第三十一話「運命」
『なんかね、月下さんが言うには、睡眠導入用のアプリなんだって。
でも、私不眠症とかなったことなかったし、「遠慮しときます」って断っちゃった──って、聞いてる?』
あまりの衝撃に、俺は言葉を失ったままだった。
自分自身の導き出した信じ難い答えが、確信へと変わってしまったからだ。
『もしもーし、春川?』
「……ああ」
俺はどうにか声を絞り出して、日向に答える。
「ありがとう、助かったよ」
『え? どういたしまして……って、こんなこと聞いて何か意味あんの?』
「ああ、ちょっとな。
とにかく、ありがとう。それじゃあまた」
『え、ちょ──』
まだ何か言いたげだった彼女の言葉を遮って、俺は一方的に電話を切った。
やはり、思ったとおりだ。
あの人は、致命者だった。
立ち尽くしたまま、〈スマートフォン〉を握り締める手に力を込めた俺は、先ほどの〈手紙〉の内容を思い出す。
──取リ返シタクバ、コレヨリ一時間以内ニ私ノ元へ来イ。
行ってやろうじゃないか、と胸の内で呟き、俺はまた足を踏み出しかけた。
が、すぐにもう一つあることを思いつき、再び立ち止まってから右手を真横に挙げる。
普段ペンを持つ時と同じ形にした指の間には、黒いもやが集まって行き、瞬く間に異形の指へと変化した。
「……執筆」
*
講義を終えた彼は人文学科棟を後にして、大学内のメインストリートを玄関口の方へ向かって歩き出したところだった。
隣りには学科棟から出たところで偶然鉢合わせした、女学生の姿が。
彼女とは入学後すぐに行われた学科のコンパで出逢ったのだが、彼は未だにこの同回生の名前を覚えらていない。
確か、苗字に「島」がついていたような、と彼女と談笑しながら歩いている今でさえ考えているくらいだ。
「そういえばさぁ、昨日月下くんのこと見かけたって友達が言ってたんだけどぉ、月下くん女子高生と一緒だったんだって? それも、二人っきりで」
島某、もしくは某島の言葉に、月下は「こいつは何をそんなに面白がっているのか」と疑問に思いながらも、そんな感想はおくびにも出さず返事をする。
「ああ、ちょっと知り合いの娘でね、相談に乗ってただけだよ」
「ふうん。
けど、その娘秋学の制服着てたって言ってたよ? 確か、月下くんもあそこだったんだよね?」
言ってから彼女は興味ありげな目つきで彼の顔を見上げた。
これに対し、月下は息を吐くように笑う。
といっても、それは微笑みかけたわけではなく、彼女の様子から餌の前で主人の許可が下りるのを待つブルドッグを連想し、ピタリと嵌りすぎていた為笑いを堪えられなかっただけだ。
「うん。
一応これでも、生徒会の副会長だったからね」
「え〜、本当に? なんか想像できないなぁ」
「本当だって」
あくまでも笑顔で答えながら、「やっぱ、ブルドッグというより、どちらかと言えばパグかな」と彼はどうでもいいことを考えた。
と、二人が大通りの中ほどまでやって来た時、月下の顔の横の空間に、突如〈スマートフォン〉が出現する。
「ごめん、電話みたいだ」と一応パグに断ってから、彼はそれを手に取り画面を確認した。
すると、そこに表示されているのは「春川シオン」という名前である。
「誰それ? 彼女?」
真横から画面を覗き込みながら尋ねる彼女に、月下は「そんなんじゃないよ。第一、これ男の子だし」と否定してから、通話に応じた。
「もしもし? 春川くん?」
『……もしもし、少しお話ししたいことがあるんですが、今大丈夫でしょうか?』
「ああ、いいよ。
どうしたの?」
彼の質問に答える代わりに、少年は不思議な要望をして来る。
『顔を上げて、前を見てください』
「え? あ、ああ」
怪訝に思いながら言われたとおりにしてみると、月下は視界の先にある人物の姿を捉えることができた。
講義終了直後ということもあり移動する学生でごった返す通りの中、学園の制服を着た少年が一人立ち尽くしているという光景は、ある種異常にさえ感じられる。
