第十四話「来訪」
再世八年五月十三日、正午半過ぎ。
市街地の片隅にある中華料理屋「幸福軒」に、この日も橘らの姿があった。
しかし、今日はカウンターではなく通り沿いに面した窓の側にある四人掛けの席におり、今は橘と山梨の二人だけで向かい合って座っている。
「“明晰夢”?」
さっそく取り出した煙草を咥え火をつけていた橘は、山梨から聞いた言葉を煙と共におうむ返しした。
「ええ、そうっす。あの『Butterfly』ってのは、ただの睡眠導入用のアプリってだけじゃなく、使用した人間に明晰夢を見せる物だったんすよ。正確には、それに近い別の夢なのかも知れないっすけど」
「おい、ちょっと待て。なんだその、明晰夢ってのは」
興奮気味に喋る彼に右手で待ったをかけてから、そのワードが何を指す物なのか尋ねる。
山梨は仕方なさそうに、しかし新発見による昂揚感が続いている為か満更でもなさそうに、解説を始めた。
「明晰夢っつうのは、簡単に言っちゃえばここは夢の中だって自覚しながら見る夢のことっすよ。
大抵の場合、これは夢だと気付いた時点で目が覚めちゃうもんじゃないっすか。けど、そこで完全に覚醒せずにもう一度深い眠りにつくことができれば、明晰夢を見れるらしいっす」
言いながら、彼は注目しろとばかりに人差し指を立てて見せる。
「しかも、ここが重要なんすけど、明晰夢の内容はある程度なら思ったとおりの物に書き換えたりコントロールしたりすることも可能だと言われてて、中には訓練してまで見ようとする人もいるらしいっすよ」
「……なるほどねぇ。なんだか今ひとつピンと来ねえが、とにかく普通は容易に見ることができない、特殊な夢ってわけか」
「そうっすね。
明晰夢ができる理由については、夢を見てる時に前頭葉が半分覚醒した状態になってるから、だと考えられてます。とは言え、夢とか脳についてはまだまだ解明されてないことだらけなんで、そこま詳しいことは俺も知らないっすけど。さくっとググった程度の知識なんで。
──と、まあ、取り敢えずあのアプリが人為的に明晰夢を作り出す物だ、ということは確かですね」
「お前その言い方……さっそく試したのか」
「はい。お陰で、変な夢見ちゃいましたけど」
「変な夢?」と怪訝そうに言い返す彼に対し、山梨は「なんでもないっすよ」と慌てて誤魔化した。
それから、気を取り直してと言った風に話を戻す。
「とにかく、あのアプリを起動させて寝れば明晰夢を見ることができる。そして、もしかしたらそれが発生源となった人たちの、自殺の原因になっていたのかも知れない」
「なに? そんなことまでわかっちまったのか?」
「あ、いや、これは推測にすぎないんすけどね。ただ、あのアプリが今回の件に無関係とは到底思えないじゃないっすか」
「確かに。これでますます、単なる偶然で発生源二人が同じアプリを所持していたとは思えなくなったな」
「はい。
そんでもって、こんだけ大掛かりな物を作った人間の目的はいったい何なのか。何の為にネット上にこいつをばら撒いたのか……」
「そういやお前、『Butterfly』の製造者がわかりそうっつってたよな? 結局どうなんだよ?」
丸い灰皿の底をなぞるようにして灰を落としながら、橘は言った。
すると青年は再び得意顔になり、
「ああ、それならとっくっすよ」
「まじで?」
「まじっす」
満面に笑みを浮かべた山梨は、黒縁眼鏡をかけ直してさらに続ける。
「あれを作った奴がどこのどいつかまでは昨日の夜、橘さんが帰ってから何十分か経った時点で判明してました。けど、調べてったらちょっと使えそうな情報があったんで、そっちを集めるのに必死になっちゃいまして」
「なんだ、そりゃあ?」
「実はですね、その人物はノラアプリを作るだけじゃなくて、他にもいろんな方面でオイタをしてたんすよ。例えば、本来出回っちゃいけないような画像だとか動画だとか──青少年の教育に悪そうな類いの──をネットに上げてたりとか」
