第五話「天使」
蜻蛉総合病院の屋上にて、俺は額に浮かぶ汗を左腕で拭う。
目の前には俺の書き上げた天使が立っており、二メートル近い巨体を誇るそいつは、青白い月光を背に無言でこちらを見下ろしていた。
──さあ、これで準備段階はクリアのはずだ。後は……。
「むふふ、すごいですシオンさんっ。もう『神の指』を使いこなしてるじゃないですか!」
何故か俺よりも断然浮かれた様子で言うステラ。小躍りでもしそうな勢いだったが、かと思えば急に考え込むような素振りで人差し指を頬に当てて、
「あ、でもぉ、キャラを生み出すだけでそんなに疲れてたら体が保ちませんよぉ?」
「……うるさい。問題ない」
「冷たいなぁ、もう。あの娘にはあんなに甘いのにぃ」
「お前、なんでそんなに俺のことを知っているんだ?」
さっきの言動もさることながら、まるで以前からの知り合いのような口ぶりである。
しかし、いくら記憶を辿ってみてもこいつとの思い出などはなく、間違いなく今日が初対面のはずだ。
実際のところこいつは何者で、何故俺のことを知っているのか。
じっと疑念に満ちた視線を送ってみるが一向に彼女からの返答はなく、俺の質問は完全に黙殺するつもりらしい。
と、ステラはわざとらしく頬に当てていた指をこちらに突きつけて来た。
「ではでは、サクッといっちゃいましょう!」
「……まあ、いい。今はそれどころじゃないからな」
納得は行かなかったが賛成ではあったので、俺はそれ以上は何も言わずに再び「神の指」を握った手を挙げる。
すると、今度は屋上の足元に変化が現れた。
無機質なコンクリートが剥き出しになっていたはずのそこは、まるで水面のように揺らぎ始めたのである。
俺の立っている場所を中心にして波紋が広がり、徐々にその範囲は広がって行った。
やがて屋上の床全体が穏やかな水面のようになった時、白く眩しい強烈な光が足元から放たれる。
思わず目を覆っていると、下からゆるやかな風が吹き上げて来るのがわかった。
自分の思い描く天使を執筆した俺は次の工程、そいつを送り込む段階へ移行したのだ。
風が止み光も弱まったのを感じ、俺は顔を庇っていた腕をどけて目を開く。
俺の足元にあるのはもはやコンクリートではなく──。
上空からのアングルで映し出された、とある小さな公園の様子であった。
むろん、コラプサーに巻き込まれた際に俺たちが逃げ込んだ、住宅街の中にあるあの公園だ。
空から見た景色を丸く切り取ったかのような映像を見下ろしている俺に、ステラが声をかけて来る。
「わかってますよね? シオンさん。あなたはあそこに書き加えることによって初めて世界を書き換えられる」
「ああ。ここからが本番だって言いたいんだろ?」
横目で見やると、彼女は笑いながら頷いていた。
まるで他人事のようにも思えたが、もしそうでないのだとしたらどうしてステラは俺の前に現れたのか……という部分について考え出すと結局先ほどの疑問に戻ってしまうので、今は置いておくことにしよう。
俺はまた足元に視線を落とす。
画面の向こうではビデオを一時停止しているみたいに、梔子先輩と対峙していたフラワノイドがタコの滑り台に顔を向けたところで、映っている物全てが静止していた。つまり、切り取られたのは景色だけではないということだ。
約三時間ほど前の自分たちの姿を見下ろしながら、俺は右腕を真横に伸ばす。
「……行け、“ネフィリム”」
それが、この天使──という割には全身真っ黒なキャラクターの名前だった。
俺の言葉に呼応するように、ネフィリムの両目は「神の指」のそれと同じく真っ赤な光を放つ。
そして、俺は再度大げさなポーズで世界を書き換える為のペンを握った腕を振りかぶると、眼下に広がる景色に向けてその爪の先端を突き立てた。
