第三十五話「逃走」
目を覚ました時、山梨は自分が何故こんな場所にいるのか瞬時に理解できなかった。
彼はどうやら狭い路地裏にいるらしく、埃の積もった室外機に肩を預けるような形で地べたに腰下ろしていたのだ。
──あれ、俺どうして……?
不思議に思いながら取り敢えず立ち上がると、軽い眩暈がして体勢を崩しかける。
山梨は雑居ビルの壁に左手をついて堪え、もう一方の手で額を押さえた。
「確か、さっきまで蜻蛉署にいたはずじゃ……」
声に出して呟いた時、彼は拠点である第三資料室で目にした物を思い出す。
暗く沈黙する画面に映り込んだ真四角のアイコンと、それを目にした瞬間、驚愕に凍りつく自分の顔を。
起動させた覚えのないアプリケーションがひとりでに動き出し、青年の意識を夢の中へ叩き落としたのだ。
──そうだ、また「Butterfly」が勝手に起動して……。
まるで自分の体が他人の意思によって操られていたかのような感覚に、山梨は不快感と共に恐怖を覚える。
いや、実際操られていたのだ。それも、今日だけで二回も。
そう認めた時彼の脳裏に蘇ったのは、かつて上司に言われた言葉。
──大丈夫なのか、それ。お前まで変なこと言い出すようになるんじゃないだろうな
おかしなことを言出だすどころか、アプリケーションによって暴走させられるようになってしまうなんて。
それから、ふと山梨は額を覆っていた右手を頭から離し、手のひらの上に視線を落とした。
そして、青ざめる。
彼の手には赤黒い液体がべったりと付着していたからだ。
──誰かの、血。
そう思い当たり、一瞬息が止まりそうな気分を味わう。
自分の体から流れ出た物ではない。
では、いったい誰の体に流れていた血液なのか。
山梨の頭の中に、一人の中年刑事の名前が浮かんだ。
──まさか、俺が栗田刑事を……? くそっ、なんだよこれ。俺、いったいどうなっちまったんだよ。
やはり、あのアプリケーションをインストールしたのは間違いだった。元はと言えば調査の一環としてだったのが次第に夢の中の世界にのめり込んで行き、今や暴走して他人に危害を加えるようになってしまっている。
これではもう、完全に狂人だ。テロリストたちと大差ない、というか彼らの手先も同然ではないか。
彼はショックだった。自分の身に起きた変化や、何の恨みもない人間を傷つけてしまったこと、そしてその行為が仲間たちに迷惑をかけているという事実が。
寒い時期などとうに過ぎたというのに、山梨は小さく震える肩を自らの腕で抱く。
それからその場にうずくまって叫びたくなる衝動を必死に堪えた。
──まだ、ダメだ。絶望すんのはせめて、やるべきことをやってからにしろよ。
自分自身に言い聞かせ、彼は無理矢理体の震えを抑え込んだ。
コラプサー対策局の仲間たちに夢の中で気付いたことを伝える。それだけが今の自分にできるたった一つの贖罪の術なのだと、山梨は思った。
それから、ふとあることを思い出した彼はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
ポケットの中には、意識が途切れる直前に手にしていたボールペンが入っている。どういうわけか、暴走していながらもこれだけはしっかりとキープしていたらしい。
「……せめて、これだけは二人に残さないとな」
改めて決意を固めた山梨はビルの壁から体を離すと、まだ少しふらつく足で路地裏を歩き出した。
建物と建物に挟まれた細い空間の先には、蜻蛉の大通りの景色が見えている。
どうやら彼が今いるの場所は繁華街のど真ん中のようで、平日だと言うのに人通りはかなり多かった。
これなら人混みに紛れてしまえば、あまり目立たずに移動できるかも知れない。
ひとまずそのことに安堵した山梨は、先ほど頭を押さえた時に顔に付着したであろう血を隠す為、首を竦め俯き加減で道に出る。
