愛実
お母さんに結婚の話をしたその週末、あたしは隆一を呼んでお父さんに結婚の承諾を取り付けてもらうことになった。
「ねぇ隆一、お父さんには絶対『恵実さんをください』って言っちゃダメだからね。他は判んないけど、とりあえずそれだけはNGワード」
その日、迎えに行った隆一に私はそう言った。
「どうして? なんかそれって、結婚の承諾の定番じゃん」
「『犬猫じゃないんだから、そう言う奴には絶対にやらん』って言ってたことあるんだよね」
「花嫁の父の心理ってやつかね。じゃぁ、どう言ゃいいのさ」
あたしがそう言うと、隆一が吹き出しながら返した。
「うーん……お嬢さんと結婚させてくださいかなぁ」
「了解、俺土日にはなかなか出て来れないから、ゴネられても何度も足向けできないしな」
そう言って我が家の前立った隆一の唇は緊張で小刻みに震えていた。
あたしたちが緊張した割にはお父さんは物分かりがよく、特にゴネることもなくお父さんはあたしたちの結婚を承諾した。ま、あのぶっとびお母さんの旦那さんなんだから。
それから隆一の方にもご挨拶に行き、あたしたちは正式に婚約した。驚くことに隆一のお母さんは『春香彼方先生』のファンで、『あの春香先生と親戚付き合いできるなんて!』って、喜んでいた。
あたしが結婚を決めてから、お母さんの連載の本数がさらに増えた。これで厄介払いが出来たから、これからは愛実と楽しくやっていけると思っているのかな、あたしはそんなことを思ってさびしくなった。
そんなある日、あたしは夜洗面所の鏡を覗いて息が止まりそうになるほど驚いた。
……そこには確かにあたしが映っていたんだけど……その表情は連日退職のために残業していたあたしの疲れたものではなく、どことなく幼さも漂う、しかも怒った顔をしていたからだった。
「愛実……?」
『ねぇ恵実、ママに小説を書くのを止めさせて』
鏡の中のあたし、『愛実』はついに口を開くとこう言った。
「な、何言ってんのよ、書かせてんのはあんたの方でしょ?」
鏡に話しかけられているという、とんでもない状況だってことを忘れて私が睨み返す。
『違うわよ。あたしにそんな力なんてないわ』
「ウソ、お母さんいっつも愛実に話しかけてるじゃない」
『あれはママの独り言だよ。あたしはそれを聞いてるだけ』
「ウソ!」
『ウソじゃないよ。あたしが話せるのは同じ血を持つ恵実だけだもん』
――同じ血を持つ恵実だけ――その言葉にぞくりとして鳥肌が立つ。
『何なら、あたしと交代してみる?』
そして、愛実はニヤリと笑って、とんでもない提案を持ちかけてきた。
『今まで20ん年間もママの娘でいるんでしょ? ちょっと位あたしに貸してくれたって良いじゃん』
ちょっとってどれ位よ。聞いたら最後、あたしの身体を乗っ取っちゃうんじゃないの、愛実!
あたしが露骨に嫌な顔をしたから、それが解かったのかもしれない。すると愛実は、
『ねぇ、3日で良いの、代わって。あたしがその間に書くのを止めるように言うからさ』
って、鏡の中で生きてる私を拝んだ。
『ねぇ、3日で良いの。じゃないとこのままじゃママが……』
「お母さんがどうだっていうのよ!」
『あ、何でもない……』
愛実はさんざん意味深なことを言ったくせに、肝心なことは口ごもった。でも、何となく口に出さなくても解かる。お母さんこのままじゃホントに身体壊してしまいそうだ。
「3日で良いのね、でもホントにそんなことできるの」
そしてあたしが承諾の意思を示すと、愛実はものすごくうれしそうな顔をした。
『ありがとう、代わってくれるんだ! 大丈夫よ、あたしと恵実は元は一つだもん』
バニシングツインの大半は一卵性双生児だと聞く。元は一人のあたし……だからって、このまま入れ替わるつもりはないわよ。
「3日だけよ」
あたしがそう念を押すと、
『解かってるわよ。あたしだってそうそう長いことそっちにいられる自信はないわ』
愛実はそう言って目をつぶり意識を集中させ始め、あたしの意識が遠のいていった。