第二十二話「約束」
指定された海洋エリア「ハイビスカスカフェ」へと到着した俺は、だだっ広い店内を見回した。
木板のような見た目をした床の上に丸いテーブルと揃いの椅子がいくつも置かれており、今はそのほとんどが客で埋まっている。また、カフェの壁は全面ガラス張りになっているらしく、その向こうあるテラス席の様子がここからでも見えた。
テラス席のすぐ真横には、陽の光を反射させて煌めく〈大海原〉が。もちろん、セカンドリアリティによって見せられている光景だが、見た目だけではなく〈潮の匂い〉や特有の〈湿気〉、そして〈海鳥の鳴き声〉なんかもしっかり再現されているのだろう。
と、ざっと店内を見渡してみたが先輩方の姿はなく、俺は外も探してみることにした。
ガラス扉を押し開けて屋外スペースへ出ると、案の定リアルな海風に髪がさらわれる。
──さて、皇樹先輩たちはどこにいるのやら。
照りつける日差しにわずかに目を細めながら右手を向くと、すぐにそれらしい一団を発見できた。
丸いテーブルの上に屋根のように開いたパラソルの下には、三人の少女の姿が。
俺は再び気が重くなるのを感じながら、ここまで来て引き返すこともできず、仕方なくその席へと向かう。
すると、まず先に俺の存在に気付いたのは、梔子先輩だった。
「ん? おおっ、春川じゃないか」
「どうも……」
笑顔を浮かべ大きくてを振る彼女に、俺は会釈で答える。
当たり前だが私服姿の先輩は白い七分袖のシャツの上にベストを羽織っており、ボーイッシュな雰囲気がよく似合っていた。
彼女らのテーブル近づくと、今度は梔子先輩の右隣の席に座っていた皇樹先輩がこちらを見上げ、ニコリと笑う。
「ご機嫌よう、春川くん。逃げずによく来たわね」
「こんにちは。ええ、なんとか」
「ふふ、引っかかる言い回しだけど、まあいいわ。
と、紹介するわね。この娘は生徒会会計の茶柱小枝ちゃん」
彼女が右の掌を返して示したのは、眼鏡をかけ髪を後ろで一つにまとめている少女だった。
おそらく先輩であろう彼女は、少々緊張気味な表情で自らも名乗る。
「初めまして、二年二組の茶柱です。
……えっと、よろしくね?」
小判の装飾のついたゴムで纏めた髪を揺らしながらそう名乗った茶柱先輩。
会計だから小判なのだろうかと思いつつ、一応こちらも自己紹介をしておいた。
「一年の春川です。
こちらこそ、よろしくお願いします」
それからすぐに、さっさと呼び出された理由を聞こうと、皇樹先輩の方に視線を向ける。
「それで、いったい今日はどうしたんです? 園内放送まで利用して、俺に何の用でしょうか?」
「あら、春川くんもしかしてちょっとご機嫌ナナメ?」
艶やかな黒髪をさらりと揺らしながら、先輩は悪戯っぽい笑顔で小首を傾げた。やはりステラと同じで悪びれる気配すらない。
「そんなつもりはありませんが……用がないのであれば、もう帰っていいですか?」
「ごめんごめん。からかいすぎました、わたしが悪かったわよ」
一転、彼女はわざとらしく謝罪の言葉を述べる。結局、反省しているようには感じられない。
「今日春川くんを呼んだのはね、一緒に会ってもらいたい人がいたからなのよ」
「会ってもらいたい人?」
俺を誰に会わせたいというのだろう? もしかして、茶柱先輩がそうなのか?
思わず、俺は彼女を見つめてしまった。
すると、茶柱先輩は若干怯えたように斜め下に目を逸らす。
「ああ、小枝ちゃんじゃないわ。
というか、そんな怖い顔で見つめたら怯えちゃうわよ?」
「あ、すみません」
「い、いや、私がちょっと男子と話すの苦手なだけで、春川くんが特に怖いとか、そういうわけじゃないから気にしないでね」
会長の言葉に、生徒会会計は慌てて俺をフォローしてくれた。前回皇樹先輩と初対面した時もそんなことを言われたが、もしかして俺は目つきが悪いのだろうか?
