第三話「喪失」
コラプサー内部に突入して行ったフリーファイターたちを見送った三人は、空へ立ち昇る暗黒の渦を見つめていた。
と、橘は徐ろにスーツの胸ポケットに手を突っ込み、中から煙草の入ったボックスを取り出す。一本口に咥え、箱をしまうと代わりに今度はジッポを引っ張り出し、左手で風除けを作り着火した。
カチャリと音を立てて蓋を閉じると、それも元どおりの場所をねじ込んでふわりと紫煙を吐く。
それを見た火野木が、抑揚の乏しい声で咎めた。
「橘さん、実物の煙草はしかるべき場所で吸ってください」
「あん? 構やしねえよ、非常事態なんだから。ねぇ?」
同意を求められた松原は困ったように苦笑いを浮かべ、剃り上げた後頭部をさする。
彼の言葉が発せられるよりも、やや憮然とした火野木の声が放たれるのが先だった。
「それとこれとは話が別だと思うのですが」
「あーはいはい。本当、堅物だよなぁ。そんなんだから、いつまで経っても男できねえんだよ」
「……それも今は関係ありません。というか、奥さんに逃げられるような人に言われたくないです」
鋭い指摘を受けた為か、橘は咥えていた煙草を落としそうになる。
仕切り直すように彼は煙草を指でつまむと、また勢いよく煙を吐いた。
「あー、んなことはいいから。それより、さっきの女の子って……」
再び煙草を咥え直した彼が言いかけた言葉を、松原が拾う。
「ええ、お察しのとおり私立秋津学園の生徒──それも生徒会の役員ですねぇ」
「秋津学園……確か、結構由緒ある学校でしたか」
「はい。今はあまり名門、というわけではないんですが、その歴史は古く、この街との関わりも密接な高校です。
特に、ここ数年は街の深いところにまで干渉して来るようになりまして……。まあ、近年人が流れ込んで来た影響で危険な輩が増えたということもあって、生徒の安全を確保する為と言われると、こちらも無下にはできないんですよ」
「ほう。それはなんとも、扱い辛そうだ」
「ええ、まあ……。
ですから、私どもも学園さんとはそれなりのお付き合いをさせていただいております」
さっきから苦笑してばかりの彼の様子を横目で見てから、橘はこの街の微妙なパワーバランスの片鱗を垣間見た気がした。
そして、思い出すのは先ほど現れたフリーファイターの一団の中にいた少女。彼女は十代後半の子供とは思えないほどの風格を漂わせ、その表情は強者の自信に満ちていた。
──なるほど、あの態度の裏打ちとなっているのは学園の威光だったか。
その時の彼は、単純にそう片付ける。
自らの導き出した答えに、若干の違和感を覚えながらも。
と、彼らの元に一人の警官が駆け寄って来た。
何かのっぴきならない事態でも起きたのか、彼は松原の元で立ち止まると上ずった声で報告をする。
「たった今被災者のリストアップが完了致しました!」
「本当か。で、資料は?」
「はっ! こちらです!」
警官が右の手のひらを返すと、その上の空間にQRコードのような正方形のアイコンが表示された。
松原が指先で触れるとそれは消え、代わりに彼の手元に一枚のウインドウが浮かぶ。その白い背景の中には人の名前と年齢、職業が表になって羅列されていた。
「ちょいと失礼」
橘は煙草を手に持って相手に煙が行かぬよう離しつつ、横からそのリストを覗き込む。
そして、少ししたところで、彼の瞳は驚愕に見開かれた。
「なっ」
「橘さん?」
上司の反応を、火野木は不思議そうに見つめる。
