第三十六話「謁見」
「ありがとうございましたっ!」
戸口に立ち店内に向かって礼を述べた山梨は、曲げていた体を伸ばして扉を閉める。
──さて、と。ここからが本当の正念場、だな。
再び表に出た彼は、自分自身に「準備はいいか?」と問う。
山梨にはまだ、最後の大勝負が残っていた。
もしその賭けに勝てばこれ以上体を乗っ取られずに済むだろうし、何か新たな情報を得られるかも知れない。
しかし、逆に予想が外れてしまった場合、自分が第五のコラプサーの発生源となってしまう恐れもある。
うまく行くと言う根拠もないし、ただ単に自らの直感に従っての行動にすぎないのだが、それでもやってみる価値はあると彼は考えていた。
そして、山梨が来た道を引き返し始めると、脳内に助っ人の声が響く。
〈申し訳ありません、山梨さん。そろそろボクは時間切れのようです〉
ダアトの言葉を聞いた彼は、「え、もう?」と頭の中で尋ね返した。
〈ええ。ボクは訳あって限られた時しか行動できないような状況にいるんです。ですから、山梨さんとはここでお別れです〉
──そっか。残念だけど仕方ないよなぁ。つうかマジで助かったよ、ありがとう。
心から感謝を述べた彼に、ダアトは少々照れ臭そうに答えた。
〈礼には及びませんよ。これも、全て、か……れら、に……まけ、な、い……ため……で……す……か……ら〉
ビリビリとノイズが走り、彼の声は徐々に途切れて行く。
謎の助っ人との通信が完全に途絶えた時、山梨は結局正体を聞きそびれてしまったことに気付いた。
他人のゼルプストチップにアクセスして心を読み、さらには特殊なセカンドリアリティを起動させられる存在とはいったい何者なのか。
改めて興味が湧いて来た彼だったが、それを確かめる機会はおそらくもう訪れないだろうと、すでに諦めている。
いや、むしろ来ない方がよいのだと思い直しながら、山梨は角を右へ曲がった。
このまま道なりにしばらく行くといっそう寂れた区画に出ることができ、確かそこは「旧蜻蛉駅前通り」という名のシャッター商店街だったと彼は記憶している。
そこならば、人目に触れることなく作戦を決行に移すことができるだろう。山梨は立ち止まることなく、足早に歩を進めた。
*
パトカーの助手席に腰下ろした火野木は、無言のまま窓の外を流れる景色を見ていた。
普段の無表情と比べ険しい顔つきの彼女の隣りには、緊張した面持ちで腕を組んでいる柊の姿が。
市街地の中を駆るパトカーの中で、彼は逃走中の山梨についてわかっていることを報告する。
「約十分前、警ら中の警官二人が山梨さんを発見したのがこの辺りです。彼らは逃走した山梨さんを追跡しましたが、裏通りに入ってすぐに見失ってしまったそうです」
柊の言葉をなぞるかのように、二人を乗せた車は右折して細い道へ新入した。どうやら、この先が警官らが山梨を見失ったという場所らしい。
「時間的に見てもおそらくそう遠くまでは行っていないと思いますが……これだけ探して見つけられないとなると、もしかしたら蜻蛉から出てしまっている可能性も考えられますね」
「……たぶん、それはないと思います」
「と、言いますと?」
新米刑事が尋ねると、火野木はどこか遠くを見つめるような目をして答える。
「彼、自分の仕事にだけはやたら拘る人なんです。だから、やりかけの仕事をほっぽり出して遠くへ行ってしまうなんてこと、絶対にあり得ません」
彼女は強く言いきったのだが、それはどこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。
これを聞いた柊は相手の横顔を盗み見ながら、少々意外だなと思う。
「そう、ですか。
しかし、いずれにせよ彼が我々の仲間に怪我を負わせ逃走を続けていることは事実です。たとえどんな理由があろうと、これ以上山梨さんが暴走するのなら私たちもよりいっそう厳しい対応をせざるを得ません」
視線を前に戻した彼は、十字路に差しかかった車内でそう告げた。
と、火野木はようやく隣の座席に顔を向ける。彼女は表情に乏しいものの、それでも強い決意をしていることがわかる顔をしていた。
