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アカシックシード  作者: 若庭葉
Season1「Butterfly」
46/47

エピローグ1「手紙」

 ──二日後。

 再世八年五月十九日、正午過ぎ頃。


 橘は、蜻蛉総合病院内のロビーにいた。椅子の並べられた場所から離れ人目を避けるようにして壁際に立ち、彼は〈スマートフォン〉を耳に当てていた。

 電話口から聞こえて来ただみ声に、橘はロビー内の様子をぼんやりと眺めながら答えたる。


「ええ、一応命に別状はないようです」

『そうか……それは何よりだ。が、まさか山梨がこんなことになるなんてな』


 彼が残念そうに言った後、しばし二人の間に沈黙が流れた。

 その間、橘はこの電話を寄越した上司の名前と顔を思い浮かべる。

 上司の名は(さかき)境一郎(きょういちろう)。橘らコラプサー対策局の局長を務める男だった。

 榊の年齢は五十代半ばほどだが、普段から相当体を鍛えているらしく見た目から衰えなどは感じられない。がっちりとした体つきで肩幅もありなおかつ背が高い為、人によってはそれだけで高圧的な印象を受けるだろう。

 実際、橘も初めて会った時は「まるでフランケンシュタインのイメージみたいだ」という感想を抱いたほどだった。

 そんな強面の上司は、いったい何の用があって自分に電話して来たのか。

 おそらく、部下の安否を確かめたかったから、というだけではないはずだと彼は考える。特に明確な根拠があったわけではないが、橘はすでに何か予感めいた物を覚えていたのだ。

 やがて、彼が反対側の壁の前に並んで浮かぶ〈ウインドウ〉の一つに目を向けていていると、電話の向こうから再び潰れた声が聞こえて来た。


『何にせよ、今回はご苦労だった。お前たちはよくやったよ』

「……何をです? 俺たちが何を成し遂げたと仰るんですか?」


 自嘲気味に、橘は尋ねる。

 彼の視線の先では、一昨日蜻蛉大学で起きた衝撃的な事件について、大楠内閣総理大臣がコメントした際の映像が放映されていた。ここ数日のうちにもう何度も目にした物だ。


『そう自分を卑下するもんじゃない。少なくとも、お前たちの働きのお陰で今後の捜査を進めやすくなったんだ』

「そんなの微々たるもんでしょう。結局、俺らはただ『わかったこと』を資料にまとめていただけだ。わざわざ現場に出向かずとも、デスクに噛りついていれば誰にだってできることじゃないですか」

『……我々の仕事とは、そういう物だろう? それ以上に、何を望むと言うんだ?』


 正鵠を射た言葉を受け、橘は答えに窮してしまう。当然予想できない問いではなかったが、かと言って今回の件に自分が何を望んでいるのかなど、彼自身にもわからなかった。


『橘、お前なりに思うところがあるんだろうが、それでも超えてはならない領分というのがある。たとえどんな現場を受け持ったとしても、俺たちはあくまで監査役なんだ。舞台に上がろうとしてはいけない。そうだろう?』


 以前自分が部下たちに言ったことと、同じようなことを言われてしまう。


「そうですね……俺もそう思ってました」

『うむ。まあ、なんだ、お前がコラプサーに対して特別な思いがあることは知っているが──』

「別に、俺はコラプサーがあいつの仇だなんて思ったことはありませんよ」


 相手のセリフを(はた)き落とすように、しかし落ち着いた口調で橘は紡いだ。彼が眺めている〈ウインドウ〉の中身は、今は報道番組のスタジオ内を映している。

 すると、返って来たのはやや申し訳なさそうに気落ちした声だった。


『そうか、ならいいが……。

 とにかく、お前たちはよくやってくれた。しばらく仕事を離れて羽を伸ばすといい』

「それはつまり、この件から外れろと?」

『平たく言えばそうだ。

 山梨のことはすでに上の耳にも入っている。こちらこらも何らかのレスポンスをしなければならないんだ」


 なるほど、やはりただ自分たちを(ねぎら)う為に電話をかけて来たわけではなかったか、と橘はつまらなそうに納得する。


『火野木を連れて、すぐにでも引き上げてもらいたい』

「……わかりました」


 止むを得ず、彼は答えた。

 山梨のしたことはまだ公にはされていない。榊が上にかけ合ってくれたのか、それとも彼ら自体の思惑による物なのか。判然とはしないものの、騒ぎ立てられずにいるだけマシだろう。

