてジャンプし、そのままミサイルみたいに芦屋の元へお飛んで行く。

 そして、顔の前で腕をバッテンの形にして、見事なジャンピングクロスチョップを彼に叩き込むのだった……。

 そんなわけで、俺が二人の元へ辿り着いた時には、仰向けに転がされている芦屋と、クロスチョップの体勢のままの倒れている椚原さんという、よくわからない構図が目の前に広がっていた。という、人間ってあんな風にまっすぐ飛べるのもなんだな。

 取り敢えず、芦屋を起こしてやるべきか。

 俺は彼に近付いて手を差し伸べようとした。

 が、それよりも先に椚原さんが復活し、立ち上がると共に芦屋の首を両手で掴んで無理矢理上体を起こさせる。

 今度は何をする気なのかと思っていると、彼女は状況を理解できていない様子の彼の体を、ぶんぶと激しく揺さぶるのだった。


「自殺とかよくないよ、本当! 誰もそんなこと望んでないんだよ! 腐ったミカンかよこの馬鹿ちんがぁ!」


 目元に大粒の涙すら浮かべながら、椚原さんは一気にまくし立てる。しかし、彼女が握り締めているのは彼の首であり、力説する度に手にも力が入って行くらしく、彼の顔色はみるみるうちに悪くなって行く。


「く、椚原さん、首! 締まってるって!」

「へ?」


 俺の声を聞いた彼女がようやく手を止めた時にはだいぶ締まった後だったらしく、芦屋は死人のような青い顔になっており白目を剥いて天を仰いでいた。


「あれ……?」


 我に返った様子の椚原さんは、キョトンとした表情で気絶しかけている男子生徒を見つめる。

 彼女が襟首から手を離すと、支えを失った芦屋の体はまた歩道橋の上に倒れてしまうのだった。


 ──で、それから何分か後。


「スミマセン、勘違いでした……」


 意識を取り戻した芦屋の前で、椚原さんは深々と頭を下げる。

 彼女が言うには、歩道橋から車道を眺める芦屋の姿を見て彼が自殺を図ろうとしているのだと思い、止めなければいけないと考えああいった行動に至ったのだとか。

 勘違いしてしまうのもわからなくもない雰囲気ではあったが、それにしてもクロスチョップはやりすぎでは……?

 椚原さんも相当反省しているらしく、まさに意気消沈といった様子で、再び「早まってたのは私でした……ごめんなさい」と謝罪する。

 幸い芦屋は無事であり、今はむしろ謝られていることに困惑しているようだった。


「い、いや、別にいいですよ。僕も紛らわしかったし」

「かたじけないです」


 彼女は顔を上げるが、やはりまだ申し訳なさそうに相手を見つめる。


「あのぅ、よかったら何かちゃんと謝罪させてもらえませんかねぇ……」

「いや、そんなの逆にこっちが悪いし」


 というよりか、本当は早く帰りたそうであった。

 彼は苦笑いで遠慮するが、その反応が余計に椚原さんを落ち込ませるのだから大変だ。


「でもぉ、私、必殺の人間ロケットまでかましちゃったしぃ」


 自殺を止めようとして「必殺」とはどういうことなのか。気になったけど、今は触れないでおいた。

 とにかくちゃんと謝らなければ気が済まない様子の彼女に、最後には芦屋が折れることになる。


「あ、じゃあ、あれ」


 何かを思い付いたらしい彼は俺たちが来たのとは反対側の歩道に面して店を構えている、青と白がテーマカラーのコンビニを指差した。


「あそこで、ジュースか何か奢ってもらえると、その、助かるので……」


 それで手を打ってくれるということらしい。クロスチョップと絞殺(未遂)の謝罪にしてはかなり軽い気がするが、あまり大事にはしたくはないのだろう。

 芦屋の示したコンビニに顔を向けた椚原さんは、すぐにその申し出を了承し、


「わかったー! 何味の何がいい?」

「えっとぉ……普通の味のコーラで」

「了解! すぐ行って来るからねっ!」


 宣言どおり、彼女は一目散に駆け出すと、角を曲がりバタバタと足音を立てて階段を降りて行った。

 後に残された俺と芦屋は、思わず顔を見合わせる。


「取り敢えず、俺たちも行こうか」

「あ、うん」


 というわけで、二人して歩道橋の上を歩き出す。

 会話のないまま階段の辺りに差し掛かったところで、不意に芦屋が口を開いた。


「あの、君は」

「一組の春川だよ。

 そっちは、確か芦屋だったよね?」


 俺は前を向いたまま彼の言葉に応じる。

 自分の名前を知られていたことが意外だったみたいだが、すぐに合点がいったような声を出した。


「この間、あいつらが言ってたの聞いてたんだね」

「ああ。気を悪くしたならすまない」

「いや、いいんだよ……」


 言葉は裏腹に、浮かない口調で言う。

 それから芦屋は突然びっくりするような質問を投げかけて来た。


「は、春川くんは……生きていて楽しい?」

「えっ? どういう意味で?」


 思わず立ち止まり、数歩後ろを歩いていた彼の方を振り返る。もしや、本当に自殺志願者なのでは?

