第二十七話「警告」
「これは『Butterfly』と言ってね。睡眠導入用のアプリなんだ」
蝶のマークが描かれたアイコンを表示させながら、月下は貼りついたような笑みを浮かべて言う。
彼は明らかに異質な雰囲気が醸し出していたのだが、向かい合って座っている夏輪はそのことに気付かない。
それをいいことに、青年は勧誘──いや、布教活動を続けた。
「僕もよく使ってるんだけど、凄く効果があるんだよ。
今回のことだけじゃなくても、もし悩みすぎちゃって眠れない時とかはオススメかな」
そこまで言ってから、月下は「君もダウンロードしてみない?」と首を傾げる。
この誘いに対し、彼女はどう答えるべきか逡巡していた。
しかし、すぐに申し訳なさそうに笑いながら頭を掻く。
「すみません、お気持ちは嬉しいんですけど……私悩みすぎて眠れなくなるとかあんまないんですよね。
それに、月下さんが励ましてくれたお陰でもうだいぶ気が楽になりましたから。きっと今日も快眠です!」
本当に元気を取り戻した様子の夏輪は、親指を立てて力強く言ってみせた。
その言葉を聞いた青年は「……そっか」と、やはり優しげな声で呟く。
「なら、これは必要なさそうだね」
直後、彼はアプリを停止させたらしく、アイコンは消えてなくなった。
「けど、もし後から使ってみたくなったらいつでも言ってね。ダウンロードできるところ教えるからさ」
「はい。なんか、いろいろとありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
鷹揚に答えた月下は、やっとそこで初めて注文していたコーヒーに口をつける。
苦い味を喉に流し込みながら、彼はこちらもカップに手をかけた少女の姿を盗み見た。
どこまでも暗く、光の差し込まない瞳で。
*
放課後。
椚原さんと並んで歩きながら、俺は帰路に着いていた。
日向は俺たちに声をかけずに先に帰ってしまい、杏藤も一人にしてくれとのことなので、こうして二人で帰っているのである。
彼らのことは心配だったが、俺も椚原さんもきっとすぐに仲直りできるだろうという結論に落ち着いた。
だから、俺は昼休みの時のことはあまり気にせず、いつもどおり楽しそうに話す彼女の言葉に耳を傾ける。
「でね、そしたらパプロフがね──って、あれ?」
寮で飼っている犬の話を中止した椚原さんは、前方に目を向けて声を上げた。
どうしたのだろうと、俺はその視線を追う。
彼女が見ているのは歩道橋の上らしく、そこには見覚えのある学園の男子生徒の姿が。
──芦屋だ。
先週二回目に出逢った時と同じく、彼は歩道橋の欄干に手をついて車道を見下ろしている。
まさか偶然出くわすとは思わなかったが、ちょうどいい。昨日のWSROのスピーチにあった「テロ組織」について、彼の話を聞いてみたいと思っていたところだ。
そう考えた俺はさっそく彼のいる場所方へ向かおうと足を踏み出しかける。
が、それよりも隣りにいたクラスメイトが言葉を発する方が早かった。
「あ、あれってもしかして……自殺?」
「ちょっと待とうか。さすがにそれは学習能力がなさすぎやしないか?」
今にも歩道橋に突撃して行きそうな椚原さんの肩を、俺は掴む。
こちらを見上げた彼女は、不思議そうな顔で「え、なんで?」と首を傾げた。
「なんでって……もしかして、先週の人間ロケット誤射事件を忘れてるわけじゃないよね?」
「……ふぁっ⁉︎」
思い出したらしい──ということは、やはり忘れていたようである。
「で、でも、あれはどう見てもこの世を儚んでる人の目だよぉ!」
と、芦屋のいる方を指差して失礼でしかない言い訳をする椚原さん。
確かに気持ちはわかるが、だからといって必殺技を撃たせるわけにはいかない。
まるで駄々っ子のような状態になりつつある彼女を止めるべく、俺はどうにか説得しようとした。
すると、視界の中にいた芦屋がこちらに気付いたらしく、歩道橋の真ん中から引き返し階段を降りる。
それを見た俺は開きかけていた口を噤み、椚原さんも背後を振り返った。
何を考えているのか、彼は笑顔を浮かべながら歩み寄って来る。
「やあ、春川くんに椚原さん」
ひらりと手を挙げて声をかける様子からは、初めて出逢った時のような気弱そうな雰囲気は感じられず、どこか堂々としていることが逆に不気味だった。
しかし、俺のクラスメイトはその異様な雰囲気に気付いていないのか、こちらも気安く右手を挙げて挨拶に応じる。
「おいっす!