 何より、こうなってしまっては自分たちがこの街でできることなどもう残っていない。抗うだけ無意味だし、もう誰もそれを望んでなどいないのだ。


『すまんな。

 では、頼んだぞ』

「はい。失礼します」


 通話を終え〈スマートフォン〉を停止させた橘は、背中をつけて壁にもたれかかった。空になった手をだらりと垂らしながら俯いたが、幾ばくもしないうちにまた顔を上げる。

 ──気にしてても仕方ねえ。あいつらのところへ行くか。

 すぐに頭の中を切り替えることにした彼は壁から背中を離し、部下たちの待つ病室へと向かった。


 ──三階の白い廊下を進んだ先の角に、彼の入院する病室はあった。

 スライド式のドアの前に立った橘は、手の甲でそれをノックする。コンコンと音が響くのみで返事は聞こえないが、問題はないだろう。

 彼はドアを真横に開け、室内に足を踏み入れた。

 すぐに目に入って来たのは部屋の中に一つだけ設置されたベッドと、そのすぐ傍らに丸椅子を置いて座っている部下の姿である。

 彼女はYシャツの背中を丸め顔を下に向けている為、どんな表情をしているのか全くわからない。

 また、室内はしんと静まり返っており、聞こえて来るのはベッドの脇に備えつけられた装置の発する音と、窓の外で降りしきる雨の音だけだった。

 後ろ手で扉を閉じた橘は、何気ない口調で火野木に尋ねる。


「大丈夫か、お前。一昨日からずっとここにいるだろ? ちょっとくらい休んで来いよ」


 が、返事はなく、彼女は後ろ髪の間から疲れきった白い首を覗かせるだけだった。

 彼は困ったように髪を掻きむしってから、先ほど上司から聞いた言葉を伝えることにする。


「榊さんから電話があった。さっさと蜻蛉から引き上げろってよ。どうやら有給もらえるみてえだぜ」


 わざと皮肉っぽく言うと、今度は少し遅れて反応が返って来る。

 首を折り曲げたまま、火野木はぼそりと呟いた。


「……山梨くんを、ここに置いて行けということですか」


 ずいぶんと久しぶりに口を開いた為か、くぐもって聞き取り辛い声。

 それでも相手の言った内容がはっきりとわかった橘は、彼女の左腕に目を向ける。シャツの上からではわからないが、そこには暴走した幼馴染によって負わされた傷があるはずだ。


