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アカシックシード  作者: 若庭葉
Season1「Butterfly」
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第三十九話「慟哭」

 眼前に降り立った黒い天使の姿を見て、月下は細めていたの目を見開いた。

 毒々しい色の夕陽を遮りながら立つそれはまさに「魔」と呼ぶべき外見をしており、大きく損傷した顔面や剥き出しの赤い眼球が、壮絶な戦いを生き延びたことを物語っている。

 本能的な部分で恐怖を感じた月下は手びさしをやめ、瞬時息を呑んだ。

 翼を広げて立つその姿は当然周囲の人間も目の当たりにしており、時が止まったかのような静寂が辺り一帯に訪れる。

 突如とし飛来したテロ組織の手先の怪人。

 予想を超えた出逢いに、野次馬の学生も、職員も、警官も、消防隊員も、松原も、橘も、茉莉も、みな誰もが言葉を失った。

 すぐに動き出せるような者など誰一人としておらず、人間たちはただ異形の存在の動向を伺うのみだ。

 もっとも、そんな中で唯一、ワームウッドだけは全く違った表情を浮かべていたのだが。

 やがて、衆人環視の中、怪人は静かに左腕を振りかぶる。

 月下の瞳はその天使の動きをはっきりと捉えていながら、すぐに反応することができない。

 その間にも天使の腕は原子レベルにまで分解され、包み込んでいた黒いもやが消えると共に真紅の刃へと変化していた。

 刀身から鋭い棘の並んだ大剣が振り下ろされる様子を見上げ、彼は呟く。


「それは……とても痛そう(・・・)だ」


 青年がそう零した刹那、厚みのある刃によって彼の左肩から下腹にかけて斜めに切り裂かれる。

 夥しい量の血がホースの先を握ったように噴出され、怪人の体の前面に降り注いだ。


「や……っぱり、いた……」


 声にならない言葉を言いかけて、月下の体はタイル貼りの路面へと沈んで行った。

 完全に陽が落ち濃紺色になった空に、硬い物同士がぶつかる音が響く。

 ──直後、誰か女の悲鳴が聞こえると同時に、構内はこれまで以上の混乱の渦に叩き落とされた。

 野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、警官たちですらその間で狼狽えている。


「そ、総員! 一般人の避難誘導を優先しろ!」


 松原が怒鳴り声を上げるが、その指示により自分の役割を思い出した部下はわずかであった。

 その隣の橘も下手に動き出せぬまま、こちらに背を向けられている黒い背中を見ていることしかできない。

 また、信じがたい光景を目にした茉莉は阿鼻叫喚の地獄と化した通りの中、立ち尽くしたまま頭を抱えている。

 全身が小刻みに震えていることも気づかずに、彼女は紫色へ変色した唇を動かした。


「先輩……?」


 かつて茉莉がそう呼んでいた物は、今はただ天使の足元に転がるばかりである。


「月下、せんぱ……」


 思考がうまく働かず、それっきり彼女は何も言えなくなってしまう。震える体を制御できず、代わりに自身の髪の間に強く指を食い込ませた。

 一方で、野次馬たちが通りの端へ避難したことによりいくらかスペースができ、そこへ五、六人の勇気ある制服警官たちが出て行く。

 彼らは腰に帯びていたホルダーから拳銃を取り出しており、すでに安全装置を外しているのでろうそれを怪人に向けて突き出した。

 緊迫した空気が辺りに漂い、瞬く間に場を支配する。

 果敢にも異形の存在を取り囲もうとする彼らの後ろ姿を見つめる松原の額を、大粒の汗が伝い流れた。

 ごくり、と生唾を呑み込んだのは彼だけではないだろう。

 誰もがが固唾を呑んで見守る中で、ついに怪人に新たな動きが見られた。

 彼は、ゆっくりと背後を振り返りかけたのだ。

 瞬間、乾いた発砲音が静寂を切り裂いた。警官の一人の放った弾丸は、何故か元からダメージを追っていた翼の片方に小さな穴を穿つ。

 しかし、それだけでは怪人は止まらず、青ざめた顔をした彼らは続けざまに二発、三発と次々に発砲していった。

 そのうちいくつかは硬質な皮膚を掠めるのみだったが、残りは見事左胸と膝、それから右肩へ食らいつく。

 体の三箇所から血の筋を流した彼はわずかによろめき、それを見た警官たちの顔ににわかに安堵の色が浮かんだ。

 ──のだが、それも束の間のことであり、怪人が顔を上げた時彼らは恐怖に凍りつくこととなる。

 怪人には、ある変化が現れていたからだ。

 なんと、仮面のような顔の下側に亀裂が走り、人間であれば耳のある位置くらいにまで広がっているではないか。

 かと思うと、人を食らう化け物のような大きな口が開かれ、その向こう側に鋭い歯が並んでいるのが見えた。

 何が起きているのか、いや起ころうとしているのか、理解できた人間は皆無であっただろう。

 そんな中、耳をつんざくような雄叫びが突如構内に轟き、ビリビリと空気を震わせた。


「──聞けぇぇぇ! 人類(・・)よぉぉ!」


 誰もが我が目を、耳を、疑った。

 その低く重い声は、黒い怪人の口から放たれたのである。


 *


 ネフィリムの後頭部を見下ろすような形で空中に浮かびながら、俺は「神の指」を握っていた。

 同じ魔法陣の上にはまだステラがおり、彼女の手は俺の右手に添えられたままである。先ほど致命者ディミトリィを葬った時も、ステラは何も言わずにそうしていてくれていた。

 俺は彼女の手の柔らかな感触を感じながら、黒い天使の紡ぐ言葉を宙に書き出した。


 〈『我が目的はテロ組織を壊滅させることである! 断じて、愚劣なテロリストたちの味方などではない!』〉


 ネフィリムの声色がどういった物なのかイメージを働かせながら、俺は筆を走らせる。以前裏山で起きたコラプサーの中で梔子先輩に話しかけられた時は、彼を喋らせることに意味を見出せなかった。

 しかし、今回は違う。

 これは、俺なりの宣戦布告であり、決意表明なのだから。


 〈『……しかし、この上まだ我の首を狙う者がいるのであれば、こちらも容赦はしない!』〉


 咆哮する天の御使の姿に、地上にいる人間たちは圧倒され声も出ない様子であった。

 眼下に映る彼らの姿を眺めながら、俺は思い返す。

 ──あの時、杏藤が死んだ時、自分を見失いかけた。喪失感を怒りに変換することでどうにかすぐに戦うことができたが、そうでなければ今ごろ銀色のコスモスに殺されいたかも知れない。