あれ? 私の名前知ってたっけ?」
「ああ、杏藤くんに教えてもらったんだよ」
──杏藤から?
なんとなく、芦屋と友人に繋がりがあることさえ、不快に思えた。
それだけ、俺はこの男子生徒を強く警戒しているのだろう。
本能的に、そうすべき相手だと察知しているのだ。
「……なあ、芦屋。君に聞きたいことがあるんだが」
「奇遇だね、僕も春川くんに話があるんだ」
俺の語尾に被せるように、彼は言葉を吐き出す。
もしかしたら、向こうの方から接触するつもりで待ち構えていたのかも知れない。
何にせよ、こちらとしては望むところだ。
というわけで、椚原さんには申し訳ないが先に帰ってもらうことにする。
「ごめん、椚原さん。用事ができたから、先に一人で帰ってもらえるかな?」
「え、う、うん……」
答えながらも、彼女はどこか納得が行っていない様子だった。
むすりとした顔になった椚原さんは、不服そうな声で呟く。
「また、私のこと除け者にするんだ」
「ごめん、悪気はないんだけど……」
もう一度謝ってみたが、今度は目を逸らされてしまった。
彼女の視線が逃げて行った先では、芦屋が相変わらず気味の悪い笑みを浮かべている。
「……最近、春川くんちょっと変じゃない?」
「そう、かな?」
「そうだよ。私に隠れて何かしてるもん」
──まさか、俺が「神の指」を使って戦っていることが椚原さんにバレている?
いや、そんなはずはない。……しかし、彼女が俺のことを怪しんでいるのは確かなようだ。
いったいどうしてそう思ったのかわからないが、一応彼女が納得できるような説明をしなければ。
俺はとっさに、いい言い訳はないものかと思考を巡らせた。
「それはその……な、習い事を始めて」
「見え透いてるよ! もっとマシな嘘なかったの⁉︎」
的確な指摘をされてしまい、何も言い返せない。
と、そうこうしているうちに椚原さんはアスファルトを蹴って走り出してしまう。
「んもう、ピアノでもヨガでもそろばん塾でも、勝手に一人でやってるといいよぉぉぉ!」
という叫び声と共に芦屋の横を通り過ぎた彼女は、瞬く間に歩道橋へと駆け上がり、驚くようなスピードでいつもの帰り道を去って行った。
結局ロクな弁明もできぬまま、俺はため息を吐く。
「ごめん、僕のせいかな?」
「いや、君は関係ないよ。
それより、俺に何の用だ?」
視線を彼に向け、俺は尋ねた。
すると、芦屋はまっすぐこちらを見返してから、呆れたように肩を竦める。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。僕はただ、親切心で君に声をかけたんだから」
「親切心? 何を考えているんだ?」
「何を、ね。……簡単なことさ」
彼が答えた時、まるでタイミングを見計らったかのように、空に浮かぶ〈ウインドウ〉の中に昨日の演説の映像が流れ始めた。
報道番組のコーナーの一つであるく、芦屋の背中の向こうにある〈ウインドウ〉の中に、スピーチを行うワームウッドと黒い怪人の画像が映し出される。
「例の怪人とやらを操っているのは、君なんだろ?」
「な」
不意打ちを食らった俺は思わず動揺しそうになりながら、どうにか「……何を言ってるんだ?」と持ち堪えた。
しかし、それでも彼の言葉による衝撃は大きい。
──こいつ、どうして気付いた?
いや、本当にネフィリムを生み出し操作しているのが俺だという確証があって言っているか?