「……そういうことだな。俺だって完全に納得してるわけじゃないが、仕方ねえだろ。こんなことになったんだから」

「……橘さんは、知っていたんですか?」


 火野木の問いが何を指しているのか、彼にはすぐに理解できた。


「ああ、知ってたよ。

 けど、あいつに口止めされてたんだ。お前が心配するからってな」


 橘はありのまま事実を伝える。

 またしても、彼女からの返事はない。


「悪かったな、黙ってて」


 少し間を置いてから、彼はそうつけ加えた。


「とにかく、俺たちがこの街でできることは、もうないんだ。山梨につき添うは構わねえが、一旦家に帰ってから出直してもいいだろ?」


 諭すような口調で、橘は言う。

 しかし、火野木は相変わらずこちらの声が届いているのかいないのかわからない状態であり、彼はどうしたものかと頭を掻いた。

 それから、ふと昼食がまだだということを思い出す。そして、おそらくそれは自分の部下も同じことだろう、とも。


「お前、飯まだだよな? せっかくだから、最後にどっかその辺で食ってかねえか?」


 いい返事は期待できないだろうと半ば諦めつつ、橘は提案した。うまくいけば気分転換にもなるかも知れない。


「そんな高いもんじゃなきゃ、奢ってやるからさぁ」

「……『幸福軒』」

「え?」


 唐突に返って来たのは意外な言葉だった。

 あの年季の入った中華料理屋がどうしたのか。彼が疑問に思っていると、彼女は首を曲げて振り返る。

 髪は乱れ目の下にクマをこさえた様子は痛々しく感じられたが、予想に反してその瞳には強い光が宿っていた。


「『幸福軒』なら、行きたいです……」


 自分の顔をまっすぐ見返して言った火野木に、橘は安堵するような笑みを浮かべて答える。


「ああ、わかった。

 じゃあ、俺先に外出て待ってるから、準備できたらお前も来い」

「……はい」


 静かながらしっかりとした返事を聞いて、彼は踵を返した。

 そして、ドアをスライドさせた橘は廊下に出る前に立ち止まり、肩越しに室内を振り返る。

 彼の視線の向かう先には、ベッドの上に横たわる青年の姿が。

 ──すまねえな、山梨。

 両の瞼を閉ざしたままの彼に無言で謝罪をすると、橘は今度こそ病室を後にした。


 *


 今までもそうだったが、この日も「幸福軒」は空いていた。というよりか、客は橘ら三人(・・)だけであり、入った時なんかは店主がカウンター席に座って暇そうにテレビを見ていたくらいだ。

 よって全く座る場所に困るようなことはなく、彼らは通りに面した窓際のテーブル席に腰下ろした。窓の外には豪雨に晒される蜻蛉の街の様子が映っており、三人もスーツの肩や脚なんかをところどころ濡らしている。

 すぐに注文をしてしまい、後は出来上がるのを待つばかりとなる。

 と、おしぼりで顔を拭いた松原が、それを手元に置きながら口を開いた。


「すみません、私までお邪魔させていただいて」

「そんな、気にしないでください。むしろ、松原さんにはいろいろとお世話になりましたし、迷惑もかけてしまいましたので」

「いえ、そちらこそお気になさらずに。栗田さんも、大事には至らなかったのですから」


 柔和な表情で、警部は答えた。彼の言葉を聞いた橘は、話に上がった中年刑事のことを思い出す。

 暴走した山梨に椅子で殴り倒されたという栗田だったが、幸い傷は脳にまで達しておらず、松原の言っていたとおり命に別状はなかったらしい。それでも頭も何針か縫うはめになったのだが、経過は順調とのことである。


「それだけが、唯一の救いですよ。本当に、栗田刑事には申し訳ないことを致しました」


 座ったまま頭を下げる彼に、松原は困ったような顔をして両の手のひらを見せた。


「橘さんが謝罪なさるようなことではございません。あれは、事故のようなものですから」


 言いながら、彼は視線を相手の隣りの席へと向ける。

 そこに腰かけ俯いているのは火野木であり、落ち込んだ様子の彼女の前では、あまり山梨のことを悪く言えないのだろう、と橘は推測した。

 と、彼らがそんな会話をしているところへ、老店主が歩み寄って来る。

 もう中華そばが出来上がったのかと思い橘はそちらを向くが、どうやらそうではないらしかった。

 盆の代わりに封筒を手に持った店主は、言葉少なにそれをテーブルの上に置いたのである。


「……これを。お客さん方に渡せと言づかっていた物です」

「え……なんですか、こりゃあ」


 差し出された白い封筒をに目を落としてから、三人を代表して彼が尋ねた。


「さあ、アタシも中身までは。……ただ、パーマを(・・・・)あてたお兄さん(・・・・・・)に頼まれまして」

「……まさか」


 呟いてから、橘は自分の真横に顔を向ける。顔を見合わせた上司と部下は、全く同じ人物のことを思い浮かべたらしく、無言のまま言葉を交わした。


「では、アタシは調理に戻りますので」

「あ、ありがとうございます」


 そそくさと厨房へ戻って行こうとする彼に、橘はひとまず礼を述べる。

 すると、足を止めて振り向いた彼は、表情を変えぬまま右手の親指を立ててみせるのだった。「どういたしまして」ということなのか、とにかく意外な仕草だった為三人は反応に困ってしまう。