「そんな……嘘、だろ……?」
小刻みに肩を震わせる橘の視線の先にあるのは、ある学園の生徒の名前。
「……蜂蜜」
リストに載っていた「椚原蜂蜜」の四文字を目にした彼は、今度こそ口から煙草を落とすのだった。
*
絶体絶命の窮地に立たされた俺の前に現れたのは、先ほど邂逅を果たしたたばかりの梔子茉莉先輩だった。
特殊〈戦闘スーツ〉型のセカンドリアリティに身を包んだ彼女は、素顔を見せながら不良たちをのした時と同じような笑みを浮かべる。自信に満ち溢れた表情でこちらを見下ろす先輩の向こう側では、彼女と同じような格好──先輩とは〈スーツ〉のデザインが所々違い、こちらは濃い青でカラーリングされている──をした人物が、俺を襲ったプラントと対峙していた。
どうやら、間に合ったようだ。
この街のフリーファイターたちが駆け付けるまで、俺は持ち堪えることができた。
こちらへ歩み寄って来た梔子先輩は、腰に片手を当てて首を傾げる。
「立てるかい?」
「な、なんとか……つ⁉︎」
体を貫かれるような痛みに堪えながら、俺はどうにか両手をついて上体を起こした。
それを見た彼女が手を貸してくれ、ふらつきながらも俺は無事に立ち上がる。
確かに、一日に二回も助けられるだなんて奇妙な縁だ。
「あの、ありがとうございます」
そう思いながら礼を述べると、梔子先輩は優しげに微笑んでから、
「安心するのは早いよ。まだ、あいつを仕留めてない」
踵を返し、再び敵と向かい合う。
フラワノイドはガチガチと歯を打ち鳴らし、恨みの籠った視線──むろん目はないが──を彼女に向けた。
「殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス……」
「……うむ、相当嫌われてしまったみたいだなぁ」
梔子先輩は顎に人差し指を当てて、冗談めかして呟く。
しかし、彼女はすぐに脚を開いて腰を落とし、ファイティングポーズを取った。それに合わせて展開していた頭部のアーマーが閉じ、元どおり先輩の顔を覆い隠す。
「まあ、どうでもいい。さっさと刈り取らせてもらうぞ? 花人間」
多分に挑発的なその言葉の意味が通じたのかどうかは定かではないが、これを受けたフラワノイドは顔を上げ暗闇の空へ咆哮した。
「殺ォォォシテヤルゥゥゥウァァ!」
顎が外れそうなほど大きく口が開き、その両端が花びらの部分まで裂ける。
激昂した様子のフラワノイドは力強く大地を蹴りつけ、白い装甲に身を包むフリーファイターへ猛突進して行った。
「ふふ、やってみるといい。お前の全身全霊をもってな」
強敵と相まみえることを喜んでいるかのような、梔子先輩の声。
迫り来る怪人の姿を見ても全く臆する様子がなく、やはりフリーファイターとしてコラプサーと闘っているだけのことはある。
そんな風に感心している俺の目の前で、彼女らは激突の時を迎えた。
フラワノイドは残った方の腕を振り上げながら、敵に飛びかかる。空中で固く握り締められた拳は、相手を叩き潰す為の恐ろしい凶器と化していた。
刹那、全体重を乗せた渾身の一撃が梔子先輩めがけて振り下ろされる。
砕けた公園の土が飛び散り、砂煙りが舞い上がった。
いったいどうなったのか。俺は目を凝らして煙の向こうを見つめる。
晴れて行く視界の中には、地面に拳を突き立てた状態で膝をつくフラワノイドの姿が。
──梔子先輩は、どこへ行ってしまったんだ?