「ええ、そうしてください。……ですが、その場合は私も彼をぶん殴らなければならないので、しっかり取り押さえていてくださいね」
「え?」
突拍子もない発言に驚いた彼が再び助手席に目を向けると、火野木はすでに拳を握り締めていた。
「……あ、本気なんですね」
「当然です。幼馴染ですから」
「理由になってないのでは?」と思いながらもそれを口にすることはなく、柊は苦笑する。
そんな彼の反応など気にすることなく、彼女は握ったままの自らの拳に視線を落とした。
──大丈夫なのよね? もう二度と、あんなこと……。
午前の捜査会議室での出来事を思い出し、火野木は胸の内で必死に祈る。
彼女は右手が震えてしまうのを隠す為、もう一方の手で包み込んだ。
火野木は、彼が自分に隠れて何かをしていることに以前から気付いていた。しかし、それでいながらそのことを追及せずにいたのは、山梨のことを信頼していたからに他ならない。
彼は一見いい加減そうでありながら、その実仕事熱心で一度決めたら最後までやり通そうとする性格だと、彼女は知っていたからだ。
だが、今となっては、だからこそ自分が止めてやるべきだったと後悔していた。
少し考えれば想像できたことではないのかと、悔やんでも仕方のないことばかりが頭に浮かぶ。
そして、次こそはああなってしまう前に彼を止めてみせると、彼女は強く誓い顔を上げた。
もう、拳の震えは治っている。
──と、その時だった。
車体に内蔵されたスピーカーが不意に声を発したのは。
『こ、こちら御子柴! 被疑者を再発見しました! 現在は、旧蜻蛉駅前通りを追跡中です!』
捜索中だった制服警官からの報告を受け、車内に緊張が走る。
「旧蜻蛉駅前通りと言えば、確かこの近でしたよね……?」
火野木が運転席に向かって尋ねると、新米刑事はコクリと頷いてみせる。
「はい。我々もそちらへ向かいましょう」
言ってから、柊はハンドルの代わりに設置されたパネルに触れ進路を変更した。
その様子を見た彼女は、再び顔を前へ戻す。
──お願い、まだ待っていて。ヒロちゃん……。
火野木が幼馴染の無事を祈る中、フロントガラスの向こうに映る景色はいっそう寂れた物へと変わって行った。
*
旧蜻蛉駅前通り(通称:商店街)にて──。
フラワーショップ「月見草」は、この商店街にまだ活気が溢れていた時代から通りの中ほどに居を構えていた。
通りに存在するほとんどの店がシャッターを下ろしてしまっている中、ここ「月見草」だけは今日も十時には店を開き無事に営業を行えている。
現在は従業員である若い女が店先に立っており、彼女は花の剪定を行う為の物であろう盆栽鋏を見に手に握っていた。
店の名前が刺繍されているエプロンをかけた彼女は、顔を上げて息を吐くと共に鋏を持った方の腕で額の汗を拭う。
と、そこへ一人の男が自転車を引きながら、通りを横断して女の元へ近づいて来た。
黒いサロンエプロンを腰にかけ、角刈りの頭の下にねじり鉢巻きをしている彼は、気安い感じで彼女の背中に声をかける。
「どうも、椛さん。こんにちは」
椛と呼ばれた女は男の方を振り返り、快活な笑みを浮かべた。
「こんにちは。配達帰りですか?」
「ええ、そうです。お得意様のところへひとっ走り行って来ました」
何故か照れたように角刈り頭を掻いた男は自転車のスタンドを立ててから、彼女の足元に置かれたポリバケツの中身に目を向ける。
水が張られているらしいその中には、剪定を終えたらしい赤い薔薇が何輪か差してあった。
「薔薇ですか、綺麗ですねぇ」
「そうでしょう? 素敵な女性への贈り物にぴったりですよ?」
椛は冗談めかして言うと、笑顔のまま首を傾げる。
すると鉢巻の男は「それはいいですね。一つ頂いて行こうかな」と満更でもない様子だった。
「あら、いつの間にそんな女性ができたんですか?」
「『できた』というよりこれから『できる』というか、『できてほしい』といいますか」
歯切れ悪く答えてから、彼ははにかむような顔で続ける。