「ああ、そういう……だったら、そっち方面から罪状を突き付けてしょっ引いて来る、っつうことも可能なわけか」
「そういうことっす。もう充分材料は集まってるんで、すぐにでも松原さんと相談してみようと思います」
そこまで言うと彼は一息ついて、テーブルに置かれていたお冷に手を伸ばした。
少しだけ口に含んで喉を潤す様を見やりながら、橘は橘で手に持っていた煙草を咥えなおす。見た目や言動はチャラついているが、実際はかなり頼りになる奴だと考えながら、彼は紫煙を吐き出した。
と、それから彼は青年のシャツの胸ポケットにある意外な物を発見する。
それはどうやらボールペンであるらしく、黒いピンがポケットに引っ掛けられていた。
「お前それ、ボールペンか? そんなもん使うなんて意外だな」
今のご時世物を書くにしてもセカンドリアリティや実際の電子機器を用いるのが一般的である。
「てっきり、そういうのはパソコンかアプリで済ませてんのかと思ってたわ」
そんな言葉をつけ足した橘が再び煙草を口に咥えると、山梨は何故か得意げな表情になってニカリと笑った。
「おっと橘さん、い〜いところに気付きましたね」
「なんだよ?」
「実はですねぇ、このボールペンただのペンじゃなくてとっても優れ物なんすよ」
「へえ。
で、結局何なの?」
「それはですねぇ……」
と、ちょうど彼が言いかけたタイミングで、店のドアが押し開けられる。
入って来たのは、二人の人物だった。
寡黙な店主の「らっしゃい」という低い声に出迎えられた彼らは、橘らの姿を見つけ窓際のテーブルへと歩いて来る。
それに気付いた山梨が首を曲げて振り返り、橘が顔を上げると、そこには松原と火野木の姿があった。
別行動を取っていた彼らはここで待ち合わせをしていたらしく、松原は山梨の、火野木は橘の隣の椅子にそれぞれ腰下す。
その様子を見た店員の中年女性がお冷とおしぼりを盆に載せ持って来た。
さっそく受け取ったばかりのおしぼりの封を開けて汗の浮かんでいた顔を拭いてから、松原は申し訳なさそうに声を発する。
「いやぁ、大変お待たせ致しました」
「いえいえ、むしろご苦労様です。
それで、例の件はどうでした?」
「ええ、それが……」
店員が厨房へと引っ込んで行くのを横目で確認してから、彼はこの問いに答えた。
「入院中の草薙の娘の経過は順調らしく、両親を失ったばかりとは思えないほど元気そうでした」
「それは……よかったんすよね?」
なんとも言えなそうな表情で、横にいる山梨が首を傾げる。特別なボールペンの自慢どころではなくなってしまった。
「ええ、無事に越したことはありませんから。
ただ、病院の職員らに話を聞いたところ、ちょっと気になることを言っておりまして」
「気になること?」
「はい。なんでも、草薙の娘は入院して以来ずぅと絵を描いて過ごしているそうなのですが、その絵というのが……ちょっと不気味なんだとか」
漠然とした言い回しで言うと、松原の手許の何もなかった空間に〈ウインドウ〉が表示さる。
彼はよくある大学ノートくらいの大きさのそれを掴み取り、皆に見えるようにテーブルの上に乗せた。
「これが、その絵の《写真》です」
その言葉を聞いてから、橘と山梨は同時に〈ウインドウ〉の中にある物を覗き込む。
そこには確かに子供が画用紙に描いた物らしい絵が写されていたのだが、何を描いた物なのかはすぐにはわからなかった。
しかしながら、全身が黒くさらに翼まで生えたその姿は人智を超えた存在のようにも見える。
「なるほど、確かに不気味ですね。
しかし、その子はどうしてこんな絵を?」
「それなんですが、実は直接草薙の娘と話すことができまして、尋ねてみたんです。
すると、コラプサーに巻き込まれた際気絶していたと思われた彼女ですが、実際には一度目を覚ましていたそうでして」
松原は言いながら、早くも剃り上げた後頭部に手が向かっていた。