少し目にかかる長さの黒い髪と、その下から覗く切れ長の瞳。鼻筋の通った顔立ちやシャープな顎から一見すると痩せていそうだが、それでいて体にはほどよく筋肉がついているのが窺えた。
──そう、彼が見上げた先にいたのは電話をかけて来た相手、春川シオンその人であり、シオンは自身の〈スマートフォン〉を握りながら無表情で二人の方を見つめているのだ。
その姿を見た月下は、起動中のアプリを停止させ、気安く手を挙げながら少年へと歩み寄る。
「やあ。というか、どうしてうちの大学に?」
彼が尋ねると、シオンはこちらも〈スマートフォン〉を消し去ってから、抑揚の乏しい声で答えた。
「月下さんと、お話がしたかったからです。……黒い天使について」
彼の口から飛び出した言葉を聞いて、月下は瞬時目を見張る。
しかし、それでもすぐに、彼の口許は悪魔がほくそ笑むように歪んだのだが。
──へえ、意外と早かったじゃないか。
感心するように胸の内で呟き、月下は改めて少年の瞳を見返した。
*
蜻蛉大学の大通りにて、月下さんと対峙した俺は無言のまま彼を見つめていた。
あの〈招待状〉を寄越したのは、この人で間違いない。ならば、さっさと杏藤を聞き出してしまわなければ。
そう思い俺が口を開きかけた時、彼の隣りに立っていたブルドッグみたいな顔の女が怪訝そうな視線をこちらに送りながら、月下さんに尋ねる。
「誰、この子。月下くんの知り合い?」
「ああ、彼も秋学の生徒なんだ。
それで、俺は用事ができちゃったから、今日は先に帰ってくれる?」
「う、うん。じゃあ、また明日ねー」
手を振りながら言って去って行くブルドッグ──いや、どちらかといえばあれはパグか──を見送ってから、彼は再び俺の方へ目を向けた。
「それで、黒い天使だっけ? ……いったい、俺に何の話をしたいんだい?」
「とぼけるんですね」
正直余計な問答をしていられるほど、精神的に余裕はない。
一刻も早く友人の安否を確かめたい思いに駆られた俺は、相手にこれ以上言い逃れをさせまいと、ここに辿り着いた理由を説明することにする。
「先ほどの趣味の悪い《手紙》を俺に送りつけたのは、月下さんなんですよね?」
「なんだい、それは? 話が見えないな……」
「……あの文章の中に、『黒イ天使ヲ従エル者へ』という件がありました。この『黒イ天使』とは、おそらく今話題の怪人のことだと思われます。
しかし、俺の知る限りあれのことを『天使』と呼称していたのは、俺以外に三人」
俺が話している間、月下さんは全く表情を変えぬまま無言で聞いていた。
その様子を観察しつつ、俺は更に言葉を紡いで行く。
「梔子先輩と皇樹先輩、それからあなたです。
そして、この三人の中で俺の連絡先を知っているのは、あなたしかいない。なので、あの《手紙》でも指示されてれいたとおり、差出人のところへやって来た、というわけです」
ロジックも何もあった物ではない。まるで揚げ足取りだな、と自分で言っておきながら呆れた。
しかし、それでも充分だったのか彼はもうとぼけるようなことはせず、むしろどこか愉快そうな口調で言う。
「へえ。まさか、こんなすぐに気付かれてしまうとはね」
「……でしたら、やはり杏藤を攫ったのは月下さんなんですね?」
「いや、違うよ」
この期に及んでまだ認めないつもりなのか?
と、思いきや、彼はすぐに方頬を上げて不敵に笑った。
「今の俺は、致命者ディミトリイだ」
とうとう本性を現した、というわけらしい。
それにしても、例の文章といいこうまであっさりとことが運ぶとは。
おそらく、これだけでは終わらない。何かまだ仕掛けて来るはずだと警戒しつつ、俺は致命者ディミトリイと名乗った男に尋ねる。
「そうですか。
ですがそんなことはどうでもいいので、さっさとクラスメイトを返してもらえないでしょうか?」
「ああ、それは構わないんだけど……もう一つ聞いてもいいかな?
