川の流れに耳を傾けて
誰にでも忘れられない人、そして秘密がある。
土手の斜面に寝そべって、川岸で釣りにいそしむ人の姿をぼんやりとながめていた。
七月の終わりの日差しは肌を突き破りそうなほどに鋭く、痛かった。
とにかく暑い。でもたまに吹く柔らかい風が、扇風機に当たっているかのような快感を与えてくれる。
お世辞でも水がきれいだとは言えない川だけれども、水面に反射している空の色は確かにきれいで、どこまでも突き抜けていきそうなほどに青かった。
都内から首都高速に乗ってバイクを走らせ、流山インターを降りてここに着いたのが早朝の八時。それから約一時間ここにいる。一分ごとに太陽の勢いは増している。このままだと昼を待たずしてぼくの肌は真っ黒になるかもしれない。
聞こえてくるのは川の流れる音と、釣り人が投げるリールの音、そして時折ぼくの頭上を行き交う人々の足音だけだ。
ぼくはここに来て、何をしたかったのだろう。
一時間という時間と、少量のガソリンを失い、タイヤの溝を少しずつ削りながらここを訪れる意味があったのだろうか。
だけど、ぼくは最初から気がついていた。ここに来たところで過去も未来も何も変わらないと。
ぼくは自分の年齢について考えた。
実家を離れ、都内で一人暮らしを始め、社会人となった。この町を出て十五年の歳月が経っている。だけど、その十五年の歳月の意味をぼくは上手く自分の中で整理ができていない。
いまのぼくは、二十代が終わり、言い訳が通用しない本当の意味での成人の仲間入りをしなければならない三十代に、早くも疲れてしまっている。夢をあきらめ、現実を見つめようとし、それでも何か自分のよりどころを見つけようとして、必死にもがいていたこの数年間を自分なりに評価を下さなければいけないのが怖くて仕方がないのだ。
だけど、そのためにはきちんと過去に振り返る必要がある。過去の自分の延長でいまの自分がいるに過ぎないのだから。
そう思ったのは、今月の営業目標をなんとか120パーセント達成させることができ、その報告書をまとめあげ、同時に来月の数字作りの計画を練り、心身ともに疲れ果てて会社を出た明け方の新宿だった。
朝まで遊びほうけてけだるそうに歩いている大学生や、飲食店が出したゴミ袋に群がるカラス、ときどきサッと足もとを通るゴキブリを見ながら、これから先も延々といまと同じ毎日を繰り返すのか、と自問した。そう思うと頭蓋骨が割れたかのような激しい頭痛に襲われて、ぼくはその場にしゃがみ込んだ。嫌な汗が体の奥の奥から湧き上がってくる。このときのぼくの顔は真っ青だったはずだ。だけど誰もぼくのことなんか気にしない。営業成績を120パーセント達成し、夜が明けるまで命を削って仕事していたのにも関わらず。
頭痛が治まるまでその場に座り込み、電車には乗らずタクシーに乗って帰宅すると、迷わずすぐにバイクにまたがって、この場所を目指した。
何も変わらない。そんなことは分かっている。でも、何か一つでも、過去から見つめ直し、散らかして手つかずであった過去の断片を整理してみたかった。ひょっとしたらこれからの自分に、何かを見いだせるかもしれない。ぼくはその可能性にかけてみたのだ。
この場所は、ある意味ではぼくの人生の分岐点だ。だからぼくはここから見つめ直す必要がある。
優しい風が吹いた。
とても柔らかかった。
ふと、眠気に襲われた。
いまここで眠ったら、ぼくは黒こげになって後悔するだろう。でもそれでもいいと思った。
それだけ風が心地よかったし、とにかくこの場所はぼくにとって大切だったから。
*
五木奈緒を知ったのは、高校三年生の九月のことだ。奈緒は二歳年下で高校一年生だった。
ぼくは高校三年生になってからドラムを始め、まだまだ実力は素人の域だったけれど、高校最後の思い出作りということで学園祭ライヴに出ることになっていた。毎日手にマメを作っては潰すほど練習に打ち込み、忙しい時間を過ごしていた。
ぼくのバンドは、ギターリストで幼なじみの堀内以外は全員が初心者だった。だからバンドとしての実力も素人と言って問題がなかった。人前に出て演奏ができるレベルではない。でも楽器を演奏することと、仲間と集まって音を出すことが楽しくて、ぼくらはヘタクソなりに努力していた。
学園祭に出るバンドは視聴覚準備室に作られた特設の簡易スタジオを時間ごとに割り当てられ使用できるのだけれど、本番を間近にひかえ、その日は町のリハーサルスタジオで練習していた。
学園祭にはガンズ・アンド・ローゼスのコピーバンドとして出演予定だった。
本当はもっとハードなバンドの方がぼくは好みだったのだけれど、技術が全く追いつかない。その当時のぼくはテンポの遅い8ビートがせいぜいで、ガンズ・アンド・ローゼスだって完コピにはほど遠かった。ガンズ・アンド・ローゼスは堀内が大好きなバンドだった。
練習が終わり、堀内と歩いていると、スタジオ近くの公園でパタパタとリズミカルな音が聞こえてきた。
「あれ?」とぼくは足を止めた。「公園で誰かドラムの練習してないか?」
堀内も足を止め、「ん?」と耳を傾けた。「マジだ。これって練習パッドの音じゃね?」
「うん。まちがいないよ。パッドを公園まで持ち込んで練習するなんてえらいな」
ぼくらは音がする方へと自然と足が引っ張られた。
向かった先で、女の子がパッドをつなぎ合わせて本物のドラムセットに似せた練習キットを叩いている姿が目に飛び込んできた。
女の子はモーターヘッドのシャツにジーンズという服装で、両手首にはリストバンドを着けていた。
ぼくらは女の子と少し距離を取り、その様子をながめた。
女の子はヘッドフォンをしていた。クリックを聴きながら叩いているのだと思う。
「めちゃくちゃうまい」と堀内は言った。
女の子はものすごい速さでパッドを叩いていた。それも親指と人差し指の間でスティックを挟むレギュラ―グリップで。それだけで、相当の実力者だと分かる。
ダイナミクスやアクセントが、はっきりと意思を持って紡ぎだされていた。スピードだけじゃなく、表現力も申し分ない。スティックのコントロール力の高さはかなりのものだ。
ぼくは唖然とせざるを得なかった。あんな小さな女の子が男のぼくよりも速く叩くことができ、パッドなのにドラムセットを叩いているかのようなパワフルな演奏を見せているのだ。
女の子は何かのエチュードを叩いているようだった。ぼくらに見られていることには一切気がつかず、ひたすらパッドに集中していた。
ぼくがドラムセットを叩いても、きっとこの女の子が叩く練習パッドにかなわない。迫力負けする。そんな気にさせた。
堀内がそっとぼくの肩に手を置いて、「お前も頑張って練習すりゃ、ああなれるってことだ。よく見ておけよ」と言った。
だけど、そのときのぼくはいくら練習しても、その女の子の域に到達できるイメージが少しも湧かなかった。
*
公園で叩く姿を見て以来、ぼくの中で、その女の子の存在はとてつもなく大きくなった。
パッドで練習する際、実際にドラムセットを叩く際、必ず女の子の叩く姿を意識した。できもしないのにレギュラ―グリップで叩いてみたり、自分の実力以上のスピードで叩こうとしてみたりした。
そのたびに堀内に、「できやしないんだから無理すんじゃねーよ」と笑われた。
叩けば叩くほど、ぼくの中でその子が意識されていく。リハーサルスタジオに向かいながら、自宅で曲を聞きながら、ぼくは彼女ならどう叩くだろう、どういう音を出すだろうと想像した。
「お前さ」と堀内は言った。「あの子みたいに上手くなりたいってのは分かるぞ。でもな、お前はまだ正真正銘の初心者だ。背伸びして変な叩き癖とかついたらどうすんだよ。後で困んじゃねぇの? あの子は何年も練習してあの領域に達したんだ。一方お前はまだ一年にも満たねぇ。そのアドバンテージはお前が天才じゃない限りどうしたって埋まらねぇよ」
「そりゃ、ぼくは天才じゃない。でも女の子でもあんなに叩けるんだ。だったらぼくにだってできるんじゃないかって思うじゃないか」
「性別は関係ねぇの。あれだけ叩けんだから、あの子には才能もあんだよ。でもお前は凡人。だったら少しずつ階段を昇ってくしかねぇんだって」
それはそうかもしれない。あの女の子とぼくの間に純然として横たわるものは、才能につきるのかもしれない。練習すれば、あの子のようになれるというものでもない。