「できればその、僕は椛さんにこの花をプレゼントしたいです……」
「楢島さん……」
楢島という名前であるらしい男の言葉が意外だったのか、彼女は呟いてから左手で口許を隠した。
気恥ずかしさからか、楢島は顔を赤らめて目を逸らす。
椛はそんな彼の姿を見てこちらも頬を染めた。
「椛さん、僕はナンバーワンにはなれないかも知れません。……ですが、僕たちはみんな元々特別なオンリーワンなんです。世界に一つだけの花だと思うんです。だから……だから、お互いにそういう特別な存在になりたいというか……」
楢島は相手の心に響くように、熱の籠った口調で語りかける。。
実のところ今から約百五十年ほど前に流行したポップソングの歌詞の流用にすぎないのだが、花屋の店員はそれに気付かない。
「と、突然そんな……困ります」
「僕ではダメですか?」
「そ、それは……」
彼女は顔を伏せたまま答えに窮した。
──た、確かに楢島さんは昔からよくしてもらっていて、凄くいい人だとは思うけど……。
椛が目線だけで相手を見上げると、楢島は餌の前でお預けを食らったブルドックのような顔で目を潤ませでいる。
それを見た彼女は再び顔を逸らし、こう思った。
──致命的なことに顔が好みじゃないのよね……。
寂れたシャッター商店街で回り始めたラブストーリーには、早くも終わりの兆しが見え始めていた。
八割がたの店がシャッターを下ろしている通りの中を、山梨はアスファルトを蹴りつけて走っていた。
その後を追うのは先ほどと同じ二人の警官であり、四角い顔の方が怒鳴り声を上げる。
「待ちなさい!」
「いやいや、それで本当に待つわけないっしょ」
と、肩越しに背後を振り返って呟いた彼は、ここからどうするべきか思考を巡らせた。
まだ山梨にはやらなけへばならないことがあり、その為には一度人の目につきにくい所へ移動する必要がある。
この時代から取り残されたかのような通りならあるいはと思ったが、運悪く追手に発見されてしまった。
──だあ〜、くっそしんど! 明日菜じゃないけど、こんなに走ったのいつ以来だよ……。
悲鳴を上げる体に鞭打って疾走しているも、前方にある物を発見する。
それは、花屋の店先で向かい合って立っている人組の男女の姿だった。
彼らは何故か妙な雰囲気を醸し出しながら、もじもじと落ち着かない様子である。
と、眼鏡の奥の彼の瞳は、女性店員が手に持っていた盆栽鋏の姿を捉えた。
そしてその瞬間、山梨の脳裏に一閃のアイデアが浮かぶ。
──さっき以上に無茶苦茶な作戦だけど、もう形振り構ってられないんだ。やるしかない。
覚悟を決めた彼は、花屋の前に近づくと走る速度を緩め、やがて二人のすぐ傍で立ち止まるのだった。
「……ごめんなさい。楢島さんの気持ちは嬉しいんですけど……」
「そ、それは、やっぱり僕じゃダメだということ、なんですか?」
藁をもすがるといった表情で楢島が尋ねると、椛は上げたばかりの目線を斜め下に向けた。
「そ、そうじゃないんです。ただ、私はまだ、この店の跡取りになる為に勉強している最中なので……その、そういうことは今は考えられないというか」
「私、花屋になりたいんです。魚屋さんのお嫁には行けません」と、彼女は申し訳なさそうな様子でつけ足す。
実際には家業を継ぐ云々というよりも、ルックスや職業、そしてそこから予想できる年収により導き出された答えなのだが。
この回答に、魚屋であるらしい男はがっくりと肩を落とした。
「そ、そう、ですか。なら、仕方ない、ですね……。やっぱり、僕じゃ椛さんのナンバーワンにもオンリーワンにもなれないんですね」
「すみません……。あと、さっきからそれ何なんですか?」
椛はさりげなく尋ねてみたが、彼はフラれたショックからかそれを黙殺する。
楢島は先ほど以上に目を潤ませており、意外と円な瞳はブルドックというよりかはパグを連想させた。
「わ、わかりました。今日のことは、忘れてください。
……けど、もし許されるのなら、僕はまだ──」
魚屋の男が自らの恋を少しでも延命させようと試みた、その時、
「あの……お取り込み中すいません」