「なんでも、その時目を開けると、黒い天使が彼女を助けてくれていたと言うんです。で、それを絵に描いたのだと」
「黒い」
「天使……」
二人はバトンを渡すように呟いてから、改めて〈写真〉の中の絵を見つめる。
「天使っつうか、むしろ悪魔のような」
顔をしかめた山梨が独白のように言うと、刑事は苦笑いを浮かべた。
「まったくですね。私にもそう見えます。
本当にこんな物があのコラプサーの中にいたのかはわかりませんが、夢や幻の類いにしてはどうにもディテールがはっきりしているように思えます。もちろん根拠はありませんが、どうにも気になりまして」
「ふむ、コラプサーの中に現れた黒い天使ですか。確かに気にはなりますが、不確定すぎる情報だ。今はあまり深く考えない方がいいでしょう」
橘はそう答え、短くなった煙草の火を揉み消し吸い殻から手を離す。
ちょうどそのタイミングで先ほどと同じ店員が注文していた料理を持って来た為、捜査会議は一旦お開きとなった。
〈写真〉が消えスペースの空いたテーブルに、中華そばの入った丼が二つとチャーハン、それから中盛りのライス、そして餃子がそれぞれ注文した者の目の前に置かれて行く。
店主同様愛想のない彼女はろくに言葉も発さないまま伝票をテーブルの隅に置き、さっさと厨房へと戻って行った。
「やっぱこの店っつったら餃子定食っすよね〜」
さっそく割り箸を割っている山梨が言う。
「あれ? お前今日が初めてじゃなかったのか?」
こちらは胡椒を振り入れながら、橘が尋ねた。
「いや二回目っす。昨日みなさんが学園の生徒会と会ってる時にここで昼メシ食ったんで」
「え、お前俺らがまじめな話し合いしてる時に、そんなことしてたの?」
「橘さんはふざけていただけでは?」
と、すかさず指摘したのはそれまで黙っていた火野木である。
自分たちが合流するよりも先に注文を終えていた為か、彼女は心なしか普段にも増して不機嫌なように思えた。
「お、お前だってろくに喋れてなかったじゃねえか」
「あれは不用意なことを言ってしまわぬよう努力した結果です。私は悪くありません」
にべもなく言われてしまい、胡椒の入った容器を所定の位置に戻した彼はどうすることもできず口を噤む。
そんなコラプサー対策局の者たちのやり取りを何故か微笑ましそうに見ていた松原は、なおも上司と同僚に冷たい視線を送り続けている彼女に、優しく声をかけた。
「私たちも何か頼みましょうか」
「はい、そうですね」
火野木は幾分表情を和らげ──あくまでも、そう見えなくもないといった程度の変化だったが──、橘の食事を邪魔するように手を伸ばして傍に置かれていたメニュー表を掴む。
「っと! 危ねぇなおい」
と、身を乗り出した部下を少しだけ背中を反らして避けた彼は、文句を言った。
その声は当然のように無視されてしまうのだが、ちょうど顔を上げた彼の視界にある物が映り込み、それどころではなくなる。
そのある物とは、店の隅っこの壁に設置された古い型のテレビであり、報道番組が放映されている画面の中では大きくテロップが表示されると共に、以下の内容を生真面目そうな見た目の男性キャスターが報じているところだった。
『本日午前十一時ごろ、WSRO世界第二現実機構の事務局長アブサント・ワームウッド氏が来日され、阪神空港のロビーへと降り立ちました。ワームウッド氏はこの後府内にて大楠首相と会談し、コラプサー対策の今後について話し合われました。
また、午後からは「アバドン」前の慰霊碑へと向かい、大楠首相と共に献花を行われる予定となっています』
続いてワームウッドという男が空港ロビーに現れた際の映像が映し出される。
やや癖のあるブラウンの髪を背中につくまで長く伸ばしている彼の姿を見て、橘はまるでイエス・キリストのイメージ像、もしくは大昔のロックンローラーみたいだな、とぼんやり考えた。
向けられた無数のカメラに向かい、ワームウッドは慣れた様子で手を振る。
