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読み切り作品

物陰

作者: さわいつき


 腕の中、安らかに眠る額に唇を寄せる。誰よりも何よりも愛しい者。心の奥底から欲していて、けれど絶対にこの手に入る事がないと思っていた存在。




 笑顔が、印象的だと思った。




 自分で言うのも何だが、俺は子供の頃からどちらかと言えば顔立ちが整っている方だった。頭の出来がそれなりに良かった事が災いして、親や周囲からの期待を一身に受けていた。馬鹿な事にその期待に応えようと必死になっていたお陰で、成績優秀・品行方正・教師の信頼も厚い完璧な人間を装う事ができるようになった。

 それを重荷に感じ始めたのは、いつの頃だったのか。

 父は仕事人間で家庭を顧みず、必然的に母の興味は俺一人に集中していた。せめて兄弟の一人でもいればましだったのかもしれないが、生憎俺は一人っ子だった。

 俺の容姿と成績と人当たりの良さに騙されて、女子生徒達が色目を使って近付いて来るようになり、いい加減「いい顔」であしらう事に疲れ始めていた。近付いて来るのはむこうの勝手だが、いくらやんわりと断っても簡単には引き下がらない。

「一度だけでもいいから付き合ってよ」

 腕を絡めて身を摺り寄せて来るその様は、まるで水商売か娼婦だ。嫌悪を感じこそすれ、感銘など受けるはずもない。

 一度きりの関係ならば、後腐れもない。それで気が済んで離れてくれるのならば安いものだ。そんな考えに至り、その条件を提示し、それでもいいと答える相手だけを抱くようになったのは、中学二年の春の事だった。

 完璧すぎる優等生周藤公洋すどう きみひろの唯一人間らしい部分だと、なぜか同性からは苦笑と共に受け入れられた。多少のやっかみを受ける事もあったが、気にするほどの行動に出る奴はいなかった。

 教師達は不純異性交遊に薄々気付いていながらも、優等生の責任感とやらを信頼しているらしく、なお且つ教師としての監督責任を互いに押し付け合い結局看過されるに至っていた。結局は皆自分が可愛いのだ。それを目の当たりにし、俺は馬鹿馬鹿しさに辟易した。

 やがて母にとっての俺という存在が、ブランド物や宝石のように彼女を飾るためにあるのだと悟った時、俺は諦めの溜息を吐いた。胸の底に蟠っていた全ての物を吐き出すような、深い溜息だった。

 信じるに値する者など、俺の周りにはいない。親にさえも裏切られた俺が、一体何を誰を信じられると言うのか。

 やがて俺は、自分自身さえも信じられなくなっていった。




 佐久間綾香。それが、彼女の名前だった。

 同じ中学の一つ年下の彼女は、取り立てて可愛いとか綺麗だとかそんな顔立ちではない。けれど大きな目がくりくりと感情豊かに動いて、時折はっとするような笑顔を見せた。

 女なんてしょせん母と同じ生き物。そう思っていた俺の目にさえも、その笑顔は眩しく映った。誰からも愛され幸せをその体一杯に受けて育ったのだと一目で分かる、穢れを知らない純真な笑顔。羨望と嫉妬が入り混じった複雑な思いで眺めながらも、それは決してこの手には入らない物だと思った。

 けれどその見解はすぐに崩れた。

 綾香の透き通るような視線。その目が誰を見ているのか、誰を想っているのか。考えなくても分かった。自惚れではなく、その対象が俺なのだと、気付かないわけがなかった。俺も同じくらい彼女の姿をこの目で追っていたのだから。

 手を伸ばせば、この手に入る。そう確信したからこそ、手を出す事はできなかった。あの眩しい笑顔を俺のこの手で壊してはならない。けれどこの手で壊してしまえたら。この手に入るのならば。そんな甘美な誘惑と何度も戦いながら、俺は彼女よりも一足先に中学を卒業した。

 高校は、地元でも有数の進学校だった。親の愛情に裏切られたとはいえ、成績を落とす事は自分自身にとってなんの利益も生まない。ならば行けるところまで行ってやろう。そんな傲慢で不遜な事を考える、可愛げのない高校生になった。

 高校でもやはり、俺自身の価値と父の財力とに魅かれた連中が群がって来た。女子生徒はもとより、年増の女教師に香水臭い体で言い寄られた時などは、本気で虫唾が走り、食指が動く事はなかった。