位置的には蜻蛉署からそう遠くなく、彼が脱走したことはすでに署内に知れ渡っているだろうから、警察はすでに捜索を開始しているだろう。
自分の気付いたことを確実に仲間たちに伝えなければならない山梨には、時間がなかった。
自然と足を速めながら、彼は人の波の中を進んで行く。
と、その時、頭上から聞き捨てならない言葉が彼の耳に飛び込んで来た。
『──先ほど蜻蛉大学構内で発生したコラプサーについて、今現在フリーファイターたちによる救助活動が行われているとのことです』
男の声で報じられた衝撃的なニュースに、山梨は立ち止まり顔を上げる。
聞こえて来たのは街の空に浮かぶ大型の〈ウインドウ〉で放映中の報道番組の内容であるらしく、司会者は緊張した面持ちで喋り続けていた。
この時、青年はようやく第四のコラプサーが発生していたことを知ったのである。
──まさか、俺が意識を失っている間に⁉︎
すぐ横を通り過ぎていく通行人が邪魔そうに睨んだり舌打ちを寄越したりするのにも構わず、彼の視線は〈ウインドウ〉に釘付けとなった。
『また、今回のコラプサーにもテロ組織が関与している可能性が非常に高く、今後はより徹底的なテロ対策が求められるでしょう』
続いて画面の中に現れた中継映像には現場となった大学の様子と、渦を巻きながら空へ立ち昇る黒煙の姿が映し出されている。
また、黒い壁のすぐ手前には何やら話し合っている橘らの姿も。
当然と言えば当然だが、仲間たちはすでに現場へ駆けつけていたらしい。
ついに四回目が発生してしまった。
しかもそんな時に自分は眠りに落ち体を操られていたなんて。
自己嫌悪と悔しさがない交ぜとなり、山梨は強く唇を噛み締める。
──行こう。これ以上誰にも迷惑かけれない。
彼は再び目線を落とし、ズボンのポケットに両手をねじ込んだまま歩き始めた。
山梨の最初の目的は、「紙」を手に入れることである。もちろん、セカンドリアリティではなく実物のだ。
今の時勢、紙の媒体やそれその物を持っている物や取り扱っている店は非常に少ない。大抵のことならセカンドリアリティで賄える為、当然なのだが。
もういっそのことどこか適当なところのトイレにでも入って、トイレットペーパーを拝借してしまおうかと考え、「最期の手紙がそれはないか」と彼は密かに苦笑した。
足を止めることなくどうしたものかと考えを巡らせていると、不意に前方から二人の男が近づいて来る。
それに気付き目線を上げた山梨は、彼らが制服を着た警察官であることを知り、顔を強張らせた。
しかもそのうちの一人と目が合ってしまい、警官たちは青年に歩み寄りながら声をかけて来る。
「あのぉ、お兄さんちょっといいですか?」
先ほど目が合った四角い顔の男がそう言って山梨を呼び止めた。
彼は内心かなり焦りながらも、どうにかそれを相手に悟られぬよう何気ない様子で応じる。
「僕っすか? なんでしょう?」
「実はですねぇ、先ほどこの近くで傷害事件がありまして。その調査の一環としてお話を聞かせていただきたいんですが」
「はあ、そうなんすね〜」
──やっぱもう警察動き出してる!
「お時間よろしいですかねぇ?」と、こちらは隣の眼鏡をかけた方が首を傾げた。
迷わず自分に声をかけて来たということは、すでに疑われている、もしくは加害者だとバレているのだろう。
「あれ? お兄さん顔に血が着いてる? どこか怪我してるんですか?」
その証拠に、最初に話しかけて来たのと同じ男が山梨の額に目を向けて尋ねた。
どのように答えればこの場を脱することができるのか。
考えどもいいアイデアは浮かばず、結果山梨は黙り込んでしまう。
血で汚れた額に汗を浮かべる彼を見て、二人の警官は何かを察したように目配せをした。
「すみませんが、そこの駐在所まで同行していただいても──」
