第三十八話「逢魔」
彼は、歩道橋の上から景色を眺めるのが好きだった。
といっても何か明確な理由があるわけではない。強いて挙げるなら欄干が腕を置くのにはちょうどいい高さだからだろうかと、彼──芦屋孝良は考える。
それから、昨日対峙した同学年の生徒のことを思い出した。
あの時、彼は芦屋にこんな言葉を寄越したのだ。
──できるさ。たとえ指一本だけだとしても、俺の力は神の物なんだから。
そう言い放ったシオンの顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。その表情を目の当たりにした彼は、まるで闇に堕ち神の敵となることを選んだ堕天使のようだと思う。
と、同時に、確信したのだ。
今のうちに手を打ったなければ、いずれシオンは彼らのの天使を脅かす存在となると。
だからこそ、芦屋は今日も歩道橋の上に佇んでいた。
致命者ディミトリィの用意した〈招待状〉によりシオンが傍を離れた隙に、彼女と接触する為である。
やがて、夕焼けに染め上げられた街の中にお目当の少女の姿を発見し、彼は口許を歪めた。
縁なし眼鏡の奥の不気味な視線の向かう先には、買い物袋を手に持って歩く椚原蜂蜜の姿があった。
「ふんふっふふふふふふ〜んふふんふ〜ん」
うろ覚えのポップソングを口ずさみながら、蜂蜜は上機嫌そうな様子で通学路と同じ道を歩いていた。
彼女の手にはスーパーの買い物袋が下げられており、卵や野菜類や肉といった食材がいっぱいになるまで詰め込まれている。
それらは全て学校を欠席したクラスメイトのお見舞いの為に買った物なのだが、明らかに体調を崩している人間が一人で食べる量ではなかった。
──そういえば、長ネギをどうにかすると病気に効くんだよね。うーん、どうするのがいいんだったっけ……。
すんなりと思い出すことができず頭を捻っていた蜂蜜は、やがて袋を持ったままポンッと手を叩く。
「そうだっ、確かまるごと一本丸呑みするんだよー!」
と、世にも恐ろしい荒療治を声に出して言う少女。
「うん、これ合ってるっぽい! 杏藤ちゃんにも教えてあげないとっ」
すっかり納得した様子の彼女は、何やら使命感めいた物まで抱いてしまったらしい。
普段ならここで友人たちが指摘なりツッコミなりをしているところだろうが、不運にも今蜂蜜を止められれ者は誰もいない。
彼女はネギを丸呑みにした途端全快するクラスメイトの姿を思い浮かべながら、やがて歩道橋へと差しかかった。
古びた階段を軽やかな足取りで登って行き、橋の部分に立った蜂蜜はあることに気がつく。
歩道橋の中ほどに、一人の少年が待ち構えていたのだ。
彼は欄干から体を離し、縁なし眼鏡をかけた顔を彼女の方へ向ける。
その姿に見覚えのあった蜂蜜は、思わず「あっ」と声を上げた。
彼女の反応を見た芦屋は、気安い感じで右手を挙げる。
「やあ」
「君は……ネクラ眼鏡くん?」
「否定はしないけど、いきなりずいぶんな言い方だね」
「あ、ごめんね、つい。
今帰りなの?」
「ああ。
ところで、ちょっと時間いいかな? 椚原さんに会ってもらいたい人がいるんだけど」
「会ってもらいたい人?」
鸚鵡返ししながら首を傾げると、彼はあくまでも人のよさそうな笑顔のまま頷いた。
「うん。僕や杏藤くんの共通の知人なんだ」
「杏藤ちゃんの知り合いかぁ……」
蜂蜜はどうしたものかと迷っていたが、どのみち友人の用事が終わるまで暇なのだから断ることもないか、という結論に至る。
「わかった、オッケー牧場だよー!