「こっちだ」
その声は、俺ではなく敵を捉え損ねた花人間に対して向けられた物だった。
いつの間にかその背後に飛び上がっていた彼女は、これに気付いたフラワノイドの振り向きざまに一発、鋭い回し蹴りを放つ。
横っ面に強烈な一撃を受けた怪人は、前のめりに体勢を崩した。
梔子先輩は最初の蹴りの勢いを保ったまま、地面に着地する前に体を回転させ、すぐさまもう一方の脚の踵を相手の斜め上から振り下ろす。容赦のない追撃は花びらの形をした後頭部に突き刺さり、フラワノイドは雄叫びを上げた。
「ガアァァァラァ!」
絶叫と共に滅茶苦茶に一本だけの腕を振り回す。相当頭に血が上っているようだが、その闇雲な攻撃はフリーファイターの体に掠り傷一つ付けられなかった。
フラワノイドの拳を全て躱した梔子先輩は飛び退いて少し距離を置くと、右腕の装甲から再び白銀の〈刃〉を展開させる。
「ふむ、なんだその程度か。
……ならば、すぐに終わらせてやろう」
静かな声で言った直後、彼女の体は弾き出されていた。
背中から生えたパーツに青白い炎を点火させながら地面を蹴り、簡単に怪人との間合いを詰める。
白いフリーファイターは目にも留まらぬ速さで腕を振るい、フラワノイドの胸に真一文字の傷が口を開けた。
「ギアァァァ!」
胸から大量の血を噴き出した怪人がよろけた隙に、梔子先輩は相手の花弁の形をした頭を左手で鷲掴みにする。
今度は何をするつもりなのかと思っていると、なんと敵の巨体を地面を引き摺るようにしながら、無造作に放り投げてしまうのだった。
いったいその細腕のどこにそんな腕力が宿っているのか。怪力を見せつけられ度肝を抜かれた俺は、唖然とする。
着地に失敗し地面を転がったフラワノイドは、土を掴んだ左手を軸にして体の動きを止めた。四つん這いのような体勢になり、歯を剥き出しにして剛腕のフリーファイターを睨み付ける。
「ふふ、どうした? もう吠える威勢もないのか?」
対する梔子先輩は嘲笑うような口調で言い、悠々と相手の元に歩いて行った。
もうすぐ、決着がつく。それも、十中八九先輩の勝利で。
そう予想するには充分なほど、彼女は圧倒的に優位だった。
──しかし、この後のフラワノイドのある行動により、事態は一変する。
目のない顔で梔子先輩を睨み付けていたフラワノイドは、突然何かに気付いたかのように首を動かして辺りを見回し始めたのだ。
「……なんだ?」
怪訝そうな声で呟き、先輩は足を止めた。
いったい何が起きているのだろうと不思議に思いながら見ていると、やがてフラワノイドはある場所に顔を向ける。
その視線の先にあるのは、タコの姿を模して作られた滑り台。
「……ミツケタ」
どこかほくそ笑むような感じで、化け物は呟く。
その低い声を聞いた俺は、ある恐ろしい疑念を抱き一瞬で血の気が引いて行くのを感じた。
──まさか、さっきあいつが探していたのは……!
そう思い至った時、すでにフラワノイドはカエルのように足を伸ばして跳んでおり、着地すると同時に滑り台を目指して走って行ってしまった。
「何をするつもりだ!」
その様子を見た梔子先輩は慌てて化け物の後を追う。
だが、彼女が追い付くよりも先にフラワノイドは目的の場所へ到達しており、先ほど敵に向けて放ったように、その手前で跳躍しながら振り上げた拳を、今度は真上から滑り台に叩き込んだのだった。
爆音が鳴り響き、丸かったタコの頭の部分が砕け散る。
砂煙りが立ち昇る中、コンクリートの残骸の上に乗り勝ち誇ったようにこちらを見下ろしているフラワノイドの左腕には、想像どおり俺のクラスメイトの姿が。
化け物の腕の中で、椚原さんは気絶しているのか瞳を閉ざしたままぐったりとしていた。
「椚原さん!」
捕らえられた彼女の姿を目の当たりにした俺は大声で名前を叫んでから、すぐに滑り台の方へ駆け寄る。
だが、ろくに近づかないうちにフリーファイターの白い手が俺を制した。
「待て! 君を行かせるわけにはいかない」
「ですが、椚原さんが!」
フラワノイドに捕まってしまったんだ。じっとしてなんかいられない。
制止を振り払おうとした俺に、梔子先輩は横顔だけで振り返り、
「君が行って何になるんだ?」
「それは……」
そう言われてしまうことくらい、理解していた。
今、俺にできることなんて何もない。
どれだけ彼女のことを護りたいと思っていたとしても、力がなければ何もできない、
その時の俺は、無力な存在でしかなかった。
おとなしく俺が顔を伏せたのを見て、満足したらしい先輩は顔を前に戻す。
「ここから生きて還ったら、もっと強くなるんだ」
彼女のその言葉が、励ましだったのか慰めだったのか、それとも戒めなのかはわからない。しかし、俺は本当にそうなりたいと思い、唇を強く噛み締めた。
「……さて。それではさっさと学園の生徒を返してもらおうか」
滑り台だった場所へ歩き出した梔子先輩が、怒りの滲んだ声で言う。
それを聞いた俺は顔を上げて、今は戦況を見守ることにした。
生徒会副会長の言葉を受けたフラワノイドは、先ほど同様彼女の方に顔を向ける。
だが、さっきとは違い口許には不気味な笑みが浮かんでいた。
「オマエタチニ、“裁キ”ヲ下ス」
「なに?」
今までの壊れた機械のような風にではなく、はっきりと言葉を喋った?