「からかうのはそれくらいにしてやれ、桜。
ところで春川、この間月下先輩と会ったんだってな」
「はい。
ご存知だったんですね?」
「ああ、あの人から聞いてるよ」
この間ゲームセンターで邂逅した時の話だろう。
彼女は男らしく腕を組んだまま、口角を吊り上げた。
「なんでも、市内のゲームセンターでダブルデート中だったそうじゃないか」
「凄く語弊に満ちているような気がします……」
実際は厄祓いだったわけだし。……祓えているかは不明だが。
「取り敢えず、もうすぐ春川くんに会いたいって言っている人が来るから、そうしたら二人には席を外してもらって──」
皇樹先輩が言いかけた矢先、彼女の背中の向こうを見ていた梔子先輩の顔つきがにわかに変わる。
「桜、お客さんだ」
その言葉に、俺は首を曲げて彼女の見つめる先に目を向けた。
すると、黒いスーツをジャケットのボタンを留めずに着た中年男性が、こちらに歩いて来る。
ボサボサの蓬髪に無精髭を生やしたその姿は少々だらしないように映ったが、それでいて昏い双眸の奥には妙な鋭さを宿しているようにも見えた。
俺のすぐ傍までやって来た男性は、気の抜けた感じのハスキーな声で先輩方に挨拶をする。
「すみません、お待たせしました。いやぁ、こういうところは不慣れなもんで、少々手惑いまして」
後頭部を搔きむしりながら、彼は飄々とした口調で言った。すでに男の瞳からは先ほど垣間見た鋭い眼光はどこに見受けられず、どこか捉えどころのない感じである。
これを受けた皇樹先輩は彼の顔を見上げ、今まで俺たちに見せていた物とは違う微笑みを浮かべた。
「そんな、とんでもございませんわ。
それと、ご存知かとは思いますが彼が噂の春川くんです」
完全に余所行きという顔つきで、彼女は俺を指し示す。
男の黒い瞳が動き、値踏みするような視線が向けられた。
「ほう、この人が……」
それっきり彼は髭の生えた顎に手を当てて、しばらく黙り込んでしまう。
何を考えているのか全く読み取れず、仕方なく俺は男が何か発するのを待つことにした。
──が、結局彼が何か言って来るようなことはなく、俺から顔を逸らして皇樹先輩に声をかける。
「……じゃ、さっそく話し合いに移らさせてもらってもいいですかね?」
今の間は何だったのか、と俺だけではなく他の先輩たちも言いたげだったが、男は全く気にしていない様子だった。
「え、ええ、そうですわね。
じゃあ、悪いけど二人とも」
「ああ」
「はい」
彼女の言葉に答え、梔子先輩と茶柱先輩は椅子を引いて立ち上がる。
「私たちはその辺りでぶらぶらしているから、終わったら連絡してくれ」
「ええ、またね」
と、ここへ来る前の自分と友人たちのようなやり取りをしてから、彼女らは俺と男に会釈し、店内へ繋がる出入り口の方へ去って行った。
その後ろ姿を肩越しに見送っていた男に、今度は皇樹先輩が声をかける。
「どうぞ、おかけになってください。
春川くんも、座ってちょうだい」
とのことなので、俺は梔子先輩が腰下ろしていたのと同じ椅子に、そして中年男性はその左隣の席に、それぞれ腰下ろした。
「さて、それではさっそく──と、その前に紹介させてもらうわね。この方は、コラプサー対策局の橘幸司さんよ」
彼女が言うと、橘という名の男はひらりと気安く右手を挙げる。
「ご紹介に預かっちゃいました、橘です。以後お見知りおきを」
ふざけているとしか思えない口調だったが、いちいち気にしていてはペースを狂わされそうだだったので、「よろしくお願いします」とだけ言っておいた。
「ではでは、今度こそ本題に入りたいと思います。
といっても、今回のことは橘さんのご希望によって催した物ですので、まずはそちらから何か話題を提示していただけますでしょうか?」
「ええ、そりゃもう、任せてくださいよ」
わざとらしく自らの胸に手を当てて見せてから、橘は俺に視線を流す。
「実はですねぇ、私前々からあなたに会ってみたいと思ってましてね。なんたって、あの『アバドン』を生き残った唯一の人間だ。いったいどんな強運の持ち主なんだろうと……」