かなり上背がある為、高級そうなダークスーツを着こなしサングラスをかける姿が様になっており、ハリウッドスターだと言われても違和感がないほどだった。実際、世界中に女性のファンがいるらしく、彼のことを特集した写真集紛いの雑誌もあったはずだと、橘はまたどうでもいいことを思い出す。
また、これでまだ四十手前だというのだから、かなり精悍な顔つきだ。
「とうとう来たんすねぇ、あの人」
餃子を箸で摘まんだまま手を止めてテレビの方を振り返っていた山梨が誰にともなく呟いた。
「らしいな」
興味がないという口調で相槌を打った彼は視線を中華そばに戻し、中断していた食事を再開する。
「あれ? 反応薄いっすね。興味ないんすか?」
「あるわけねえだろ。どーせああいうのの相手は上の仕事だし、それに俺ら何も聞かされてねーし」
そっけなく答える橘に、青年は苦笑いを浮かべた。
「もしかして拗ねてます?」
「そんなんじゃねーよ」
さらに突き放すように言ってから、彼は麺を啜り頬張る。
この時、橘の頭の中に浮かんでいたのは、ワームウッドのことではなく、「慰霊碑」の様子だった。
彼の脳裏には未だ焼き付いたままなのだ。
あの無機質な壁に刻み込まれた、とある人物の名前が。
*
同日十五時過ぎ頃、東京湾海上:「アバドン」慰霊碑前──。
海上を沖合へ向けて突き出しただだっ広いコンクリートの空間に、一台の黒塗りのヘリコプターがまさに降り立ったところだった。。
ヘリコプターの尾翼には十個の小さな円を二十二本の線で結び歪な六角形を作ったようなマークが描かれており、世界的にも有名なそれはこの機体がWSROの所有物であることを表している。
着陸したヘリがプロペラの回転速度を緩めて行く中、周囲にはすでに完璧な警備体制が敷かれており、国際的なVIPと日本国の国政の長を迎える準備はすでに完了していた。
まるで高速道路を何百メートルかの間隔で切り取り、それをそのまま海に浮かべたかのようなこの空間は、「アバドン」の被害者たちの魂を鎮める慰霊碑へと続く言わば道である。道の両端には等間隔に白い柱が並び、その先端にはセカンドリアリティで作り上げられた〈聖火〉が実物の炎のように風に揺れていた。
そして、その柱の足元には黒服を着たSPや警官が待機しており、異常がないか抜け目なく周囲に目を光らせている。
また、警備は彼らの他にも海上からも行っており、ヘリと同じくWSROのマークを持つ黒い船が何艘も浮かんでいた。
周囲に満ちた緊張感が最高潮を迎えようとした時、完全にエンジンを停止したヘリコプターのドアがスライドする。
まず初めにコンクリートの上に降り立ったのは、綺麗なブロンドを持つ少年だった。
きっちりとした正装に身を包んだ彼は、ヘリから数歩進むと、主を迎える騎士のようにその場に片膝をついてしゃがみ頭を垂れる。
すると、いよいよ客人が姿を現わした。
花束を手にヘリから出て来たのは、ダークスーツを着た髪の長い白人──アブサント・ワームウッドである。
空港ロビーへ到着した時とは違いサングラスをかけていない彼は、海風に髪をなびかせながらエメラルドグリーンの瞳を眩しそうに細めた。
と、続いて降りて着たのは日本の現首相、大楠樟太郎その人であり、彼はこの日も年相応とはとても思えない水玉模様の可愛らしいネクタイを締めている。この独特のセンスがキャラクター作りの為なのかそれとも本当に好みなのかはわからないが、彼の独特の見た目──背が低く小太りで目がギョロっとしている為、「フクロウ」によく例えられる──と相まって、見る者に強烈なインパクトを与えていることだけは確かだった。
大楠は立ち止まっていたワームウッドの横に並び、それから二人はどちらからともなく歩き始める。
彼らの向かう先には、灰色の巨大な壁がそびえ立っていた。