確かめなくてはいけない。
こいつが何を知っているのか、そして何をしようとしているのかを。
「おや? とぼけるんだね。まあ、それもそうだろうけど」
「……とぼけてるのはそっちの方だろ? いいかげん俺の質問に答えたらどうだ?」
「ふふ、言われなくてもそのつもりだよ。
僕はね、ある方の命により君に警告をしに来たんだ」
──今度は「警告」と来たか。まるで自分の方が圧倒的優位に立っているとでも言いたげだな。
そんな感想を抱きつつ、相手の次の句を待つ。ウインドウの中ではコメンテーターの壮年の男が、さもそれらしいことを滔々と述べていた。
「以前、君に『Butterfly』を紹介したことがあっただろ? あの時は、君をあのお方の元へ連れて行くつもりだった。
しかし、事情が変わった。もう、あのお方は君もろとも人類を終わらせると仰っている」
「へえ。いったいそいつは何者なんだ? 君たちは神の命令にでも従っているのか?」
俺の問いに、芦屋は縁なし眼鏡の蔓を中指で押し上げてから再び目線を上げて答える。
「天使、だよ。あのお方は神ではなくそれに使える身。そして、この世界を観測し続ける存在なんだ」
「この世界を観測する」とは、どういうことなのか。
意味深な言葉を並び立て誤魔化しているようにも思えるが、それ以上に嫌な感じがした。
彼の言っていることは全て事実であり、本当にそんな超越的な存在が実在するのではないかという予感だ。
そしてもしそうだとしたら、その天使とやらは人類を滅ぼす存在とでも言うのだろうか。
そもそも、彼の発言とテロ組織との関係は……。
「それはまた、ずいぶんと壮大な話だな。
まるで、例のテログループの持つ思想みたいだ」
「……なるほど、やっぱり僕に聞きたかったことってそれなのか」
「そうだ。
答えてくれるんだろ?」
「ああ、もちろんだとも」
芦屋とテロ組織、ひいては蜻蛉の街で起きたコラプサーの連続発生との繋がりが、ついにわかる。
にわかに緊張し初めていた俺は、大して暑くもないのに額に汗を浮かべながら彼の答えを待った。
対する芦屋は表情を変えぬまま、余裕の態度を崩すことなく口を開く。
「僕たちはね、“真実の天使”を解放し来るべき終末をこの世界に迎えさせることを目標としている。テロだなんて愚劣な行為と一緒にしてもらいたくはないね」
「それは……肯定と捉えていいんだな?」
俺が言うと、彼は頷くことも返事をすることもしない。
だが、同時に否定もせず、それだけで予想が的中したのだと断定するには充分に思えた。
で、あるならば、俺はこいつをどうするべきか。
これ以上椚原さんを危険に巻き込むような行為を見過ごすわけにはいかないし、何かしら対処しなければ……。
「だったら、君を野放しにはしておけないな」
「ふふ、どうするつもりだい? 例の怪人とやらを呼び出すとか?」
人を馬鹿にして楽しんでいるかのような芦屋のセリフに、俺はあることを思い出す。
先週歩道橋の上で出くわした際、彼は俺に「君はもうコラプサーの中で天使と会っている」といったようなことを言っていた。
あの時、俺はてっきり芦屋がネフィリムのことを知っているのではないかと考えたが、今日の発言を聞く限りどうやらそうではないようだ。
彼の言う「天使」とは、それこそテロ組織の一員、もしくは彼らの象徴のような物であるらしい。
「もし、仮に俺が彼を従えているとして、君を襲わせでもしたらその天使が助けに来てくれるのか?」
挑発のつもりでそう言ったのだがあまり意味をなさなかったらしく、芦屋はただ首を横に振るだけだった。
「残念ながら、それはできないよ。あのお方は今、自由に身動きの取れない状態にあるからね」
「なに?」
「だからこそ、僕たちが手足となって動いている。……指一本しか持っていない君とは違うんだよ」
──間違いない、こいつ「神の指」の存在を知っているんだ。
そして、俺がそれを持っていることも。
いったい、何故?
急速回転を始めた思考は、再び先ほど思い出した彼のセリフを脳内に蘇らせる。
芦屋は、あの時「コラプサーの中で」と言っていた。しかし、「天使」はネフィリムのことではない。ならば、俺が「天使」と出会った「コラプサーの中」とはいつのことを指していたよか。
──答えは一つ。十年前、「アバドン」の中だ。
となれば、彼はあの時俺が使命と引き換えに力を授けられたことまで、知っているのだろうか?