あの《脅迫状》、皇樹や茉莉の悪戯とは思わなかったの? 生徒会の役員なら、生徒の連絡先くらい調べられてもおかしくはないと思うけど」
こちらからは「《手紙》」としか言っていないのに「《脅迫状》」と明言するあたり、自分が送りつけた物だと認めてはいるようだ。
俺は少々まどろっこしく感じながら、
「確かにそうかも知れませんが、皇樹先輩たちが悪戯目的で何かするとしたら、わざわざあんな回りくどい方法は取らないでしょう。
それに、先ほど友人に昨日のことを聞いてみて、やっぱりあなたなんだと確信しました」
「ああ、彼女か……あの娘もこっち側に引き込もうと思ったけど、ちょっと欲張りすぎたかな?」
はにかむように笑い、彼は頭を掻いた。
わざとらしいジェスチャーに、思わず俺はその姿を睨みつける。
「それで? 杏藤はどこにいるんです?」
「そんなに怖い顔しなくたって、ちゃんと教えるって」
いつかの皇樹先輩のようなことを言ってから、致命者ディミトリイは右手の親指を立てて自らの背後を指し示した。
「彼ならこの通りの先にある音楽劇場にいるよ。平べったい大きな建物で、看板もあるからすぐにわかると思う」
「……そうですか」
その言葉を鵜呑みにしてもよいものかと逡巡したが、迷っていても仕方ないと思い、俺はすぐに歩き始める。
と、足早に真横を通り過ぎようとする俺に、彼は思い出したように声をかけて来た。
「気をつけた方がいいよ。今度の致命者は、たぶん一番手強いから」
「……ご忠告ありがとうございます。
ですが、誰が相手だろうと俺の邪魔をさせるつもりはありません」
一度だけ立ち止まりそう答えてから、俺はすぐまた雑踏の中を進んで行く。
──致命者の言葉どおり、通りの先、青々とした芝生の茂る広場の向こう側にそれらしき灰色の壁の建物が見えて来た。
更に近づいてみると建物のすぐ傍には確かに看板があり、そこには「蜻蛉大学音楽劇場」と記されている。
致命者ディミトリイの言っていた場所はここで間違いない。
俺はガラス張りとなっているドアを押し開け、建物内へと入った。
劇場その物へは一度二階に上がってから行かなければならないらしい。
真っ白い床を靴を鳴らして歩き、中央にある広い階段を一段飛ばしに登って行く。
階段は踊り場で左右に分かれており、俺は左側へと進んでみた。
そして、二階へ上がってすぐ、俺はそれらしい扉を発見する。
黒い両開きの大きな扉をそっと開き、中の様子を窺った。
照明が薄暗く、瞬時にはよく見えながったが、ざっと見渡す限りでは客席に人の姿は見受けられない。
もっと何人も敵が待ち構えている、なんてことを想像したが、杞憂だったのだろうか?
それでも一応周囲に警戒しつつ、俺は劇場の中に入る。
劇場内は広く、扇状の空間の中に何百もの席が整然と並んでいた。
客席の中をいくつかのブロックに分けるような形で通路があり、その途中で一度立ち止まる。
すると、スポットライトの眩しい光を受ける舞台上に、誰か人の姿があるのが見えた。
──あれは……誰だ?
舞台の奥には西洋の教会にあるようなイメージの立派なパイプオルガンが設置されており、その鍵盤の前に、何者かが椅子を置いて腰下ろしている。
目を細めてよく見てみようとした時、突如その人物は演奏を開始した。
刹那、オルガンの荘厳な音色が鳴り響き、場内を揺さぶる。
力強く奏でられる楽曲は、クラッシック音楽の知識などろくにない俺にも瞬時にわかるほど、あまりにも有名な物。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる、交響曲第5番ハ短調作品67──通称「運命」であった。
押し寄せる激情の波を打ち出すような演奏を耳にしながら、その二文字を思い浮かべた俺は胸が騒つくのを感じる。
居ても立っても居られなくなるような、不吉な予感。
俺は細い階段となっている通路を下り、何者かの待つ舞台へと向かった。
「ダダダダーン」という印象的なフレーズが、抗うことできぬ「運命」その物のように幾度となく繰り返される。
やがて、舞台の目の前へと下りきった俺は、客席との間のスペースからその中心を見上げた。
──あの後ろ姿は……。
と、不意に彼の両手の動きが止まり、演奏が終了される。
だらりと両腕を弛緩させた彼は徐に椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。
スポットライトの光の降り注ぐ中、自分のすぐ目の前まで足を止めたその人物を見て、俺は驚愕する。
──舞台の上に立っていたのは、攫われていたはずの友人である、杏藤だったのだから。
「……あ、杏藤……無事、だったんだな?」
まっさきに口を突いて出たのはそんな言葉だった。
見る限り杏藤はどこも怪我をしていなさそうだし、衰弱しきっているような様子もない。
先ほどの演奏にどんな意味があるのかはわからないが、ひとまず彼の無事が確認できたことに俺は胸を撫で下ろす。
「というか、やっぱり上手だな。まだたまに弾いているのか?」
他愛ない感想を吐き出したのは、おそらく確信したかったからだろう。本当に、もう何も心配はいらないのだと。
「そうだ。実はみんなで君のお見舞いに行くことになってるんだけど──って、見舞われる本人に言うのも、おかしな話だな」
「シオン」
こちらの語尾に被せるように、杏藤はようやく口を開いた。
その様子からはどこか異常な雰囲気を感じられたものの、俺はそれがどういうことなのか理解できない。
「ど、どうしたんだ……?」
「……ごめん、シオン。俺、ずっと黙ってたことがあるんだ」
「え?」
その時、未だ胸の騒つきが収まっていないことに気付く。
いや、それどころか、どんどん大きく確かな物になって行くことにも。
「何を言って……」
「俺、本当は──」
言葉を紡ぐ彼の頭の上の空間が揺らめき、真四角のアイコンが出現した。
「お前の敵なんだ」
蝶の舞うアイコンの中には、「Butterfly」というタイトルが。
何が、起きているのか。
何故、杏藤があのアプリを入れている?