この壁のようにしか見えない物こそが「アバドン」の慰霊碑その物であり、表面には被害に遭ったとされる人々の名前が何千何万と刻み込まれている。
また、天高くそびえる慰霊碑の向こう側には、十年もの間大都市東京に居座り続ける超大規模コラプサー、「アバドン」が頭を覗かせていていた。
「アバドン」はろくな対策も取れずに放置され続けた結果、渦を巻く煙のような状態からもっと硬質で表面の滑らかな半球形へと変異しており、その様子はまるで巨大な漆黒のドームである。
革靴の底を鳴らしながら進んで行った二人は、慰霊碑の足元、すでに大量の花束が置かれている献花用の壇の前で立ち止まった。
また、一番最初にヘリから降りていた少年は脚を伸ばして立ち上がり、彼らの後ろ姿を無表情で見つめている。
彼だけに限らず日本が、いや世界が注目する中、とうとう献花が行われた。
まず先に大楠が、続いてワームウッドが手に持っていた控え目な花束を壇上に供える。
それが終わると、今度は二人とも薄く目を瞑り、軽くうつむいて黙祷した。
たったこれだけ。時間にしてみれぼほんの五分程度の儀式なのだが、それでもやはり国内外からの注目は凄まじく、現に上空にはちらほらとテレビ局のヘリコプターが浮かんでいる。
黙祷の時間を終え、ワームウッドは長いまつ毛に縁取られた瞼を開いた。
そしてふと、思い出したかのように、彼は慰霊碑の中にある名前の一つに目を向ける。
この距離からでも簡単にそれ見つけられたのは、ワームウッドにとって何かしら印象深い人物だったからなのだろうか。
彼の見上げる先にあったのは、「椚原観月」という日本人女性の名前だった。
「どうかなさいましたか?」
その様子に気付いたらしい大楠が、わざとらしいほど柔和な笑みを浮かべ彼を見上げる。
「……いえ、なんでもありませんよ」
こちらも鷹揚に微笑み返しながら、WSROのトップは流暢な日本語で答えた。
そう言われてしまったらそれ以上追求することなどできず、内閣首相はさっさと来た道を引き返し始めたワームウッドの隣りに並ぶ。
本当に余裕のある表情の彼に対し、日本の大楠はどこか緊張気味に、笑う目尻を引き攣らせていた。
彼らがヘリの方へ戻ると、先ほどと同じくブロンドの少年が片膝をついて傍に控えている。
大楠を先に機内へ向かわせながら、少年の前で歩みを止めたワームウッドは、彼に労いの言葉をかけた。
「ご苦労、ローラス。
……けれど、本当の仕事はこれからだよ?」
「はい」
やはり表情のない顔をコンクリートに向けたまま、ローラスと呼ばれた少年は無機的な声で応じる。
それから、彼の主人は長髪を海風になびかせながら肩越しに振り返り、背後に聳え立つ灰色の壁に再び視線を投じた。
「慰霊碑、か」
と、静かに呟くワームウッドの顔にはどこか嘲るような表情が浮かんでいる。
「ただの現実逃避だろうに……」
独白のようなそのセリフを聞いていたのは、本人以外にはローラスただ一人だった。
*
放課後になり、今日も今日とて帰宅部の俺はすぐに椚原さんや杏藤たちと共に下校する予定だった。
しかし、四人揃って一年一組の教室を出たところで事情が変わる。
廊下に出てすぐのところで、腕を組んで壁にもたれかかっていた赤い腕章を巻いた女生徒、梔子先輩と出会ったのだ。
俺たちに気付いた彼女は壁から背中を離し、手を挙げながらこちらに近づいて来る。
「やあ、はる──」
「お勤めご苦労様です! 梔子先輩!」
おそらく俺に向けて言いかけた先輩の声を遮り、元気よく挨拶をしたのはもちろん椚原さんだった。
俺の前に出て来た彼女は、生徒会をどういう組織だと認識しているのか、背筋を伸ばして綺麗に敬礼をする。
生徒会副会長は椚原さんのあり余る元気に若干たじろぎながらも、どうにか笑みを浮かべた。
「あ、ああ、ありがとう。えっと……確か椚原だっけ?」
「はい! 名前を覚えていただけるだなんて、光栄でごぜえます!」
「そ、そうか。……すまない、ちょっとどいてくれないか?」
「はい!