 が、当の本人は特に気にしていないらしく、そのまま何事もなくカウンターの奥へ去って行った。

 その姿を見送った橘は、改めて青年の残した手紙を見つめる。

 それは向かいに座る松原も同様であり、緊張気味に声をかけて来た。


「橘さん、これは……」

「おそらく、山梨が残した物でしょう」


 答えながら彼は封筒を手に取り、「開けてもいいか?」という目線を二人に送る。これに対しどちらも頷き返した為、橘はすぐに封を切ることにした。

 中に入っていたのは一枚の味気ない便箋であり、広げると山梨の物と思しき文字が書かれている。

 彼のしたためた手紙は、以下の文から始められていた。




 どうも〜、山梨っす。

 おそらく橘さんや明日菜がこの手紙を読んでいる頃には、俺はこの世にいないでしょう……って、まさかリアルでこんな文章書くことになるなんて、思わなかったです。




「……案外余裕そうじゃねえか」


 気の抜けるような書き出しを読み、橘は思わずツッコミを入れる。

 つられて松原は微笑んでおり、火野木の顔つきも幾分か──本当にごくわずかだが──和らいだように見えた。




 と、まあそんなこと言ってたら「余裕かよ」ってツッコまれちゃいそうなんで、さっさと本題行きますね。

 俺が今どんな状態なのかわからないっすけど、心配しないでください。自分で望んでやったことっすから。

 というか、迷惑かけちゃってマジで申し訳ないです。栗田刑事にも、なんて謝ったらいいか……。

 それと、明日菜も。最後までこんなんでごめん。本当はもっと一緒に居たかったけど、無理みたいだわ。ごめん。

 できれば、最後にみんなで「幸福軒」のラーメン食べたかったっす。


 P.S.ところで、お二人って東京行ったことあります? 俺、実は小学校の時の修学旅行でしか行ったことないんすよね。




 手紙を読み終えた橘はしばらく黙していたたが、やがてテーブルに置いていた煙草の箱から一本取り出しつつ口を開く。


「……あいつ、いつの間にこんな手紙を。つうか、P.S.の後おかしくね?」


 誰にともなく尋ね、咥えた物に火をつけた。

 彼の声に答えたのは、松原である。


「確か、報告では追跡の途中で何十分か見失ってしまったようですので、おそらくその間に用意したのでしょう。

 P.S.は……どういう意味なんでしょうね?」


 困ったような顔で彼は首を傾げた。

 いくら山梨が普段からおちゃらけているとは言え、何の意味もなく「東京がどうの」なんて書くわけないだろう。そう考えながら、橘は紫煙を吐き出した。

 すると、同じようなことを感じていたのか、火野木が静かに会話に参加する。


「……あの時、最後に山梨くんと会った時、彼は『もう一度「幸福軒」に行きたかった』と言っていました」

「なに? なんでまたそんなことを」

「それは……わかりません。……ですが、彼が意味もなくそんなことを言ったとは思えませんでした。

 そして、実際に『幸福軒』には手紙が残されていた」

「……つまり、この東京の(くだり)もちゃんとした意図があって書かれた物ってことか?」


 灰皿に灰を落としながら彼が問うと、部下はこくりと首を縦に振った。

 煙草を咥え直した橘は、「そうだろうな」と思う。あの青年は、きっと自分たちに何かを伝える為にこの手紙を中華料理屋の店主に託したのだろう。

 では、その「何か」とはいったい何なのか。

 彼は改めて便箋に目を落とし、あまり上手とは言えない文字を見つめた。


「……手書きか。そういや、確かあいつ実物のポールペンなんか持ってたが、あれで書いたんだよな?」

「……たぶん、そうだと思います。山梨くんは、何故かあのペンを大事にしていましたし」


 顎に手を当てている部下の顔を一瞥した橘はさらに思案を巡らしてみたが、一向に答えは見えそうにない。

 仕方なく、彼はこの件を保留にすることに決め、ボサボサの頭を搔きむしる。


「あいつが何を言いたかったのかわからねえが、取り敢えず東京が何か重要だってことらしい。

 ──けど、まあ、とにかく、だ。今の俺たちにはもうどうすることもできねえし、このことは一旦置いておいた方がいいな」