だけど、ぼくの中ではあの女の子のように叩けるようになるというのが目標になっていた。
そんなある日、ぼくはいつも使っているスタジオで個人練習に入った後、そのロビーで女の子とバッタリと出くわした。
「あれ? 君は……」とぼくは思わず声をあげた。
「はっ?」と女の子は驚いた顔をした。
無理もない。ぼくは顔を知っていても、女の子はぼくのことなんて知らないのだから。
「いきなり声をかけられても困るよね。ごめん。前に君が練習をしているのを公園で見かけたことがあったんだ。君の演奏があまりにも上手くて見とれちゃって」
女の子はいぶかしげな目をぼくに向けた。「これって新手のナンパですか?」
今度はぼくが驚く番だった。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。「ちがうちがう! そんなナンパだなんて!」
ぼくは手と首をぶんぶんと強く振って否定した。
だけどよくよく考えればいきなり声をかけられ、公園で見かけたと言われてもうさん臭い。ナンパと思われても仕方がない。
ひたいから汗が浮かんだ。声なんてかけるんじゃなかったと後悔する。
すると女の子はお腹をかかえ、「あははは!」と大声をあげて笑い出した。「そんなに真っ赤にならないでくださいよ! 冗談です。冗談!」
ぼくはぽかんとしてしまった。からかわれたことに驚いたというよりも、その豪快な笑い方にあっけに取られたのだ。
「あっ、もしかして怒りました?」
「いや、怒ってなんてないよ。こんなにも体の底から突き上げるような笑い声を聞いたのは初めてだなと思って」
「女の子なのにはしたないと思いました?」
「ううん。むしろ感心したよ」
「感心? そんなこと言うなんて変わってるんですね」
「そうかな。みんなあっぱれって思うよ」
女の子はぼくの全身を足先から舐めるように見上げると、「新田先輩……ですよね?」と照れくさそうに言った。
「ぼくの名前を知ってるの?」
「もっと色んなこと知ってますよ。今度の文化祭でガンズのコピバンをやる」
女の子は、どうだ、と言わんばかりの得意げな表情を浮かべた。
「すごいな。まさか、同じ学校じゃないよね?」
「制服を見れば分かるじゃないですか。違いますよ」
女の子は他校の制服を着ていた。ぼくの高校から比較的近い場所にある公立の女子校の制服だ。
「そりゃそうだよね。ならどうして?」
「私の友だちが新田先輩と同じ高校の一年生で、文化祭実行委員をやってるんです。その子に前に、文化祭でガンズのコピーバンドが出るから観においでよって誘われてたんです。そのときついでに出演表をもらって、そこに名前が書いてありました。さっき個人練習入ってましたよね? 音が外に漏れてましたよ。その高校の制服でガンズの曲を練習しているとなると、たぶんあれが新田先輩だろうって」
「そういうことね。しかし……君は一年生なのか……」とぼくはため息をついた。
あのうまさで年下と知ると、さらに才能の差を感じてしまう。
「先輩のライヴ、観に行きたいです。あたし、ガンズとか好きなんです」
「へえ。他はどんなものを聴くの?」
「メタリカとか」
「本当に? ぼくも好きだよ」
「ハードロック、ヘビーメタルと呼ばれるものははだいたい好きです」
「参ったな。君みたいな女の子がいるなんて」とぼくは頭をかいた。
「君なんて呼ばないでください。私、五木奈緒って言います」
制服姿で目の前に立っているのはどこにでもいる普通の女の子に思えた。間違ってもメタルなんかを聴くような子には見えない。モーターヘッドのシャツを着るよりも、かわいらしいワンピースを着ている方がよっぽど自然だと思う。
「あの公園で、よく練習しているの?」
「たまに。ここのスタジオが予約できなかったときとか」
「今度、ぼくに教えてよ」
「ドラムを、ですか?」
「うん。ダメかな。ぼくは初心者の上、独学だからさ、五木さんみたいな上手な人に教えてもらいたいんだ」
「いいですよ。私なんかでよければ」
「本当にお願いするよ」
「喜んでお受けします。ドラムって楽しいですよね」
ドラムが楽しい。
そう言う奈緒の言葉がぼくの胸にストレートにしみ込んできた。
奈緒を見習わなければ。
二歳年下だけれど、ぼくには奈緒がとても大きな存在に思えた。きっとぼくのバンドは、奈緒のパッドでの演奏にすらかなわないかもしれない。ぼくがいくらドラムセットを力一杯叩いても、堀内がアンプから轟音を出しても、奈緒には勝てない。それだけの説得力が奈緒に叩く姿にはあった。
「早速なんだけど、今日、どうかな? あの公園で。今日なら天気もいいだろ?」
奈緒は廊下の窓から外をながめた。「確かに。こんな空の下で練習したら気持ちいいですよね」
「なら決まりだ。行こう」
「はい」と奈緒は満面の笑みで返事をしたものの、「あっ、スタジオ代まだ払ってませんでした。払ってきちゃいますね」と慌ただしく駆けてフロントに向かった。
彼のパタパタと音を立てる靴音が、ぼくには心地よいリズムに聞こえた。
*
文化祭が終わり、年が明け、何度か雪が降った。
浪人を覚悟して挑んだ大学受験だったけれど、ぼくはなんとか東京の大学に合格することができた。
卒業式の途中、この街を離れるんだと思った瞬間、胸にこみ上げてくるものがあった。それは、ぼくが文化祭ライヴを成功させることができ、そしてそれは奈緒の存在があったからだと思われる。
東京の大学に通うにあたって、ぼくは家を出ることになった。
電車を乗りついで、片道せいぜい二時間の距離なので通えないこともなかったのだけれど、ぼくは一人暮らしをしてみたかったし、大学という自由な時間を心行くまで堪能したかった。
一人暮らしすることに不安もあった。だけど、幸いにも堀内も同じ大学に通うことになり、ぼくを真似てか家を出ると決めていた。いざとなれば堀内もいるし、なんとかなるだろう。ぼくはおぼろげにそう思っていた。
進学を機に、ぼくと堀内は本格的にバンド活動を始めた。コピーバンドではなくて、オリジナルバンドとして活動していく。将来はメジャーデビューして音楽で飯を食っていく。それだけぼくは学園祭ライヴを通じして自分に自信が持てた。そして音楽に、何よりもドラムにどっぷりとはまっていた。
オリジナルバンドをやるにせよ、何かしらの大学の音楽サークルには所属しようと思った。
堀内と色々なサークルを渡り歩き、ここだと思うサークルに身を置いた。
退屈な大学の講義を受け、新入生らしく新歓コンパや合コン、飲み会と忙しい毎日であっという間に半年が過ぎた。
ようやく大学生活が落ち着いてきたところで、バンド結成のためのメンバー探しを始めた。これはサークル内で息の合うやつがいたので、すぐに解決できた。
メンバーがそろった後は、ひたすらバンド活動に没頭した。
ドラムの練習をし、バンドのリハーサルを繰り返し、オリジナル曲を作ってライヴハウスに立ち、作ったデモをレコード会社に送りつける。その繰り返しの毎日だった。大学の講義とサークルはその合間の息抜きに出るといった感じだった。
ぼくは必死だった。初めてこれだけ熱中できるものを見つけられた。ぼくには音楽しかない、これで食べていくんだ、と。
音楽活動を続けるのにはとにかく金が必要だった。機材費やスタジオでのリハーサル費、それにライヴをするのに課せられる高いノルマ。だからぼくはバイトにも励んだ。
生活にすき間なんてなかった。とにかくバンド活動をし、バイトをし、留年しないギリギリのラインで大学の講義に参加した。遊ぶ暇なんてなかった。安くて狭いアパートに戻ると、いつも疲れ果てていて、気絶するように眠った。
幸いにも努力のかいがあってか、ぼくらのバンドは徐々に固定ファンをつかむことができた。でもそれはメジャーデビューするにはほど遠い人数でしかない。それでもぼくらの自尊心を潤してくれたし、ファンがいることは自信につながった。ぼくらはライヴをしては、デモを作り、反応を見せないレーベルに手当たり次第送り続けた。ぼくらはまちがっていないと思っていた。いつか夢は報われるんだ、と。
しかし、全速力で夢に向かって走っているのだけれど、少しも前に進んでいかない日々が続いた。金だけが失われていく。だけど楽しかった。だからやめようと思わなかった。たまには辛いなと思うこともあったけれど、そんなときはその思いを打ち消すように、奈緒との思い出が蘇ってきた。