自ら辿り着いた解答を半分疑いながら、俺は尋ねる。
「……き、君は、十年前の東京でのことを知っているのか?」
「さあ、どうだろうね。君に比べたら詳しい部分もある、とだけ言っておくよ」
よっぽど俺よりも挑発的な返事をしてから、芦屋は思い出したかのようにわざとらしく声を上げた。
「おっと、だいぶ話が脱線してしまったけど、今日は君に警告をしに来たんだった」
いったい、彼は神の御使からどんなメッセージを賜って来たのか。
俺は無言で相手の顔を見返しながら、それが告げられるのを待つ。
蜻蛉の街の中で、芦屋は、いや致命者は、天使より預かった言葉を口にした。
「これ以上あの方から奪った力を使い僕たちの邪魔をするのなら、容赦はしない。君の大切な物を全て踏み躙ってあげるから、そのつもりでね」
天使からの警告を受け、俺は思う。
やはり、あちらの方がよほど人の神経を逆撫でるのがうまい、と。
それから、「あのお方から奪った力」という件が当然頭の中で引っかかる。
まるで、「神の指」が元々「天使」とやらの持ち物だったかのような言い草だ。
──が、しかし、もしそうだったとして、俺にどんな関係がある?
俺のすべきことが、揺らぐとでも?
他の誰でもない自分自身に向けられた問いに対し、答えを出すよりも先に俺は自然と笑みを浮かべていた。
実に簡単な問題だったからだ。
「……それだけか? 真実の天使とやらは、そんなことを伝える為にわざわざ君を寄越したのか? だとしたら、よほど暇なんだな」
「……何が言いたい?」
にわかに彼の顔つきが変わる。
余裕のある不気味な表情がなりを潜め、無機的な瞳が腹の底を探ろうとするかのようにこちらを見据えていた。
「別に。
ただ、こっちも一つ警告をさせてもらいたい。もし仮に、君たちが俺の大切な人を傷つけるようなことがあれば、こちらも容赦しない。天使もろとも、叩き潰す」
「……ふん、だが君の力では──」
「できるさ」
相手の言葉を払い落とすように、俺は言う。
「できるさ。たとえ指一本だけだとしても、俺の力は神の物なんだから」
俺なりの警告を聞いた芦屋は目を伏せて眼鏡をかけ直し、それから視線を上げた。
その顔はすでに、先ほどまでと同じ表情を取り戻している。
「いいだろう。あのお方にも、伝えておくとするよ。
それじゃあ、僕はこれで」
と、一方的に話を切り上げた彼はさっさと踵を返してしまった。
引き止めようか迷っていると、こちらが声をかけるよりも先に向こうが振り返った。
「そうそう、もう一ついいことを教えてあげよう」
「いいこと?」
「ああ。
致命者は、君たちのすぐ近くにもいる……くれぐれも、注意することだね」
肩越しに気味の悪い視線を寄越しながらそう言うと、芦屋はすぐにまた歩き出す。
結局、俺は彼を呼び止めるようなことはせず、無言で去って行く後ろ姿を見送るのだった。
*
蜻蛉署三階:男子トイレ──。
小便器の前に立ち用を足していた山梨は、一つ便器を空けて同じように立っている松原の言葉に、相槌を打った。
「へえ、ワームウッドさんがそんなことを言ってたんすか。まさか、俺らの調べた情報が筒抜けだったなんて」
「ええ、私も驚きでしたよ」
実は普通の状態がその表情なのではないのかと思えるほどよく見かける苦笑いで、警部は言う。さすがに今は頭に手を当てられないが。
「しっかしそうなって来ると、俺たちの上は十年も前から例のテロ組織について調べていたってことっすよね? いったいどういう経緯で調査が行われて来たのか……」
「ふむ、なんだか次から次へとわからないことばかり出て来ますなぁ」
この街で初めてコラプサーが発生してから、今日でちょうど一週間。調査を進めれば進めるほど深みに嵌って行くような感覚に、署内には言い知れぬ不安が漂っていた。
まるで、このままこの件に関わっていれば、二度と抜け出すことのできない闇に呑み込まれてしまうのではないか、と。
それは山梨にしても同じことなのか、彼は「本当それっすよね〜」と軽い口調で返しながらも、先ほどの取り調べの様子を思い出し不意に胸騒ぎを覚える。
韮沢に対する取り調べは、またしても有益な情報を得られなかったまま終了していた。