眼鏡が車道の向かい側に見える交番を親指で示し、そう言いかけた時、
「う」
「「う?」」
「う……うるせえぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
言葉を遮られ不思議そうに首を傾げる警官たちの目の前で、突如青年は叫び声を上げる。
彼らのみならず、周辺にいた人間も何事かと山梨の方を見つめた。
突然の出来事に虚をつかれた警官たちは、狂人でも目にしたかのようにぎょっとした表情でたじろぐ。
その瞬間を、彼は見逃さなかった。
すぐさま踵を返すと、やって来たばかりの道を全速力で駆け出したのである。
「な、待ちなさい!」
四角い顔が呼び止めるもそれで本当に立ち止まるようなことはなく、山梨の後を追って彼らも走り出した。
「こちら御子柴! 被疑者と思われる男を発見! 追跡を開始します!」
御子柴という名前であるらしい眼鏡が、〈無線〉に向かって怒鳴るように報告する。
二人の追手の気配をすぐ背後に感じながら、青年は人混みを掻き分けて行った。
「邪魔だ、どけ! 自殺すんぞオラァ!」
こうなってはなりふり構っていられないと、彼は本当にテロリストのようなセリフを吐く。
やはり異常な犯罪者を目の当たりにしたかのような反応で思惑通り道を開ける通行人たちを見ながら、山梨はなんだか悲しい気持ちになって来た。
──何してんだろ、俺。これじゃマジでキマっちゃってる人じゃん……。
虚しさに泣きたくなるのをぐっと堪えひたすら走り続ける。
彼がこんな犯罪者紛いのことをしている理由は、仲間たちに情報を残すことの他に、もう一つ。
もう二度と「Butterfly」によって操れることのないようにする為であった。
アプリを削除してしまえばそれで済む話なのかも知れないが、山梨にはそうは思えない。
きっとそんなことをしても無意味なのだという、確信めいた予感がしていたのだ。それどころか、また体を操られれば本当に自殺しコラプサーの発生元となる恐れがある。
ならば、どのようにすればもう誰も傷つけず、仲間に迷惑をかけずに済むのか。
考え続けた結果、彼はある方法を思いついていた。
もっとも、それも確実な手段とは言い難く、失敗すればどうなるかわからないのだが。
──けど、やるしかない。もしうまく行けば、さらに新しい情報が手に入るかも知れないし。
自身を奮い立たせた山梨は、彼の奇行により騒然とした歩道の中を駆け抜ける。
何やら怒鳴り声を上げながら迫り来る警官と、突然幕を開けた逃走劇に好奇の眼差しを向ける野次馬たち。
混沌とした街の中、青年は角を曲がり大通りから細い裏道へ入った。
こちらは人が少なく、周囲の街並みも一気に寂れた物になる。
彼はどこか追っ手をやり過ごせるような場所はないかと辺りを探しながら、現れたT字路を右へ曲がった。
──何か、ないのか! この状況を打開する、何かは!
アスファルトを蹴りつけながら、思考をフル回転させる。
だからだろうか。山梨はあることに気付くのが遅れてしまった。
さらに道が十字に交差する場所へ差しかかった時、彼から見て左手の通りから一台のトラックが進入して来たのだ。
──あ。
山梨がそれに気付いた時すでに彼は道の真ん中まで進んでおり、なんとか立ち止まってそちらを向いた瞬間、運転手の驚愕した顔がやたらはっきりと見える。
刹那、トラックは彼のすぐ目の前へと迫り──。
激突するかと思われた瞬間、車体に急ブレーキがかけられた。
トラックに搭載された人感センサーが働き、自動的にブレーキが踏まれたのだ。
今の時代車の起こす事故などほとんどない。
とはいえ青年にリアルな死の恐怖を感じさせるには充分すぎる出来事であり、結果彼はその場に尻餅を着いてしまった。
すぐに動き出すことができず、その間にも二人の追手は駆け寄って来る。
──しまった!