ぼくの家の近くの土手で二人して寝転び、口もきかずにただ夕焼け空をながめていたある日、奈緒はぼくに言った。
「先輩、大好きです」
季節は冬の訪れを予感させていて、吸い込む空気がひどく硬かったように思う。二人して、その年初めてコートに袖を通した日でもあった。
ぼくは唐突な告白にも驚かず淡々と、「ぼくも好きだ」と返した。
「本当に?」
奈緒は起き上がって、ぼくの顔を確認するようにのぞきこんできた。
「嘘なんかついてないよ。ぼくは奈緒が好きだ」
「本当に、本当?」
「何度も言わせないでくれ。本当と言ったら本当だ」
奈緒は目に涙を浮かべ、立てた膝に顔を沈めた。「嬉しい……」
「ずいぶん大げさな反応だね。奈緒だってぼくの気持ちが分かっていたから告白してきたんじゃないのか?」
「だって、私、誰かに好きって言われたの初めてなんですもん。それが先輩で本当によかった」
ぼくらの周りに人影はなかった。季節相応の色を宿した草木が、ゆったりとした風に吹かれて音を立てていた。
「ぼくはたぶん、奈緒をスタジオ近くの公園で見たあのときに、もう好きになっていたんだと思う」
「嘘。それは言い過ぎです」
「嘘じゃない。ぼくはあの日以来、スティックをにぎるたびに奈緒の姿を思い浮かべていた。あのときは、奈緒のドラムテクに憧れていたし、男のぼくが女の子に負けたくないっていう気持もあって、恋愛感情だとはすぐに気がつけなかったんだけどね」
「先輩のドラム、この短期間にずいぶんと上達しました。正直驚いてます」
「それは奈緒の教えがいいからさ。ぼくは奈緒のドラムが好きだ。奈緒の叩き出すグルーヴが好きだ。それ以上に奈緒が好きだ。好きな人の感覚は共有したいと思うし、自分の中に取り込みたいと思うだろ。だからぼくは奈緒と一緒じゃないときはそれこそ奈緒のことを想って死にものぐるいで練習しているんだよ」
「そのうち、あたしなんかよりうまくなっちゃうかもしれませんね」
「それはないよ」とぼくは首を振った。
「そうですか? そのくらいの勢いで上達してますよ」
「ぼくがうまくなっていっても、奈緒はいつまでも越えられない壁でいてほしい」
奈緒は返事をするようにわずかに微笑むと、再び土手に寝転がった。「あたし、この土手も好きです。ここにいると自然のリズムを感じることができます」
奈緒が言うには、川の流れはテンポを計ることができるらしい。晴れた日は100。雨の翌日は180といった具合に。
テンポが分かると奈緒は川の流れと一体化するように手と足をパタパタと動かしてリズムを刻みだす。すると川は奈緒が刻みだすビートのように感じられるのだ。ぼくはこの感覚が好きだった。
「今日の川の流れは?」
「今日は、気持ち速いですかね。あたしのいまの心臓と同じくらいの速さかな。150くらい」
「本当? そこそこ速いね」
「本当ですよ。ほら」
奈緒はそう言うとぼくの手を取っていきなり自分の胸に押し当てた。
さすがにこれには驚いた。でも、何を言っていいのか分からず、言葉は何も出てこなかった。
手には奈緒のこぶりだけど柔らかい胸の感触と、確かに速いビートを打つ心臓の鼓動を感じられた。
指をわずかに動かすと、それだけ奈緒の胸に指が沈む。ぼくはごくりと唾を飲んだ。
「先輩は、卒業後も音楽を続けるんですか?」
「もっ、もちろんだよ。他に趣味もないし」
「プロを目指す?」
「……音楽で生活できたらすばらしいとは思う。その辺、奈緒はどうなの? 当然プロを目指してるんだろ?」
「あたしは……」と奈緒は一度言葉を途切らせ、ぼくの手を胸から離した。それから言葉を慎重に選ぶように言った。「好きなように生きたいと思ってます。だから、自分のやりたいことをやっていきます」
「つまりはプロを目指すってこと?」
「……そう……なのかな」と奈緒は曖昧な表情で答えた。
ぼくらはその後、キスをした。ぼくはファーストキスだったし、奈緒もきっとそうだと思う。唇が触れ合ったとき、奈緒の体がひどく硬直しているのが分かった。手を胸に押し当てたり、大胆な行動を取っていたのだけれど、実はかなり緊張していたのだと思う。
キスが終わると、「へへへ」と奈緒は照れ笑いを浮かべた。だからぼくも同じように笑った。
「今日、先輩の家、誰もいないんですよね?」
「うん。そうだよ。両親が帰ってくるのは日付が変わるくらいだって言ってた」
「だったら、これから先輩の家に行ってもいいですか?」
「これから?」
「はい。ダメですか?」
「ぼくの部屋なんて何もないよ」
「何もなくていいんです。先輩さえいれば。こんな人目につくところじゃない場所で、もっと先輩とイチャイチャしたくなりました」
ぼくはカッと顔に血が上るのが分かった。奈緒の言葉の意味を必死に理解しようとする。
ぼくが返答に困っていると、奈緒はぼくの手を取って立ち上がった。
「さっさと行きましょう。少しでも長く、先輩と二人きりになりたいんです」
その日、ぼくは初めて奈緒とキスをして、その日のうちに、奈緒と肌を触れ合わせた。
家に向かう途中、奈緒がコンビニでコンドームを買った。
ぼくは土壇場になっても全裸になることが恥ずかしくて抵抗があったのに、奈緒は恥ずかし気もなく全裸になった。でもどうしてか、着けていたリストバンドだけは外さなかった。
その日、ぼくらは両親が帰ってくるギリギリまで、お互いを求め合い、ベッドシーツを汚した。
大学生になってからぼくはこのことを何度思い出しただろうか。アパートのベッドに横たえながら、浅い眠りの中で何度も夢にまで見た。
そして夢から覚めるたびにぼくは自問した。
ぼくは自由に生きているのか? と。
*
オリジナルバンドを結成し、二年が過ぎたころ、ぼくらは初めて小さなインディーズレーベルから声がかかった。
マイナーなバンドのアルバムばかりをリリースしている名前も知らないようなレーベルだった。
提示された契約内容はいいものではなかった。と言うのも、レコーディングからCDのプレス料金、ジャケットワークの制作費まで、ほとんどがバンド負担だったのだ。
バンド側で出さなければいけない額は30万円。メンバーは四人だったので、一人7万5千円もの金が必要だった。
レーベル側では何をしてくれるのかというと、アルバム制作全般を代理で受け負い、流通からプロモーションまで、制作費の範疇で可能な限りやる、ということだった。限りなく自主制作に近いのだけれど、アルバムを流通に乗せたり、プロモーションをかけたりするにはバンド側にノウハウなんてなかったので、その点は任せられるということだ。
ぼくらはどうするか悩んだ。
この契約を結べば、一応は所属アーティストになり、スタジオや楽器屋に置かれているフリーペーパーくらいなら載ることも可能だった。
このところ、バンド活動には行き詰まりを感じていた。だから新しい波が欲しかった。ファンは少しずつ増えていたし、名前も知られるようにはなっていた。だから、ここらで一つ、バンドに変化を加える必要があった。
金がかかることにひっかかりを覚えながらも、ぼくらは契約することにした。同時に、日本の音楽事情を垣間見た気もした。
だけど調べてみると、どこのインディーズレーベルも似たような契約形態らしい。もちろんバンド側に負担をさせないレーベルもあるのだけれど、それはものすごく有名な、メジャーとも肩を張れるようなインディーズレーベルだった。レーベルはバンド側に負担を強いることで、自己のリスクを減らしている。これはライヴハウスも全く同じだ。ライヴハウスは観客が入ろうが入らなかろうが、関係ない。バンド側にチケット代のリスクを背負わせているのだから、バンドが出そろえば、その日の売り上げは確保できて、客が入った分は単純なプラスでしかない。
レーベルもライヴハウスも収益をあえる対象はリスナーではなく、ミュージシャンなのだ。
正直、その音楽業界のカラクリに気がついたきは矛盾を感じた。だけど、そうだからといってぼくらに何かを変える力なんてない。疑問や葛藤を抱えながら、ぼくらは目の前に置かれていく現実を素直に受け入れていくしかなかった。
ほどなくしてアルバムは完成し、発売された。
売れ行きはそこそこで、レーベルからは新人にしては悪くないと言ってもらえた。
アルバムが発売してからしばらくすると、奈緒から電話がきた。それは本当に久しぶりに聞く奈緒の声だった。
「アルバム発売、おめでとうございます」
ぼくは素直に、ありがとう、と返した。