「強運、ですか。正直なところ、自分ではあまり運がいいとは思いませんが」
むしろ、極限まで運が悪いからこう何度も被害に遭っているのではないだろうか。
「ほうほう、そうかも知れませんなぁ。じゃなきゃ、こんだけ何回もコラプサーに巻き込まれたりはしないでしょうし」
俺が思ったのと全く同じことを、彼が言った。やはりというか何というか、俺のことはすでに調べがついているようだ。
「この一週間、蜻蛉の街では三度もコラプサーが起きている。そして、あなたはそのうちの二つに巻き込まれていながら、どちらも無事に生還しているわけだ」
「まあ、お陰様で」
「……しかも、それだけじゃない」
橘の声が、にわかに冷徹さを帯びるのを感じる。
反射的に身構えた俺を昏い瞳で見つめたまま、彼は言葉を続けた。
「あなた、昨日白人の男と会っていませんでしたか?」
白人の男とは、致命者ゲオルギイのことだろう。
しかし、俺は別に彼と「会って」などいない。ゲオルギイを連れ去ったのはネフィリムであり、少なくとも俺自体はその様子を見ていただけだ。
「あの男──モーリス・ハマメリスという名前なんですがね──、実は昨日学園のすぐ近くで起きたコラプサーの発生源なんですよ。……どうしてあなたは、そんな男と会っていたんでしょうかね?」
こちらの顔を覗き込みながら首を傾げる彼に、俺は考え込むポーズを取ってから本当のことを答えることにした。
「……ああ、あの時の人ですか。別に、僕は接触してなどいません。ただ、離れた場所で見ていただけです」
「……そうですか。
ならば、あなたは例の怪人を目撃したんじゃないですか? それも、すぐ目の前で」
「例の怪人」とは、言わずもがなネフィリムことだろう。
コラプサー対策局の職務は、主に現地の警察や消防組織と連携し、コラプサーの消滅や被災者のケアなどを行うことだと聞く。ならば、当然彼らは今蜻蛉署と共に活動しているはずであり、発生源となったあの男を調べて行くうちに昨日のあの出来事に辿り着くのも当然だ。
だから、俺は別段驚くようなこともなく、すぐに頷き返していた。
「ええ、そのとおりです。ほんの目と鼻の先でした」
「へぇ……突飛な出来事を目の当たりにした割に、随分と落ち着いているんですなぁ」
「そう見えますか。
ですが、もちろんその時はびっくりしましたよ。あんな物が実在するだなんて思いもしなかったし、本当に突然でしたから」
「なるほど……そう言うのなら、そうなんでしょうね」
突然この話題に興味をなくしたかのように、橘はあっさり引き下がる。
と、今度は、俺たちの応酬を静観していた皇樹先輩が徐に口を開いた。
「あのぉ、私からも一つ質問させていただけますでしょうか?」
「ええ、どうぞどうぞ」
「ありがとうございます。
例の黒い怪人について、みなさんはどうお考えなのでしょう? 私には到底見過ごしてはならない存在のように思うのですが」
彼女の問いに、コラプサー対策局の男は髭の生えた顎を摩りながら答える。
「現時点では、あまり深く考えないようにする、ということでまとまっています。
しかし、今皇樹さんが仰ったことはもっともですし、奴が発生源と接触していたことも事実。だからこそ、調査はよりいっそう慎重に進める必要がある、といったところですかねぇ」
「なるほど、大変わかりやすいご返答ですわ」
前回の強引な「書き加え」により、ネフィリムの存在が明るみになった。このことが椚原さんを護る際に足枷とならなければいいのだが……。
「それはどういたしまして。
──と、そうそう。実は私春川さんにお会いしたら、どうしても伺っておきたかったことがありましてね」
再び発話権が彼に移り、再び俺に顔を向ける。
いったい今度は何を尋ねて来るのかと思っていると、橘は口角を吊り上げて笑った。
「十年前、あんた『アバドン』の中である女性と会っていませんか?」
予想だにしなかった質問に、俺は息を呑む。
──まさか、あの人のことを言っているのか?