 すると、芦屋は慌てて自らの発した問いを否定した。


「あ、いや、変な意味じゃなくて、その、意外だったから」

「意外?」

「ああ。君も、どっちかと言えば僕と同じ側(・・・)の人間だろ? なのに、彼女みたいな人とも仲がいいのが、その、意外だったんだよ」


 今遠回しに「根暗そうに見える」と言われたのか?

 そんな風に思っていると、彼はうつむき再び声のトーンを下げる。


「僕は、正直楽しくなかったよ。今まで、どこへ行ってもこの間の奴らみたいなのの餌食になるだけで、ずっとずっと、虐げられる立ち場だったから。……本当に、生きている価値なんてないと思ってた」


 何と声をかけたものかわからなかった。まさかこんな話をされるなんて思ってもみなかったし、たぶんわかっていたとしても難しいことだろう。


「それで、そんなことばかり考えてたら……僕はその、不眠症みたいになったんだ。ベッドに入っても嫌なことばかり次から次へと浮かんで来て、全く眠れない日が増えて行った」


 それは、いわゆる思春期になら誰でもあるようなこと、の延長なのではないのかとも思ったが、彼のような体験をしたことのない俺には判然としない。あったとしても、悪夢(あのときのゆめ)にうなされて夜中に目を覚ますとかそのくらいだし。

 とにかく、俺は黙って芦屋の話に耳を傾けていた。


「……けど、そんなある日、僕は出会ったんだよ。──本当の世界(・・・・・)の入り口に」

「本当の世界?」


 鸚鵡返しに尋ねると、彼は不意に顔を上げる。

 その表情には落ち込んでいる様子などなく、むしろ薄っすらと笑みを浮かべてすらいた。


「ああ、そうさ。……僕はある時ネットで見つけたフリーのヘルスケアアプリをダウンロードしてみたんだ。安眠誘導のアプリで、不眠症で悩んでる人の間では割と有名らしかった。

 最初は、もちろん半信半疑だったよ。けど、使ってみて驚いた」


 徐々に声が大きく、また饒舌になって来ている。


「すぐに効果が現れたんだ。あれだけ眠れなくて苦労していたのが、嘘みたいに熟睡できるようになった。

 ──それだけじゃない」


 彼の変貌ぶりに、頭の奥で本能が警鐘を打ち鳴らすのを感じた。

 これ以上、この話を聞いてはいけないのだという、確信めいた予感が湧き上がる。

 しかし、芦屋は止まらなかった。


「そのアプリは、僕に本当の世界を、本当に生きるべき(・・・・・・・・)世界(・・)を教えてくれたんだ。そして、やがて悪しき魂を持つ者は滅びるのだということも」

「何を、言っているんだ……?」

「わからないのかい? だったら、君にも見せてあげるよ」


 そう言うと口角を吊り上げてニタリと笑い、彼は右手を挙げる。

 空に向けて返した掌の上の空間が揺らめき、正方形のアイコンが表示さらた。どうやらそのヘルスケアアプリとやらを起動させたらしい。

 アイコンは白い背景にアゲハ蝶のマークと、「Butterfly」という黒い文字が書かれているシンプルな物だった。


「さあ、ここが入り口だ。君も正しい世界に来るといい」


 芦屋は不気味に笑いながら、右手を差し出して来る。

 俺は豹変と言って差し支えないその様子にあっけに取られつつ、一段下に右足を下ろした。


「い、いや、俺はやめとくよ。正しいとか間違ってるとか、よくわからないし」

「……そうか。それは残念だよ。

 けど、君は気付いていないだけで、すでにその資格を持っているはずだ」

「なに? どういう意味だ?」

「だって君は、もう会ったんだろ?」


 そして、彼の口から飛び出したのは、予想外の言葉。


「あの天使(・・)に。コラプサーの中(・・・・・・・)で」

「……え?」


 ──「天使」って、まさかネフィリムのことか?