「頑張ってるんですね。インディーズとはいえ、デビューするなんてすごいと思います」
「いや、デビューは形だけで、実際は自主制作盤とたいして変わらないんだよ」
「ぜいたく言ってはダメです。デビューできないバンドの方が多いんですから」
会話が途切れなかった。会っていなかった期間を埋めるかのように言葉を交わしていく。
ぼくと奈緒は、高校を卒業した後は連絡を取らなかった。ぼくはファーストキスも初体験も、全てが奈緒で、奈緒も全てがぼくだった。でも、ぼくらは付き合ってはいなかった。
それは、奈緒が望んだことだった。
「私、先輩と付き合おうとは思ってないんです」
ぼくの部屋でお互いの欲望をぶつけ合い、全裸のまま力尽きてぐったりとベッドに横になっているとき、突然そう言われた。
奈緒はぼくの横で猫のように丸くなっていた。激しく求めあったために出た汗が、奈緒の前髪をひたいに貼り付かせていた。やっぱり奈緒はこの日もリストバンドだけは外していなかった。
ぼくは意味が分からなくて、激しく混乱した。
これまでに付き合おうとはっきりと言葉を交わしたことはなかった。でもこうしてお互いを求め合うことでぼくらは結ばれていると思っていた。
「なんで? 奈緒もぼくのことが好きなんだろ? なのにどうして?」
「自由に生きたいんです」
「ぼくとつき合うと不自由になるのか?」
「そうじゃありません。ただ、先輩と付き合うことが、あたしが思う自由に生きることに当てはまらないんです。そしてそれは、絶対に先輩のためでもあるんです。私は先輩が好き。先輩も私が好き。すごく伝わってきます。だからこれで十分なんです」
ぼくは奈緒と恋人になりたかった。「ごめん。訳が分からないよ。ちゃんと説明してほしい」
「先輩と私はお互い好き同士。だから一緒にいるし、エッチなこともしてる。変に恋人同士なんて気負う必要ありません」
そんなやり取りが何度も続いた。
やがてぼくは折れ始め、恋人になることに証明書があるわけでも認定がおりるわけでもなく、行動と精神だけの問題だと思うようになった。ぼくと奈緒は恋人なんていう表面上の言葉でくくることはできない。お互いの意識の中では結ばれている。だから、時間が経つにつれ、どうでもよくなっていった。
大学に入ると、ぼくが忙しく、自分のことに一生懸命になってしまったこともあり、連絡をしなくなってしまった。だけど、ぼくらは別れたとかそういうことじゃなくて、ただ、連絡を取らなかっただけだ。
アルバムリリースを記念して、レコ発ライヴをすると教えると、奈緒は興奮気味に、「観に行きたいです」と言った。
「もちろん観に来てくれるのなら嬉しいけれど、今年は奈緒が受験だろ? 大丈夫か?」
「そんなの、へっちゃらです。だっていまも私は自由に生きているんですから」
「そうか。なら安心したよ」
「先輩」
「何?」
「高校生の頃の先輩と何も変わってなくて安心しました。あの――」
そこで奈緒は黙った。何か言いたいことがあるのに急に言葉につまったような感じだった。
しばらくの沈黙が生まれる。
「……なんでもありません。今度会ったときにたくさん話しましょうね」
「分かった。会ったときにたくさん話そう」
「それじゃ、また」
「うん。また」
*
レコ発ライヴに向けて練習をしていたある日、堀内にライヴに奈緒が来てくれると教えた。
「おお。なつかしいな」と堀内は嬉しそうな笑顔を浮かべた。「でも、お前と五木さんってまだ続いてたのかよ」
「いや、連絡が来たのは久しぶりさ」
「五木さんってまだドラムやってんのか?」
「電話では話が出なかったけど、たぶん」
ぼくがそう答えると、堀内は「そうか」とつぶやき、腕を組んで何かを考える様子をしばらく見せてから言った。「なあ、本番で五木に一曲だけゲスト参加してもえるよう頼めないか?」
「はっ? 本気で言ってるのか?」
「めちゃくちゃ本気だぜ。お前が許可してくれるならだけどな」
堀内はそう言いつつも、ぼくの意思は無視するように、他のメンバーに奈緒のことを話した。メンバー二人は特に反対せず、堀内とぼくがいいのならそれで構わないと答えた。
「なら決定な」と堀内はしてやったりといった表情を浮かべた。
「奈緒がオーケーしてくれるか分からないのに勝手に決めるなよ」
「大丈夫だって。あの子はお前の頼みなら絶対に受けてくれる。あの子は自由に生きてるんだろ? だったらこっちも自由に行動してやれりゃいいんだよ」
「そんなものかな」
「ああ、そんなもんだ」
その日、ぼくがライヴに出てほしいと奈緒に電話で伝えると、二つ返事で承諾してくれた。
断られることも想定していたのに、ずいぶんとあっさり決まってしまった。ライヴに出るなら練習も一緒に何度か入った方がいいかと思ったけれど、特に必要ないとのことだった。奈緒からすれば、演奏する曲だけ教えてくれればぶっつけ本番でかまわないらしい。
ライヴ当日、本番前にぼくは奈緒を駅まで迎えに行った。
駅の改札で待つ奈緒の姿は、高校一年生のときよりも少し大人びて見えた。手首にリストバンドを着けているところだけは相変わらずだった。
何が入っているのか、大きなカバンを胸に抱え、心細そうな様子だった。
ぼくが近づくと、パッと表情を明るくし、「先輩!」とかけよってきた。
「やあ」とぼくは手をあげた。
「来るの遅いですよ」
「遅い?」とぼくは携帯電話で時間を確認した。だけど待ち合わせ時間ちょうどだった。
「私、都内に出るの慣れてないから、ドキドキしちゃいました。早く先輩が来てくれないとさらわれちゃうって」
「おいおい。さらわれるわけないだろ」とぼくは笑った。
「あっ、いま私のことばかにしましたね。大人ぶっちゃって嫌な感じ」と奈緒は唇を尖らせた。その表情は幼い子供がすねているようで、かわいかった。
レコ発ライヴは最大収容人数が200人くらいの箱で開催されたのだけれど、実際には230人のファンが応援に駆けつけてくれて、大成功と言えた。ライヴ開始当初からファンの歓声が常に飛び交っていて、自分たちがいっぱしのミュージシャンなんじゃないかと錯覚を起こしそうなほどだった。
ライヴ中盤になって、奈緒がゲストミュージシャンとしてステージに立った。
奈緒は230人のファンを前にしても少しも動じることなく、堂々としたパフォーマンスを見せた。悔しいけれども、奈緒が叩いた瞬間、バンドのグルーヴが明らかに上がった。ぼくは久々に奈緒の持つ才能を見せつけられた。
急遽、堀内が「ドラムソロ!」とマイクを通して叫んだ。一瞬、奈緒が驚いた表情を浮かべたけれど、すぐに叩き始めた。
小さなスネアロールからパラディドルを駆使し、アクセントをタムやシンバルに移動させ、表情と音階をつけていく。常識の範囲内のテンポから、残像が見えそうなほどのスピードまでテンポを上げ、叩きまくる。次にリズムパターンへと移り、複雑なのだけれど、十六分音符で刻まれたハイハットとバスドラが気持ちのいいサンバ風のビートを叩き出した。それも徐々に崩していき、最後にはツインペダルでバスドラを連打し、メタルドラマーにも引けを取らないハードな演奏を見せ、存分に奈緒のテクニックを披露してソロは終わった。
ドラムを叩く姿は奈緒の生きる姿そのものだと思った。自由に、思うままに、奈緒はドラムを叩いた。
奈緒の音が会場を埋め尽くしていたので気がつかなかったけれど、ソロが終わった瞬間、会場は静まり返っていた。恐らく、会場の誰もが奈緒の渾身のプレイに引き込まれていたのだろう。ぼく自身もそうだ。あの体のどこに、これほどまでの音を出す力があるのだろうか。ドラムを叩いているときだけ、誰かと肉体が入れ替わっているんじゃないかと本気で疑りたくなる。
奈緒は静まり返った会場に頭をペコリと下げ、一人静かに袖に下がった。
ステージの堀内が拍手をすると、その拍手が伝搬し、会場内は奈緒を讃える音で満たされた。
奈緒がステージにいた時間は十分もなかったと思う。でも最大のインパクトを残した。
拍手はやがて手拍子に変化し、そこに奈緒コールまでが重なった。
奈緒が完全にバンドを食ってしまった。これにはメンバーもぼくも苦笑いするしかなかった。
ライヴ終盤、ぼくは奈緒のパフォーマンスを意識して叩いた。
会場はそれでも多いに盛り上がっていたのだけれど、ぼくの演奏は奈緒に到底及んでいなかったと思う。それはテクニックだけではないはずだ。
ぼくはそれを探しながら叩いた。
*
