第三十二話「悲愴」
杏藤の長い指がしなやかに躍動し、流麗なメロディを奏でる。
始めの何小節かを聞いた時、俺の隣りで丸椅子に腰下ろしていた椚原さんが「はい!」と手を挙げた。
友人は演奏を止め、俺たちの方へ顔を向ける。
「はい、椚原」
「あの、アレ! 車のCMで流れてる奴!」
「いや、イントロクイズなんだから、ちゃんと曲名で答えろよ」
「えー、CMの曲なんていちいち気にしてないしぃ」
唇を尖らせて言う彼女に対し、彼は「運命」の冒頭のフレーズ──「ダダダダーン」という奴だ──を弾いて応じた。
「残念、椚原アウトー」
杏藤は悪戯っぽく笑いながら言う。生演奏でイントロクイズというのも豪勢な物だと、俺は妙なところに感心していた。
いかにもスポーツマンといった外見の彼には、ピアノの演奏という意外な特技があった。なんでも母親が講師をしているとかで、自身も小学校高学年になるまで習わされていたのだとか。
本人はこの特技を「男らしくない」と言ってあまり披露したがらないが、時々こうして俺たちの要望に応えてくれることもあった(イントロクイズをやろうと言い出したのは、椚原さんなのだが)。
「じゃ、次の問題な」
不服そうな顔をするクラスメイトの視線を黙殺し、杏藤は再び鍵盤の上で指を踊らせる。
──現在。
彼は俺の足元に転がっていた。
初めから命など持っていない、ただの肉の塊だったとでも言うように。
そのことを改めて認識した俺は、思わず両手で顔を覆い、また一歩後退る。
指の間から覗く視界の端に彼の頭を捉えながら、俺は「どうして……」と声に出して呟いた。
どうして、こんなことになったのか。
杏藤は自らを「致命者パンテレイモン」と名乗った。しかし、ならば、
「……どうして、あの時」
脳裏に蘇るのは三日前、第三のコラプサーに巻き込まれた際のワンシーン。
──あの時、君は身を挺して見ず知らずの人間を助けたじゃないか。致命者の仲間だと言うのなら、何故あんなことをしたんだ。
俺なんかは瞬時に彼女は助からないと見切りをつけ、動き出そうともしなかったのに。
なのに、君は……。
答えなどあるわけもないのに、届きすらしないのに、俺は「どうして、何故」と問い続ける。
混沌とした感情が黒々と渦を巻く中で、杏藤の最期の言葉が降って来た。
──椚原を頼む。
「……なん、で……最期にそんなこと……」
致命者として、テログループの一味として、自ら命を絶とうとする人間が普通そんなことを言うものだろうか。
──俺に託すくらいなら、初めから……。
ギリギリと音がしそうなほど強くはを食い縛る。
この時、視界の端に映り込んでいた杏藤の体にはすでに変化が訪れたており、外から空気でも送り込まれていたかのように膨らんでいる。
彼は「自殺」をしたのだ。どういう結果か訪れるのかなど、最初からわかっていた。
それでもすぐには動き出せないまま、俺は友人への問いかけを延々と繰り返す。
杏藤は「あいつのことが好きだった」と言っていた。
また、俺のことを「邪魔に思うようになった」とも。
そんな風に思い返した時、不意に「蜻蛉アースランド」で日向の言っていた言葉の意味を理解する。
──うまく行かないもんだね。
「……ち、違う。俺は、そんなつもりなんて……」
ただ、十年前に与えられた使命のとおり、彼女を護っていたかっただけだった。それ以上の、それとは別種の好意なんて、俺は……。
俺は……俺が、杏藤を苦しめていたのだろうか。俺の存在が、彼を死に至らしめた……?