「神の指」から放出さらたエネルギーは波紋となって、いくつもいくつも画面全体に広がって行く。
「わっくわく、わっくわく!」
やはり擬音を自ら口ずさみながら、ステラは期待に満ちた瞳をこちらに向ける。
その視線は意識しないようにしつつ、俺はいよいよこの黒づくめの天の使いを画面の中へと送り込むのだった。
*
(約三時間前)
「ふふ、どうした? もう吠える威勢もないのか?」
対する梔子先輩は嘲笑うような口調で言い、悠々と相手の元に歩み寄った。
もうすぐ、決着がつく。それも、十中八九先輩の勝利で。
そう予想するには充分なほど、彼女が圧倒的に優位だった。
──しかし、この後のフラワノイドのある行動により、事態は一変する。
目のない顔で梔子先輩を睨み付けていたフラワノイドは、に何かに気付いたかのように首を動かして辺りを見回し始めたのだ。
「……なんだ?」
怪訝そうな声で呟き、先輩は足を止めた。
いったい何が起きているのだろうと不思議に思いながら見ていると、やがてフラワノイドはある場所に顔を向ける。
その視線の先にあるのは、タコの姿を模して作られた滑り台。
「……ミツケタ」
どこかほくそ笑むような感じで、化け物は呟く。
その低い声を聞いた俺は、ある恐ろしい疑念を抱き一瞬で血の気が引いて行くのを感じた。
──まさか、さっきあいつが探していたのは……!
そう思い至った時、すでにフラワノイドはカエルのように足を伸ばして跳んでおり、着地すると同時に滑り台を目指して走って行ってしまった。
「何をするつもりだ!」
その様子を見た梔子先輩は慌てて化け物の後を追う。
だが、彼女が追い付くよりも先にフラワノイドは目的の場所へ到達しており、先ほど敵に向けて放ったように、その手前で跳躍しながら振り上げた拳を、真上から滑り台に叩き込んだのだった。
爆音が鳴り響き、丸かったタコの頭の部分が砕け散る。
砂煙りが立ち昇る中、コンクリートの残骸の上に乗っているフラワノイドの姿が見えて来た。
──のだが、どこか様子がおかしい。
奴は先ほど同様キョロキョロと辺りを見回しており、目的の物が見つからなかったのか苛立たしげに言葉を吐く。
「ドコダァァァ!」
八つ当たりするように、手近にあったコンクリートの塊を鷲掴みにして適当に放り投げた。
さっきから、こいつは何がしたいのか。
いや、というかそもそも、滑り台の中に隠れていたはずの椚原さんはどうなってしまったのだろう。あのフラワノイドは彼女が隠れているのとに気付き、あそこを襲撃したんじゃなかったのか?
よりいっそう謎が深まると同時に、不安が募って行く。
梔子先輩も状況が飲み込めないらしく、滑り台だった場所の前で立ち止まったまま、相手の様子を伺っていた。
「ドコへイッタァァァァァ!」
癇癪を起こした子供みたいに、フラワノイドは天に向かって怒鳴り声を上げる。
すると、その時、さらに予想を遥かに上回る出来事が起きるのだった。
大きく口を開けて吠えていた化け物の背後に、黒く巨大な何かがバサリと降り立ったのである。
地面に片膝をついたそれは、こちらに向けている背中から生えた一対の翼を広げたまま、土の上に何かを置いた。
その存在に気付いたフラワノイドは体全体で振り返り、俺と先輩も今度は何事かと注目して見つめる。
それからゆっくりと立ち上がった新手の怪人──フラワノイドとは違う感じがするし、梔子先輩の反応を見る限りフリーファイターでもないようだ──の向こうに、地面に横たわる学園の生徒の姿をが見えた。
まさか、と思ったが、そいつの手によって地面に寝かされたのはやはり椚原さんのようだ。滑り台の中にいたはずなのに、いったいいつの間に?