レコ発ライヴは大成功で終わり、ぼくらは盛大な打ち上げを行った。
メンバーはみんな足もとがおぼつかないほど酒を飲んだ。奈緒も参加したけれど、奈緒はまだ高校生ということでジュースだけだった。
打ち上げが終わった後、奈緒はぼくの部屋に泊めてほしいと言い出した。
当初、奈緒はライヴ会場近くのビジネスホテルに泊まると言っていた。でも後でキャンセルしてしまったそうだ。その理由を訊くと、「ホテル代もったいないじゃないですか」と奈緒は答えた。
「ぼくの部屋に泊まるのはかまわないけど、部屋は狭いし、あまりきれいじゃない。それでもいい?」
「はい。だいたい予想つきますから」
「親にはどう説明するの?」
「私に親なんていませんよ。言ってませんでしたっけ?」
「えっ? 初耳なんだけど」
「そうでしたか。ごめんなさい。とにかく先輩の家に行きましょ」
親がいないというのは本当に初めて聞いた話だった。
これまでに、何度か奈緒の家に行きたいと言ったことがあったけれど、ことごとく断られていた。だからぼくは奈緒がどんな家に住んでいるのか、全く知らなかった。家に呼んでくれなかったことと、親がいないということは、関係性がありそうだった。でもぼくにはそれ以上訊ねることはできなかった。
電車を乗り継いで、ぼくの部屋に着いたときは日付が変わっていた。
ぼくも酔いが回っていたので少し足がフラフラした。フラフラするぼくを支えるように奈緒が手を取って歩いてくれた。
ぼくの部屋に女の子が来るのは初めてだった。ぼくは少しドキドキしていたのだけれど、奈緒は無邪気に遊ぶ子供のように、ひどく楽しそうだった。
「へー。これが新田先輩の部屋なんだ」と奈緒は部屋に入るなり、キョロキョロとしながら言った。「本当に、きれいじゃないですね。実家よりひどいですね」
「だから言ったじゃないか」
「でも、なんか汚くて安心しました。これで部屋がピカピカだったら、ショックを受けていたと思います」
「どうして?」
「先輩が大人になった気がするし、彼女ができちゃったのかなって勘ぐっちゃいますから」
奈緒は実に楽しそうだった。CDラックを漁り、いまのぼくがどんな音楽を聴いているのか調査し、冷蔵庫を開けて中にウーロン茶のペットボトルしかないのを見つけては、「貧乏くさい」と言って笑った。どういうわけか、床に転がった熊のキャラクターが描かれたクッションに大爆笑していた。ぼくには似合わないということなのだろうか。その反応はまだ高校生らしい年相応の姿にも思えたし、ライヴという緊張感から解放された奈緒の真の姿にも思えた。
「今日の演奏は、本当にすごかった。奈緒の後にステージに戻りにくかったよ」とぼくは言った。
「ありがとうございます。でも、あのバンドにはやっぱり先輩のドラムが一番合いますね」
「そんなことないよ。ファンは奈緒の演奏に感動してたじゃないか」
「あれは今日だけだからです。毎回あんなの見せられたら、たちまちあきられちゃいますよ。人間って本当に飽きやすいですから」
「奈緒は何かに飽きたこと、あるの?」
「うーん」と奈緒は腕を組んだ。「川のテンポを計るのは、飽きたかもしれませんね。共感してくれる人がいないから、一人でやっててもつまらなくて」
「川のテンポ? 奈緒の家の近くに川なんてあったか?」
「ないですよ。私、いまでも先輩の家の近くの川に行くんです。そこで一人で練習してるんです」
「何もあんなところまで行かなくても、公園でやればいいじゃないか」
「私はあの川が好きなんです。あそこだと、ものすごく集中できるんですよ。きっと、先輩と一緒に何度も訪れた場所だからだと思います」
奈緒はおもむろに床に転がっていたぼくのスティックを拾い上げると、自分の太ももの上をパタパタと叩き始めた。
奈緒がよくやるフレーズだった。六連符を様々な手順で叩くことで表情をつけていく。
「また、あの川に練習しに行こうよ」とぼくは言った。
奈緒は叩く手を止めた。「でも、先輩とあそこに行ったら先輩の家にも行きたくなっちゃいます」
「そう言えば、奈緒は一度もぼくを家に呼んでくれなかったね」
「それは……」と奈緒は顔を伏せた。
「一度くらい招待してほしかったな。ぼくは奈緒がどんな部屋で生活しているのかみてみたかったんだ」
「ごめなさい。実は私、ちゃんとした家がないんです。学校へは児童施設から通っているから、施設が家って言えば家なんですけど」
「児童施設?」
「はい。両親のいない子供たちが集まったところです。さっきも少し言いましたけど、私には親がいないんです」
奈緒はぼくに気を使ってか、笑顔を浮かべていたが、どこかぎこちなかった。
「事故とか病気とかで亡くなったの?」
「そんな感じです」
「……ごめん。余計なこと訊いちゃったね」
「ううん。いいんです。先輩にはいつか言おうと思っていたから。でもね、児童施設ってすごく楽しいんですよ。ドラムもね、施設に置いてあったんです。スタッフの方が昔やっていたそうで、それで私も教えてもらってやり始めたんですよ」
「へえ、じゃあ自由に叩きたい放題だ」
「みんな叩きたがるから、いまは私も年長なんで下の子たちに譲ってますけどね。だから私は公園やスタジオで練習しているんです」
「子供は大勢いるの?」
「30人くらいいますよ。高校生は私だけですけどね。みんないい子です。施設に先輩を呼んでもよかったんですけど、二人きりにはなれないし、あまり変なことは、できませんからね」
奈緒の顔がほんのりと赤くなった。その様子がかわいくて、ぼくは奈緒の頭にそっと手を置いた。
ぼくらはその日、久々に肌を重ね合わせた。
奈緒は最後にしたときよりも積極的だった。それが奈緒の成長を示すものなのか、それともぼく以外と人との経験で培われたものなのか、分からなかった。
ぼくらはライヴの疲れもあったけれど、何度も抱き合った。
枯れ果てるんじゃないかと思うほど射精したし、奈緒はベッドシーツを取り替えた方がいいんじゃないかと思わせるくらい、ひどく濡らし続けた。
お互いの精も魂も尽き果てたとき、夜が明けかけていた。
うっすらと青みがかった空を二人で見つめた。裸のまま、ぼくらは手を握りしめていた。
「来年、都内に出てきなよ。そうすればもっと会いやすくなる。なんだったら一緒に住んだっていい」
「施設を出ていきなり同棲しろって言うんですか?」
「うん。ダメかな」
「ドラマー同士の同棲なんて、うるさくて近所からすぐに苦情が来ちゃいますよ」
「奈緒がよかったらでいいんだ。考えてほしいな」
「分かりました。考えておきます」
奈緒はそう言うと握っていた手を離し、反対方向に向いてしまった。そしてすぐに寝息を立てた。
奈緒が帰ってから、しばらくの間は頻繁にメールが届いた。独り言のような内容から、日記のような長いものから、挨拶程度の短いものまでたくさんだった。
でもメールは奈緒の高校卒業時期が近づくにつれ減っていった。
奈緒は卒業後の進路についてはぼくに一切教えてくれなかった。
いつも訊いても、その質問だけなかったかのように、何も答えてくれなかった。
年が明けると、メールはぱたりとやんだ。何を送っても返事はなかった。ぼくは誰もいない空間に向かって話しかけているようなものだった。
奈緒の卒業式の日、ようやくメールが届いた。
新田先輩へ
今日で卒業です。いままで連絡しなくてごめんなさい。どう返そうか悩んでいたら時間ばかりが過ぎてしまいました。
先輩に一緒に住んでもいいって言われたとき、本当に嬉しかったです。ひょっとしたら、これまでの生きてきたなかで一番嬉しい出来事だったかもしれません。
でも私は先輩のところには行けません。なんか、行っちゃったら全部が壊れてしまう気がするんです。先輩はすごく優しい人だから。
これからもバンド、頑張ってください。ここのままいけば、メジャーデビューも夢じゃありませんよ。
でもそうしたら先輩にたくさんファンができて、女の子に囲まれてキャーキャー言われちゃったりして、そのうち週刊誌とかにアイドルとの密会を撮られちゃったりするのかな。そんなの見たら、私は悲しくなります。仕方ないですけどね。
先輩はいつも私と比較して、自分に才能がないなんて言うけれど、全然そんなことありません。
私も私なりの音楽を続けていきます。
先輩は先輩らしく、自由に生きてください。
あっ、あと、これだけは言わせてください。