あ、でもあんまり遅くなるのはダメなんだけど」
「ありがとう。
大丈夫だよ、すぐに済むから」
縁なし眼鏡をかけ直した芦屋は、徐にブレザーの内ポケットに手を入れた。
いつたい何をするつもりなのかわからず、彼女が不思議そうに見つめる中、現れたのは一本の小さな注射器である。
彼はそれを相手によく見えるように高く掲げ、細い針に夕陽がギラリと反射した。
「め、眼鏡くん?」
蜂蜜の声には答えず、代わりに芦屋は胸の中で、ここにはいない少年に語りかける。
──ごめんね、春川くん。彼女には、一足先にあの方と会ってもらうことにするよ。
呟きながら、彼は注射器を持った手を自分の首筋へと近づけた。
──けど、悪いのは君だよ。君が僕たちの邪魔をしなければ、彼女はこんな目には遭わなかったんだ。
鋭い針が、芦屋の喉仏の真横当たりに突き立てられる。
「ふふふ、これで、僕たちの勝利だ!」
恍惚とした表情を浮かべて叫んだ彼は、そのたま無色透明の薬品を首筋に打とうとした。
──が、結論から言えば、それは未遂に終わる。
「眼鏡くん」の取った予想外の行動に、蜂蜜はあっけに取られたまま立ち尽くしていた。
しかしその直後、彼女はさらなる驚愕に両目を見開くこととなる。
毒々しいほどの夕焼けに染まる空の中から、突如巨大な黒い影が舞い降りたのだ。
「なっ……に⁉︎」
芦屋もすぐにそのことに気付き、思わず針を刺す手を止めて頭上を見上げた。
彼の二つの瞳が迫り来る漆黒の怪人の姿を捉えた時には、すでにその腕が高速で振り下ろされており──。
歩道橋の真ん中に足をつけながら、怪人は凄まじい速度で芦屋の右手を叩く。
彼の手が握っていた注射器は欄干を超えた先まで飛んで行き、そのまま下を通りがかった乗用車に轢かれて砕け散った。
容器か割れる音を聞きながら、芦屋は苦しそうに呻き声を上げる。叩かれた箇所は傷になってしまっているらしく、赤い血がどろりと流れ落ちていた。
「くっ……そんな、馬鹿な」
忌々しげな声でそう吐き捨てた彼は、翼を広げたまま立ちはだかる異形の存在を睨みつける。
対する怪人は凹凸の少ないない仮面のような顔を向け、これまでどおり無言のまま芦屋を見下ろしていた。
*
「悪いな、芦屋。お前たちの思惑どおりにはさせないよ」
空中に浮かぶ魔法陣の上に立った俺は、ネフィリムの頭の後ろから彼を見下ろして言った。
怪我をしたところをもう一方の手で庇いながら、芦屋は天使の顔を睨みつけている。
「……まさか、もうフラワノイドを倒して来たのか……期待はずれだよ、パンテレイモン」
目を血走らせながら、彼は毒づいた。
これを聞いた俺は、自然と口角が吊り上がっていることに気付く。
芦屋は何か勘違いをしているようだ。
そもそも、ここにいる俺とネフィリムは蜻蛉大学になど行っていない。
──あの悪趣味な〈手紙〉から月下さんが致命者だということに行き着いた俺は、すぐに大学へ向かおうとした。
しかし、ふとある疑問が頭の中に浮かぶ。
この〈手紙〉は罠なのではないだろうか、と考えたのだ。
ネフィリムのことを「怪人」ではなく「天使」と書いたことが単なるケアレスミスなのか、それともはだってそうしたのかまではわからないが、それでなくともあんな物普通怪しむだろう。
だから、俺は大学へ行く前に予め「執筆」をしておくことにした。
一旦何分か前の時点にネフィリムを書き加えることにより、「意識のみの状態の俺」と「実体を持つ俺」が同時に存在するようにしたのである。これにより、「意識のみの状態」で椚原さんに危険がないかを見張りつつ、「実体を持つ俺」が大学へ向かい必要とあらば「執筆」ができるようしていたのだ。
実際、蜻蛉大学で第四のコラプサーが発生してしまったようだし、こうしておいて正解だった。過去と現在どちらに「執筆」を行うにせよ、実体を持つ俺からしか不可能なのだから。
「くそっ、僕をなめるな!」
怒りに顔を赤くさせて、芦屋はがなり立てる。
それから、おそらく舌を噛みちぎろうとしたようだが、
〈瞬時に相手の鳩尾を殴り、気絶させる〉
「神の指」が紡ぎ出した文字を吸収し、天使は即座に彼の腹を殴りつけた。
ネフィリムの黒い右手が体に突き刺さり、芦屋は口を開けて唾を吐き出す。
「がは⁉︎」
「……言ったはずだ。俺の大切な人を傷つけるのであれば、容赦はしないと」
言いながら腕を動かし、意識を失ったらしい彼の体を天使に抱えさせた。
「こんなところで簡単に死なせなどしない。お前には、相応の罰を与えてやるよ」
俺の指示に従い、翼を羽ばたかせたネフィリムは夕焼けの空へ飛び立つ。
「め、眼鏡くん⁉︎」
歩道橋の上で椚原さんが叫ぶ声が聞こえて来たが、俺はあえてそちらは見ないようにした。
彼女に俺の姿が見えることはないが、それでも顔を合わせられるような気分ではなかったからだ。
夕暮れの街の上を飛んで行く天使の後ろ姿を追いかけながら、俺はふと思う。
──向こうは、大丈夫なんだよな?