気が狂いそうなほどの混乱の果てに、辿り着いた残酷な解答。
そして、その刹那──内側からの圧力に耐え切れなくなった杏藤の体は、爆音と共に破裂する。
強烈な爆風を間近に受け、俺は抗うこともできずに観客席の方へと吹き飛ばされてしまった。
椅子にぶつかった場所が鈍く痛む。
しかし、それでいて感情らしい感情はろくに浮かばなかった。
無だ。
もう何もない。
俺は客席に倒れ込んだまま、起き上がろうともせずそれこそ死体のように、ただそこにあるだけだになる。
空っぽになった頭の中、蘇ったのはかつて自分自身が吐き出した言葉。
──他の誰が何人犠牲になろうと構わない。
あれは、本心だった。
心の底からそう思っていたはずなのに、どうして。
何故、俺はこんな虚無感を味わっているのだろうか。
簡単なことだ。
俺の護りたかった物は、いつの間にか彼女だけではなくなっていたのである。
人間なら、当然の感情だろう。
しかし、そんな物、俺はもう十年も前に──いや、違う。
思えばそれ以前から、ずっと俺は空洞だった。
父や母もそうだったのだから、彼らに五年ほど育てられた俺がそういう人間になっていたとしても、当然だろう。
──ずっと、空白が埋まらなかった……なのに、いつの間に。
そんなことを考えたって、もう遅い。
何を思っても誰を想っても、友の命が蘇ることはないこだから……。
ぼんやりと、薄く瞼を開けたまま、ただそんなことだけを思う。
その間にも花による侵蝕は始まっており、舞台や床の上にいくつも芽を出した彼らは、急速に成長して行った。
薄っすらと光輝くコスモスは銀色の花弁を広げ、無力な俺を無言で見つめる。
ついに、第四のコラプサーが幕を開けてしまった。
しかし、それすらも、どうでもいい。
たとえこのままプラントに成り果ててしまったとしても、もう──。
「……よお、シオン」
──その声は、完全に機能を失いかけていた俺の脳みそを、受け入れたくなかった現実へと引き戻す。
と同時に、俺は見るともなしに見ているだけだった視界の中に、スニーカーを履いた二本の足がはっきりと映っていることにやっと気付いた。
「俺……お前のことずっと、うぜえと思ってたんだぜ?」
人を嘲笑うことその物を愉しんでいるような、不快な口調。
彼の吐き出した物を聞いた俺は、ようやく体を起き上がらせる。
その間にも、亡者は悪意を言の葉に乗せて紡ぎ続ける。
「お前さえいなければ、俺はあいつと……。それに、こんなこともしなくて済んだんだ。
なあ、シオン……俺を殺したのは、他でもないお前だよ」
再び立ち上がった俺の目の前で、彼は笑っていた。
生前に見せていた快活な物とは違う、異常な表情で。
「……るな」
目を伏せた俺は、気付けばそう呟いていた。
そしてその直後には、腹の底から込み上げて来た感情が鉄砲水のような勢いで、言葉になって口を突く。
「……お前が──お前がその姿で喋るなぁぁぁぁぁぁ!」
激情に任せ大声で叫んだ俺は、すぐさま右腕を伸ばし真横に挙げた。
ペンを握る時と同じ形にした指の間に、どこからともなく黒いもやが集まって来る。
それはすぐに紫色こ節くれだった指の形へと変わり、数秒もかからずに「世界を書き換えるペン」のリロードが完了した。
そのまま、大袈裟なポーズで思い切り腕を振るう。
「執筆!」
いつもと違い声を荒げて言ってから、俺は空中に文字を紡ぎ出した。
〈来い〉
豪快に殴り書いたその二文字は、ひとりでに宙に浮かぶ。
直後、俺の命令に従い、天使は降臨した。
音楽劇場が地鳴りのような轟音と共に揺れる。
かと思うと、今度は多角形の天井のど真ん中が外側から爆破され、大量の瓦礫が場内へ落下して来た。
鉄骨やコンクリートの破片、そしてスポットライトなどの残骸が、客席や舞台に容赦なく突き刺さる。
砂煙りが盛大に立ち昇る中、コスモス畑と化した場内に舞い降りたのは巨大な黒い影。
先ほどまで俺が立っていた位置に片膝をつきながら、真っ赤な文字を左手で握り潰したネフィリムは、広げていた翼を折りたたんだ。
それから彼は足を伸ばすと悠然と立ち上がり、煌々と赤く光る二つの瞳を亡霊に向ける。
その後ろ姿を魔法陣の上で見つめながら、俺は改めて「神の指」を構え直した。
「へえ……やっとお出ましか」
杏藤の体を借るコラプサーの主は口角を吊り上げて笑うと、こちらもようやくその正体を現す。
三日前の致命者ゲオルギイと同様、体の肉を内側から突き破るような形で、怪物は瞬く間に花開いて行った。
杏藤の頭が吹き飛び、無数の小さな蕾が顔を覗かせる。ボールのように丸まった二つの蕾の塊は、気味悪く蠢きながら一斉に花弁を広げた。
現れたのは、藍色と赤紫色の紫陽花。