俺は再びその黒い背中をまじまじと見つめる。
「オマエ、ソレ返セェェェェ!」
やはりフラワノイドの味方ではないらしく、敵意を剥き出しにして怒鳴りつけた。
化け物の叫び声を受けた怪人は、翼を広げたままゆっくりとこちらを振り向く。
フラワノイドよろしく体つきは人間のそれに近い。しかし、こちらは割と細身であり、高身長と相まって「ひょろ長い」という印象だった。
そんな体を覆う黒い装甲はフリーファイターの物と似ているような気もするが、しかしどこか質感が違う。彼らのように機械的ではなく、どちらかと言えば生物的であり、体中の筋肉が剥き出しになっているように見えた。
引き締まった腕の先には五本の指と赤い爪を持つ手が生えているが、足の方はブーツを履いているような形状になっており先端が上に向かって反り返っている。
また、その首から上に乗っているのは、人間の物とは違う顎先の尖った頭。輪郭や顔の側面の装甲だけが黒く、内側の顔自体は紫色であった。凹凸が少なくさらに鼻や口も見当たらない仮面のような顔の中で、二つの赤い瞳だけが煌々と燃えている。
そして、目の上の部分には兜の前立てのようなV字型のパーツが二つあり、大きくて中心の角度が浅い物の上に小さくて角度が少し鋭いものが重なったような形になっていた。
さらにその前立て(?)の反対側には楕円形の光りの輪が浮かんでおり、後ろから前へ斜めに突き出しているそれはある程度幅があって、まるで惑星の輪っかのイメージ図のようにも見える。
そんな、謎の黒づくめの存在の背中には左右一対の巨大な翼が生えており、それは猛禽類の物に似ていた。
が、一枚一枚の羽毛は鋭く尖っており、体を覆う装甲と同じように硬質な感じである。
──突然公園内に現れた新たな異形の存在を茫然と見つめながら、俺と梔子先輩は同時に全く別々の単語を口にした。
「天使?」
「悪魔?」
すると、黒い翼を縁取るように大きく突き出していた風切羽が、金属が擦れるような音を立てて収納される。
さらに巨大な両翼を折りたたみ鳥が羽を休めるように縦向きにすると、その天使とも悪魔ともとれない姿の怪人は、改めてフラワノイドと対峙するのだった。
*
約三時間前の公園。
さっきまでは俺の記憶の中にいなかった存在、黒い天使がそこにいた。
そして、俺たちは今ネフィリムの姿を呆然と見つめる俺や梔子先輩──の、さらに後方に立って様子を見守っている形となる。
要するにどういう状態なのかというと、ネフィリムを送り込んだ後、彼を操作する為に、俺たちもこの空間にやって来ているのだ。
また、俺とステラは直接過去には干渉できない為、俺たちの姿は過去の住人である彼らには認識できなくなっているのだとか。なんとも都合のいい話である。
そんなわけで過去の中にいる俺は自分の後ろ姿を目にするという不思議な体験をしつつ、「神の指」を握る手に力を込めた。
今俺たちは直に地面の上に立っているのではなく、光りを放つ円形の足場──アニメや漫画で見かける「魔法陣」のイメージ像みたいな物──に乗っかっている為、正確に真後ろではなく少し高い場所から見下ろす格好となっている。
視界の中では突然の横槍に激昂しているフラワノイドが、さらに何事か喚き散らしたところだった。
「返セェェェェェェ!」
咆哮すると共に瓦礫の上から飛び上がり、ネフィリムりに向かって走り出し花の化け物
それを見た俺は、すかさず「神の指」を動かし文字を打ち出す。
この時俺が書いた文章は、俺の創造物の取るべき行動を描写した物だった。
空中に書き出した真っ赤な文字は先に書いた物から順番にネフィリムの元へ飛んで行き、黒い体に吸い込まれる。
吸収した文章に即した行動で、彼はフラワノイドを迎え撃つ──。
〈避けることなどはせずに、こちらも拳を振りかぶって真正面から叩き込む〉
俺の書いた文章のとおりにネフィリムは動き、固く握られた黒い拳が相手の突き出した拳に激突した。