若い男の声が聞こえ、不意を突かれた二人は驚きながらそちらを振り向く。
すると、商店街の細い通りの中には茶髪にパーマをあてた黒縁眼鏡の青年の姿が。
全力疾走でもして来たのか息を切らせた彼は、額や首筋に汗を浮かべていた。
その青年の顔を見上げた椛は、盆栽鋏を持った両手を胸の前で組み、瞬時にこんな感想を抱く。
──やだ、イケメン……。
彼女は心の中で呟きながら、楢島に告白された時とはまた違った様子で頬を染めた。
そんな風に思われていることなどつゆ知らず、山梨は「それ」と椛の手を指差して言う。
「ちょっと貸してくれません?」
彼に見惚れている花屋の店員は、言われるがままに盆栽鋏を差し出した。
「はい……どうぞ」
「あざっす。
それと、もう一個だけいいっすか?」
「はい、なんなりと……」
どういうわけか知らないがすんなりと言うことに従ってくれる彼女を見て、山梨はこれ幸いにとすぐさま作戦を実行に移す。
「じゃ、お言葉に甘えて」
言うが早いか彼は椛の背後へと回り込み、後ろから抱きつくようにしながら彼女の喉元に盆栽鋏の刃を突き立てるのだった。
「……え?」
「も、椛さん⁉︎」
何が起きているのかわからず、彼女は不思議そうな声を出す。
楢島もまた突然の出来事に狼狽え、愛した者の名前を叫んだ。
山梨は特に労することなく、あっという間に彼女の命を手中に収めてしまった。
商店街の住人たちがあっけに取られている中、かなり遅ればせながら二人の警官が駆けつける。
彼らは山梨とその腕に囚われた若い女性の姿を認め、少し距離を置いて立ち止まった。
「お、お前、人質を取るつもりか!」
「そーゆーわけっす。ちょっとこのままじゃ逃げられそうになかったもんで」
「くっ、なんて卑怯なんだ!」
「それでも国家公務員の端くれか!」と少々ピントのズレたことを警官が怒鳴った時、椛は首筋に刃の冷たい感触を覚えながら、「公務員なのかぁ……」とさらに場違いなことを思う。
「いやいや、そんなもん関係ないじゃないっすか。つうか、どーせ俺もう懲戒食らうだろうし」
すっかり開き直っている青年は悪党地味た不敵な笑みを浮かべ、人質を連れたまま後退った。
「てことで、それ以上俺に近づいたら……わかってるっすよね?」
言ってから、彼は女の白い首筋にさらに凶器を押しつける。
そんな風にされてしまっては、正義の徒である二人の警官は下手に身動きが取れない。
その横に立ち尽くした楢島も、ただ目の前で起こっていることを信じられないといった顔で見つめているしかなかった。
「そうそう、理解が早いっすねぇ。さすが国家公務員様。
じゃ、じっとしててくださいね」
満足げに頷いた山梨は、そのままゆっくりと背中の方へ進んで行く。
旧蜻蛉駅前通りへ差しかかってすぐ、柊らは通りの先が何やら騒がしいことに気づいた。
彼らがフロントガラスの向こうを目を凝らしね見つめると、そこには二人の制服警官と、さらにその向こうで一般人らしき女を人質に取っている山梨の姿が。
予想だにしない光景を認め、火野木は思わず幼馴染の名前を声に出す。
「や、山梨くん……。いったい何を……?」
「さあ。わかりませんが、ただごとではないようですね」
彼女の独白を拾った柊は、運転席に座ったまま険しい顔つきで続けた。
「我々も行ってみましょう」
「……ええ」
新人刑事がタッチパネルに数回触れるとパトカーはひとりでに減速し、徐行しながら路肩に車体を寄せる。
ほどなくして停車した車内を左右から飛び出した彼らは、すぐさま騒ぎの現場へ駆けて行った。
──柊らがそこへ辿り着いた時、すっかり悪人になりきっている山梨が後退し始めたところだった。
これ以上ないというくらい無茶なことをしている幼馴染の姿を目の当たりにして、火野木は珍しく声を張り上げる。
「や、山梨くん! これは何の真似なの⁉︎ どうして、こんな……」
「明日菜……」
彼は一瞬だけ表情を曇らせてから、再び悪役の顔に戻った。
「いやぁ、だってなかなか逃げられそうにないんだもん。その人達凄えしつこくてさぁ」
「そんなの、理由になってないでしょ?