こんなこと言うの、おかしいと思われるかもしれない。矛盾してるって思われるかもしれない。
だけど言います。
私は真剣に先輩のことが好きでした。いまも、です。
きっと先輩くらい好きになる人は二度と現れません。
だけど、私は先輩のところへは行けないんです。
私はドラマーなのに、生きるためのビートが刻めないんです。
さようなら。
*
大学を卒業して、三年後にぼくのバンドは解散した。
ファーストアルバムをリリースしたときがぼくらの絶頂期で、そこから徐々に人気が下降していった。
結局ぼくらがやっていた音楽は過去の模倣、焼き直しにしか過ぎず、そんなバンドは毎年わき水のごとく出てくるのであって、五年も経てば古くなってしまう日本の音楽市場では、インディーズのぼくらが生き残っていけるはずもなかった。ファーストアルバムを出してすぐにメジャーに移籍できていれば、いまとはちがう結果になれたかもしれない。そもそもメジャーレーベルからデビューのオファーもなかったけれど。
解散直前のバンド内の雰囲気は険悪そのもので、会えばけんかばかりしていた。ぼくと堀内だって衝突していた。
解散して、しばらく頭を冷やした。音楽をやめることも考えたけれど、やっぱりまだあきらめたくなくて、堀内に連絡を取って仲直りをし、もう一度新しいバンドを結成した。
だけどそのバンドも長くは続かなかった。
もう息が切れていたのだと思う。最初のバンドと同じ熱量を持って取り組めなかったのだ。
二回目のバンド解散を機に、持っている機材を全て売り払った。そうすることで、夢中になってやってきたものに自ら終止符を打った。完全なる挫折だった。
堀内は趣味でコピーバンドをやるとか言っていた。たぶん堀内はプロになることをあきらめきれていないのだと思う。
途端にやることのなくなったぼくは酒に溺れた。
毎日のように街を歩き、安酒を食らった。いたずらに金と時間、そして健康を浪費していった。
音楽に代わるものをぼくは求めた。でも音楽だけに打ち込んできたのだから、そんな簡単に代理のものが見つかるはずなかった。
奈緒の言葉を借りれば、このときのぼくは生きるためのビートを刻めていなかった。
高校を卒業した奈緒がその後、どんな音楽活動をしているのか、全く分からなかった。だけど、音楽をやめたぼくにとって、それはもうどうでもいいことだったのかもしれない。もしも知っていても、ぼくに何かできることがあったとは思えないし、とてもじゃないけれど会える身分じゃなかった。
もちろん奈緒から連絡は一切なかった。
高校生の時点で生きるビートが刻めないと言った奈緒も、ひょっとしたら音楽にはもう触れていないかもしれない。ふとそんな気がした。
ぼくは一年くらいビートを失った生活を送った。だけど当然そんな生活は長く続けられるはずもなく、ぼくはやがてIT会社の営業に就職することになった。生活に貧窮してきて、たまたま転職サイトで見つけた求人に応募してみたのだ。
上手い具合に面接に進んでいった。応募してから一ヶ月経たずに内定をもらった。
その会社は初心者歓迎だった。若い会社のせいか、年齢の近い人ばかりでなんだか楽しそうだった。これまで音楽と少しのバイトしか経験のないぼくを雇ってくれるような会社が他にあるとは思えなかった。だからすぐに入社する決意をした。
入社してみると、その会社はとんでもなく体育会系で、ブラック企業と言っても差し支えなかった。
営業としてのぼくはまさに兵隊だった。
分厚い電話帳の一ページ目から順々に営業電話をかけさせられた。深夜だろうが週末だろうが売上を追わされた。
成績が足りなかったら人間扱いされなかった。上司から容赦のない怒号を浴びせかけられた。社風に耐えられない人間は退社していくか、精神を病んでいった。
だけど、そのときのぼくにはちょうどよかった。没頭できるものを見つけることができたのだから。
社風が乱暴なのだけれど、その分成績をあげたときの見返りはすごくよかった。一ヶ月でバンドをやっていたころの年収を超える額を稼いだこともあった。
金の使い道なんてなかったのだけれど、週末も惜しんでぼくは働き、金を稼いだ。
何も考える必要はない。
働くことで、音楽のことなんて忘れたかった。
*
社会人になって一年が過ぎたころ、堀内からメールが届いた。
堀内も就職したらしい。でも、音楽は趣味として続けているそうだ。堀内はぼくとちがって、うまく音楽とつき合っていけているようだった。
ぼくらは会う約束をした。
約束の当日、ぼくは営業先からそのまま堀内と待ち合わせの場所に向かった。
新宿駅の南口で再会した瞬間、ぼくらはお互いの格好を見て笑い転げた。堀内はスーツ姿だったのだけれど、とにかく似合わなかったのだ。いまどきのタイトなものではなくて、どこかだぼっとしたスーツを着ていた。
一方堀内は堀内で、ぼくの姿に腹を抱えて笑った。バンドをやっているときはぼくの髪はいつも明るい色をしていたのだけれど、就職してからはずっと黒髪だ。その黒髪がなぜか堀内にはヒットしたらしい。
お互いを散々笑い倒した後、ぼくらは居酒屋に向かった。
その途中、楽器屋の前を通った。
ふと、店外のスピーカーからなつかしい曲を耳がとらえた。
ガンズ・アンド・ローゼスだった。
このところ楽器屋どころか音楽のテレビ番組、それ以上にテレビすら見なくなっていて、全てに興味を失っていたぼくだけれど、このときはどうしてか、楽器屋が気になった。久しぶりに堀内に会ったせいなのか、ガンズ・アンド・ローゼスのせいなのか、とにかくぼくは楽器屋に入りたくなってしまった。
足を止めて店をながめていたから、堀内が、「入るか?」と言ってきた。ぼくは少し考えてから素直にうなずくと、店内に入った。
一階のギターとベースフロアを見てから、二階のドラムフロアにエスカレーターで上がった。
視界に大量のシンバルが飛び込んできた。
クラッシュシンバルからエフェクト系のチャイナシンバルまで、無数に壁に飾られていて、どれも天井の照明を美しく反射させていた。
ぼくが見とれていると、背後から堀内が「本当はまだやりたいんじゃないのか?」と言った。
シンバル群を抜けると、その奥はスネアがたくさん陳列されていた。さらに奥にはキックペダル、スティック、エレキドラムなどがあり、最後にドラムセットが置かれていた。
一通り見て回る。スティックのコーナーではかつて使っていたメーカーのスティクを見つけると、試打した。スティックを握るのも久しぶりだった。バンドを辞めると決めたと同時に、スティックは捨ててしまったから。
教則本を手に取ってパラパラとめくっていると堀内がぼくの肩をバンバンと強く叩いてから天井に吊るされたモニターを指差した。
「おい、あれ見てみろよ。あれってさ……」
モニターに映っていたのは一人の若い女性がドラムを叩く姿だった。
ワンバスにツインペダルを装備し、無数のシンバルとタムを三つ配し、縦横無尽に叩いていた。
そのドラマーの顔をぼくは知っていた。
見間違えるはずがない。
そこにはぼくの青春そのものと言っていい存在が映し出されていたのだ。
「奈緒……」
モニターの中で叩く奈緒の姿は高校生のときと何も変わっていなかった。テクニカルな上に、音に凄く表情がある。打楽器なのにメロディー楽器かのように聞こえてくる。
モニターは奈緒のドラムソロを一分くらい流し、それからテロップを表示させて終わった。奈緒のドラムクリニックPR映像だった。
「やっぱり五木さんだよな。クリニックを開けるなんてすげー立派になったな」と堀内は言った。「お前、行けば? 久しぶりに会ってこいよ」
「いまさら? もう何年も連絡取ってないから無理だよ。それに、向こうはプロ。ぼくたちは夢破れたサラリーマン。会うのなんてかっこ悪いよ」
「バカ言うな。相手がプロのミュージシャンだろうが、俺たちが普通のリーマンだろうと、そこに優劣なんてねえ。だからかっこ悪くもねえって」
「でも……」
「ま、お前が嫌なら無理にとは言わねぇけどな。でもよ、モニターを見ているときのお前、会いたそうな顔してたぜ」
ぼくらはそのまま楽器屋を出て近くの居酒屋に逃げるように入った。堀内もぼくも浴びるように酒を飲んだ。
そうすることで、奈緒のことを頭から追い出そうとした。堀内は堀内で奈緒がミュージシャンになれたことが悔しいようだ。
ぼくの気持ちとしては奈緒がプロになれたことは嬉しいし、当然だと思う。だけど、あの映像を見たことで、封印したはずの過去が再び目を覚まそうとしている。それは大きな問題だ。