それに、「裁きを下す」とはどういう意味なんだ?
怪物の口から飛び出した言葉は、何かとてと不穏な物を孕んでいるように感じられる。
俺は改めて、その腕の中で眠る椚原さんに目を向けた。
長いまつ毛に縁取られた瞼はいまだ閉ざされたままであり、すぐに目覚めそうな気配はない。
俺が彼女の無事を心の底から祈る一方で、梔子先輩は歩くのをやめて駆け出していた。
「何を言っているのか知らないが、私は私の役を果たすのみだ!」
瞬く間に滑り台の残骸の上へ跳び上がった彼女は大きく上体を捻り、右腕から生えた〈刃〉の切っ先を後ろに向ける。
「秋津学園生徒会の名において、貴様を排除する」
足が着くよりも先に冷徹な声で告げた先輩は、滞空状態のまま斬撃を放った。
やはり目で追えぬほどの速さの刃は、敵の体を一刀の元に切り捨てる。
──はずだった。
しかし、梔子先輩の振り下ろした〈刃〉はフラワノイドの体に突き刺さる前に、太い木の根によって絡み取られてしまったのである。
「くっ、これは……」
先輩は武器を封じられた状態のまま、滑り台だった場所に降り立った。
当然敵は無傷であり、それどころかその顔には余裕の笑みすら浮かんでいるように見える。
何が、起こったのか。
あれは、先ほどの主婦のプラントの物なのだろうか。
俺は、瞬時にそう考えた。
しかし、すぐにそれは間違いだということを知らされる。
突然現れた根っこを目で辿りその出どころを探すと、案外簡単に見つけられた。
──木の根の発生元、それはフラワノイドの左腕に囚われて眠っていた、椚原さんの体だった。
彼女から、プラントの持つ根っこが生えている。
受け入れ難い現実に、俺は声も出せず中途半端な体勢のまま立ち尽くした。
椚原さんの身に何が起こっているのか、見当はついているのに頭が理解を拒んでいる。
絶望に見開かれた俺の目が映し出す景色の中で、ようやく彼女は瞼を開いた。
「……はる、かわくん」
消え入りそうな幽かな声で、俺の名を呼ぶ。
「……椚原さん」
俺の答えが届いたのか定かではなかったが、それでも彼女は言葉を紡ぎ続けた。
「……ごめんね、春川くん」
椚原さんは何故謝っているのか、そして何を謝りたいのか、俺にはわからない。いや、わかりたくもなかった。
「ごめん、ね……せっかく護ろうとして、くれたのに……」
そんなこと、今伝えなくたっていいのに。ましてや、彼女が謝る必要なんて……。
悪いのは、護れなかった方じゃないか。
「でも、ね」
そして、きっと青ざめた表情をしているであろう俺とは対照的に、椚原さんは笑顔を浮かべる。
「ありがとう。すごく、うれしか」
──結果から言えば、それが彼女のくれた最期の言葉となった。
椚原さんが言い終えるよりも先に制服のシャツやカーディガンを突き破りながら無数の木の根が生えて来て、あっという間に彼女の上半身を覆い尽くす。
きらめくような、普段となんら変わらない天真爛漫な笑顔が、グロテスクな根っこに隠され見えなくなって行く瞬間が、やたら鮮明なまま網膜に焼き付いた。
「……うそだ」
どこからともなく聞こえて来た掠れた声は、どうやら自分自身の発した物らしい。
「嘘だ、そんな……嘘だ!」
怒鳴り声を上げた俺は、膝からその場に崩れ落ちる。
周囲から聞こえる音がどんどん遠ざかって行った。
「貴様ぁぁぁ!」
誰かの叫び声がするのが、辛うじてわかる。
どうやら、それは梔子先輩の物であるらしく、彼女は武器を振るって木の根を切り裂き、改めてフラワノイドへの攻撃を開始した。
しかし、そんなことなどもうどうでもいい。
たとえこのコラプサーが消えて外に出られたとしても、もう何も意味はない。
俺の過ごして来た十年間の日々は、今この瞬間、完全に否定されたのだから。
次第に視界が暗く明滅するようになり、意識を保つのが困難になって行く。
案外、涙すら出ないものなのだなと、妙に冷静に思った矢先──。
先輩とフラワノイドとの決着が付くよりも先に、俺の意識は暗転してしまうのだった。
*
強烈な喉の渇きと共に、俺は目を覚ます。
瞼を開くと、薄暗い部屋の中にいた。
慣れないベッドに寝かされおり、視界の先には見知らぬ天井が広がっている。
──ここは、病院?