 けど、ならばどうしてこいつはネフィリムを知ってるんだ?

 さっきから不意打ちの連続で混乱気味のところに、さらに追い討ちをかけるような芦屋の発言。

 ネフィリムの存在を知っているのは、俺と梔子先輩、とあともう一人あの場に居合わせたフリーファイターだけのはず(椚原さんは気絶していた為か覚えていなかった)。

 そしてあの後、先輩が「余計な混乱を街の住人や生徒たちに与えたくない」と言い、俺たちにネフィリムを見たことは口外しないようにと釘を刺したのである。

 一学生の身でそんなことを勝手に判断していいものかとも思ったが、騒ぎ立てるようなことでもなかったので俺はそれに従った。また、もう一人の青いアーマーを身に纏ったフリーファイターも、何故かすんなりと受け入れていたっけ。

 ──いったい、芦屋は何を知っているんだ?


「予言どおり天使は現れた。悪しき魂を持つ者たちが罰せられる日も遠くない。….…この偽りの世界は、もうすぐ終末を迎えるんだ」


 何かに取り憑かれたみたいに言う彼の目には、もはや俺のことなど見えていないようだった。遥か遠くの場所を見つめるその瞳には、何が映っているのか。

 俺は油断しないように気を付け相手の様子を観察する。

 と、背中の方から聞き慣れた声がした。


「ごめーんっ、お待たせ! 買って来ましてん!」


 肩越しに振り返ると、コンビニのレジ袋を掲げながら椚原さんが走って来ている。

 芦屋も彼女に気付いたらしく右手を引っ込め、その上に浮かんでいたアイコンが消えた。


「って、あれ? 二人ともどーしたの?」


 俺の後ろで立ち止まった椚原さんは異常な空気を察知したのか、俺たちを見上げて首を傾げる。


「別に、なんでもないよ」


 先に答えたのは芦屋たった。

「そう?」と、なおも怪訝そうな様子の彼女の元へ、彼は俺の横を通り過ぎて階段を下って行く。


「あ、はい、これお詫びのコーラ!」


 椚原さんは思い出したようにレジ袋の中を漁り、取り出したペットボトルを相手に差し出た。

「ありがとう」と短く礼を言って、芦屋はそれを受け取る。


「……なあ、芦屋。さっき君が言っていたのは」


 そこでようやく俺は尋ねた。

 すると彼はペットボトルのキャップにもう一方の手をかけながら、こちらを見上げて笑う。


「あれはね、『胡蝶の夢』という奴さ」

「『胡蝶の夢』?」


 呟く俺をわざと無視するように、芦屋はコーラのキャップを開け豪快にラッパ飲みするのだった。


 *


 橘は蜻蛉の市街地の片隅にある、この界隈では結構な老舗であろう中華料理屋「幸福軒」の店内にいた。

 時間帯としては昼食にも夕食にも非常に中途半端であり、客は彼らの他に誰もいない。

 注文した品はまだできあがっておらず、火野木は手洗いの為席を外している。

 そして、カウンター席に一人で腰かけた橘は、右手に握った〈スマートフォン〉を耳に当てて通話中だった。


「もしもし?」

『もしもし〜、お疲れ様っす。山梨です〜』


 電話の向こうから聞こえて来たのは、未だに学生気分の抜けていなさそうな軽い口調。

 これを受けた橘は、声の主である山梨洋(やまなしひろ)の顔を思い浮かべる。彼の記憶の中の山梨は、パーマを当てた茶髪に黒縁眼鏡をかけているチャラついた雰囲気の青年であり、見た目もやはり社会人らしくはなかった。

 少なくとも、同じコラプサー対策局の人間、つまり国家公務員とは思えない。もっとも、自分も人のことは言えない見てくれかも知れないが。

 そんな見た目どおりのキャラクターである山梨は、意外にも局に付属する研究機関の職員だった。

 この研究機関に所属する者は大抵が超有名大学出の高学歴の持ち主であり、彼と会う度に、橘は見てくれと頭の良さは無関係だということを実感させられる。

 そんなことを思い出しながら、彼はいつもどおり気の抜けた返事をしておいた。


「はいどーも。

 で? お前から電話ってことは、あの件(・・・)調べが付いたのかよ?」

『もちろん。局内で一番資料漁ってんのウチらなんすから、当然っすよ』

「ま、だろうな。

 それで?」


 尋ねながら、彼はカウンターに置いていた煙草の箱に空いている手を伸ばし、一本取り出して口に咥える。


『はい、ズバリ橘さんの言ってたとおりでした。()のことで間違いないっすよ』

「……そうか」


 答えを聞いた橘は呟くように言うと、ジッポで煙草に火を点けた。

 そのまま煙を吐き出しながら、心ここにあらずといった様子で、カウンターの上の胡椒やラー油などが並んでいる辺りに視線を向ける。何か考えごとをしているらしかったが、そんなことなど知る由もない山梨は、相手が黙り込んでしまったのを不思議そうにしつつ話題を変えた。