ドラムをやめることは、ぼくにとって奈緒のことを忘れることと同義だ。
それなのに――。
ちょっとした気の迷いで楽器屋なんて入るんじゃなかった。激しい後悔の念に襲われる。
だけど、どこかでぼくは分かっていたのだと思う。心の奥底では、ドラムに対する想いも、奈緒に対する感情も消えていないんだということが。
*
奈緒のドラムクリニックの当日、ぼくは会場にいた。
堀内には参加しないなんて言っていたけれど、悩みに悩んだあげく、自分に嘘をつくのはやめようと思い、参加することにした。
朝一で会場となる楽器屋に向かい、当日券を購入した。クリニックは大人気で、前売り券はソールドアウトしていた。当日券も、ぼくが持っているのを含めてたった五枚しかないとのことだった。
開演の時間までかなり時間があったので一度帰宅し、しばらくして再び会場に向かった。
開演三十分前に会場に着いた。会場は人で溢れかえっていた。ここにいる全員がドラマーなんだと思うと、なんだか妙な気がした。
もともと前の方に席を取るつもりはなかったのだけれど、会場はひどく混雑していたので、ぼくは後方から立って見ることにした。
ぼくと真反対にある特設ステージには楽器屋のモニターで見た点数の多いドラムセットが鎮座していた。メンテナンスが行き届いていて、タムのシェルやリム、シンバルが光輝いていた。そういう外観だけでもプロミュージシャンというステータスを感じさせた。
開演時間になると、奈緒が登場した。
大きな歓声と拍手が飛ぶ。
客の大半は男性だったのだけれど、女性客も全体の三割はいた。
クリニックは司会者と奈緒の二人で進められ、慣れた感じで実にテンポよく運びんだ。初心者から中級者向けのテクニック解説やデモ演奏でまとめられていて、奈緒は観るものを圧倒するパワフルなプレイと、感嘆のため息をつかせるような繊細なプレイを見せてくれた。
クリニックの最後に、質問コーナーが設けられた。客が各々の悩みを奈緒に質問していき、奈緒はそれにていねいに答えていった。
十人くらいに答え終えると、質問が途切れた。
奈緒は会場を見渡し、「他に質問がなければこれで終わりにします」と言った。
その瞬間、ぼくの右腕がすっと天井に伸びた。
無意識だった。
質問なんてするつもりじゃなかった。
クリニックを静かに見守って帰るつもりだった。それなのにぼくの右腕は最後の質問者になろうと動いてしまった。
「あ、後ろで、手が上がりましたね。ではこれを最後に質問にしましょう」
奈緒がぼくを指した。
会場のスタッフがぼくにマイクを渡しに近づいてくる。
やばい、どうしよう――。
そう焦っても、もう遅かった。
最後列にいたので、ぼくはマイクを渡されると同時に前に出るようにうながされた。
仕方なく、立ち見客をかきわけて前に出た。
「質問させてもらいます」
ぼくがそう言うと同時に、奈緒の顔が一変した。
当然だった。
何年も連絡を取っていなかったかつての先輩が、いきなりクリニックの客として訪れていたのだから。
会場の視線の全てがぼくに集中しているのが分かる。これほど注目を浴びるのは久しぶりだ。
ぼくの口からは自然と質問が吐き出された。「どうすれば……プロになれるんですか?」
奈緒はじっとぼくを見つめてきた。ぼくの質問の裏側に何かが隠されているのではないかと、ていねいにのぞき見ようとしているかのようだった。
会場が奈緒の答えを求めて静まり返った。
やがて奈緒は静寂を飲み込むように、「あきらめないことです」と答えた。「とにかくやり続けること。好きであること。それらがあきらめないことにつながります。残念ながら、これをすればプロになれるなんていう方法はありません。でも、強いて言うなら、いま言ったことだと思います」
パラパラと場内が拍手で満たされた。
「それでは今日はこれで終わりにします。ありがとうございました」
奈緒はそう言うとマイクを床に置き、一礼すると逃げるようにステージを去った。
ファンから熱い声援が飛んだが、奈緒はその声援に反応しなかった。
*
「あきらめないことです」
奈緒はクリニックでそう言った。
上司に数字が足りないと怒鳴られながら営業電話をしているとき、仕事帰りの疲労で満たされた電車の中、鏡に映った年齢を重ねた自分の姿を見たとき、ぼくは何度もその言葉を思い出した。
奈緒の言った言葉はきっと正しい。
やり続けない限り、プロにはなれない。技術は後からついてくる。それに、プロが全員とんでもない技術を持っているのかと言ったら、そんなことはない。一番難しいのはテンションを維持してやり続けることなのだ。
生きていくには金を稼がなくちゃいけなくて、ある程度の社会的責任を背負わなければいけない。だけどこれらは年を取れば取るほどその負担が大きくなる。ここに障害が生まれるのだ。
もちろんプロになるのは運も必要で、セルフプロデュース力も必要だ。単純にやり続けるだけでプロになんてもちろんなれやしない。
幸運にもプロになれたからといって、ずっとミュージシャンとしてやっていける保証もない。金が発生しない限り、そこにプロとアマチュアの境界線なんてないのだ。
あのクリニックから約半年後、奈緒は自分のホームページ上で引退を宣言した。理由は書かれていなく、「いままで応援してくれた皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました」と記されているだけだった。
その後、奈緒は噂によると貿易会社に事務員として就職したらしい。
ミュージシャンという華々しい世界から、どうして会社の事務員という比較的地味な世界に飛び込んだろうか。その疑問がずっとぼくを支配し、混乱させた。奈緒の行動が全く理解できなかった。
奈緒はいつもそうだ。
ぼくの予想や期待をことごとく裏切っていく。
奈緒が引退して一年くらい経った後、奈緒から電話が入った。
「番号、変わってなかったんですね。よかったです。変わってたらどうしようかと思っていましたから」
電話がきたことに、ぼくは少なからず驚いていたけれど、それが表に出ないように、
「番号どころか住んでいる場所も変わってないよ」と冷静に答えた。
「あの部屋ですか?」
「そう。奈緒がクッションを見て爆笑したあの部屋。ちなみにクッションもまだあるよ」
「そっか。あそこに住んでるんですね」と奈緒は懐かしそうに言った。
「でもね、部屋だけはさすがに引っ越そうと思うんだ」
「どうして?」
「この建物自体が古いってこともあるし、もうぼくが住むには狭いんだ。ぼくもいい年齢だろ? だから学生が住むようなマンションにいつまでもいられない。それ相応の社会性が求められちゃうから」
「社会性なんて関係ないですよ。自分が住みたいならいればいいじゃないですか」と奈緒はやや不機嫌そうに言った。
「いや、もうぼくがここに住みたいとあまり思っていないんだ。奈緒が笑ったクッションも、もうボロボロ。これは引っ越しと同時に捨てようかな」
「すごく残念です」
「ミュージシャンを引退して、会社の事務員になったそうだね」
「はい。そうなんです。よく知ってますね」
「堀内が教えてくれたんだ。堀内はいまだに音楽を続けているからね。たまにあいつから奈緒の情報をもらうんだ」
「その名前、久しぶりに聞きました」
「堀内は髪の毛が薄くなってきて、少し太ったよ。高校生のころのあいつを思い浮かべたら、いまは別人かな」
「あははは。高校なんてもう十年以上前ですもんね」
そこで会話が途切れた。
電話の向こうからは何も聞こえない。通話が切れてしまったのかと思う。
「奈緒?」とぼくは呼びかけた。
奈緒は何も反応しなかった。だけど、かすかに奈緒の息づかいが聞こえた。その息づかいは段々と荒くなった。
「……どうした?」
「先輩に会いたい」
先輩と呼ばれたのは何年ぶりだろうか。その響きにかつての淡い感情が強く刺激される。
「先輩が引っ越す前にもう一度その部屋に泊まりたいです」
「奈緒がそうしたいのなら、ぼくはかまわないよ。いつでもおいで」
「先輩はドラムを続けているんですか?」
「もうやってないよ。機材は全て手放した。スティックすらこの家にはないんだ」
「そんな……」と奈緒は悲しそうな声を出した。「私にプロになるにはどうすればいいか質問したから、まだやっているんだろうと思っていました。……どうしてバンドをやめたのか教えてもらってもいいですか?」