 一年の後期の生徒会改選では会長に立候補し、当然の事ながらトップで当選。無気力ながらもそれなりに多忙な日々に、お陰で女との時間を持つ事も少なくなり、それなりに健康的な学生生活を送っているうちに二年に進級した。

 入学式で生徒会長として新入生の前に立った時、数百名もいる人間の中からたった一人を見つけた。綾香だった。綾香も俺に気付き、目を丸くして驚いていた。一年前と変わらぬ笑顔でそこにいる彼女の姿を、信じられない思いで見つめた。

 手に入れたくても手に入れてはならない。ともすれば暴走しそうになる感情を理性で押し殺していたが、やがてそれにも限界が来る。俺は綾香に向かいそうになる劣情を言い寄って来る他の女達で発散するという、最低な行為を繰り返した。

 体も心も満たされない行為。節操のない俺は、綾香に軽蔑されるかもしれない。そんな考えが頭を掠めたが、それでも綾香自身を傷つけるよりはずっとましだと、そう思っていた。

 俺は上手く隠していたはずだった。俺の真意を。あの日、ある女が近付いて来るまでは。

 俺よりも一学年上のその女は、佐久間萌香。綾香の実の姉だった。萌香は綾香と似てはいたが、目鼻立ちがはっきりとしたいわゆる美人タイプで、本人もそれを自覚していた。ある意味面倒な相手だと言えた。

 普通ならば迷わずに一夜限りの関係を持ったのだろうが、萌香に対してだけはそうはいかなかった。綾香の姉だというだけで、俺にとっては危険な存在だった。だからどんなに言い寄られても相手にせず、周囲からは逆にそれを訝しく思われていたようだった。

 そして始末が悪い事に、萌香は外見に応じた矜持の持ち主だった。俺に相手にされない事で、周囲に何かを言われでもしたのだろう。半ば意地になって俺に近付いて来た。挙句の果てには綾香の名まで出して。

「須藤君がわたしに手を出さないのは、綾香がわたしの妹だからなんでしょう?」

 女の勘の恐ろしさを知ったのは、あの時が初めてだったかもしれない。妖艶とも言える笑みを浮かべた萌香は、綾香に俺の素行を話すと言った。元々噂が噂を呼び、言い寄って来る女と一度だけの関係を持って捨てる最低な男のレッテルを貼られていた俺にとっては、痛くも痒くもない脅しだった。あくまでも表面上は。

「綾香はわたしの言う事なら何でも信じるのよ。多分周藤君本人の言葉よりもね」

 つまり綾香はある事ない事、むしろでっち上げの話でも、萌香の言葉ならば鵜呑みにするのだと。笑みを崩さずに言ってのける女の狡猾さに、俺は心の底から湧き上がる嫌悪を誤魔化す事もできなかった。

 人と金を使い、萌香の弱味を握ろうとして失敗に終わったのは、今でも苦い記憶だ。萌香は俺に熱を上げる以前は、絵に描いたような模範生。素行も交友関係も文句なしの箱入り娘だったのだ。それが今の彼女になったのは、俺が原因だったらしい。迷惑な話だが。

 本気で憧れ好意を抱いた男に歯牙にもかけられず、あまつさえ妹に対して苦しい恋をしている上に手を出そうとはしない。その事が萌香の心の奥底の何かに火をつけた。俺としてはそんな事は知った事ではなかったが、看過するには、萌香はあまりにも綾香に近すぎた。

 結局、萌香の要求を受け入れざるを得なかった。唯一好きだと思う女とその想いを守るために。他の女達と同じように、一度きりの関係。それでもいいと萌香は言った。ある意味健気とも言えるのかもしれないが、俺の心を揺り動かす事はなかった。

 そして体を重ねた後。初めての行為に疲れきった体を無理矢理起こしながら、萌香は艶やかな笑みを浮かべて言ったのだ。

「綾香は公洋きみひろの事を絶対に許さないわよ」

 誰よりも信頼する姉。ずっと憧れて目標にして来た姉に非道を働いた男の事を、綾香は決して許さない。つまりはそういう情報を、事実に過大な脚色を加えて妹に吹き込むつもりなのだと、萌香の表情は語っていた。

 してやられた。まんまと引っ掛けられたのは、完全な俺の落ち度だった。あまりに馬鹿馬鹿しくて、萌香を憎む事さえなかった。全ては俺自身の行動が招いた愚かな結果だったのだから。