『ところで、橘さんニュース観ました?』

「……え、いや、ちゃんとは観てねえな。何かあったか?」

『ええ、まあ。いやでも、すぐにどーこーなるモンでもないんすけどね……』


 こいつにしては珍しく歯切れが悪いな、と今度は橘が訝しがる番だった。

 と、彼は店内の隅に設置されているテレビの存在を思い出し、ちょうど時間帯的にも報道番組が流れているのではないかと考えそちらに顔を向ける。

 案の定、画面の中ではこれぞ実直勤勉のイメージ像といった見た目の男性キャスターが映っており、本日のニュースを淡々と告げていた。

 そして、さらにタイミングのよいことに、ちょうど山梨が伝えたかったであろう、と一目見てわかるような事柄が報じられてる。


『──本日、WSRO世界第二現実機構の事務局長であるアブサント・ワームウッド氏が、近日来日される旨を発表されました。ワームウッド氏は今回の来日の目的を「日本国内におけるコラプサー対策の強化とこの凶悪な災害に対する国の理解度の調査」だと述べており、来日後は国内の対策組織の視察などを行っていく予定だということです』


 画面には前回来日した際の物だという映像が流れており、上等そうなスーツに身を包んだ髪の長い白人男性が、ジャンボジェット機の搭乗口から姿を現した場面が映し出された。テロップが伝えるには、この男こそが世界第二現実機構の事務局長、アブサント・ワームウッドであるらしい。

 アップになったワームウッドの顔を見つめながら、橘は放置していた通話を再開する。


「お前が言ってるのって、WSROの……」

『ああ、それっす。近日来日って奴。

 どう思います?』

「いや、どうっつわれても……つうか、俺ら何も知らされてねえんだけど」

『らしいっすね。今朝明日菜に聞いた時もそう言ってましたし』


 彼女のことを気安く下の名前で呼んでいるのを聞いて、橘は二人が幼馴染みであることを思い出した。

 それから、考える。

 世界第二現実機構、通称「WSRO」。彼らはその名が示すとおり現在世界中に普及しているセカンドリアリティのシステムを管理・運営している、国連の専門機関であった。

 元を辿ればセカンドリアリティの開発研究を行っていた大手通信会社にすぎなかったのが、今の技術の基盤となる物の開発に成功したことをきっかけに、先進諸国をスポンサーにつけこの一大プロジェクトを牽引する立場となったのが起こりだったはずだ。

 当然その影響力は強く、日本を始めとする三十四の加盟国に深く根を下ろしている。そんな、今や世界を掌握していると言ってもいいほどの権力を有する組織の事務局長──つまり、機関その物のトップだ──が、突然我が国を訪れる目的とは何か。