理解し難い光景を目の当たりにして、瞬間思考が停止しかける。
何も言えぬまま立ち尽くしている俺に向かって、友人は更に苦しそうに話し始めた。
「俺、実は中学に上がってから、ずっとあいつのことが好きだったんだ……」
わからない。
彼が言わんとしていることが。
「それで、二年の時に転校して来たお前と仲よくなって、三人でいる時間が増えて……俺も楽しかった。
けど……本当はずっと苦しかった」
「杏藤……?」
「よく、見えて来るようになって来たからだ。あいつが……あいつの目が誰を映しているのか」
杏藤は俯き、両手の拳を強く握り締める。
指が手のひらに食い込み、血が出そうなほど、強く。
「……そしたら、俺、お前のこと……邪魔だと思うようになって」
静まり返った劇場内に、彼の悲痛な声が木霊した。
俺は今度の言葉に対しても、その意味を理解することを拒む。
「なんで俺じゃなくてあいつなんだって、そんなことばかり考えるようになって……それで」
「こいつと出逢ったんだ」と続けた杏藤は、顔を上げた。
涙で充血した二つの瞳が俺を見つめる。
しかし、それとは相反して、彼の口許には笑みが浮かんでいた。
「それからは、楽しかった。誰にも邪魔されることなく、あいつと二人で過ごして……」
先ほどとは打って変って、まるで愛する者との蜜月の日々を思い出すように、うっとりとした表情で杏藤は呟く。
彼の豹変ぶりは以前俺に「布教」しようとした際の芦屋と似ており、そしてある意味その時以上の衝撃を受けた俺は、思わず一歩後退った。
それでもなお、彼の追想は続く。先ほど俺を見ていると思っていた瞳は、どうやら全く違った景色を映し出していたらしい。
「まさに、“楽園”って奴だった。あっちこそが本当の世界なんじゃないかって、俺は本気で信じられるようになった」
「……嘘、だよな」
目の前で起こっていることを否定したい一心で、俺は語気を強める。
「嘘だと言ってくれ! 君が──」
「俺は致命者だ」
一縷の望みさえ容赦なく叩き落とすように、友人は乾いた声で言った。
「致命者パンテレイモン。仲間からはそう呼ばれてたよ」
「な、なんで……どうしてこんな……」
「どうして……どうしてってそりゃあ……」
彼の顔から笑みが消える。
かと思うと今度は両手で頭を抱え、致命者と名乗った少年は苦悩に喘ぐように指に力を込めた。
「もう、無理になったんだ。今までどおり『杏藤銀太』をやって行くのが。だって、俺は夢の中で、あいつと……だから、もう、俺は、止めたくて! もう、こんな俺、いなくなればいいって!」
溢れ出る感情に任せ声を荒げて行った彼は、唐突と言葉を途切らせる。
そして、起動していたアプリケーションを停止させた。
「……ごめんな、シオン」
呟いた彼は、ジーンズのポケットに右手を突っ込み、その中から一本の注射器を取り出す。
何か無色透明の薬品がすでに入れられているらしきそれを目の当たりにし、瞬間、俺は心臓を握り潰されたかのような心地になった。
「本当にごめん。……それと」
これは全て彼の主演する舞台の中の出来事であり、今はただ与えられた役を演じ、決められたセリフを言っているだけ──であれば、どれだけよかっただろうか。
しかし、彼は──、
「椚原を頼む」
頬を伝う涙と共に、そんなことを口にする。
そして。
次の瞬間、初めから袖をまくり露わになっていた左腕へと、注射器の針が突き刺さった。
「観客」でしかなかった俺はその光景を見ていることしかできず、やがて致命者パンテレイモンは乱暴に針を引き抜く。
無造作に注射器を放り捨てた彼は、抗うことなく膝からその場に崩れ落ちた。
舞台の際に立っていたということもあり、その体は半分ほど舞台から投げ出され、頭から俺の足元へと落ちて行く。
硬い物同士がぶつかる鈍い音が辺りに響き、それから真の静寂が劇場内に訪れた。
──杏藤が、死んだ。