 そして萌香の宣言通り、綾香は俺を憎んだ。最愛の姉を穢して捨てた最低な男として。

 何を言うつもりもなかった。何かを言ったところで、彼女の耳に届くとは思えなかった。全てが誤解というわけでもないのだから。俺の取った行動が、結果的に綾香を傷つけた事に間違いはないのだ。たとえ憎まれていようと、彼女の心の中には常に俺がいる事に満足している、そんな愚かさを自覚していた。

 やがて萌香は高校卒業後、俺への想いにけりをつけ、新しい男と付き合い始めたらしいと風の噂に聞いた。綾香の俺に対する憎しみだけはそのままに。そして皮肉にも、その憎しみが彼女を美しく引き立て、綾香はやがて男達の視線を集める存在になっていった。姉とは違い、それを自覚する事もなく無駄な矜持も持ち合わせてはいなかったが。

 そんな綾香に、言い寄る男がいないはずもなく。俺はできうる限りの手を尽くし、彼女に手を出そうとする男達を排除した。そこそこ汚い手も使ったが、綾香本人に知られなければそれで構わなかった。

 それなのに。

 あの日に限って生徒会の会議が長引き、ようやく解放されたのは午後五時に近かった。会議室から引き上げる途中俺の目に留まったのは、綾香が同じ二年の男子生徒と二人きりでいる場面だった。

 体中の血が引き、足元が崩れるような錯覚を覚えた。

 生徒会役員達にその場で解散を告げ、俺は走り出していた。そして途中で我に返った。駆けつけてどうしようというのか。綾香が男から告白されるのを、正面切って邪魔しようとでも言うのか。他でもない、綾香に憎まれているこの俺が。

 それでもペースは落ちたが足が止まる事はなく、ほどなく二人がいた場所に近付いた。物陰に息を潜めて二人の様子を窺っていると、どうやら綾香が断っているらしい事が伝わって来て、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 しかし次の瞬間。男が綾香の腕を引いて抱き寄せるのを見た途端、俺の中の何かの糸が切れた。

 気がつくと男は足元に蹲り、綾香の腕を掴んでいるのは俺だった。

 驚愕に見開かれた綾香の大きな目に吸い寄せられるように唇を重ね、そのか細い体を力いっぱい抱きしめた。数年分の渇きを補うかのように、激しく貪るような口付けだった。綾香にとっては恐らく生まれてはじめての口付けだったのだろうが、そんな事を考えている余裕はなかった。息をするタイミングを掴めない彼女の体から、やがて力が抜けた。

 気を失った彼女の体を抱き上げ、俺は生徒会室に向かった。解散を言い渡してから二十分。見事に蛻の殻になった室内を、夕日が茜色に染めていた。




 腕の中、綾香が僅かに身動ぎした。

 その額にそっと唇を寄せ、体に回した腕に力を込める。

「ん。せんぱ、い?」

 うっすらと目を開いた綾香が、俺の姿を認めて笑みを浮かべた。

「えーと。え、あ」

 何事か呟いた後、俺に背を向けるように体の向きを変えてしまう。恐らく眠りに就く前の情事を思い出したのだろう。耳が朱くなっている。

「綾香」

 耳元に唇を寄せ、触れるか触れないかというぎりぎりの位置で囁きかけた。微かに揺れる剥き出しの肩に、そっと触れるだけの口付けをする。

「綾香」

 何度呼んでも飽きない、愛しいその名を、呪文のように繰り返す。

 一度触れてしまえば、きっと二度と手放す事はできない。この手で壊してしまうだろう、穢してしまうだろう。分かっていたからこそ必死に抑えてきた想いは、あの男の行動一つで呆気なくも溢れ出してしまったのだ。

 彼女の想いが、憎しみで歪んだ形であろうとも俺にあった事を、今でも奇跡だと思う。半ば無理矢理とはいえ体を開き、そんな所業を赦し心までをも開いてくれた綾香。

 俺にとっては、綾香こそが奇跡。綾香こそが希望。この世に俺が存在してもいいのだという、何よりもの証。なんてクサい科白は、綾香本人には決して言えないけれど。

「綾香」

 手折られてなお穢れる事を知らず。真っ赤に頬を染めながらもあの透き通った微笑をくれるのならば。何度でも呼び続けよう。声が枯れるまで、この命尽きるまで。




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