それを見た山梨はようやく立ち上がり、再び逃走しようとした。
のだが、何やら警官たちの様子がおかしい。
二人とも何故か十字路の手前で速度を緩め、ついには立ち止まって不思議そうな顔している。
標的である彼には目もくれずキョロキョロと周囲を見回す様は、まるで青年の姿が見えていないかのようだった。
「な、消えた?」
「くそ、あいつどこへ行ったんだ!」
実際彼らはそれぞれそんなことを口にして、目を光らせながら彼の方へ歩いて来る。
まさか、警官たちの目に自分は映っていないのだろうか。
にわかには信じ難いことだったが、直後それ以上に突飛な出来事が起こり、山梨は本当に彼らが自分を認識できていないのだと知ることとなる。
〈落ち着いて。声を出さず、じっとしていてください〉
混乱した思考に追い打ちをかけるかのように、突如として誰かの声が降って来たのだ。
その声──男女どちらかはわからないが、子供の物らしい──は脳内に直接響くようであり、声を出すなと言われたそばから彼は思わず短く悲鳴をあげてしまった。
「ん? なんか今、声が……」
眼鏡をかけた方の警官が呟き、じいっと山梨の立っている方を見つめる。
彼は慌てて手で口を塞ぎ、これ以上余計な物音を立てぬよう息を潜める。
その甲斐あってか、誰もいない場所を見つめたまま首を捻っていた御子柴は、最終的に同僚の呼びかけによって声の出どころを探すのをやめた。
「どうした? 何か見つけたのか?」
「あ、いや…….なんでもない」
「そうか。
なら、俺はこっちを探すから、お前は左の道へ行ってくれ」
「あ、ああ」
狐にでも摘まれたかのような顔をして、彼は言われたとおり左手の道へ向かって行く。
同僚を見送った御子柴もまた「ったく、どこ行ったんだよ」と毒づいてから、反対方向へ早足で歩き始めた。
そんな二人の様子を見て、むしろこっちの方が化かされた気分だと山梨が思っていると、再び頭の中に子供の声が。
〈いつまでもそこにいると、邪魔になりますよ〉
その言葉どおりトラックは停車したまま一向に進み出す気配がなく、運転手は衝突しそうになった人間が消えたことも含め、座席に座ったままぽかんと口を開けている。
青年は謎の声に従い、慌てて目の前の道へ進んだ。
直後、何事もなかったかのように白い車体を揺らしながらトラックは再発車される。
その姿を茫然と眺めていると、さらにまた子供の声が語りかけて来た。
〈もうお気付きでしょうが、今のあなたは特殊なセカンドリアリティにより誰にも認識されないようになっています〉
──いやいや、何それぶっ飛びすぎでしょ。
と、その時の彼は苦笑する。
〈おや? 信じてもらえていないようですね〉
が、そのセリフを聞いて、改めて驚愕することとなった。
まるで、山梨の心の声を聞いて言っているかのような言葉ではないか。
「いやでもそんなまさか」と彼がすぐに自らの考えを打ち消そうとした矢先、
〈そのまさかですよ〉
声の主はどこか相手の反応を楽しんでい?かのような口調で言う。
──マジで……?
〈はい、マジです。
ボクは今、山梨さんのゼルプストチップに直接アクセスして脳内に語りかけているんですから〉
このともなげに予想を遥かに超えることを言われ、山梨は言葉を失った。
だが、子供の声はそんなことなど気にも留めず、思い出したかのように自己紹介をする。
〈っと、申し遅れました。ボクの名前はダアト。あなたの味方です〉
ダアトと名乗る謎の存在は戸惑う彼にそう告げ、クスリと小さく笑った。
*
蜻蛉大学:大通り──。
応援部隊が到着しひとしきり彼らに指示を出し終えた松原は、一息ついてからまた渦を巻く黒煙に目を向けていた。
周囲一帯の封鎖もすでに完了しており、後はフリーファイターたちがコラプサーの主を刈り取るのを待つだけである。
もっとも、そこから先はやらなければならないことが山積みなのだが。
彼は綺麗に剃り上げた後頭部を摩りながら、思わずため息を吐いた。先週から多忙な日々を送っている松原であったが、そんな状況であっても頭の毛を剃ることだけは怠っていないらしい。
と、疲れきった表情をしている警部の傍へ、一人の男が歩み寄って来る。
上等そうなダークスーツに身を包んだ彼、ワームウッドは、黒い壁のある方を見ながら大きな手で長い髪を掻き上げた。
「……ふむ。発生中のコラプサーの現場に直接赴いたのは、十年振りですよ。なんというかとても……禍々しいですねぇ」
言葉とは裏腹に笑顔を浮かべる彼を見て、松原は「だから何だ」と言ってやりたかったが、もちろん実行に移すわけには行かない。
なのでワームウッドの声には応じず苦笑いを続けていると、代わりに橘が男の独白を拾い上げる。
「ほお、ということは『アバドン』が発生した時はすぐ近くにいらっしゃったんですか?」
「ええ、そうです。あの時はまだ私も一研究員に過ぎず、未知の現象を調査しに向かっていたんですよ」
「はあ、なるほどぉ。
ところで、今までどちらに? 一緒にここへ来たはずですよね?」
先ほどの話題にはあまり興味がなかったかのように早々に切り上げ、彼は訝しむような視線と共に尋ねた。
この問いに、WSROのトップははにかみながら照れ臭そうに頭を掻く。
「実は、ちょっとそこで隠れてました」
「はい?」
