第二十九話「欠席」
翌日、再世八年五月十七日。
朝の教室にて。
自分の席に座り〈文庫本〉を開いていると、日向が近づいて来た。
捲ったページに落としていた目線を上げると、彼女は「おはよ」と言って手を挙げる。
「おはよう」
返事をしながら、俺は〈文庫本〉を停止させた。
日向は髪の毛を弄りながらどこか落ち着かない様子で話しかけて来る。
「ねえ、今朝はあいつと一緒じゃなかったの?」
「あいつ? ああ、杏藤か。
いや、一人で登校したけど」
「そうなんだ。珍しいね、あいつが遅いなんて」
彼女がそわそわしているのは、きっと仲直りする為に彼が登校するのを待っているからだろう。
「大丈夫だよ。うまく行く」
励ましたつもりだったが、何故か日向は恥ずかしがるように顔を真っ赤にさせた。
「なっ、べ、別に不安なんかじゃないし!」
「え、そうなのか?」
意外に思い尋ねると「あ、当たり前じゃない!」と、彼女はやはり焦っているような口調で言う。
もしかして、物凄く緊張しているのだろうか。
と、俺たちがそんなやり取りをしていると、自分の席の方から椚原さんが軽やかな足取りでやって来た。
「おはよー春川くん!
二人とも何の話してるの〜?」
「あんたには関係ない!」
「え、なんか、カリリン物凄く怒ってらっしゃる……?」
「……あ。いや、別にそういうわけじゃ」
怯えた顔になって後退る彼女に、日向ははっとした表情で答える。
その様子を見るともなしに見ていると、不意に予鈴のチャイムが教室内に鳴り響いた。
それと同時に、担任教師が前の方のドアを開けて入室して来る。
彼女の姿を見た生徒たちは各々席に戻ったり、体の向きを直したりした。
「あれ? 杏藤ちゃん来てないよね?」
しかし椚原さんはすぐに帰らずに俺の隣りの席に目を向け、不思議そうに首を捻る。
「もしかして休みなのかな?」
「休み……」
呟いた日向はどこか残念そうに肩を落とし、友人に付き添われる形で自分の席へと戻って行った。
その後ろ姿を珍しく思いながら見送った俺は、頬杖をつく。
教卓の向こうに立った担任教師の声により、今日もまたいつもどおりの一日が始まろうとしていた。
*
午前十一時過ぎ頃。
蜻蛉署:捜査会議室──。
普段なら山梨の拠点である第三資料室にて行われる捜査報告だが、WSROの二人が参加したことで少々手狭となった為、今日はこの捜査会議室を使用して行われていた。
室内には備えつけの白い長机と椅子がいくつも並んでいたが、埋まっているのはそのうち五つのみである。
会議室前方の壁にはウインドウが浮かんでおり、それと向かい合って座っている橘たちから見て左手に置かれている席に、松原が腰下ろしていた。
それから、右手には二人の刑事──韮沢の取り調べを行っていた中年刑事と柊という名の若手刑事だ──が控えており、今日の報告は主に彼によって行われている。
現在は二日前に起きたコラプサーの発生源、モーリス・ハマメリスに関する調査結果が発表されているところであり、ウインドウの中には生前の彼の写真と幾つかのキーワードが映し出された。
〈資料〉に目を向けながら、中年刑事は声を張り上げる。
「第三のコラプサーの発生源、モーリス・ハマメリスについてですが、先日蜻蛉大学への事情聴取を行いましたのでその結果をご報告致します。
え〜、まずハマメリスの人となりについて大学関係者の話を聞いたところ、概ね好意的な印象を抱いている者がほとんどでした。なんといいますか、『気さくな親日家』といったような答えが多かったです」
彼の弁を聞きながら、火野木は忙しくメモを取っていた。
しかし、まだあまり有益な情報は出て来そうにない。
「ですので、ほとんどの人間が彼が自殺をしたことやテロに関与したということを信じられない様子でした。周囲からの信頼はかなり厚かったようです。
しかしその一方で、少々興味深い証言も出て来ました。これは、ハマメリスの教授仲間の一人に聞いた話なのですが、どうやら彼には結婚暦があるそうなんです」
「……ほう、独身じゃなかったんですか?」
尋ねたのは橘である。
深々と椅子にもたれかかり足を組んでふんぞり返っている彼の問いに、中年刑事は顔つきを変えずに答えた。
「はい。それが、彼が結婚していたのはまだイギリスにいた頃で、妻は向こうで難病にかかりすでに他界しているそうです。──と、いう話を、その教授仲間は飲みの席で本人から聞いたそうで。ハマメリスが亡き妻ことを語ったのはその時一回だけであり、もうあまり気に病んでいるという様子はなかったらしいです。
実際に彼に結婚暦があったかどうかについては、現在確認を取っているところですが」
「なるほど。もしかしたら、妻の死というのが自殺の動機、あるいはテロ活動に参加した理由、かも知れないと……」
橘が独白のように言うと、刑事たちではなくその隣りに腰下ろしていた山梨が「いやでもぉ」反論する。
「ハマメリスって人の奥さんが亡くなったのって、結構前なんすよね? 普通今さら自殺なんてします?