蜻蛉大学でコラプサーが発生したということは、月下さんか別の致命者が自殺したということなのだろうが……。
果たして、あちらの俺たちはフラワノイドを倒し、問題なく杏藤を救出できたのか。
どういうわけか、胸騒ぎが収まらない。できることならば、今すぐにでも彼の無事を確認したかった。
──無事でいてくれよ、杏藤……。
胸の中で強く祈りながら、魔法陣に乗った俺は加速するネフィリムのすぐ後ろを飛んで行った。
*
蜻蛉大学構内でコラプサーが発生してから、三十分ほどが経過しようとしていた、その時。
突如として、大通りの先を覆っていた暗闇が消えてしまった。
どうやら、今回のコラプサーも無事にフラワノイドを刈り取ることができたらしい。
そして、これにより辺りは一段と騒がしくなる。
駆けつけていた消防隊員や警官たちが、生存者の救護や状況確認の為闇に閉ざされていた場所へ向かって行く。
彼らが慌ただしく動き回る中で、現場監督であるスキンヘッドの警部は大声でいくつか指示を飛ばした。
また、その隣に立つ橘は死んだ魚のような目を発生現場の方へ向けながら、ボサボサの頭を掻きむしる。下手に動いて邪魔にならないように立ち止まったまま、彼はあることを考えていた。
──今回も例の怪人とやらが現れるんじゃねえかと思ったが、見当はずれかもな。もうコラプサーは消滅したし、結局会えず終いか……。
どうやらアテが外れたらしい、と橘は内心残念に思う。巷で噂となっている黒い怪人の姿を、彼も一目見てみたかったのである。
自然といつにも増して気だるそうな目つきになった彼は、視界の先にある一人の少女の姿を発見した。
こちらへ足早に歩を進めて来るのは秋津学園生徒会のナンバーツー、梔子茉莉だった。
しかも、肩を怒らせて歩く彼女は何故か物凄い形相をして橘の方を見ている。
とても十代の少女の放つ物とは思えないほどの威圧感を受け、彼は一瞬たじろぐ。
それから、すぐにあることに気付いた。
茉莉の視線は橘ではなく、その後ろに身を隠している男に向けられていたのだ。
彼はすぐに首を曲げ、背後を振り返る。
「……どちらへ行かれるのですか?」
淀んだ眼差しと共に発せられた橘の問いに、ワームウッドは苦笑いを浮かべた。
「い、いえ、ちょっと急にお腹が痛くなって来たものですから、お手洗いに……」
「…………」
なんとも見え透いた嘘に、思わず彼は無言で相手を見つめる。
WSROのトップは気まずそうな表情をしながら、それでもこっそりとその場からフェードアウトしようとしていた。
が、彼が手洗いへ向かうよりも先に、修羅のごとき怒気を纏った少女がすぐ傍までやって来る。
いっそう苦々しい顔つきになったワームウッドの目の前で立ち止まり、彼女は静かに口を開いた。
「お久しぶりです」
「……や、やあ、元気だったかい?」
「ええ、お陰様で」
「それは何よりだよ」
どうやら二人は以前からの知り合いであったらしい。
顎に手を当てた橘は、所在なく彼らのやり取りを見ていることにする。
「桜から聞きました。一昨日ディナーに招待された、と。イタリアンが美味しかったと自慢されましたよ」
「ああ、あそこのコースメニューは一級品だからね」
「……あなたは、あくまでも進行役なのですよね? 何故また、あいつに近づいたんですか?」
「……怒ってるのかい?」
彼は首を傾げ尋ねるも茉莉はそれには答えず、代わりに無言のまま睨み続けた。
ワームウッドは困ったように笑うばかりであり、そんな様子を見た橘は「意外だな」と思う。
そして、彼は二人がどんな関係なのか、俄然興味が湧いて来た。
「そう怖い顔をしないでくれよ。
私はただ、彼女と旧交を暖めたかっただけさ」
「旧交……」
「本当のことだよ。
それに、私は直接ゲームに介入するつもりなどないからね」
先ほどから「進行役」だとか「ゲーム」だとか、意味深な単語がちらほらと飛び交っており、それが何を指すのかはわからないものの、橘にはとても重要なキーワードのように思える。