「絶対に打ち勝つ」と椚原さんに宣言しておきながら、俺の決意はすぐさま揺らいでしまったのだ。

 ──けれど、今はもう違う。

 俺は「神の指」を躍らせて、自らの言葉をネフィリムに代弁させる。


 〈『我が意志は神の御心による物! 何人たりとも邪魔だてはさせぬ!』〉


 そう、もう誰にも俺の邪魔をさせるつもりはない。

 彼女を、椚原さんを脅かす可能性のある物は、全て排除する。

 今までは護ることだけを考えて来たが、これからはそれだけではない。致命者たちは、そして奴らの裏にいる「真実の天使」とやらは、俺の手で殲滅する。

 そんな意志を込めたメッセージを俺の代わりに人類へと告げた創造物(キャラクター)は、続いて両翼を広げた。

 が、彼が羽ばたくよりも先に、ある声がそれを引き止める。


「待て!」


 地上を見やると、人の群を掻き分けるようにしてネフィリムのい元へ近づいて来たのは、以前「蜻蛉アースランド」で出逢った男──橘だった。

 拳銃を構えたまま硬直している警官たちの後ろで立ち止まった彼は、黒い天使に向けて質問を投げかける。


「お、お前はいったい、何者なんだ!」


 おそらく、誰もが尋ねたかったことだろう。

 これを受けた俺は、思わず息を吐くように笑ってから、


「……いいでしょう。答えてあげますよ」


 真っ赤な文字を打ち出した。背中からそれを吸収したネフィリムは、再び大声を轟かせる。


 〈『我が名はネフィリム! 世界を書き換える者の使者である!』〉


 雄叫びを上げるように高らかに名乗った天使は、今度こそ黒い翼を羽ばたかせ、空中へ飛び上がった。

 人間たちはその様子に釘づけになりながらも、もう誰一人として呼び止める者はおらず──。

 ネフィリムと俺たちはそのまま蜻蛉大学を後にする。

 結局ステラは最後まで無言だったが、かといって俺から話しかけるようなこともなく、俺たちは一つの魔法陣に乗ったまま夜へと変わった空の中を進んで行った。


 *


 怪人が夜空に消えた後も、しばらく人間たちは立ち尽くしていた。

 彼──ネフィリムと名乗った──が人の言葉を発したことはもちろん、口にした内容もショッキングな物だった。

 もし、ネフィリムの言っていたことが本当なのであれば、テログループの他に超越的な力を持つ第三の勢力が存在するとも考えられる。

 わからないこと、というか知らなかったことがまた一つ出てきたみたいだと、怪人の消えて行った方を見上げながら、橘は思った。

 すると、彼の真横を音もなく通り過ぎて行く者が一人。

 数泊遅れて彼女のことに気がついた橘が慌てて振り返ると、警官たちの方へ歩いて行く茉莉の後ろ姿をそこに見つける。

 拳銃を持つ手をようやく下ろした彼らの間を、彼女はすり抜けようとして、「あ、君」とその中の一人に呼び止められた。

 が、肩越しに振り向いた茉莉の顔を見て、彼はそれ以上何も言えなくなってしまう。

 彼女の白い顔に浮かんでいたのは、目にした相手に有無を言わせないほど静かな(・・・)表情だった。

 警察官を黙らせた茉莉は、改めて地に伏した青年の元へ歩み寄る。

 撒き散らされた血液で汚れることも厭わず彼を仰向けにすると、膝枕をするような形で上体を抱き起こした。

 息は、ある。

 しかし、それももう本当に幽かな物だ。切り裂かれた箇所は大きく口を開けているにもかかわらず、もうろくに血が流れて来ない。