 橘は便箋と封筒を重ねると、目の前に座る警部へと差し出した。


「証拠品ですし、蜻蛉署で保管してください」

「いえ、そういうわけには……といいますか、これはあなた方が持っていた方がいいのではないでしょうか? きっと、山梨さんもそれを望まれると思いますが」


 そう答えた松原は、優しげな表情を二人に向ける。

 それでも遠慮しようかと考えた橘だったが、ここは好意に甘えておくべきかと思い直し、まず彼に礼を述べた。


「ありがとうございます。

 でしたら、これは我々が」


 言いながら手紙を自分たちの方へ引き寄せると、今度は部下の前に持って行く。


「つうわけだから、お前が持ってろよ」

「……はい」


 意外そうな顔をして上司の方を見上げた火野木だったが、最後には素直に頷いていた。彼女は幼馴染の残した手紙を大事そうに封筒に入れ、スーツの内ポケットへとしまう。

 その様子を横目で見てから、橘はまた煙を吸い込み吐き出した。

 そして、考える。

 ──東京と言えば、「アバドン」か。

 それはかつて彼の最愛の人を殺した災害の名であり、今なお日本の元首都を覆い尽くす暗黒のドームだ。

 ──「アバドン」が、蜻蛉で起こったコラプサーの連続発生と関係あるってのか……。

 先週彼らが初めてこの街に来てから次々とコラプサーが発生し、その度に新たな謎や事実が浮上して来た。明晰夢を見せるアプリケーションもテロ組織も黒い怪人ネフィリムも、未だそれらの要素がどう繋がるのか、どんな絵を描き出すのか、橘にはわからないままだ。

 が、それでも自分たちはもう蜻蛉を去らなくてはならない。

 結局、最後まで振り回されてばかりだと苦々しく思っていたところで、注文していた料理が届き、彼は煙草の火を消した。


 *


 その後、山梨にもう一度挨拶をして来るという火野木と別れ、橘は駅へと向かっていた。

 乗ってきた局の車は彼女に渡し、今は松原の出した蜻蛉署の車で移動中である。

 助手席に腰下ろし深くもたれかかった彼は、隣りに向けて声をかけた。


「いやぁ、最後の最後まで松原さんにはお世話になりっぱなしですね。本当に、恩に着ます」

「いえいえ。こちらこそ、お二人からいろいろと勉強させていただきましたので。

 ……ところで、橘さん」


 改まった口調で名前を呼ばれどうしたのだろうと思っていると、彼は真剣な顔つきで尋ねて来る。


「あなたは、もうこの件から完全に手を引かれるおつもりでしょうか?」

「え? えっと、まあ、そうしろと言われちゃったので」

「……そうですか。

 実は、あなたに渡しておきたい物があります」


 言ってから、松原は胸ポケットから何かを取り出して「これです」と橘に寄越した。

 相手の様子を不思議に思いつつ彼が受け取ったのは、小さく折り畳まれたメモ用紙である。


「もし、橘さんが本心では蜻蛉で調査を続けたいと考えていらっしゃるのなら、そこに書かれている住所を訪ねてみてください。きっと、彼ら(・・)はあなたの役に立ちます」

「はあ……誰なんです? 『彼ら』とは」

「……近年、この街にやって来た流れ者です。

 しかし、だからこそ便利な連中なんですよ。何より彼らに何かあったところで誰も気にしない」

「松原さん……それは、いったい」

「ネズミのお話ですよ。異人街に巣食う、ドブネズミ(・・・・・)の、ね」


 冷徹な響きのある声で言った警部の顔を見て、橘は驚かざるを得なかった。それは相手の声音やその発言の内容、そして冷たい表情を垣間見せたことが意外だったからに他ならないが、同時に彼はあることを思い出す。

 蜻蛉大学で、松原はワームウッドの方を見つめながら、何故か感情を押し殺したような顔つきをしていた。

 自分のすぐ隣にいるスキンヘッドの警部は、ただ人がいいだけの男ではないのかも知れない。知られざる彼一面を目の当たりにし、橘は戸惑う。

 それから、紙切れを握る指に少しだけ力を込めた。

 彼らを乗せた乗用車はいっそう強さを増す雨に打たれながら、灰色に沈む蜻蛉の街を進んで行くのだった。

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