一応、彼や「Butterfly」がテロ組織と繋がっている可能性は高そうだ、ということだけはわかったが、それ以上に無駄に神経を磨り減らされてしまったように思える。
また、韮沢の出した謎々──「コラプサー」という単語はかつて何を指して使われていたか──の答えは、いったい何を示しているのか。
青年は余計な謎を抱え込まされてしまった気分になった。
「……ブラックホール」
彼は思わずその言葉を声に出す。
唐突に呟かれた天体用語に、警部は不思議そうな声を上げた。
「はい?」
「あ、いや、さっき韮沢に言われたことっすよ。なんでも、大ヒントだそうで」
「ああ、そういえばそんなことを言っていましたね。
はて、いったいどんな意味があるんでしょう……」
考え込んだ彼らは示し合わせたかのように、二人同時に首を捻る。
「うーん」と唸ってみるも、ろくな答えは絞り出せそうになかった。
──と、その時、不意に背後から声が聞こえて来る。
「なんでもいいけどよぉ、お前はその後どーなのよ?」
聞き慣れた上司の声に、山梨は慌ててそれがした方を振り返った。
彼が目を向けた先には、個室トイレの白いドアがあるのみである。
「た、橘さん⁉︎ 入ってたんすか?」
「ああ、ちょっと腹の調子が悪くてな。……くそ、絶対あのモーニングセットのせいだ。何が『シンプルですが美味しいですよ?』だよ。ふざけんな……うっ」
「あ、なんか大変そうっすね……。
てか、『その後どう』って、何がっすか?」
首を回したまま、山梨はトイレのドアに向かって尋ね返した。
壁の向こうで静かな戦いを繰り広げているであろう橘は、苦しそうな声で答える。
「何って、あの『Butterfly』っつうアプリだよ。体に異常が出たりおかしなもんが見えるようになったりしてねえだろうな?」
「あー。全然大丈夫っすよ。むしろ割と本当によく眠れます」
実際、今のところ何も問題はなかった。
ただ一つ、花畑の中にぽっかりと浮かぶ黒い渦のことが気懸りではあったが、彼はそのことはあえて報告しないでおく。
山梨自身あれが何なのかわかっていない以上、まだ誰にも言うべきではないと判断したからだ。
彼の上司も特にその返答を怪しむようなことはなく、「ん、ならいいんだが……あ、またビッグウェーブ来たわ」と言ってしばし黙り込む。
すると、青年はあることを思い出した。
それは昨日車で蜻蛉総合病院へと向かった道中、彼の幼馴染の発した言葉である。
──橘さんよ。あの人、私たちに隠してることがある。……いいえ、私たちの知らない何かを知っている、と言った方がいいかしら。
もし、彼女の言っていたことが本当だとしたら、橘は何を知っているというのか。
途端に気になり始めた山梨は、少し探りを入れてみるかと、口を開いた。
「ところで、橘さんって何か隠し事してないっすよね?」
ずいぶんと直接的な言い方をして尋ねた彼は、やや緊張気味にドアを見つめる。
個室トイレの中から返事がなされたのは、数秒後のことだった。
「ねえよ、そんなもん」
その答えを聞いて山梨はどこか安堵している自分がいることに気づく。
あれは、明日菜の思い過ごしなのだろうと、彼は一人で納得した。
「つうか、隠し事してんのはお前の方じゃんねーか。いいのか? 火野木にあのアプリ入れてること言わなくて」
「あはは、そうっすね。
大丈夫でしょ、今のところ問題ないんだし。これも捜査の為っすから」
言いながら、山梨は自分自身に言い聞かせる。
あの黒い渦も所詮はただの夢の産物、自分まで天使がどうのこうのと言い出すようなこと、あり得ないと。
しかし、そこまで考えてから、「待てよ?」と自らの思考にストップをかける。
──あの渦巻き、ブラックホールのようにも見えないか?
思いついた瞬間、彼は全身が粟立つのを感じた。
本能や直感といった類の物が、この考えは間違っていないと告げている。
──けど、だったら何になる? あれが韮沢の言う「ブラックホール」だとしたら……。
突然青い顔をして黙り込んでしまった山梨に、松原は怪訝そうな顔を視線を向けた。
また、個室の中の橘も急に部下の様子がおかしいことを感じ取ったのか、「おーい、どうした? 零しちまったか?」と声をかける。
が、しかし、青年はどちらにも応えることはできず、衝撃に撃ち抜かれた頭で暫し考察を続けていた。