脳裏によぎるのは、俺に「使命」と「神の力」を与えてくれたあの女性の笑顔。
もしそうだとしたら、この橘という男は何を思ってそんなことを尋ねるのか。
何を、知っているんだ?
「と、ちょっと待ってくださいね。《写真》をお見せしますんで」
彼の右手の中に、一葉の〈写真〉が現れる。
テーブルの上に乗せられたそこに写っていたのは、栗色の長い髪を流している白衣を着た女性だった。
そして、それを目にした瞬間、俺の予感は確信へと変わる。
「この写真は彼女が二十代の頃に撮られた物でして、『アバドン』に巻き込まれた当時は、確か三十三歳だったはずです。
どうです? 見覚えは?」
ある。
十年前、暗闇に包まれた東京の街で俺に声をかけてくれたのは、間違いなくこの女性だ。
「……ある、かも知れません。……あの時は、生き延びることに必死だったので、あまりよく覚えていませんが」
嘘を答えた。
というより、本当のことなど言えるわけがない。
しかし、何故この男は彼女のことを知っているのか。いったい彼女とはどういう関係なんだ?
俺は〈写真〉に釘付けとなっていた視線を上げる。
と、その時、彼もまた食い入るようにこちらを観察していたことに、ようやく気がついた。これまでの気の抜けた目つきとは違い、どんなわずかなことでも見逃さないような鋭い瞳を、いつの間にか無表情で俺に向けていたのである。まるで、地上を這う獲物に狙いを定めた猛禽類のように。
「……そうですか。それは残念だ」
俺の顔から目を離さずに、橘は〈写真〉を自分の方へ引き寄せた。
それが消えたのと同じタイミングで、俺は口を開く。
「あの」
こんなことを尋ねたら余計に怪しまれるかも知れないが、それでも聞かずにはいられなかった。
「先ほどこ女性はどなたなんでしょうか?」
俺の問いに、コラプサー対策局の男は表情を変えぬまま静かな声で答える。
「ああ、彼女の名前は椚原観月。私の古い知り合いです」
瞬間、俺は再び言葉を失った。
──今、「椚原」と言ったのか⁉︎
それじゃあ、やはりあの人は椚原さんの……。
橘の観察が続いているにもかかわらず、俺は動揺を隠すことができなかった。
*
「蜻蛉アースランド」:高原エリア「湖畔の公園」──。
人工的に作られた湖の畔に設置されたベンチに、鈴菜は腰下ろしていた。
その隣には芦屋と名乗った少年が座っており、彼女が今両手に持っている缶ジュースは彼に奢ってもらった物である。入場料やジュース代だけではなくアトラクションの分のお金まで出してもらい、本当にいいのだろうかと、鈴菜は幼いながらに心配になった。
彼女が隣りを見上げると、芦屋の方から先に質問をして来る。
「ところで、鈴菜ちゃんはどうして一人でここに来たの?」
当然の疑問であり、むしろどうして今まで尋ねられなかったのだろうと不思議に思いながら、鈴菜は答えに迷った。
本当のことを言ってもいいのだろうか、と。
しかし、ここまでよくしてもらっておいて嘘を言うのはなんだか心苦しいように思い、結局彼女はゆっくりと質問に答える。
「えっと、本当はパパとママと、それからおばあちゃんと、四人で行こうねって、約束してたの。けど、みんな行けなくなっちゃったから……」
うつむき、缶ジュースの暗い飲み口に視線を落とす鈴菜。
少年は無言のまま彼女の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
「なんでだろうね。ずっと前から、十五日に行こうって約束してたのに……。なのに」
辛い記憶が呼び覚まされてか、鈴菜の目元には涙の粒が浮かぶ。
「パパがね、私たちは『本当の家族じゃない』って。それでね、ママもおばあちゃんとね……おかしいよね、そんなの」