「あまり会いたくない人間と出くわしそうになったものですから」
結局よくわからない回答がなされ、橘は「はあ」とだけ言っておいた。昨日邂逅を果たしてから思っていたことだが、やはり何を考えているのかわからない、という感想を彼は抱く。
よりいっそう胡散臭そうに相手を見つめたが、その横顔が何を思っているのかを窺い知ることは困難だった。
よってすぐに目を逸らした橘であったが、ちょうどそのタイミングで警部の顔の近くに〈スマートフォン〉が出現した為、今度はそちらに視線を向けることにした。
〈スマートフォン〉を手に取った松原は、すぐに通話に応じる。
「もしもし? どうした、何かあったのか?」
コラプサー対策局の二人が見つめる中、彼の顔つきは次第に深刻そうな物へと変化して行った。
どうやら、ただならぬ事態が発生しているらしい。
「……わかった。彼らには私から伝えておく。……ああ、ひとまずそっちは捜索を続けてくれ」
珍しく険しい表情で通話を終えた松原は、手元から〈スマートフォン〉が消えると同時に橘らの方を振り返る。
「お二人に、お話があります」
「どうかしましたか?」
「はい。……実は、山梨さんが」
逡巡した後、彼は声のトーンを下げてたった今部下から受けた報告の内容を伝えた。
「監視を行っていた栗田さんに怪我を負わせ、蜻蛉署から逃走したとの報告が……」
「なっ⁉︎ そんな!」
予想だにしない言葉を受け、橘は思わず声を大きくする。
火野木もまた彼の隣りで驚愕の表情を浮かべるが、こちらは対照的に口許を手で覆い絶句していた。
「まさか、また暴走したとでも⁉︎」
「おそらく、そうかと。
また、山梨さんの身柄に関してはまだ確保できておらず、現象追跡中だそうです」
「……な、なんで……そんなこと」
彼女は青ざめた顔をして、ようやくそれだけ零す。
かなり動揺しているらしい部下の様子を横目で見た橘は、自分まで狼狽えてどうすると頭を掻き毟り冷静になるよう努めた。
「わかりました。まだあいつは見つかってないんですね?」
「ええ。一度警ら中の警官が発見したそうなんですが、途中でまかれてしまったらしいです」
「そうですか……」
顎に手を当てて暫時考え込むように俯いてから、彼は部下の名を呼ぶ。
「火野木」
「は、はい」
「お前、山梨を探しに行ってこい」
「え?」
橘の指示を意外に感じたらしく、火野木は短く声を上げて上司の顔を見上げた。
「ですが……」
「いいから。こっちには俺が残るしよ。
それに──」
こちらも彼女の瞳をまっすぐ見返して、彼は普段とは違い若干優しげな声で続ける。
「お前が一番、あいつのことを知ってるんだろ?」
「橘さん……」
「今のあいつに何が起きてるかわらかねえけど、お前が行ってやれば正気に戻るだろうさ。もしそれでもだめそうなら……まあ、そん時はぶん殴ってでも止めてやれ」
最終的には冗談めかして言いながら、橘は再度ボサボサの髪を掻き毟った。
その言葉を聞いた火野木は、彼の言うとおりだと思う。
幼馴染である自分が行かずして他に誰が行くのだと自らを鼓舞した彼女は、込み上げて来る不安を使命感で押しつけ、決意の籠った瞳を橘に向けた。
「はい。行って来ます」
「おう、頼んだぜ。
ただし、無茶だけはすんなよ」
「はい!」
それはいつもの抑揚のない声ではなく、力強い返事だった。
火野木は気合を入れるように小さく拳を握り締め、さっそく踵を返そうとする。
「捜査に当たっている人間には私から連絡しておきます」
「はい、お願いします」
人のよさそうな笑みを浮かべて言う松原に礼を言い、彼女は三人に向けて会釈をしてから、今度こそ大学の大通りを早足で走り出した。
「無茶すんなよ〜」
「はい!」
道を塞いでいた「KEEP OUT」と書かれた〈テープ〉潜り去って行く部下の姿を見送ってから、橘はやれやれと息をつく。
それから、横にいる警部の方へ顔を向け、
「本当すみませんねぇ、いろいろと」
「いえ、お気になさらず」
「そうですか……じゃあ、申し訳ないついでにもう一つ」
言いながら、彼は右手の人差し指を顔の前で立てた。
「煙草、一本恵んでいただけませんかね?」
「……まさか、その為に火野木さんを向かわせたわけではないですよね?」
疑うような松原の視線に、橘は「ま、まさか、そんなわけないじゃないですか〜。やだなぁ、もう」と慌てて誤魔化すのだった。
*
繁華街を離れ細い通りを歩く山梨は、不思議な気分を味わっていた。
メインストリートに比べればだいぶ人通りは少なくなったとは言え、それでも人や自転車などとすれ違うことは先ほどから何度かあった。
しかし、みな彼のことなど全く見えていないらしく、無反応で脇を通り過ぎて行くのである。
現に、今も若いカップルが堂々と腕を組んで前から歩いて来たのだが、歩道の端を行く山梨がどれだけ奇妙な表情──いわゆる「変顔」という奴だ──をしてそちらを見つめても、彼らは目もくれず二人だけの世界に入り込んだまま去って行った。
両手の指で強引に目と口を開くような顔のまま彼がカップルを見送っていると、脳内に直接声が響く。
〈何遊んでるんですか。時間ないんですよ?〉
それはダアトと名乗った何者かの声であり、彼の言葉に山梨心の中で応じた。
──いやぁ、つい面白くって。つうか、マジで君俺のこと助けてくれんの?