二つの紫陽花の花を頭の左右につけている様は、ヘッドホンをしているようにも見える。
その間のスペースには濃緑色の葉が、タテガミのように前後に向かって生い茂っていた。
また、派手な頭の下は一転して樹木を思わせる茶褐色の硬そうな皮膚に覆われている。
紫陽花の怪物はやがて亡者の皮を完全に脱ぎ捨てて、木の幹にも似た二本の脚を床に着けた。
全体的に無骨な体をつきをしており、それぞれ太さの異なる木の根を、鎧を纏うかのようにいくつも胴体に巻きつけている。その先端は筒状になっているらしく、生前の彼が演奏していたオルガンのパイプにも似ていた。
最後に、腰のあたりから生えていた左右三本ずつの茎が持ち上がり、その先には白い装飾花がついていることがわかる。頭には乗っている物とは違い、こちらはガクアジサイに見られる特徴だった。
──こいつが、このコラプサーの主。
紫陽花のフラワノイドは、厚みのある首に乗った顔を俺に向ける。
そこには、やはり人間と同じような歯が整然と並ぶ口があり、
「潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス潰ス……」
呪詛の言葉を繰り返し始めた。
その姿をネフィリムの後ろから見た俺は、ある意味そいつの存在に感謝したくなる。
自分がもう誰にも負けられないのだということを、思い出させてくれたのだから。
「……それでいい。お前には、怪物の姿がお似合いだよ」
届くはずもない挑発をしてから、俺は大袈裟なポーズで「神の指」を構え直した。
*
(約三十分前)
蜻蛉署内:一階喫煙スペース──。
ヤニで汚れた壁にもたれかかっていた橘は、カタカタという換気口のファンが回転する音を聞きながら、煙を吐き出した。
灰皿をなぞり灰を落としながら、彼は午前中の捜査報告会の時のことを思い返しているらしい。
予期せぬ山梨の暴走と、その時襲撃を受けたにもかかわらずワームウッドが笑みを浮かべていたこと。この二つの出来事が、橘の脳裏に浮かぶ。
──いったい、ありゃあなんだったんだ?
手の動きを止めながら、彼は考える。
あの暴走が例のアプリケーションのせいだとしたら、発生源たちも操られていたということなのか……。そして、WSROのトップは、いったい何を考えこの件の捜査に参加しているのか。
どちらも簡単に答えの出せるような物ではなく、橘は再び煙草を口に運んだ。
と、その時、喫煙スペースのガラス張りのドアが開かれる。
中に入って来た人物を見て、彼は意外に思った。
「どうも、お邪魔します」
気安い感じでひらりと手を挙げ、松原が言う。
後手にドアを閉める彼を見ながら、橘は会釈して返した。
「いやぁ、お邪魔してるのはこっちの方ですから。
というか、松原さんも煙草吸われるんですねぇ」
「ええ、まあ、ごくたまにですが……」
答えながら、彼は背広の胸ポケットの中からボックスを一箱取り出す。
松原がフィルターを咥えると、すでにジッポを取り出していた橘が左手で風除けを作りながら火を点けた。
「ありがとうございます」
紫煙を吐き出しながら、警部は疲れの見える笑顔で礼を述べる。
それから彼は顔を出入り口の方へ向け、遠い目をして話し始めた。
「若い頃は日に何箱も開けてましたが、娘ができたのをきっかけに辞めましてね。……ただ、今回みたいに捜査が難航して来ると、どうしても」
「なるほど、そうでしたか」
相槌を打った彼は、「みんな考えることは同じなんだな」と密かに思う。
かつて橘にも禁煙していた時期があった。学生時代どうしても金に困った時と、松原同様結婚して娘ができてからだ。
我が子の誕生という人生の一大イベントが、彼に煙草を絶つという決意をさせたのである。
妻と離婚し娘とも別れることになる時まで。
「娘さんがいらしたんですね」
「ええ。といっても、もう一人立ちして家も出ているんですがね。
親の私が言うのもなんですが、器量のいい娘でして、今は蜻蛉テレビの局アナをやってるんですよ」
「へえ、それじゃあテレビで見かけたことがあるかも知れませんね」
「そうですね。私に似ていますので、すぐわかると思いますよ」
冗談とも本気とも取れぬ口調に、どう切り返したものかと橘は瞬時に判断できなかったが、結局彼が何か言うよりも先に松原が尋ねて来た。
「そういえば、橘さんのご家族は? もうご結婚されているのですよね?」
「え……あ、実は私、恥ずかしい話ですがバツイチだもんで」
「あ……こ、これは申し訳ございませんでした」
煙草を口許から離しながら、警部は困ったような顔で謝罪する。
──いや、そこで謝られても……。
橘は苦笑しながらそう思い、しかし口では全く別のことを言っていた。
「お気になさらず。むしろ、気まずい思いをさせてしまったようで、こっちこそ面目ないです。