というか、なんであなたは犯罪者みたいなことを──」
「それよりさ、明日菜」
一転して静かな声で名を呼ばれ、彼女は口を閉ざす。
少しも待たせることなく、山梨はあることを告げた。
「ごめんな」
「山梨くん?」
「最後まで心配かけてばっかで、ごめん。
……あとさぁ」
そして、彼が火野木に見せたのは、これまで彼女が目にしたことのないような、力なく笑った顔。
全てを諦める、と同時に受け入れることを決めた者の見せる、迷いのない表情だった。
「うまかったよな、『幸福軒』のラーメン。また橘さんと三人で食いに行きたかった……」
最後は独白のように言い、山梨は人質を連れたまま立ち去ろうとする。
「ま、待って!」
当然火野木はそれを追いかけようとするが、少しも動けぬうちに柊に腕を掴まれて止められてしまった。
少しずつ遠ざかって行く幼馴染に、彼女はまた彼の名前を大声で叫ぶ。
「ヒロちゃん!」
その呼び名を聞いた山梨は、一瞬意外そうに目を丸くさせた。
しかしすぐに、彼は優しげな表情──それまでの悪役を演じる為の物や全てを受け入れる境地に達した故の物とは違う──に変わる。
「まだ、そう呼んでくれるんだ。……なんだか、現実で言われるとちょっと照れるなぁ」
本当に照れ臭そうにしてから、火野木の方をまっすぐに見返した山梨は最後の言葉を告げようとした。
「ありがとう、明日菜。けど、俺はもう──」
だが、しかし。
彼が言い切るよりも前にある出来事が起こる。
警察官たちや商店街の魚屋、そして彼の幼馴染が見つめる中、山梨の頭上に真四角のアイコンが表示されたのである。
その白い背景に刻まれたタイトルは「Butterfly」。
アゲハ蝶の舞うマークを目にした瞬間、時が静止したかのような感覚を火野木は味わった。
そして直後、山梨は立ったまま眠りに落ちたとでも言うのか、人質の首に鋏を突き立てた状態で両の瞼を閉ざす。
その姿を目の当たりにした彼女は、もう二度と彼か目を覚まさないのではないかという恐怖に駆られ、強引に刑事の腕を振り払った。
「火野木さん!」
自分を呼び止める声には応じず、火野木は幼馴染の元へと駆け出した。
*
気がつけば山梨は、もうすっかり見慣れてしまったコスモス畑の中に立っていた。
彼が自らの幼馴染に最後の言葉を告げるよりも前に、またひとりでに「Butterfly」が起動したのだ。
「……別れの言葉すら言わせてくれないのかよ」
声に出して毒づいた山梨は顔を上げ、視界の先、青空の中にぽっかりと口を開けた漆黒の渦を睨みつける。
彼はそこへ向かう為、すぐに花畑の中を歩き始めた。
勝手にこのアプリが起動したということは、三度体を操られるという可能性も考えられる。もしそうなったならば、また誰を傷つけしまうかも知れない。
よって、山梨には時間がなかった。
本来ならばあのまま人目に触れないところへ逃げ込み、人質を解放してから夢の中に落ちる予定だったのだが、思うようにはさせてもらえないらしい。
そう、元より彼はあの暗闇の向こうにいる存在と会うつもりだったのである。
捜査会議の途中眠ってしまった時に山梨がここで目にした物が彼の予想どおりの物であれば、それに会うことによってコラプサーの連続発生の真相に繋がる何かが得られるかも知れない、と考えたのだ?
得体の知れない相手なのだから当然何が起こるかわからない。
もしかしたら何もわからぬまま殺されてしまう可能性だってある。
しかし、それはそれで山梨からすれば本望だった。
もし自分が誰かに殺されたとしても問題はない。
自殺でなければコラプサーが発生してしまうこともなく、これ以上体を操られて暴走する心配もないのだから。
──自分が死ぬことはどうだっていい。けど、自殺なんてしたらそれこそ思う壺だからな。
白やピンクの花びらを掻き分けるように足を進め、山梨はやがて空間を歪めながら浮かぶ渦巻きの目の前へ到達した。
暗闇の向こう側には、やはり何者かのシルエットと薄い光を纏ったコスモスの咲いている様子が見える。
──さて、鬼が出るか蛇が出るか……。
胸の中で呟いた彼は生唾を呑み込むと、直径三、四メートルほどの渦の中へ進む為に足を上げかけた。
が、その時、背後に何者かの気配を感じ、結局山梨なすぐに立ち止まる。
それが誰なのか、振り返らずとも彼にはわかった。
この楽園でのひとときを共に過ごして来た、幼馴染の幻影だ。
白いワンピースに身を包んだ彼女が無言のまま視線を寄越すのを、山梨は背中越しに感じる。