──ところで、私梔子先輩にお尋ねしたいことがありまして!」
「いや、だからそこを通してほしいんだが」
「まず最初に、その美容の秘訣を!」
彼女さすでにメモとペンまで取り出しており、再度先輩の言葉を遮りながら尋ねる。「まず最初に」ということは、教えてもらいたい項目が複数個あることは確定らしい。
さすがに迷惑だろうし、また梔子先輩がここで俺を待っていた理由も気になるので、今回は心を鬼にして椚原さんを止めようと思ったが、俺がそうするよりも先に、クラスメイトが動いていた。
「だから、人様に迷惑かけんなっつーの!」
むずりと彼女の襟首を掴み、自分の方へと引き寄せる日向。その様子はまるで、昨日ゲームセンターで学園OBの月下さんと出会った時の再現のようだ。
と、これまた昨日と同じく、級友の方を振り返った椚原さんはとても不満げに頬を膨らませる。
「なにさ、カリリンのケチんぼ。本当はカリリンだって先輩の美しさと若さの理由を知りたいクセに」
「美しさはともかく歳はあんま変わんないでしょーが。つうか、次そのあだ名で呼んだらマジぶつよ?」
彼女はさっそく握り拳を固めており、それだけではなく今日は振りかぶりかけていた。
先輩そっちのけで不毛な応酬を開始してしまった女子二人に対し、今度は杏藤が困ったような顔で仲裁に入る。
「まあまあ、その辺にしろよ二人とも。俺はカリリンってあだ名いいと思うぜ? 地球人の中では一番強そうじゃん?」
「は?」
と、見事に矛先が自分に向けられたのを感じ、彼は焦ったように両手を挙げてカリリンを宥めにかかった。
「と、とにかく、先輩はシオンに用があるっぽいし俺らはもう帰ろーぜ。いつまでも廊下に突っ立ってたら邪魔だしよ」
「……ま、それもそうね」
一応冷静さを取り戻したらしい日向は、俺と梔子先輩の方に向き直り、
「じゃあ、私たち帰るんで。後は若いお二人だけでどうぞ〜」
「えっ、何その言い方! 何を『どうぞ』なの⁉︎」
意味ありげに笑いながら手を振る友人の言葉に、椚原さんが何故か物凄い勢いで食いついて来る。
日向はアイアンクローの要領で彼女の頭を鷲掴みにして抑えつけながら、「なんでもないなんでもない」と笑顔のまま答えた。
それから、じたばたともがく彼女の両腕を左右から引っ張って、俺のクラスメイトたちは廊下を歩いて行ってしまう。
「あ、ちょ、最後に、せめてその強さの理由だけでもぉぉぉ!」
椚原さんは引きずられながらそれでも往生際悪く叫んだが、やがてその姿は角に消えて見えなくなった。
「……げ、元気があって何よりだ」
「そうですね。特に、生徒会のこととなると尋常じゃないです」
難を逃れることができて一安心しているといった様子の先輩に、俺は苦笑いで答える。
すると、彼女は本題に入る為か仕切り直すように一つ咳払いをした。
「えー、それでだな春川。今日はこの後何か予定はあるのか?」
「ええっと……」
正直なところを言えば、いつコラプサーに巻き込まれるかわからない人がいるので彼女の護衛を兼ねて一緒に下校したかったのだが、そんなことは言えるわけもなく、それに以外にとなると、
「いえ、特にはないです」
所詮はただの帰宅部、暇である。
俺の返事は先輩を満足させる物だったのか、それを聞いた彼女は満足げに笑いながら頷いた。
「そうか。なら、少し私と一緒に来てくれないか? 君に会いたいと言っている者がいてな」