「あきらめたんだよ。夢ばかりを追いかけているにはいかない年齢になりつつあったし、そうすることを社会が許してくれないような、息苦しさがあったんだ。強い意志と自信があればそんな息苦しさなんてはねのけられたんだろうけど、ぼくにはできなかった。色々あってね、自信を失くしていたんだ。でもね、それでもインディーズデビューはできたし、完全なアマチュアで終わった訳じゃない。だからね、ぼくはそこそこ自分がミュージシャンとして生きていたころに満足いっているんだ。奈緒こそどうしてやめたんだ? ぼくにはさっぱり理解できない」
「私、引退したあの年でちょうど28歳になったんです。この28歳っていう年齢が私には運命の年だった。本当は私、その歳で死ぬはずだったんです」
「……死ぬ? どういうこと?」
「私のお母さんって生きてるころ、霊能者に心酔してたんです」
ぼくはいきなり飛び出した霊能者という言葉に戸惑いを覚えた。
「お父さんは私がうんと小さいときに病気で死んじゃって、女で一人で生きていくのが不安だったみたいで、何をするにも霊能者に相談していたんです。とにかく色々なことをピタリと当てたそうなんです」
ぼくは何も口を挟まず、黙って耳を傾ける。
「私はその霊能者がとても嫌いでした。絵本に出てくる悪い魔女に私には見えていたんです。ある日、私もその霊能者に霊視してもらったことがあったんです。私はすごく嫌だったけど、お母さんがどうしても見てもらえって言うから仕方なく。それで、私はその霊能者に言われたんです。二十八歳で大きな事故に会って死ぬって」
「そんなバカな話があるかよ」
ぼくは強く否定した。どうしてか、ひどく気分が悪かった。真面目な話をしていたつもりなのに、霊能者という言葉が加わるだけど、その話が曖昧で不定形なものに思えてしまったからだ。
「ううん。いいから聞いてください。その後に霊能者は私が事故に会わないための方法を教えてくれました。その方法ってのが要は大金をお布施するってことだったんですけどね」
「ただの詐欺じゃないか」
「いま思えばそうかもしれません。でも、その当時は本当だと思いました。すごく怖かったんです。だってお母さんがボロボロと泣きながらお願いするんですよ。なんでもしますから娘を助けてくださいって。結局、お母さんは死にものぐるいで働いて、全財産をその人に捧げて、体を壊して死んじゃいました。でもね、全財産を捧げても、私を助けるための値段には届かなかったんです」
「奈緒は生きている。だからその霊能者はでたらめだったってことだ。そうだろ?」
「そうなのかもしれません。だけど、子供のころにそういうことを言われると、言葉が呪いのようになってまとわりついてくるんです。お母さんも死んじゃって、私は絶対に28歳で死ぬんだって、そう思って生きてきました。怖くて怖くて、手首を切ろうとして死のうとしたことも何度もあります。先輩と知り合ってからも、その前も。でも一度も死ねなかった。逆に言えばその歳になるまで何をしても死ねないんだと思いました」
「ちがう。それは人間の防衛本能だよ。深く切らないよう、無意識に行動が抑えられるもんなのさ」
奈緒は全てを悟ったような深いため息をついた。「なんでもいいんです。私はとにかく28年間という期間を満喫しようと生きてきたんです。だから、二十八歳になった瞬間、ミュージシャンをやる意味もなくなったんです。いまはきっと、神様が気まぐれで生かしてくれているだけなんです。だったらその残り少ない時間をゆっくり生きてみようと思ったんです」
「残り少ない時間なんて寂しいこと言うなよ」
「実は私、いまひどい精神の病気を患っているんです。お酒ばかり飲んで、ついでにアルコール依存症にまでなっちゃいました。人生終わってますよね」
「バカなことを言うな! 終わってなんてない!」
「ううん。終わってるんです。いまの病気って、一生付き合っていかなくちゃいけないんですって。つまり、完治はない。先輩に分かりますか? 一生の病気を背負って生きなくちゃいけない気持ちを。私は28歳という年齢に呪われて、その結果いまがある。いまの私は死人同然なのかもしれない。だったらあの霊能者が言ったことは正しかったんですね」
「だったらいまからぼくが奈緒を救ってやる。死んだなんて思わせない。絶対に!」
「無理ですよ。だって、私ってすごく汚れちゃったんです。私ね、鬱が発症してすぐに失語症にもなっちゃったんです。でもお酒を飲むことはやめなかった。街中で意識を失って浮浪者とか、不潔なサラリーマンとかに襲われても声すら出せなかった。何人にも犯されて、子供もおろしてるんです。いまは声が出るほど回復しましたけどね」
ここで会話が途切れた。
奈緒の言葉がどれほど正しいか分からない。だけどぼくには確固たる事実として受け止めるしかなかった。
何も言わないぼくに、奈緒はすすり泣きを始めた。どうしても言葉が続かないぼくは、奈緒の言葉を待つしかなかった。
「またあの公園に行きたい」と奈緒は言った。「またあの土手に行きたい。先輩と寝転がって将来のことに夢見ていたい。でも、もう無理です。私は死んでいるから」
受話器の向こうから奈緒の激しい泣き声が響いた。奈緒を包み込んだ鬱蒼とした闇が、そうさせているのだと思った。だけど、ぼくにはどうすることもできなかった。ぼくだって高校生のころに戻って、奈緒と一緒に公園でドラムを叩きたかった。土手沿いで練習したかった。希望と自信をあふれさせ、必死になって未来に手を伸ばしていたあのころに。
「先輩、私がいなくなっても、私のこと、忘れませんか?」
「奈緒のことを? 忘れるもんか」
「ありがとう。先輩のことずっとずっと好きでした。さようなら」
奈緒の吐血するような嗚咽はそこで途切れ、後にはぼくをバカにしているかのような無機質な通話音だけが聞こえてきた。
この電話から一ヶ月後、ぼくのものとに奈緒が死んだという連絡が堀内からきた。死因は溺死だった。深夜、川にかかる鉄橋から飛び降りた。ぼくと奈緒がたくさんの時間を過ごしたあの川で、奈緒は自らの命を断ったのだ。
**
ぼくは大きく伸びをした。
肌が少し痛む。予想通り、肌がジリジリと焼かれ始めている。じっとしていないで少し動いた方がいいかもしれない。
ぼくは立ち上がって歩き始める。ここら辺によく二人で座っていたなとおぼろげな記憶を蘇らせながら土手沿いを進む。
「今日の川のテンポは――」
楽しそうに土手沿いをかけていく奈緒の姿が脳裏に浮かんだ。
川の流れる音に合わせて指でリズムを取る。80くらいな気がした。
「当たってるかな?」
ぼくは空に向かって問いかけた。
風が緩やかに吹き、ぼくの前髪が揺れた。奈緒が耳元で、正解です、と言った気がした。
ぼくはたまに無性に奈緒の刻むリズムに身を委ねたくなる。あの最後の電話で奈緒が言ったように、過去には戻れない。それは変えようのない事実だ。
音楽をあきらめて、どこにでもいるような営業のサラリーマンとして生きるぼくの道は、過去が積み重なってできあがったものだ。だからいまのぼくを否定してしまうことは、過去の自分も否定することにつながってしまう。
時間は止まることなくぼくに年を取らせていく。いまの時点から遠くに行けば行くほど過去が増え、道は伸びていくということだ。
だけどどうしてだろう。
ぼくがこの道を振り返ると、いつも手を伸ばせば届きそうな距離に奈緒が立っている。ぼくのことを好きだと言ってくれたあのときの表情で。
だから、ぼくはここを訪れたのだ。この土手で、川の流れに耳を傾けたくなったからここにいるのだ。
奈緒の魂はきっと、この川沿いのどこかでリズムを刻み、無意識に人々の意識にビートを植え込んでいるはずだ。
リズムもビートも見えないもので、感じるものだ。だけどそれは常にどこかに存在し、無意識に人々の心に住んでいる。人はビートがなければ生きていけないのだから。
だから、いまぼくはここを歩き、川の流れを胸に感じている。
音楽絡みの小説は何度か他サイトで書いたことがありますが、ドラマーを主人公にしたのは初めてでした。
共感できるところ、できなところ、様々だと思います。
でも、それぞれ読んだ方の過去と秘密、いまでも忘れられない人のことをこの小説をきっかけに思い出し、何か変わることがあったら嬉しいと思います。