彼女の声は震え始め、「決壊」はもうすぐのようだった。アルミ缶を握る小さな指に力が入って行くのが、芦屋の目に入る。
「約束、してたことなのに……みんなで行こうって……なのに」
ぽつりぽつり、と、雨が降り始めるみたいに、女児の瞳からいくつかの雫が零れ落ちた。
「私が、間違ってるのかな……? 本当に……本当に私は本物の家族じゃなかったのかな?」
「……そんなことないよ」
頭の上から降って来た優しげな声に、鈴菜は思わず涙で濡れた顔を上げる。
すると、そこには柔らかな表情で微笑みかける彼の顔が。
「鈴菜ちゃんは間違ってなんかいないよ」
「……本当?」
「ああ、もちろんだとも」
芦屋の口から放たれた言葉は非常にシンプルな物だった、それだけでも彼女は充分元気づけられたようだった。
鈴菜は幾分か気が楽になったらしく、涙を拭いながら表情を和らげる。
「……お兄ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして。というか、こんなことしか言えなくて申し訳ないくらいだよ」
そう言って、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
全然そんなことはないと鈴菜は答えようとしたが、それよりも先に再び芦屋が喋り出す。
「ところで、鈴菜ちゃん──もう一度、お父さんたちに会いたくない?」
「え?」
どういう意図で向けられた問いなのかわからないものの答えは当然「イエス」であった為、彼女は「あ、会いたいけど……?」と不思議そうな表情で答えた。
その回答を聞いた彼は満足げに笑う。
「そうだよね。やっぱり、また家族と過ごしたいよね」
念を押すように呟いてから、芦屋は徐に右手を自分の胸の辺りの高さに挙げた。
いったい何をするつもりなのかと鈴菜が見つめていると、その掌の上に真四角のアイコンが表示される。
「これを使ってごらん? そうすれば、もう一度みんなと会うことができるよ?」
アイコンに描かれているのは羽ばたくアゲハ蝶のマークと、「Butterfly」というタイトルのみだった。
何のアプリケーションかわからないが、どことなく異様な雰囲気を感じ取った彼女は、その時ようやく気付く。
少年の浮かべる笑顔が、先ほどまでの柔和な物とどこか違っていることに。
「な、何それ……アプリ?」
「ああ。
これはね、本当の世界への入り口さ。……このアプリを使えば、君はもう一度大好きな家族と暮らすことができるんだ」
笑顔で告げる芦屋の様子はどこか異質な物であり、女児は少しずつ恐怖を覚え始めた。
しかし、すぐにその場から逃げ出すようなこともできず、赤く腫れた瞳を怯えさせたまま、彼とアイコンを見比べる。
何と答えたものかわからず、取り敢えず鈴菜は小首を傾げた。
「本当の世界……? それに、またみんなに会えるって、どういう」
「言葉のままだよ。
この世界はね、悪しき魂を持つ者たちによって汚染されしまっている、言わば“失敗作”なんだ」
余計によくわからないことを語り始めた芦屋に、彼女はどうすることもできずその声を聞いている。
「だから、正しい心を持つ選ばれた者たちだけが、この『Butterfly』の中で──“楽園”で過ごすことを許される。楽園では何者にも邪魔されることなく、自分の好きなことを、好きな物を、好きな人と、好きなだけやって、好きに暮らして行けるんだ」
漠然としていた恐怖が確固たる形を作りつつあるのを感じながら、それでも鈴菜は彼から目を離すことができなかった。
「鈴菜ちゃんも、おいでよ。きっと、君の望む物が得られるよ?」
少年の誘いに、彼女はすぐに答えられない。