「ええ、わかりました。大丈夫です」
当然、椚原さんが無事かどうかは心配ではあったが、梔子先輩の言う「俺に会いたがってる人」というのが誰かのかも気になる。
というか、おそらく生徒会のメンバーの誰かである可能性が高く、そのように予想できたからこそ応じる気になったのだ。
「すまないな。
では、さっそく案内するからついて来てくれ」
言われたとおり、俺は友人たちが去って行ったのとは反対方向へ歩き出した先輩の背中に続く。
──そうして俺たちが辿り着いたのは、校舎の壁に四角く切り取られた学園の中庭だった。
中庭には温室のような物が存在し、それは円柱の上にお椀を逆さまにして被せたような形をしている。
先輩は中庭に出ると迷わず、この温室に向かって進んで行った。
壁と同様に透明なビニールを張ってあるドアを押し開き、彼女は躊躇うことなく足を踏み入れる。
その後に続いて中へ入ると、土と草花の独特の匂いと生温い空気が充満しているのがはっきりと感じられた。
温室の中には知っている物からまるで見たこともない物まで、様々な花が咲くプランターの飾られた棚が放射状に並んでいる。
そしてその間を抜けた先、中心部にあたる場所はそこそこ広らけた空間となっていた。
物珍しく辺りを見回しながら、俺は生徒会副会長の背中を追って歩く。
天井からチェーンで吊るされているプランターもあるのだが、その中には偽物も混ざっているらしく、こちらは何にも繋がれず一人でに宙に浮かんでいた。このセカンドリアリティの花も全く見たこともない種類の物ばかりであり、もしかしたら実在しないオリジナルの花なのかも知れない、などと感心していると、ほどなくして中心部へ到達する。
今歩いて来た通路と同じで茶色いタイル敷き詰められている丸い空間の中央には、こちらも円形をした白いテーブルと揃いの椅子が三脚並んでおり、すでに誰かがそのうちの一つを埋めていた。
「連れて来たぞ、桜」
と、梔子先輩がその女生徒に声をかける。
先輩と同じ場所に赤い腕章を巻き、頭には赤い髪飾り──どうやら彼岸花を象った物らしい──をつけた彼女は、手に持っていたティーカップを置いてこちらに顔を向けた。
「あら、ありがとう茉莉。早かったわね」
まっすぐ伸びる艶やかな黒髪を揺らして、桜と呼ばれた女生徒は微笑む。
それから先輩の後ろにいる俺に視線を流し、笑顔のまま自分の向かい側の一席を手で示した。
「わざわざ来てもらってごめんなさいね。どうぞ、座ってちょうだい」
「はい、失礼します」
会釈してからそう断って、俺は一番手前の椅子に腰を下ろす。
梔子先輩も俺の隣りの席に座り、三者面談のような形となった。
俺たちの様子を見ていた生徒会役員らしき女生徒は、自らの胸元に手をやって自己紹介を始める。
「初めまして、生徒会会長を務めています、三年の皇樹桜という者です。よろしくね、春川くん」
俺の名前を知っていたことに関してはなんとも思わなかったが、彼女の肩書きには少々驚かざるを得なかった。
生徒会の役員だというのとはなんとなくここに来る以前から予想していたが、まさかいきなりそのトップが現れるとは。しかも、梔子先輩の話では俺と会いたがっていたことになる。いったい何が目的で今日のこの集まりは開かれたのか。
改めて疑問に感じた俺は皇樹先輩の顔をまじまじと見つめてみたが、結局微笑みに阻まれてしまい、その考えを窺い知ることはできなかった。