ということは、梔子先輩は無事にあのフラワノイドを倒し、俺はコラプサーから脱出できたのか……。
寝転がったまま室内を見回すと、誰かが脱がせてくれたのかブレザーが白い壁にかけられているのを見つける。また、窓には厚いカーテンが敷かれており、取り敢えず今は外が暗い時間帯であるらしいことしかわからなかった。
あれから、どれくらい経っているのだろうか。
住宅地の公園で起きたこと、見た光景が脳裏に蘇る。
もちろん、彼女が最期に見せた笑顔も。
俺はギリギリと歯を食いしばり、拳を作った左手の甲で目元を覆う。
──果たせなかった……あの使命を。
悔しさと自己嫌悪とそして純粋な喪失感が胸の中に去来して、何が何だかわからなくなる。
混沌とした感情の波に飲み込まれそうになるのを堪えていたら、今更ながら涙が流れ頬を伝った。
もしもやり直せたら、あの時に戻って彼女を救い出せたら。
そして俺にももっと力があれば……。例えば、梔子先輩のような腕力が……。
考えてもせんのないことを考えてしまうのは、無意識に現実から逃れようとしている証拠だろう。
どこかで時計の針が時を刻む音を聞きながら、俺は負の思考に足を取られもがき苦しんでいた。
「──だったら、書き換えちゃえばいいんですよ」
不意に、声が降って来た。
幻聴かと我が耳を疑ったが、それにしては酷くはっきりとしていて、リアルだった。
──幻なんかじゃない、現実の声だ。
俺は、目を覆っていた左腕をどかして上体を起こすと、恐る恐る声のした方に顔を向ける。
いつの間にか病室の窓が開け放たれており、入り込む夜風にカーテンがなびいていた。
そして、そいつは窓枠に腰かけてこちらを見つめている。
「あなたになら、それができる」
差し込む月明かりを受けながら、さらにそう続けたのは、女の子だった。
けれども、一目見て普通の人間ではないとわかるような異様な雰囲気を纏っている。梔子先輩とはまた別種の、異質だった。
前も後ろも等しく長い絹糸のような真っ白い髪が、風を受けて軽やかに揺れている。
肌の色も白く、月並みな表現で言えば作り物みたいだったが、彼女には最も当てはまる言葉のように思えた。
また、服装も特徴的で、もう五月だというのに幅の広い青色のマフラーを首を隠すように巻いており、しかも何故か長く余った端の部分が前に一本と後ろに二本──計三本も垂れている。普通のマフラーなら余るのは必ず二本だけなのに、いったいどういう構造になっているのだろうか。
と、その不思議なマフラーの下は打って変わって薄着となっており、髪の毛と同じ色の着物のような見たこともない不思議な服を身に纏っていた。袴とスカートの合いの子のような物の裾から細い足首を覗かせており、服だけを見るとどことなく巫女を連想させる格好だ。
そして、最後に目を引いたのは頭の左側に付けている大きな星の形の髪飾りであり、単純なデザインのそれは、彼女の纏っているオーラとはそぐわないように感じられた。
──そんな、あらゆる点において摩訶不思議な格好の少女が、いつの間にか俺の病室の窓に座っていたのである。
突然の出来事にどう反応するべきかわからない俺を他所に、彼女は口角を吊り上げてニヤリと笑った。
「あなたはもう、“神の力”を持っているのだから」
少女はまるで魂の取引を持ちかける悪魔のような笑みを浮かべ、長い前髪の間から覗く黄金の瞳で、俺を見つめるのだった。