ワームウッドが秋津学園の生徒会長と接触していたらしい──というかこちらも顔見知りだったようである──ことも含め、彼が何かしらの意図を持ってこの街に赴いたことは確かなようだ。
「……わかりました。
なら、今後一切桜には近づかないでください」
「ああ。残念だけど、そうするよ」
すんなりと相手の要求を呑んだワームウッドは、芝居がかった仕草で肩を竦めてみせる。
それから伏せていた目線を上げると、その顔にすでに異質な笑みが貼りついていた。
「どのみち、もう賽は振られている。一度ゲームを始めたからには、最後の一人を決めるまで戦いは終わらない。君も彼女も彼も、そして私も、誰もが運命からは逃れられないのだからね」
彼の口から放たれた不穏なセリフを、茉莉は無言のまま受け止める。
だが、やがて瞳を逸らした彼女は憮然とした態度で歩き出した。
「そうですね。あなたの言うとおりです。
しかし、勝つのは桜だ。たとえ誰が相手だろうと、私はあいつの描き出す未来を信じていますから」
ワームウッドの真横を通り過ぎながら、茉莉は確固たる意志を窺わせるような口調で告げる。
「ふふ、相変わらず頼もしいね。私も、君たちの勝利を祈っているよ」
歩き去って行く少女の後ろ姿を肩越しに見つめながら、彼は呟いた。
彼らのやり取りを観察していた橘は再び煙草が欲しくなり、禁断症状をごまかす為に仕方なく頭を掻く。
と、なんとなく左横に目を向けてみた彼は、ようやくあることに気がついた。
先ほどまで部下たちに指示を出していた松原がいつの間にか口を閉ざしており、どういうわけかじっとワームウッドらの方を見つめていたのだ。
それも、普段彼が見せる柔和な表情とは違い、感情を押し殺しているような無機的な顔つきで。
橘にとってはこちらの豹変とも取れる変化の方が、よっぽど衝撃的であった。
いったい彼はどのような形で、今しがたのワームウッドたちの話と関わっているのだろうか。
余計にニコチンを摂取したい衝動が沸き起こり、彼は周囲に聞こえない程度の大きさで舌打ちをした。
そんな四人の様子を、規制線の外側から眺めている青年がいた。
野次馬の中に紛れ込んだ彼、月下香一は、声を潜め引き笑いをする。 その視線の先に映り込むのは主に不機嫌そうな表情をした後輩と、横目で彼女を見送っている男の姿だった。
──まさか、こんなに早くお目にかかれるとはな。
妖しげな光を瞳の奥に宿らせながら、月下は声に出さずに独白する。
彼は舌舐めずりでもしそうな顔をしたまま、密かに踵を返した。
それから、人垣の中をおよぐように歩き始める。
──あの人ならきっと、皇樹や茉莉と同じように俺の理論を超えてくれる。
野次馬たちの間をすり抜けて行きながら、月下はそんなことを考えていた。彼の中で何か楽しみが増えたのか、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようである。
もっとも、それほど無邪気な様子ではなく、むしろ残忍さが醸し出されていたのだが。
──春川くんもそうだけど、やはり本命はあっちか。世界を掌握するWSROのトップともなれば、さぞ楽しませてくれることだろう……。
いっそう口角を吊り上げた月下は、ついに野次馬の群を抜け出し、コラプサーの現場となった場所に背を向けたままささっと立ち去ろうとしていた。
夕陽はすでに沈みかけており、キャンパス内に建つ学科棟の一つに遮られながら、最後のあがきとばかりにひときわ強烈な光を放つ。
その頭上では夜を待ちきれなかったらしい一番星が、青と黒の溶け合う空に浮かんでいた。
──逢魔が刻。
そう呼ぶに相応しい光景だ。
もしかしたら自分の気持ちの高揚にも、この禍々しい空の色が関係しているのかも知れない。
そんな風に考えた月下は立ち止まり、歩いて来た方を振り返る。手びさしを作った彼は、改めて西の彼方へ消え行く陽光を見つめた。
しかし、手を添えるだけではまだ足りず、彼が眩しさに目を細めた時。
舞い降りた黒く巨大な影により、夕焼けの光は遮られ、届かなくなる。
──彼にとっての「魔」が地上に降り立ったのだ。