バキリという何かが折れるような音が鳴り響き、白い方の手から血の筋がいくつか噴き出す。
「ギィア⁉︎」
とっさに左腕を引いて悲鳴を上げる怪物。
その隙を見逃さず、俺はさらに次の行動を紡ぎ出す。
〈相手が怯んでいる間に、すかさずもう一方の手で追撃の鉄拳を放つ〉
天使は腕を振るった体勢からすぐに動き出し、注文どおり今度は左の拳で追撃を行った。
このパンチはフラワノイドの顔の右側をえぐり、よほど強烈な威力だったのか、怪物は折れた歯と少量の血液を口から撒き散らしながら吹き飛んでしまう。
「すっごーい! 頑張れシオンさ〜ん」
というステラの気の抜けた声援を聞きながら、俺はネフィリムに敵を追わせた。
数回だけ地面を蹴り、天使はあっという間に加速する。
フラワノイドの体がちょうど滑り台だった場所に着地するよりも先にその背後に回り込んだネフィリムは、
〈今度は上から、両手を組んで叩き付ける〉
指を組んだ両手を空中で仰向けになった怪物の胸に振り下ろし、相手をコンクリートの瓦礫の中に沈めてしまった。
「ガ、ギ……」
またも血を吐き出したかと思うと、フラワノイドはぐったりとして動かなくなる。
もう勝負あったのか、と思ったがそうではないらしい。
「まだですよ、シオンさん。まだ死んでないです」
隣の魔方陣の上に胡座をかいて観戦していた案内役が、さっさとやれとばかりに指摘して来る。
「ほら、必殺技! なんかないんですか?」
「いや、そんな物考えてないけど……」
「じゃあ今からパパッと書いてくださいっ。ほらほらー」
だから、どうしてそんなに楽しそうなんだ?
そんなことを思いながらも口にはせず、言われた通り必殺技(?)を俺なりに考えて書き加えた。
「神の指」で紡ぎ出した赤い文字が、ネフィリムの右腕に集約される。
そして、
〈人間のような五本指を持つ手だった部分が原子レベルにまで分解され、それが肘の辺りにまで達すると今度は黒いもやが右腕を包み込む。やがてもやが消えた時、彼の肘から先はまったく別の形状に変わっていた。
腕の太さは倍以上に膨れ上がっており、より硬質で無骨な装甲を纏っている。先ほどまで手首だった辺りは、手がない代わりに上下に鋭い牙を持つ獣の口のような形になっており、その間から四角い灰色の砲門が前へ突き出した〉
彼の右腕は必殺技的な物を放つ為の、巨大な銃口と化した。
ネフィリムはその先端を倒れているフラワノイドに突き付け、もう一方の手を肥大化して装甲の上に添える。
すると、どこかれともなく赤い光の粒が飛んで来て、仄暗い砲門の中心へと吸い込まれて行った。エネルギーを充填しているのだろう。
と、気絶しているとばかりに思っていたフラワノイドが、虫の息ながら声を発した。
「……人類ハ、必ズ滅ブ……“運命”ハ変ワラナイ……」
その不穏なセリフは何を意味するのか。
全くわからなかったが、一応俺は返事をしておく。
「そうか。じゃあ、その前にお前を滅ぼしてやるよ。椚原さんを殺した、お前をな」
もちろん、その声が過去の中にいる者に届くことはない。
だが、それでも充分だった。
どのみちもう、こいつは終わる。
そして、俺は椚原さんが死ぬという運命を書き換える。
エネルギーの充填が完了し、ネフィリムの右腕の砲門が熱を帯びて赤くなっていた。これで必殺技の発射準備完了だ。
「技名技名!」
無駄に目を輝かせたステラからの要望を受け、俺は少しだけ考えてみてから、
「え? ええっと……じゃあ“エンジェルビーム”で」
「ダサっ⁉︎ おざなりすぎる!」
そんなことを言われても、とっさに技名なんて思い付くわけない。
とにかく、その直後、ネフィリムの砲門から強烈な光線が放たれ、唸りを上げながらコラプサーの主へ直撃する。
エンジェルビームを受けたフラワノイドの体は俺の怒りを表しているかのような紅蓮の炎に包まれ、最後に一際大きく燃えるとそのまま爆発してしまった。
砕け散った怪物の肉体は灰となって宙を舞い、途中で消えてなくなる。