テロにしたって、ちょっと理由にはならないんじゃないっすかね。病気で亡くなったのなら、誰かへの復讐の為ってこともないでしょうし」
「ま、それもそうなんだが……」
「あのぉ、いいですか?」
と、呟きかけた彼をよく通る男の声が遮った。
それは橘らの後方に座っていたワームウッドの物であり、そちらに目を向けてみると彼はあくまでも控えめに右手を挙げている。
「ええ、どうぞ」と、松原はやや緊張気味の表情で頷いた。
「ありがとうございます。
ええっとですねぇ、みなさんが動機に拘りたく思う気持ちはよくわかるのですが、この人がテロに関わっていた可能性が高いことには変わりないですよね? ですので、そんなことより、まずはテログループとの関係の確認を優先すべきなんじゃないでしょうか?」
差し出がましいことを言って申し訳ないと言いたげな口調だったが、それでいてどこか異論は認めないといった強固なニュアンスを感じられる。
これを受けた松原は「仰るとおりで」と答えながら自らの頭をさすり、橘は彼の目に映らぬよう前を向いて唇を曲げた。
それから警部は部下に目配せして、無言で頷いた中年刑事は報告を進める。
「え〜、では続いて、異人街に潜入中の捜査官からの報告を伝えさせていただきます。
先日警部からもお話があったかと思いますが、ハマメリスの姿を異人街付近で目撃したとの情報を元に、調査を進めさせておりました。
結論から言いますと、彼が実際に異人街に出入りしていたことは確かなようです」
彼の言葉を、橘は意外に感じた。
そして、一大学教授があんな犯罪や暴力の温床へ赴いていた理由は何なのかと、興味を抱く。
「また、ハマメリスが目撃された際には、決まっていつも同じ外国人グループと一緒にいたとのことです」
「その人たちがテロ組織と何か関係がある、という可能性も……?」
「充分考えられるでしょう」
火野木の言葉を継いで刑事は言った。
もしそうならばこれはかなり重要な手がかりと言えるだろう。
当然彼女は指を走らせ、他の者たちも記憶の中にしっかりとインプットしていた。
「目下のところその外国人グループというのが何者なのかを洗っているところです。
ただ、おそらくはここ数年のうちに蜻蛉に流れて来た輩ではないか、とのことです」
発生源となった男と異人街の繋がり、そして謎の外国人グループ。これらのことは全て一連のコラプサーならびにテロ組織とやらと、どう関係があるのか。
考えながら、橘は横目で背後の様子を伺う。
──そして、あの男は何を思っているのか。
彼の視線の向かう先に座るワームウッドは先ほどから穏やかな笑みを湛えており、その腹の底にどのような考えを秘めているのか、容易にはわからなかった。
*
山梨は、またしても「Butterfly」の見せる夢の中にいた。
一面に咲くコスモス畑を穏やかな風が通り抜け、彼の髪を揺らす。
その傍にはもちろん彼の幼馴染がおり、今は背中を合わせるような形で座りながら、彼女は花の冠を作っているところだった。
アプリケーションによって作り出された空間で過ごす癒しのひと時は、今や山梨にとってなくてはならない物になりつつあった。
最近ではむしろ、現実で起こることの方が紛い物のようにさえ思えるほどである。
──やばいなぁ、俺もう末期かも。
そんな風に自嘲しながらも、コスモス畑の中に足を投げ出していた彼は首を回して振り返った。
すると、完成した冠を頭に載せた彼女も彼の方を向く。
思いがけず見つめ合うような格好になってから、幼馴染は柔らかな表情で微笑んだ。
若干気恥ずかしく思いつつ、山梨もまた笑顔を浮かべた。
──刹那、視界の隅に例の黒い渦が映り込む。
楽園の景色を呑み込むようにぽっかりと口を開けたとぐろを巻く暗闇。
その姿を見た彼の頭には、やはり「ブラックホール」という単語がよぎった。
取り調べの際韮沢が口にしたその言葉は、本当にあれのことを指していたのか。
確かめてみる必要がある、と青年は意を決する。
立ち上がりズボンについた花びらを払い落とす山梨を、幼馴染は不思議そうに見上げた。
「大丈夫、ちょっと行って来るだけだから」
安心させるように努めて優しげな声で言い、彼はすぐさまコスモス畑を歩き出す。
──まさか、どれだけ進んでも近づけないってオチじゃないよな?