「……先輩」


 呟いた彼女は、青白く血の気の引いた彼の頬に手を触れた。


「……ま、つり……」

 .

 微かに唇が動き、辛うじて少女の名前を呼ぶ。


「月下先輩!」


 知らず、茉莉は大声を出していた。

 彼女の腕の中で、一つの命が消えようとしている。


「先輩! しっかりしてください! 先輩!」

「……さい、ごに」


 月下は最後の力を振り絞り、右手を挙げた。

 震える彼の手は後輩の顔を目指して行き、やがてその指先が頬に触れる。


「おまえ、が……いてくれて、よ、か」


 だが、月下が言いきるよりも前に彼の腕から力が抜けた。

 結局彼の指は茉莉の頬に血の跡をつけただけで、それっきり青年の体は動かず、声を発することもなくなる。


「先輩……」


 彼女の言葉に、もう誰も答えない。

 茉莉は、膝の上に乗せている物からどんどん熱が消えて行くことが、はっきりとわかるような気がした。


「だ、めだ……死んで、しまったら……」


 彼女の瞳から、涙の粒が静かに流れ落ちる。


「だめ……」


 とめどなく溢れて来る物を拭うこともできず、茉莉は月下の頬から離した手を握り締めた。

 そして、彼女は──

 一人、慟哭する。

 その叫び声は、まるで生きたまま体を破壊される痛みを耐え忍んでいるようであり、いつまでも蜻蛉の街の空に木霊していた。






 青年を看取った少女の後ろ姿を、橘は少し離れた場所から見つめていた。

 だが、すぐに耐えられなくなり顔を逸らしたところで、不意に顔の横の空間に〈スマートフォン〉が現れる。

 手に取って画面を確認すると、電話を寄越して来た相手は火野木だった。

 おそらく、蜻蛉署から脱走していた彼女の幼馴染に関する報告だろう。そう考えながら、彼は通話に応じる。


「もしもし? あいつ見つかったのかよ?」


 橘が電話口に向かって尋ねるも、返事が聞こえて来ない。


「火野木? おーい、聞こえてるかー?」


 何故か言いようのない不安を覚えた彼だったが、それでもその時は軽い口調だった。

 橘が訝しがりながら待っていると、しばらくしてようやく部下の声が返って来る。


「……橘さん。山梨くんが……」

「何か、あったのか……?」


 今度は恐る恐る尋ねる彼に、火野木は消え入りそうなほど幽かな声で答えた。


「山梨くんが、死んでしまう(・・・・・・)かも知れません」






 混乱を極めた状況に誰もが立ち尽くし、あるいは膝をついて泣き崩れている中で、彼だけは全く様子が違っていた。

 口許を大きな手で覆い、ワームウッドは堪えきれないとばかりに笑みを浮かべている。

 と、そんな彼の元には、いつの間にか側近であるブロンドの少年の姿が。

 相変わらず無機的な表情をしたローラスは、自らの主人に何事か耳打ちする。


「……そうか」


 それを受けたワームウッドは、楽しそうにエメラルドグリーンの瞳を細めた。

 彼の視線の向かう先では、地面にに膝を着き慟哭する少女の姿が。


「……ふふ、まだまだ楽しませてくれそうだね」


 そう呟くワームウッドの声を聞いたのは、やはり彼の従者ただ一人だけだった。

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