直後、空を覆っていた暗闇や地面から生えていた光のコスモスも消え失せ、ここで起きた惨劇は全て幻だったかのように、公園は普段と同じ景色を取り戻したのだった。
いや、実際幻影みたいな物なのだ。全てはセカンドリアリティによって見せられていただけにすぎず、タコ型の滑り台もプラントの触手によって破壊された水道も、何もかもが元どおりになっている。公園内には俺と二人のフリーファイター、そして地面に倒れる椚原さんとプラント化してしまった主婦の死体だけが残された。
「……フラワノイドを、倒した」
愕然とした声で、梔子先輩が呟く。
その後ろにいた過去の俺は、黒い天使の立っているその向こう側に目を向けた。
「……椚原さん」
俺の視線の先には、地面に横たわり目を瞑る彼女の姿が映っている。首を曲げいる為表情までは見えないのが、余計に心配だった。
過去の俺は意を決して、椚原さんの元へ向かう。
「お、おい!」
それを見た先輩が止めようとするが、俺は今度こそ制止を無視して駆け出した。
が、しかし、滑り台の辺りまで行ってすぐに足が止まってしまう。
理由は簡単で、翼の生えた背中を見せるように立っているネフィリムの存在があったからだ。
立ち止まった俺はその姿を無言で見上げる。
そんな様子を見ていた今──彼らからしたら未来──の俺は、そろそろ頃合いかと思い「神の指」を握った手を動かした。
〈たたんでいた翼を大きく広げ、軽く曲げた膝を伸ばすのと同時に、力強く羽ばたいて大空へ去って行く〉
もうほとんど日が暮れかけている空の彼方へ、黒い天使は飛び去って行く。
その様子を見送りながら、フリーファイターが呟く声が聞こえた。
「行ってしまったな」
言いながら彼女は〈戦闘スーツ〉のアプリを停止させたらしく、体を覆う装甲が消え路地裏で出会った時と同じ格好に戻っている。
「一瞬にしてフラワノイドを消し飛ばすほどの力……一度手合わせ願いたい物だ」
まさしく武人といった感じで、梔子先輩は腕を組みながら一人で言って頷いた。
過去の俺は彼女の声には反応せずに、改めて眠っているクラスメイトの元へ走り寄る。
その側で片膝をついて座り込むと、カーディガンを着た背中に腕を回して上体を起こした。
「椚原さん!」
必死の声で名前を呼び、祈るような気持ちで彼女が目覚めるのを待つ。
それは過去と今どちらの俺にとっても同じことであり、遠巻きにその様子を見守りつつ、緊張の為俺は息を呑む。
──やはり、もう手遅れだったんじゃないだろうか。
そう思い、諦めかけたその時。
「……はる、かわ、くん」
幽かな、本当に気を抜けば聞き逃してしまいそうなほど小さな声が、聞こえて来た。
うつむきかけていた二人の俺は、同時に顔を上げる。
過去の俺の腕の中で、椚原さんは薄く瞼を開いていた。
「椚原さん! 大丈夫なんだね?」
「……えっと、うん……なんかね、変なでっかくて白いのに襲われてた……気がした」
「そ、そうか。
きっと、たぶん夢か何かだよ」
俺はわざと嘘を吐き、どうにかこうにか笑みを浮かべる。
「……そだね」
短く言いながら、彼女もいつもみたいに笑ってくれた。
よかった。本当によかった。
「神の指」の力を使い世界を書き換えることに成功した俺は、再び生きる理由、そしてこの十年間を生きて来た意味を取り戻したのである。
*
かくして、書き加えることによる書き換えを終えた俺たちは、現在──蜻蛉総合病院の屋上に戻って来ていた。
結構な体力を消耗し疲れ切った俺は、コンクリートの上に直接座り込んで、緑色のフェンスに背中を預ける。
カジャンとフェンスが軋む音を聞いてから、しばらくそのまま息を整えていた。
この時、俺は頭の中には二つの時間軸それぞれの記憶が残っていた。
つまり、コラプサーの中で椚原さんが死にその後「神の指」を使って世界を書き換えるルートと、突然現れたネフィリムによってフラワノイドが倒され椚原さん共々無事にコラプサーから脱出できたルート、両方の記憶を持っているのだ。