それに、もう十年以上も前のことですから」
言ってから、彼はすっかり長くなっていた灰を落とさぬよう注意しつつ、灰皿へと持って行く。
自分でも言っていたとおり、橘もう離婚したことを気に病んでなどいなかった。
ただ、彼の中に傷となって残っているであろうことがあるとすれは、それは離婚の直後に起きた出来事か。
世界で初めて発生したコラプサーによって、かつて彼が愛していた女性は命を落とした。
「……」
橘は煙草の先を灰皿につけたまま、口を噤む。
彼は一度だけ、「アバドン」前の慰霊碑に献花をしに行ったことがあった。
そして、その時目の当たりにしてしまったのだ。
無機質な灰色の壁に刻まれた、彼女の名前を。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ。なんでも」
心配そうな松原の声に答えた橘は、蘇った映像を掻き消すかのように短くなった煙草を潰し、灰皿に空いた穴の中に落とした。
「そう、ですか。でしたら、よかったのですが……」
と、なおも相手を気遣うような口調で彼が言った時、廊下の方からバタバタと足音が聞こえ、かと思うとドアが勢いよくスライドされる。
「け、警部! ここにいましたか!」
慌てて走って来たらしく、息を整えながら柊が言った。
ただならぬ様子に少々面食らいながら、彼の上司は尋ねる。
「どうしたんだ? 何があった」
「そ、それが、たった今、気になる情報がリークされまして」
「なに?」
新人刑事は顔を上げ額に汗を浮かべながら更に続けた。
「なんでも男の声で、『今から一時間以内に蜻蛉大学の構内でコラプサーが起こる』という電話があったそうで」
「なんだと⁉︎」
思わず大声になってしまった松原はもちろん、橘もこれには驚かざるを得ない。
あまりにも、唐突すぎる。
「大学の方には問い合わせたのか?」
「ええ。それが、あちらにも同様の電話があったみたいです。
単なる悪戯という可能性もありますが、万が一に備えすでに大学の所有する『門』を起動させているとのことです」
答えてから、柊は突然自身の〈スマートフォン〉を起動させた。
それから、予めとあるインターネットサイトのページを開いてあった画面を、二人の顔に向けて突きつける。
「それと、実はネット上にも同じ内容の書き込みが多数ありまして……」
本当に彼の言葉のとおりであり、部下の〈スマートフォン〉の中身を覗き込んでいた松原は、意を決したように顔を上げた。
「わかった。
真偽のほどは定かではないが、見過ごすわけにはいかない。蜻蛉大学へ向かうぞ。他の者にもそう伝えて来てくれ」
「は、はい!」
〈スマートフォン〉を停止させた柊は背筋を伸ばし、律儀に敬礼をしてから、またバタバタと喫煙ルームを飛び出して行く。
彼を見送った警部は、まだ長いままの煙草を灰皿に捨てた。
「もったいないですが、仕方ありませんね……」
「もしこれで何もなかったら、どこかで一服してから戻りましょうか」
「ええ、そうできることを願っています」
二人とも辛うじて笑顔を作りながら、そんなやり取りと共にドアへ向かって行った。
*
(現在)
蜻蛉大学:大通り──。
第四のコラプサーの発生により、蜻蛉大学のキャンパス内は混乱へ陥っていた。
逃げ惑う学生も入れば、逆に野次馬に興じる者もいる。
中には面白がるように写真や動画を撮影している学生を職員が注意したり、避難を呼びかけていたりする様子も見受けられた。
コラプサーの発生元は敷地の奥手に存在する音楽劇場であり、こちら側半分は被害を免れているのである。
だからこそ、彼もこうして悠々と、空へ立ち昇る暗黒の渦を眺めていられるのだ。
先ほど春川シオンと別れた場所と同じくらいの位置に立ち、月下は口許に笑みを浮かべた。
あの場所でコラプサーが発生したということが何を意味するのか、全てを把握しているのは、この中ではおそらく彼だけだろう。
今現在、構内にいる生きた致命者は月下だけなのだから。
──さて、と。春川くんは友達の死を乗り越えることができるかな……。
声にはせずに、彼は独白した。
そんな中月下は、他の学生や教授などとは明らかに雰囲気の異なる人間がちらほらと、周囲に見受けられることに気付く。
構内にいる者は正門の方へと逃げて行くか立ち止まって野次馬になるかが大半なのだが、彼らはそのどちらとも違い、自らコラプサーの方へ向かって行くのだ。
まるで試合を眼前に控え闘気を高めるアスリートのようなその様子を見て、彼はいっそう口角を吊り上げた。
──今度の敵は、フラワノイドだけじゃないよ?
暗闇その物でできた竜巻を見つめ、月下は心の中で少年に告げるのだった。