いや、本能的に危険を感じ、拒否すべきだという答えはとうに出ていたのだが、いざそれを口に出して言うとなると、事情が違って来る。
どのような言葉で答えれば相手を刺激しなくて済むのか、鈴菜は必死に思考を巡らした。
──その時。
誰かがこちらに近づいて来ることに気付き、彼女は横目だけでそちらを向く。
と、そこには浅黒い肌の少年の姿が。ちょうど芦屋と同じくらいの年齢だろうと思っていると、目の前までやって来た彼は気安く手を挙げ声をかけて来た。
「よう、芦屋じゃん」
彼の言葉は鈴菜の隣に向けられており、つられて視線をそちらに戻すと、芦屋の手からはすでにアイコンが消えている。
「お前も来るんだな、こーゆーところ。
つうかその子誰? 妹?」
彼女のことを一瞥してからそう言った少年の後ろには、少女が二人、少し離れた位置に立って不思議そうにこちらを見ていた。
蔓を指で押して眼鏡をかけ直した芦屋は、ようやく彼の声に応じる。
「いや、違うよ。実はこの子、迷子みたいでね。たまたまここで出逢ったんだ」
「は? マジで? それって大変じゃんか」
「ああ。
だから親御さんを一緒に探してあげたいんだけど……僕これからちょっと用事があってすぐ帰らなきゃないんだよ」
「なるほど……」
何事かを思案するように腕を組んでいた彼は、「よし」と言って顔を上げた。
「その子の両親、俺らで探すわ」
思いもよらぬ展開に、鈴菜が一番驚く。
すでに決意を固めているような表情の彼に、両親はここにはいないと伝えようとしたが、あえなく芦屋の声により阻まれてしまった。
「いいのかい? ありがとう、助かるよ。ちょうど困ってたんだ」
「気にすんなって。普段全く部活行ってないし、こんな時ぐらい役に立たねえとな」
「それとこれとは関係ないけど……とにかくありがとう」
言いながら、彼はすでに立ち上がっている。
そして、どうしたらいいのかわからず固まっている女児の方を振り向き、
「じゃあね、鈴菜ちゃん。機会があれば、また会おう」
一方的に別れの挨拶を告げ、さっさと歩き出してしまった。
すぐに人混みの中に飲まれて行く芦屋の後ろ姿を茫然と見送っていた鈴菜を余所に、新たに現れた少年は連れの少女に事情を説明する。
「だからさ、親が見つかるまで俺らで面倒みてあげよーぜ?」
「あーもう、わかったわよ。ったく、安請け合いしちゃって」
「あん? いいだろ別に。子供が困ってんだからほっとけねえじゃんか」
「はいはい。本当、お人好しというか何というか……」
そんな痴話喧嘩のようなかけ合いを所在なく見つめていると、彼女の元に彼らの仲間の一人が駆け寄って来た。
栗色の髪を後ろの方で小さく二つに結んでいる少女は、両膝に手を当て前屈みになると、首を傾げる。
「君、お名前は何て言うのっ?」
「え、あ、えっと……草薙鈴菜」
「ようし、鈴菜ちゃんかぁ。
私の名前は椚原蜂蜜。『蜂蜜お姉様』とお呼びなさいっ」
何故か誇らしげに自分の胸に手を当てて言う彼女に、鈴菜はどう反応したらよいのかわからない。
すると、いつの間にか蜂蜜の後ろに立っていた二人が苦笑いを浮かべていた。
「ごめんね、この娘の言ってること気にしなくていいからね〜。『はっちゃん』でいいからね〜」
「うんうん、もしくは『椚原』でもいいぞ」
「ちょっとぉ! 人がカッコよく決めてんのになんで邪魔するのぉ⁉︎」
バタバタと地団駄踏んで抗議する彼女の様子を見て、鈴菜の顔には自然と笑みが浮かぶ。
それから、彼女はペンチから立ち上がると、元気よく先ほどの蜂蜜の言葉に答えた。
「うん。よろしくね、クヌギハラ!」
「よりによってそっちだし! んもう! もう! もう!」
「……牛かあんたは」
余計に口惜しそうな様子の彼女に、もう一人の少女は呆れた声でツッコミを入れるのだった。