書き換えに成功した為、ばらばらだった時間軸が俺の中で統合されたのだろう。
少し不思議な感覚だが、達成感や安堵の方が遥かに上回ってほとんど気にならない。
そして、俺は徐に自分の右の掌を見つめる。
「神の指」を握っていた感覚が、そこにはまだ鮮明に残っていた。
──「神の指」の能力は、大きく分けて三つ。
一つ目はキャラクターを創造すること。
二つ目はそれを時間に関係なく任意の場所に送り込む(書き加える)こと。
そして最後は、送り込んだキャラクターを操作することだ。
この三つの段階を踏むことにより、初めて世界を書き換えることが可能となる。
また、キャラクターを生み出したり操作したりするにはその姿や行動をイメージしながら「描写」する必要がり、これにはかなり体力を使うことがわかった。
加えて、二つ目の能力は「時間に関係なく」とは言ったもののやはり制限がないわけではない。俺がキャラクターを送り込むことができるのは過去三日間までに限定され、未来へ書き加えることは不可能。また、過去の場合は自分がの経験したり、行ったことのある場所に限定される。
さらに、距離的にはある一定の範囲内の場所でなければいけないのだが、まあ、だいたいこの街の中ではあれば大丈夫といった具合か。
ルールらしいルールはそれくらいであり、神の力と言うだけあってかなり強力な物だと思う。
「取り敢えず、お疲れ様ですシオンさん。」
ステラの声がして、顔を上げる。
視線の先に立っていた彼女は、青白い月明かりに照らされて浮かび上がっていた。
長い前髪の間から覗くネコ目が、俺を見下ろしている。
「見事、あの女の子を助けることができましたねぇ」
「……ああ、お陰様でな」
「ふふふ、私も楽しませてもらいました」
「それはなにより」
皮肉のつもりで返した言葉だったが、通じているのかどうか怪しい。
「これで、彼女の死は書き換えられた……けれど、シオンさん。一つだけ、勘違いしてません?」
「勘違い?」
今度は何を言い出すのか。
鸚鵡返しに尋ねると、ステラはまたあの悪魔じみた表情でニタリと笑う。
「はい、そうです。
今回、シオンさんは確かに彼女を助けることができた。しかし、決定された運命その物を捻じ曲げることはできない。つまり……彼女の死は先送りされただけで、『コラプサーに巻き込まれて死ぬ』という運命自体に変化はないというわけですよ」
なるほど。こいつがそう言うのなら、きっとそのとおりなのだろう。
黄金の瞳を持つ少女は、残酷な事実を突き付けることを愉しんでいるかのように、なおも笑っている。
「さあ、どうします? たとえこの先何度あなたが助けようとも、彼女はコラプサーに巻き込まれ続けるんですよ? その命が尽きる時まで、永遠に」
運命を捻じ曲げることはできない。
椚原さんは永遠にコラプサーに巻き込まれ続ける。
──さっき倒したフラワノイドが最期に言った言葉と似ているような気がした。
それに、コラプサーが起こるということは、その度に必ず誰かが自殺しており、さらには周囲の人間が巻き添えを喰らう可能性もあるわけだが……。
ステラの問いかけを受け、俺はもう一度自分の掌を見つめる。
ついさっきまでは無力だったこの手の中に、今は神の力がある。
俺は、開いていた指を閉じて、固く握り締めた。
答えはもう、とっくに決まっていたからだ。
「……別に、問題ないよ」
言いながら、顔を上げる。
「他の誰が何人犠牲になろうと構わない。俺はこの力で、何度だって彼女を救う」
この長い一日を経て俺の胸の内に刻まれた、確固たる決意。
俺の言葉を聞いたステラはやはり赤く染まった頬を両手で押さえながら、身をよじっていた。
「シオンさん……あぁ、やっぱり、あなたでよかったです」
──こうして、十年前の約束に端を発する俺の戦いが幕を開けることとなる。
世界を書き換えるペンは、いったい俺をどんな地平へと導くのだろうか……。