一瞬そんなことを考えて苦笑したが、やがて明らかに距離が縮まっていることがわかり安堵した。
自分の脛の辺りまで背を伸ばした花を薙ぎ倒しながら進んで行くと、やがて山梨は黒い渦の目の前へと辿り着く。
近くで見てみると渦巻きは意外と大きく、直径はだいたい三、四メートルほどだろうか。
また、中の様子もここからならばよく見え、人工物のような床の中に、銀色の花弁を持つ花が薄っすらと光を纏いながら、いくつも咲いているのがわかった。
そして、その奥には、やはり何者かの影が見える。
結局のところ、この暗闇の中はどこへ繋がっているのか。
山梨は顎に手を当てながら、じっと目を凝らした。
どうやら床の先にある壁は大きな窓のようで、一面ガラス張りとなっているらしい。
まるで展望台か何かのようだ、と彼が思っていると、その窓の向こう側にも更に景色が広がっていることに気付く。
──あれは……。
胸の中で呟いた時、青年の瞳にはそれが大都市の街並みであるように映った。
そして、暗闇に包まれた街の中には、何やら見覚えのある巨大なシルエットが。
「……まさか」
今度は口に出して言ってから、彼は驚愕に目を見開く。
そう、気付いてしまったのだ。
この黒い渦の先にある物の正体に。
──い、いや、でも、そんなことあり得ない!
しかし、山梨はすぐに自身の導き出した答えを信じられなかった。
いや、誰であったってそれは難しいことだっただろう。
──どうする? このことは橘さんたちに伝えるべきか、それとも……。
と、混乱気味の脳内でどうにか思考を纏めようとしていた彼の目の前で、更に予想外の出来事が発生した。
渦の中の空間から、何者かが歩み寄って来たのだ。
瞬時にどうすることもできなかった山梨は、近づく靴音を聞きながらその場で身構える。
初めは、ここで過ごす彼らをいつも監視するように見つめていた例の人影かと思ったが、どうやらそうではないらしく、椅子に腰下ろしたようなシルエットはまだ暗闇の奥に残っていた。
では、自分の方へやって来ているのは、いったい何者なのか。
山梨は生唾を呑み込み、その姿がはっきりも見えるようになるのを待つ。
やがて、渦巻きとコスモス畑との境界線の前で、その人物は足を止めた。
そして、その姿を見た時、彼は言葉を失う。
──山梨の目の前に立ち彼を見下ろしたのは、一人の少年だった。
何故、こんな子供がここにいるのか。
わけがわからずフリーズしたままの山梨に、その少年は告げる。
「さあ、今度はあなたの番ですよ?」
*
捜査会議室の中、ひとしきりの捜査報告を終えた中年刑事は息を吐いた。
ウインドウの左手の椅子に腰下ろしす松原は、彼に労いの言葉を送る。
「ご苦労、栗田さん。引き続きお願いしますよ。
それから、柊も」
「「はっ」」
栗田という名前であるらしい彼と、その隣に立っていた新人刑事は力強く返事をした。
彼らの様子を見て満足げな表情を浮かべた警部は、今度は客人たちの方に顔を向ける。
「では、ここまでの話の中で気になった点、または意見などはございますでしょうか?」
彼の問いを受け、まっさきに手を挙げた男がいた。
それは、コラプサー対策局の面々の後ろに腰下すワームウッドである。
またも彼は「少しいいですか?」と申し訳なさそうに言い、松原の方を見返した。
「ええ、どうぞ。何でも仰ってください」
「ありがとうございます。
では、お言葉に甘えて……テロ組織と関係があるとみられる例のアプリについてですか、確か明晰夢を見せる物、でしたか。調査資料は見ておりますので一通りのことは知っているのですが、いまいちピンと来ないんですよね」
はにかむように笑ったワームウッドは、頭を掻きながら続ける。
橘は胡散臭そうに、その姿を肩越しに見つめていた。
「もしよろしければ、そちらの……山梨さん、でしたっけ? 彼の方から直接、どのようなアプリなのかレクチャーしていただけると助かるのですが」