再び歩き出した彼に、ダアトは〈はい〉と返事をする。
〈といっても、僕がサポートできる範囲はとても限られているんですけどね。こっちのネットワークと繋がるのは不慣れなので〉
彼の言葉の意味や何者なのかは気になったが、とにかく味方についてくれているうちに利用させてもらおうと、山梨は深く追及しないことにした。
〈どうぞ、上手に利用してください〉
考えを読み取られ、彼は思わず苦笑する。
──じゃあ遠慮なく。つうかさぁ、これってどこに向かおうとしてるわけ?
山梨は現在、ダアトの指示のもと寂れた街並みの中を進んでいた。
方向的にはむしろ蜻蛉署の方へ近づいているのだが、いったい謎の助っ人は自分をどこへ誘っているのか。
青年の問いに、彼はよく聞いてくれたと言わんばかりの声で答えた。
〈着けばわかります。山梨さんたちには馴染みある場所ですから〉
それを聞いた彼は「もったいぶるねぇ」と思ったが今度は黙殺されてしまい、代わりに〈次、左です〉との案内が頭の中に降って来る。
言われたとおりに交差点を左折してしばらく行くと、なるほど確かに山梨にも見覚えのある景色があった。
そこはこの街で活動していた彼らが何度か通った道であり、車道を挟んだ先には見慣れた中華料理屋のこじんまりとした店舗が。
「幸福軒」と書かれた年季の入った暖簾と、扉にかかっている「営業中」の札を見た山梨は、しかし何故ここなんだと首を傾げる。
すると、この疑問に対する回答はすぐにもたらされた。
〈ここに、山梨さんの求めていた物があります〉
──てことは、「幸福軒」で本物の紙がもらえるってこと?
〈ええ〉
こともなげになされた返事を聞いた彼は、思わず中華料理屋の店の様子をまじまじと見つめる。
そして、確かに今時珍しく紙の伝票や実物のメニュー表を使用していたことを思い出した。
──可能性はある。言ってみよう。
山梨はダアトの助言に従うことに決め、「幸福軒」へ向かって行った。
彼がドアの目の前に立つと、助っ人は〈ステルス状態を解除しますね〉と告げる。
何か変化が起きたとは実感できなかったが、これで山梨の姿は誰にでも認識できるようになったらしい。
もたもたしていて警察に見つかっては意味がないと、彼はすぐさまドアを押し開けた。
都合のいいことに、店内に客の姿は見当たらない。
ひとまずそれを確認してから、中へ入った山梨は後ろでにドアを閉める。
すると、カウンターの中で何やら仕込みを行っているらしい老店主が、背を向けたまま低い声で「らっしゃい」と言った。
そんな愛想のない態度にももはや慣れ始めていた彼は、躊躇うことなくカウンター席へと進んで行く。
それから、山梨は椅子には腰下ろさずに店主に声をかけた。
「すみませ〜ん。あのぉ、もしあったらでいいんすけど字を書ける紙か何かいただけないっすかね?」
「……」
青年の言葉に手を止めた彼は、横目で振り返る。
思いの外鋭い瞳に見つめられ、山梨は一瞬たじろいだ。
いきなり不躾な要望だっただろうかと彼が反省しかけた時、嗄れた声で返事がなされる。
「……あるよ」