「……ごめん、明日菜……俺、行って来るよ」
俯きながら彼が紡いだ声に、幻影からの返事はないかった。
しかし、それでいい。
そう思い、顔を上げた山梨は改めて闇へ向かって歩き出す。
──彼が渦の中に足を踏み入れると、そこは予想どおり広大な空間となっていた。
格子状に溝の走る人工物の床はところどころひび割れ、銀の花を持つコスモスに侵蝕されている。
また、そのスペースは綺麗な円形をしているらしく、三百六十度全てガラス張りとなっている壁は展望台施設なんかによくある物と似ていた。
いや、実際展望デッキなのだろう、と山梨は考える。
その証拠に、大きな窓ガラスの向こうには暗闇に包まれた大都市の街並みがよく見渡せた。その街の中には見覚えのある巨大な塔が二つ建っており、ここはそれよりもさらに背の高い建造物の最上階付近のようである。
以上の情報から自分の予想が正しい物だったと確信した彼は、この空間の最奥を見つめた。
そこには太い木の根が何本も床を貫いて生えており、グロテスクに絡まり合いながら天井まで伸びている。
そして、根っこの塊の中には一脚の大仰な玉座と、その上に腰下ろした異形の存在が。
彼の体は玉座ごと木の根に絡み取られているらしく、まるで捕らえられ封印されているかのようだった。
楽園で過ごす自分たちを見つめていた視線の正体と邂逅した山梨は、両手の拳を握り締め、意を決してそちらへ近づいて行く。
「どーも〜、お邪魔しま〜す」
あえて軽い口調で、彼は異形の存在に声をかけた。
すぐに返事はなく、そうしている間にも山梨はそれのすぐ眼前に辿り着く。
立ち止まり根っこの塊を見上げた彼はその中にいる物を目にし、これもまた予想どおりだと思った。
木の根に囚われていたのは、一体のフラワノイドであるらしい。
まだ全貌までは見えないが、その怪物はピンクがかった無数の花弁を頭から生やしており、体には濃紫色の大袈裟なマントのような物を纏っている。
明らかに通常の物とは異なる姿のフラワノイドに、山梨は妙に余裕のある笑みと共に尋ねた。
「あんた、もしかしてフラワノイドの王様とか? ラスボス感半端ないっすね」
またも返事はなく、もしやもうすでに絶命してしまっているのかと彼がい考えかけた矢先──
低く嗄れた声が辺りに木霊する。
「……何の用だ、人間」
その声は囚われのフラワノイドの物なのだと、山梨はすぐに理解できた。
と、同時に、花の生えた頭の下辺りに赤い二つの光が浮かぶ。どうやら怪物は瞼を開いたらしく、その瞳は値踏みをするみたいに青年を見つめる。
異形の存在と対峙しても山梨は動じることなく、フラワノイドの問いに答えた。
「あんたが何者なのか、教えてもらおうと思いまして。ずっと見てたんすよね、俺が幼馴染とイチャついてるところ」
「……答えたところで、貴様には理解できぬことだ」
怪物の親玉は脚を組んで玉座に座り左手で頬杖をついていたまま、嘲笑するように言う。
「いや、そーいうもったいつける感じとかいらないんで。あんま引っ張られても面白くなんかないっすよ」
負けじと相手の赤い瞳を見返しながら、青年はわざと神経を逆撫でするようなセリフを発した。
のみならず、返事を待ちきれなかったらしい山梨は「あ、じゃあまず先に答え合わせをさせてもらおうかな」と人差し指を立てる。
そして、彼はフラワノイドに対し自分の導き出した解答を述べた。
「ここって、東京なんでしょ? ……もっと言うと、“東京ビーンストークタワー”の展望デッキだ」
東京ビーンストークタワーは二一二○年頃に開業された、東京を代表する観光名所にして世界で最も高い電波塔である。
一九五八年からの東京タワー、二〇一二年からの東京スカイツリーに続く第三の日本のシンボルマークであり、全長は七一〇メートル。人工の建造物としても世界二位の高さを誇り、街の中にそびえる青葉色をしたその姿は、まさしく天を目指して伸びる巨大な豆の木のようだった。
山梨は渦の向こうのさらにその先、窓ガラス越しに見えた街並みを見て、闇の中にあるのは東京ビーンストークタワーの展望デッキだと気付いたのである。
むろん、外に見えた「見覚えのある二本の塔」とは、このシンボルマークの先輩たちのことだ。
そして、ここが日本の元首都の主要施設の上層階であるならば、周囲を包み込む暗闇やそこかしこから生えているコスモスが指し示すことは一つ。
「そう、つまりここは……『アバドン』の中なんすよね?」
彼は確信を持ってそう言うと、不敵に片頬を上げながら首を傾げるのだった。