そう言うと彼はエメラルドグリーンの瞳を動かして、自分に背を向けた状態の山梨に視線を送った。
青年は机に肘を乗せたまま、自らの手元に目を を落とし俯いている。
「そうでしたか。
でしたら、山梨さんさえよければお願い致します」
警部はもはや大して困るような状況でもないのに後頭部に手を当ててから、彼にバトンをトスした。
──が、反応がない。
山梨は先ほどから自分のことが話題に上がっているというのに、相変わらず机に顔を向け沈黙している。
その様子を不審に思ったのはコラプサー対策局の仲間たちだけではなく、部屋の前方に控える刑事たちも怪訝そうに彼を見つめていた。
もっとも、WSROの二人だけは別のようだったが……。
青年の隣の席で、背もたれから体を離した橘は声をかける。
「おい、どーした? お前も腹下したのか?」
普段と変わらぬ軽い口調で言い、山梨の肩に手を乗せようとした、その時。
突然彼が立ち上がった為、橘は驚きながら伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。
「うおっ⁉︎
ちょ、びっくりさせんなよ」
上司が目を丸くさせて言ったにもかかわらず、山梨からの謝罪はない。
それどころか、立ち上がってもなお首を折り曲げたまま、自らの足元を見つめ続けている。
「山梨くん……?」
幽かな声で火野木が呟いた。
「お、おい、山梨? いったい何だって──」
彼女の上司が言い切るよりも先に、予想だにしない出来事が起こる。
突如、山梨は体を回して振り返り、後ろの列の机に手をつくと勢いよく床を蹴って、その上に飛び乗ったのだ。
目の前で起きていることを理解できず誰もが絶句する中、彼はすぐさま次の行動に移る。
なんと、山梨は上体を捻りながら、拳を握りしめた右腕を大きく振りかぶっているではないか。
彼が体を向けた先には、この状況にもかかわらず暢気に脚を組んで椅子に座っている男の姿が。
それどころか、目だけで青年を見上げたワームウッドは、口許に余裕の笑みさえ浮かべていた。
──刹那、山梨の腕が振り下ろされる。
かと、思うと、今度は全く別の方角から黒い影が躍動した。
こちらも瞬時に机の上に飛び乗りながら、ダークスーツに身を包んだ少年は長い右脚をしならせて強烈な回し蹴りを放つ。
直後、完全に拳を振りきることなく、山梨の体は会議室の前方、ちょうど二人の刑事たちが立っている場所の傍へと吹き飛ばされてしまった。
誰もが言葉を失っている中、ローラスは蹴り上げた脚を天板に着けながら、床へ転がり落ちた青年の姿を冷徹な瞳で眺める。
「……暴漢です。取り押さえてください」
「……あ、ああ」
無感動に言い放たれた彼の声で、ようやく刑事たちは動き出した。
彼らは二人がかりで山梨の体を上から押さえつける。
しかし、彼は抵抗する素振りすら見せず、あっさりと鎮圧された。
それどころか、意識を失ってしまっているらしいではないか。
その光景を目にした橘らは、ようやく立ち上がる。
「ひ、ヒロちゃん⁉︎」
人目も憚らずに幼馴染の名を叫んだ彼女が、座っていた場所から離れ向こうへ駆け寄って行くのを、橘はただ茫然と見ていた。
それから、考える。
いったい、何が起きているのか、と。
彼の目には山梨の行動がまるで何者かによって操られているように映ったのだ。
だが、もしそんな突飛な話があり得るとしたら、それはいったいどこの誰による物だったのか。
必死に思考を巡らせていた橘は、ふと横目だけで背後を振り返った。
そして、再び驚愕することとなる。
先ほどと変わらず脚を組んで椅子にもたれているワームウッドは、大きな手で自身の口許を覆っていたのだ。
それも、込み上げて来る笑いを懸命に堪えているかのように。
──まさか、この男が……?
小刻みに肩を震わせるWSROのトップを見つめながら、橘の頭の中でそんな疑念が頭をもたげるのだった。