 手近に置いていた灰皿に灰を落としながら橘が考えていると、電話口から笑い声が聞こえて来る。


『つうか、二人とも普段からハブられてますもんね』

「うるせえよ。お前だって周りからかなり煙たがられてんじゃねえか」

『あはは、あのオッサンたち冗談通じないっすからね〜』


「俺とフツーに話してくれんの、明日菜か橘さんくらいっすよー」と他人事みたいに山梨が言った時、ちょうど席を外していた火野木が戻って来て、橘の隣の席に腰下ろした。

 その様子を横目で見ながら、彼は言う。


「噂をすれば影だ」

『あ、マジっすか? じゃあちょっと代わってくださいよ〜。愛しの幼馴染みの声聞きたいんで!』


 とのことなので、いつもながら臆面もなくよく言えるなと思いつつ、橘は隣の席を向いた。

 が、彼が山梨からの伝言を伝えるよりも先に、


「私は話すことはありませんが」

「……いや、まだ何も言ってねえけど」

「どうせ電話の相手は彼でしょう。なら私は何も用がありません」


 眉一つ動かさずに、火野木はきっぱりと言い捨てる。

 頑なそうな部下の様子を見た彼は、離しかけていた電話を再び耳に寄せて、


「悪い山梨、なんかご機嫌斜めだわ」

『……聞こえてたっす。

 くっ、じ、じゃあせめて俺の代わりに愛してるって伝えといてください!』

「もう切っていいですよ、橘さん」


 刺すような冷たい視線と共に言われては、橘としても従わざるを得ない。


「つうわけだ。じゃあな」

『え、ちょっ、待って』


 山梨が言い終えるよりも先に強引に電話を切り、彼は〈スマートフォン〉のアプリを停止させた。

 それを見た火野木は呆れたようにため息を吐き、


「まったく。ヒロちゃ……山梨くんは相変わらずですね」

「ああ、そうだな」


 橘は彼女が言い直したのは敢えて聞かなかったことにして、灰皿に置いたままだった煙草を咥え直した。


「……何だったんですか? 彼の電話」

「あん? なんだお前気になんのか?」


 頬杖をついた彼は、煙と共に吐き出す。


「はい。二人が私を除け者にして何かこそこそやっていることは明白なので」

「ぐっ、そんな言い方しなくてもいいだろうがよ。

 まあ、あれだよ。俺はこないだのコラプサーの件でアイツに頼みごとしてたんだよ。で、その結果の報告を受けてたんだ」

「頼みごと?」


 火野木は上司の方を見つめ首を傾げた。


「ああ、ちょっと昔の資料を漁ってもらっててな」


 と、橘が言いかけたタイミングで、注文していた物が出来上がる。

「お待ちどうさん」というかけ声と共に、老店主は中華そばの入った(どんぶり)とチャーハンの盛られたお椀を順番にカウンターへ置いて行った。

 橘は口から煙草を離し灰皿で火を消してから、潰さずに縁に寝かして置く。


「来た来た」


 彼は箸置きに手を伸ばし、割り箸を一本引き抜いた。

 最後に伝票をカウンターに置くと、店主は言葉少なに再び厨房へ向き直る。

 手を合わせもせずに割り箸を割りさっそく麺を掴んでふうふうする橘に、彼の部下は冷たい視線を送っていた。


「こんな時間にそんなに食べたら、体によくないですよ」

「いいんだよ、俺今日朝も昼も食ってねえし」


 彼は気にせずズルズルと湯気の立つ麺を啜る。

 火野木はやはり呆れた目付きでその様子を眺めながら、話を再開することにした。


「それで? 具体的には何を頼んでいたんですか?」

「ああ、この間のコラプサー、巻き込まれた人間のリストの中に気になる奴がいてな。そいつについて調べてもらってたんだ」

「そういえば、見たことのある名前があったとか仰ってましたね」


 彼女の言葉に、橘は一旦箸を持つ丼に置く。

 それから今度はチャーハンの方のレンゲを握りながら、部下の視線に答えた。


「お前さぁ、十年前、世界で初めて発生したコラプサーについて資料は読んでんだよな?」

「ええ、一通りは。そうでなくても世界的に有名な出来事ですし、概要くらいなら暗記しています」


 それは、彼女が特別コラプサーと関わる仕事をしているから、というわけではないのだろう。

 十年前世界で初めて発生した超大型コラプサーについて、その恐ろしさを全く知らない者などこの国には一人もいないと言っても過言ではない。それほど、あの天災は人類の胸に深々と刻み込まれているのだ。

 我が国を度々見舞う台風や大震災といったそれまでの災害の常識を覆す、今まで誰も体験したことのない脅威に、当時の日本はもちろん世界中が震撼した。


「そうか。

 なら、あの大型コラプサー──『アバドン』っつう名前まで付けられてるが──の被害に遭った人間の中で、生存者は当時五歳の子供(・・・・・・・)ただ一人だけだったってことも知ってるな?」


 火野木は、再びこくりと頷いた。

 これもまた、当時を知る者の間では有名な話である。

 もっとも、超大規模コラプサー「アバドン」の被害は今現在も続いており、この国の人間にとってそれはまだ過去の物とは言い難いのだが。


「なら、その子供の名前はどうだ?」

「それは……まさか」

「ああ。いたよ」


 今度は、橘が首を縦に振る番だった。


「十年前も、そして二日前も(・・・・)、そのガキはほぼ無傷で生還している。それが何を意味しているのかはわからねえが、ただ悪運が強いってだけじゃなさそうだ、と思ってな」

「……なるほど」


 呟いたきり部下が黙り込んでしまった為、彼は遠慮なくチャーハンの山を切り崩して口の中へ運ぶ。

 橘はかなり遅めの朝昼兼用の食事を咀嚼し、飲み込んだ。

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